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【13】二つ目の首切り死体

   ***


 復讐から自警へと目的が変わった夜の捜索。セレーネはこれまでとやることは変わらないと言ったが、心理的な側面以外――現実的な側面として、昨日までと比べて大きく変化する部分が一つだけあった。


「捜索ルートの変更ですか……?」


「ああ。今までは探すことに特化して動いていたが、これからはそうじゃなくて、見回ることに特化して動く必要があるからな」


 復讐を掲げていた時は、とにかく首狩りを見つけることを最優先とし、奴が現れそうな場所をひたすら回り続けるという方法をとっていた。

 しかし、これからは自警を目的とした動き――奴が現れる現れないに関係なく、単純に危険そうな場所を回るという動きが必要になるのだ。


 そう考えると、やっていることは警察や自治体の巡回と変わりはないわけだ。無論、こっちには操人形の機動力があるため、一度に巡回できる範囲は他に比べて圧倒的に広いわけだが。


「警察とかは、首狩りの捜索に動いているのかね?」


「テレビとかでは報道されていないのですか?」


「どうだろ……うち、テレビないからな。ただ、ネットニュースを見た感じだと、融希以降死体が見つかったって報道は流れてないな」


 それがはたして、誰も死んでいないということを意味しているのか。

 ただ単に、死体が見つかっていないというだけの意味合いでしかないのか。


 一日一殺。目撃者なんて出る予定じゃなかった。

 あの男の言葉を思い出すと、どうしても悲観的な方向に考えが進んでしまう。


 今、この瞬間にも、誰かの存在がなかったことにされているのかもしれない。そう考えると、自然とあたりを見回す目に神経が集中していた。


「……町は、今日も静かですね」


「都心から外れた住宅街だからな。夜に外に出て遊べる場所が存在しなければ、住民も必然的に部屋に閉じこもるさ」


「なるほど。ではこの辺り一帯から漂うおいしそうな匂いは、ご家庭で作られた夕食の匂いだったのですね」


「お前、他所の家の夕飯の匂いまでわかるのかよ」


 五感が鋭いとは言っていたが、まさかこれほどまでの性能を誇っていたとは。まあ、壁越しに言葉を聞き取れるのだ、匂いの判別くらいは造作もないことってわけか。


「その匂いって、具体的に食べ物の名前まで識別できたりするのか? 例えば、あの家ではハンバーグを作ってるとか」


「知っている食べ物であれば、おそらくは。試してみましょうか?」


 なんとなく興味本位で聞いてみると、セレーネは休憩がてら屋根の上で立ち止まり、真下の家の夕食を当ててみようと試みる。

 捜索開始から数十分が経過していた。


 気持ちも新たに、和やかな空気で進んでいた巡回。しかしてその平穏は、彼女の嗅ぎ取った異常の気配によって、一気に緊迫したものへと変質する。


「うーん……知らない匂い、かもしれませ――――!?」


 目を閉じ、顎に手を当て、考えるような仕草をしていたセレーネ。しかし、不意に言葉を詰まらせたかと思った次の瞬間、目を大きく見開いた彼女は、緊張した面持ちで俺の目を見つめてきた。


