【4】着信音の先に
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文楽学園の学生寮は、シェアハウス制を採用している。昔は一人一部屋だったらしいが、時の流れと共に学生寮を利用する生徒の数が増え、その結果今の二人一組で一部屋に住むシェアハウスの制度になったのだそうだ。
当然のことながら、誰と一緒に部屋をシェアするかは入学時に選ぶことが出来る。流石に異性でのシェアは認められないが、仲の良い友人同士でシェアをすることには何の問題もない。
そういうわけで、中学の頃からの友人である俺と融希は入学時にシェア相手としてお互いを選び、そして今日まで一年間、暑い日も寒い日もこの狭い部屋でくだらないことを話しながら、共に平々凡々な生活を送っているのであった。
「俺ちょっと買い物行ってくるから、先に部屋に戻っておいてくれ」
学生寮の入り口に辿り着いたところで、融希の褒め殺し地獄からようやく解放された俺は、買い物があるという悪友から鞄だけを受け取り、一人先に帰宅することとなった。
この世に四つくらいある鍵を使って扉を開くと、中はおとぎの国の異世界に繋がっていて――なんてことはなく、二人で暮らすには少し狭々しい部屋が姿を現す。
机に二段ベッドにクローゼットに等々、生活する上で最低限の物だけを詰め込んだ簡素な空間。トイレと洗面台、それから簡易的なシャワー室は備え付けられているが、風呂とキッチンは共用のため、表立って置かれている家具がほとんどないこの部屋は、見かけ以上にものが少なく感じられた。
もっともそれは入学当初の話で、今はお互いの私物があふれかえっているため、それなりに雑多な印象を受ける部屋になっている。特に融希が大量に持ち込んだ漫画のせいで、部屋のおおよそ二割は本棚に占拠されているといった有様であった。
自分の鞄と、それから融希の鞄とをそれぞれ所定の位置に放り投げ、脱いだブレザーとネクタイをハンガーにかけた俺は、そのまま二段ベッドの下段に横たわる。ポケットからスマートフォンを取り出し画面を点灯させると、ホーム画面にメッセージを受信したとの通知が浮かび上がっていた。
差出人は、つい数刻前に別れたばかりの双月。何か用事かなと思いながら画面をタッチし、メッセージアプリを呼び出して内容を確認すると、そこには「言い忘れてたけど、明日は環と私が日直だからね! ちゃんと寝坊しないで来なさいよ!」といったような文章が、かわいらしいスタンプと共に送られてきていた。
「……ははっ、心配性なやつ。ま、俺が今日遅刻したからなんだろうけど」
ああ、やっぱり、俺にはまぶしすぎるや。けど、いつかは――――
『了解、明日はちゃんと起きますよ』という旨を送り、ついでに先日双月に勧められて買ったスタンプでも押して、メッセージアプリを閉じる。画面右上の時刻に目をやると、並んだ四つの数字がそろそろ夕飯を食べるにふさわしい頃合であることを示していた。
普段なら、夕食時にどちらかがいなければ、お互い勝手に食堂で飯を済ませておくことにしているのだが、今日は何となく二人で食べたい気分だったので、融希の帰りを待つことにする。
ただ、それであいつが晩御飯を買ってきていたら本末転倒なので、俺は融希に夕飯はどうするつもりかと、メッセージを送り反応を窺っておいた。
「そういえば、あいつから貰った飴舐めてなかったな」
スマートフォンを枕元に置き、反対の手でポケットから飴玉の袋を引っ張り出す。キャラメルイチゴミルク味とかいう、想像しただけで舌が溶けそうになる甘さのコラボレーションを口に含み、案の定その甘ったるさに初っ端からむせてしまいそうになりながら、のんびりと融希の帰りを待つのであった。
いつかは、あいつらと胸を張って歩けるようにと――そんな自分を見つけられるようにと、心に思い描きながら。
***
ふと、一昨日壁にかけたばかりの時計を見て俺は、飴を舐めおわってからおよそ一時間以上もの時間が流れていたことに気付いた。
途中の記憶が曖昧なのは、ぼーっとしているうちにうたた寝をしてしまっていたからだろう。しかし、比較的浅い睡眠であったから、融希が部屋に戻ってきていれば、それに気がついて起きていたはずだ。
「あいつ、まだ戻ってきてないのか……?」
買い物に行くとだけ言っていたから、おそらく融希が向かったのはここから徒歩五分ほどの位置にあるスーパーであろう。だとしたら、一時間以上かかっているというのは流石に遅すぎる。
何か問題でもあったのか? それとも単に、買い物が長引いているだけ?