「――――環様、一つお尋ねしたいことがございます」


「……なんだ」


「この辺りに大きな病院などあったりはしますでしょうか?」


「病院? 小さな診療所とかならあるかもしれないが、大病院くらいの規模となると、この辺りにはないな」


 急にどうしてそんなことを聞いたのか。そう質問の意図を問い返そうとする前に、セレーネはさらに訴えを重ねてくる。


「そうですか……いえ、病院でなくても構わないのです。とにかくこの辺りに、血を大量に扱う施設はあるでしょうか?」


「血を、大量に……? それって、どういう――――!!」


 直接的に伝えられて、すぐに理解した。

 人間を超越した五感を有している彼女だからこそ、感じ取ることの――嗅ぎ取ることの出来た事象。


 夜闇の中でも光を捉え、日中同様の明るさを保つ視覚。

 壁越しであっても音を捉え、一字一句聞き逃すことのない聴覚。


 そして、数多に混じる匂いを判別し、目には見えない異常を――鮮血の臭気を捉える嗅覚。

 血の臭い。それも、病院を彷彿とさせられるレベルの強烈な臭い。この町で、そんな臭気を漂わせる発生源など一つしかない。


 死体。それも、比較的新しい――殺されたばかりの人間だ。


「セレーネ!! 臭いの発生源はどこだ!?」


「こっちです!」


 セレーネが俺を担ぎ上げて地面を蹴り、目にもとまらぬ速さで跳躍する。


「臭いはそう遠くはありません。すぐに到着します」


「なるべく急いでくれ!!」


 背中に乗せられながら、彼女の進む方向に目を向ける。

 彼女に急ぐよう声をかけながら、俺は注意深く周囲を観察し――――そして、気が付いた。


 俺達の進む方向――彼女が足を進める方向が、双月の家の付近であることに。


「まさか……いや、嘘だ……」


 双月が帰ってから、もうそれなりに時間は経っているんだ。

 時間がずれている。双月はもう、とっくの昔に帰宅しているはずだ。


 何事もなく無事家に着いて、お風呂に入って、宿題をして、ちょっと息抜きに漫画を読んだりして、そんないつも通りの生活を送っている。

 そうだ、そうに決まっている。


 だって、だって、だって、そうじゃなかったら――――もしもこの先で、双月の死体が俺を待っていたら。

 きっと俺は、壊れてしまう。


 いつも通りなんて言葉に保証はない。日常は簡単に崩れ去ってしまう。

 でも、そんなの、あまりにも酷すぎるだろう。


「これ以上、俺から何かを奪っていかないでくれよ……!!」


 心臓が痛いくらいに強く脈打つ。自分が走っているわけでもないのに、呼吸が乱れまともに酸素を取り込めなくなる。

 脳が熱くなる。目が溶けてしまいそうになる。受け入れがたい空想が、最悪を描く思考が、脊髄を走り、神経を伝い、指の先までを狂乱で支配する。


 セレーネが足を止める。ビルの屋上から下を覗き見て、そのまま建物の隙間に飛び込んでいく。

 あの時と同じ暗闇。あの時と同じ風の音。


 そして、あの時と同じ、鉄のような悪臭が――鮮血の臭いが、鼻腔を刺激した。

 動悸が激しい。息が吸えない。胃の中の消化物を全て吐き出してしまいそうになる。


 セレーネは音もなく着地する。そしてゆっくりと俺を地面に下ろす。

 状況に動転する俺は自らの足で自立することすら出来ず、無様に膝を崩して尻もちをついてしまう。そんな俺とは対照的に、セレーネは一切表情を動かすことなく、冷静に、淡々と、事実のみを口にする。


「……もう、遅かったみたいですね。あの死体には、首がありません」


 闇の中でも視覚の途絶えない彼女が、首のない死体の存在を証明した。


「ああ……そうだよな……そりゃあ、そうだよな……」


 虚ろな声で答えながら、俺は震える手で必死にポケットを探り、何とかスマホを取り出して電源を入れる。

 どうか嘘であってくれと、どうか当たらないでくれと、藁にも縋る思いでライトを点灯させ、そして――――一筋の光が、血だまりの向こう側を照らした。



 転がっていたのは、男の死体であった。



「――――――――ああ、よかった」


 それは、極限まで張り詰めた糸が切れた反動か、無意識のうちに零れ落ちた一言――心の底から漏れ出した、偽らざる本心。

 けれどもそれは、たとえ緊張と安堵の落差から生まれた混乱の中での言葉だとしても、その言葉は、この状況で最も口にしてはならなかった、最悪の発言であった。


「…………は? 何言ってんだ……何言ってんだよ俺は!!」


 よかった? 何を言ってるんだ?

 死んでいるのが、双月じゃなくてよかった? 死んでいるのが、知らない男でよかった?


 違うだろう。そうじゃないだろう。

 前提が――そもそもの考えが狂っている。


「人が死んでいるんだぞ!? それなのに、よかったわけがないだろうが!!」


 最悪だった。そんな最悪な感情が芽生えるくらいなら、心なんて壊れていたままの方がまだよかっただろう。

 狂乱が再び全身を支配する。止まらない自己嫌悪に体が言うことを聞かなくなり、俺は腸を煮えくり返す怒りのままに、壁に思いきり拳を叩きつける。


 衝撃と、それから鈍い音が体に響く。けれども、痛みはまるで感じなかった。

 痛みの感覚もなければ、四肢を駆け巡る激情もまた収まる気配はない。


 アドレナリンが痛覚を打ち消してしまっているのだろうか?

 まあ、なんだってよかった。どうだってよかった。


 手を叩きつけるだけじゃ足りないなら、この薄汚れた脳細胞を直接叩き潰してやればいい。

 都合よく壁に這っていた水道管を掴み、両腕を伸ばして勢いづけ、そのまま力のままに、流れのままに、壁に頭蓋を打ち付けようと、頭を大きく振りかぶり、そして――――


「――――やめてください、環様!!」


 それは、今までに聞いたことのない、感情を露わにしたセレーネの切実な叫びであった。

 脇の下に腕を回され、羽交い締めの状態で持ちあげられ、強引に壁から引きはがされる。彼女の拘束から逃れようと四肢をじたばた振り回すも、ただの人間である俺と操人形であるセレーネとでは、力の差は歴然。抵抗もむなしく、俺は動きを封じられたまま地面へと組み伏せられてしまった。


「離せ、セレーネ!!」


「駄目です、絶対に離せません。今の環様の状態は、自由を許せるほど正常ではございませんので」


「ああそうだ、俺は異常だ! 異常で異形な人間以下のクソ野郎だ!! だからこそ、今の俺は正常なんだ! 異常であることこそが正常なんだ! だから!!」


「だとしても……私は絶対に、環様を離すことは出来ません。たとえ環様が異常であろうとも、正常であろうとも、大切なマスターの傷つく姿を黙って見過ごすことなんて……私には、出来ませんから」


 ――大切なマスターの傷つく姿。

 その言葉に、俺はようやく自分が何をしようとしていたのかを自覚した。


 自傷。自壊。自分で自分を殺す行為。

 それがどれだけ愚かしいことかを――誰も喜ぶことのない、無意味な行為であることを知っていたから。


「……すまん、セレーネ。落ち着いた」


 冷静さを取り戻した口調でそう告げると、セレーネは無言で拘束を解いてくれた。

 立ち上がり、右手の甲を確認すると、コンクリートに擦れて捲れ上がった皮から、赤茶色をした粘液がじゅくじゅくとにじみ出ていた。


 ああ、この傷を見たら、双月はなんて思うだろうか。


「……ありがとう、セレーネ。お前が止めてくれなきゃ、俺は取り返しのつかないことをしてしまっていただろう」


「いえ……私はただ、当たり前のことをしたまでですから」


 いつも通りの淡々とした返事であったが、俺はさっきのセレーネの言動を――感情をむき出しにした瞬間を、余すところなく記憶している。

 彼女も彼女でまた、俺のことを心配してくれていたのだ。そう思うと、感謝の気持ちが湧き上がってくるのと同時に、己のしたことの愚かさを改めて自覚させられるのであった。


 ――――しかして、己の愚かな行為と目の前に広がる現実とは、全く別のお話。

 行為を恥じようとも、抱いた感情からは決して目を背けてはならない。


「……あの死体は、殺されてすぐのものか」


「おそらくは……血の色と臭いが、まだ新鮮ですから」


 きっとどこかで、思っていたのだろう。

 親友を殺されておきながら――目の前で最悪な現実を突き付けられておきながらもなお、双月だけは大丈夫だと、そう勝手に決めつけていたのだろう。


 けれども、それは違うのだ。

 世界は厳しくも優しくもない。ただ世界は全てに対して、平等であるだけ。


 認めよう。今回はたまたま、双月が殺されずに済んだ。

 けど、それが明日も続く保証はあるか? 明日も明後日も、俺の知り合いが殺されない保証はあるか?


 そもそも、こうして毎日誰かが殺されているという現実が存在している。その時点でもはや――いや、元より初めからこれは、外海環の復讐劇程度で終われる話ではなかったのだ。

 人の死を――見ず知らずの人間の死体を目の前に、俺は否応なしに理解をさせられる。


 この殺人は、俺だけの問題じゃないのだと。

 認識を――世界を、無理矢理に拡張させられた。



「うげっ、また目撃者かよ。おっかしいな……あの野郎に見つかって以来、それなりに隠すようにしてたつもりだったんだけどなー」



 砂利を擦る足音が、耳障りな声と共に鼓膜を揺さぶる。

 聞きなれるほどに聞いた覚えはない。けれどもその声は、決して耳から離れることのない呪いとなって、脳髄に深く刻み込まれていた。


「……って、よくよく見たらお前、あの時の野郎じゃねーか。なんだ、俺の殺人現場を二度も発見出来るだなんて、どんな幸運をしてんだお前さんは。いや、この場合は幸運じゃなくて、不運って言った方がいいのか?」


「……いや、幸運であってるさ。あの日から……あの最悪の日からずっと、俺はお前に会いたくて仕方がなかったんだからよ」


 首狩り。その男との二度目の遭遇は、俺が死ぬほどに――殺したいほどに願い、待ち望んだ最悪であった。


「はっ! なんだてめえ、俺のファンか? 男のケツを追っかけ回すなんざ、良い趣味してんじゃねーか」


 一笑に付すとはまさにこのこと。犯行現場を目撃されたというのに、この男はあの時と同じくまるでひるんだ様子がない。

 俺程度の凡庸な人間、何の障害にもなりえないと判断しているからか。あるいは、たとえ相手が俺でなくとも――誰が相手であろうとも、絶対に捕まらない自信があるからか。


 暗がりに慣れた目が、首狩りの姿をはっきりと捉える。

 服装は変わっていたが、その男の瞳は――純粋な殺意に染まった曇りなき瞳は、何一つ変わってなどいなかった。


「しかもよくよくみりゃあ、女を連れてやがる。殺人現場にデート気分で訪れるとか、とんだイカれ野郎だ……な……?」


 せせら笑いを浮かべながら、視線を俺からセレーネに向けた首狩りは、そこで何か不可解なものを見たとばかりに、わかりやすく言葉を詰まらせ、表情を歪ませた。


「…………あ゛? なんでこんなところに、てめえがいるんだよ」


 首狩りはセレーネを睨みつけ、怪訝そうな口調で尋ねかける。


「……お前、セレーネを知ってるのか?」


「あ? 実際に会ったことはねえよ。ただ、見たことがあるだけだ。なにせ俺もそいつも、同じ研究所で改造され、兵器にされた――――『人間』なんだからよ」


 …………え? 今、なんて言った?