なんとなく心配になった俺は、うたた寝前に送ったメッセージに返信が来ているかを確認するため、ベッドから身を起こしつつメッセージアプリを起動して確認を行う。
「……あれ?」
返信どころか、既読のアイコンすらついていなかった。
いや、ちょっと待て。あいつはただ、買い物に行っただけのはずだよな? それなのに、今の今までスマートフォンを見る暇すらなかったなんて、そんなことあり得るのか?
ありえない話ではないかもしれない。しかし、心配が不安に変化した俺の心は、思いついてしまった可能性を否定しきれず、足は自然と玄関の方へ歩を進めていく。
なんだか、嫌な予感がする。もしかしたら、何らかの事件に巻き込まれたのかもしれない。沸々と湧き上がってくる不安に掻き立てられ、俺は寒さ対策にブレザーだけを羽織り、全速力で部屋を――そして、寮を飛び出した。
焦る気持ちを抑えながら融希に電話をかけてみるが、何コールかけても応じる気配すらない。それでも、お願いだから、またいつもみたいなふざけたテンションで、「わりいわりい! 今月は新作のお菓子が多くてよ、何を買おうか迷ってたらこんな時間になっちまったぜ」と、間抜けな言い訳を返してくれと、懸命に電話をかけ続ける。
自分でも、どうしてこんなに焦っているのか――不安になっているのかがわからない。けど、嫌な予感という根拠のない懸念に心を支配された俺は、息を切らそうとも、喉が渇きを訴えようとも、走り続けることをやめられなかった。
しかし、心の焦燥とは裏腹に、寝起きで突如激しい運動を強いられた体はあっという間に限界を迎え、俺は足をもつれさせ、硬いアスファルトに向かって前のめりに倒れてしまう。
擦れた膝から血がにじむのを感じながら、それでもなお収まることのない衝動に身を駆られ、休むことなく再び走り出そうとしたところで――――
――――聞きなれた着信音が、かすかに耳に届いた。
暗い夜道を申し訳ばかりに照らす、点々と並んだ小さな街灯。その隙間――くすんだ街灯の光さえ届かない、ビルとビルの狭間から、音が流れてくる。
それは一昔前に流行ったレトロゲーム風の着信音で――融希が一年前に設定して以来一度も変えたことのない、お気に入りの着信音であった。
なんで……どうしてそんなところから、融希の電話の音が……?
最初は聞き間違いかと思った。いや、間違いであって欲しいと思った。しかし、薄暗い路地裏に踏み込み、足を進めるにつれ、換気扇の排気音に混じったその音は、次第に大きく、明瞭なものになって、鼓膜を激しく震わせてくる。
夜の闇に怯えて身を震わせながら、時折脛にぶつかる酒瓶のケースから響くガラス音に肩を竦めながら、怖いのに、帰りたくて仕方がないのに、それでも俺の足は、何かに憑りつかれたかのように、前に進めることをやめなかった。
やがて路地裏を進んでいくにつれ、俺の目に新たな情報が映し出される。
聴覚の次は視覚。月明かりさえ照らさない路地裏で、何かが地面から光を放っているのが見えた。
あれは――――
「――――スマホだ。スマホの、光だ」
もう何週目かわからないくらいにループした着信音が、騒音となって脳をかき乱す。思考が回らない。感情がうまく動いてくれない。だからこそか、思考以外の部分が――五感がより鋭く、より明瞭になっていく。
機械の音が頭に響く。人工の光が目を焼き焦がす。小石を踏む感触が痛覚を貫く。そして――――鉄のような悪臭が、嗅覚を蝕んだ。
「…………え?」
ぴちゃり。と、そんな雨上がりの道で水たまりを踏んだような、軽い音が足元から聞こえた。けど、鮮明になった感覚が、それが雨水などではない事を告げてくる。
――なら、今踏んだものは、一体なんだ?
思考が停止し、感情が切り離され、それ故に冷静になった脳は、今さらながら手に持っているスマートフォンの存在を思い出し、震えの止まった指で操作して、カメラ用のライトを起動する。
そして、俺は見てしまった。それが水たまりではなく、血だまりであることを――――
――――その血だまりが、首の切断された死体から流れ出たものであったことを。
「ひっ……!?」
あまりにおぞましく、気色の悪い光景に、俺は反射的に血だまりに踏み込んだ足を後ろに引く。
――――ぐちゃり。
そんな何かが拉げるような感覚が、かかとから脳に伝達された。
「…………あ」
わかっていたはずだ。本当は、気づいていたはずだ。ただ、思考を止めていただけで、現実から目を背けていただけで――わからないふりをしていただけで。
着信音が聞こえたんだ。スマートフォンの光が見えたんだ。首のない死体の来ている服が、俺と同じ制服だったんだ。
だったらもう、わかっていただろう?
今、俺が蹴ったのは――――星神融希の頭だって。
「あああああああああああああああ!!!!!」
思考が動き始める。感情が追いついてくる。真実が、現実が、濁流となって心を飲み込んでいく。
肺の空気も、胃の中のものを、全て吐き出して、それでも止まらない叫喚が、言語を成さない雑音となって、外界に撒き散らされる。
切り忘れた着信音が、鼓膜に刻み込まれる。血と吐瀉物の混じった悪臭が、鼻腔に染みついて離れなくなる。
脳髄がぐちゃぐちゃにかき回されるような、異常で満たされた情報の暴力を前に、喚き、叫び、頭を掻きむしることでしか反応出来ない――逃避を続けることしか出来ない俺の前に、
「ああ、見つかっちまったのか」
一つの黒い影が、姿を現した。
「おっかしいなー? ちゃんと人気のないところに連れ込んで、声を出す前に殺したはずなんだが……ってああ、それか、そのうるせー着信音のせいでバレちまったのか」
男は軽い口調でそう呟くと、血でまみれたスマートフォンを何のためらいもなく足で踏み砕く。
「次からはこいつにも気を付けねーとだな。あーあ、最近の電子機器ってのは、面倒なもんだねえ」
男は、目の前に首の落ちた死体があるにも関わらず、街中で友人と会話をしているかのような調子で独り言を口にしながら、平然とした顔で血にまみれた靴を拭う。
その姿は、あまりにも普通で――この場において、あまりにも異常で、俺はいつしか叫ぶ声も失い、呆然とその男を眺めていた。
「……あ? 何こっち見てんだよ、何か言いたいならとっとと言えよ」
「…………お前が、融希を……殺したのか?」
「あ? そうだよ。てか、そいつ融希っていうの? それ知ってるって事は、お前こいつの知り合い? ああ、それはそれは、お悔やみ申し上げますって感じだわ」
その男は、あまりにもあっさりと、自分が殺人犯であることを認めた。
「…………どうして?」
「どうしてって言われてもな……人を殺すのにさ、殺したいって理由以外に何かあるの?」
絶句した。何も言えなくなった。
だって、その男には――その殺人鬼の瞳には、純粋な疑問しか――どうしてそんなわかりきったことを聞くのかと、そんな曇りなき歪な光しか、宿っていなかったから。
その瞬間、眼前に迫る異常にあてられた俺は、逃げることも、命乞いをすることも忘れ、ただただ放心して、宙を見つめることしか出来なくなった。
「あーしっかし、見られちまったなー。これで世間様にも、俺の殺した死体が見つかっちまうってわけか。明日から殺しづらくなるなー。でも、一日一殺って決めちゃったもんなー。目撃者なんて、出ない予定だったのになー」
焦点の定まらない視界の隅の方で、男が首を左右に傾けながら、こちらに背中を向けて立ち去っていくのが見える。
「……ま、いっか。ちょっとくらいリスクがあった方が、気分も盛り上がるっしょ。つーわけでそこのお前、ちゃんと警察に伝えておくんだぞ! 首狩りジャック、夜の街に現る……なーんてな!」
そう言って、笑い声を上げながら暗闇に消えていく背中を、虚ろな眼界の中で辛うじて捉え、結局何も言えず、何も出来ず、ただただ見送ることしか出来ぬままで――――
――――そこまでを認識したところで、俺の記憶は完全に途絶えた。