 そう尋ね返そうとして、真横から生じた突風に声を遮られる。


 一瞬の出来事。首狩りが『人間』という言葉を口にすると同時に、セレーネは俺を運んでいた時とは比べ物にならない速度で、首狩りのもとへと肉薄していた。


「っつ――――!? おいおいおい、随分と元気そうじゃねーか!! 流石は最新型の『デュナミス』様、俺みてーな出来損ないなんざ比べ物にならねーほど、綺麗に人間を外されちまってるなあ!!」


「黙りなさい、首狩り!!」


 彼女らしからぬ怒号を振りまき、無防備な顔面を拉げようと、思い切り拳を振りかぶる。しかし、セレーネは首狩りに対して、それ以上何もしようとはしなかった。

 ……いや、違う。何もしないのではない。何もさせてもらえないのだ。


 闇に覆われた視界だからこそ、辛うじて見える手品のトリック。

 糸。それも、普通の糸じゃない――操人形の全力を受けてなお切れることのない、異常なまでに頑丈な青い糸。


 首狩りの周囲に張り巡らされたその糸が、セレーネの体に絡み、締め付け、動きの自由を奪っているのであった。


「同じ元人間でも、ただの改造人間と『デュナミス』とじゃ、ここまで身体能力に差が出るものなんだな。俺なんざ、こうしてほっそい操力の糸を垂れ流すくらいしか出来ねえってのによお!」


「喋るなと言っているでしょう!!」


「嫌だね、喋るさ! なにせ久々に出会った同胞だ! 元人間同士、研究所の糞不味い固形物の話とかで、思い出に花でも咲かせようじゃねえか!」


「黙って!!」


 こんなにも感情を――怒りを発露したセレーネを見るのは、初めてのことだった。

 表情までは見えなかったが、彼女の激昂は背中越しでもはっきりと伝わってくる。


 けれども俺はそんな場面を――死体の上で繰り広げられる非現実的な風景を前にしても、それらに対して何かを思うことが出来なかった。

 それ以上の衝撃が、感情を占有していたから。


 セレーネと首狩りは同胞で――――元人間だった?

 矢継ぎ早に混入された重すぎる情報に混乱する思考。しかしその一方で、どこか落ち着いている――納得している自分もまた、存在していることに気付く。


 なんてことはない。何もおかしなことはない。

 食事をするのも、睡眠をとるのも、風呂に入るのも。


 肌に触れた時の感触も、時折見せた人間らしい側面も――――彼女が元々人間だったのなら、何も不思議なことはなかったから。

 そして彼女が兵器として改造されたならば、その人間離れした――人間程度なら簡単に破壊出来てしまう身体能力を備えているのもまた、当たり前のことなのだろう。


 兵器とは、攻撃や防御のための武器であり――人を傷つけるための道具なのだから。


「あー……ほんとはもう少し楽しみたかったんだが、『デュナミス』様が相手じゃどうも分が悪いみてーだし……今日の所は、これくらいにしておきますかねえ」


 空中にて雁字搦めにされるセレーネと、それを見つめ意地の悪い笑みを浮かべる首狩り。

 一見動きのない硬直状態に見える二人であったが、操力で出来た糸の方が先に限界を迎えそうになってか、ほんの少しずつセレーネの体が前に倒れ始めている。


 その兆候を見計らってか、首狩りは現場の隠ぺいを捨て早々に退散の準備を始めると、腕を空に向かって高く伸ばし、指先から視認できるくらいに太い操力の糸を射出させた。


「それじゃあ少年少女諸君、縁があったらまた会おうぜえ!!」


 次の瞬間、首狩りの体は射出した操力の糸に引かれ、はるか上空へと飛び上がっていき、そのまま建物の陰に姿を消してしまう。

 それから数秒、糸の生成主が離れたことで解放されたセレーネが即座に屋上まで跳躍するも、そのころにはもう、俺たちは首狩りの姿を完全に見失ってしまっていた。


「また、逃したのか……」


「……申し訳ございません。私が……勝手な行動をしたがために」


「お前のせいじゃない。むしろあの状況でよくやってくれた。足りなかったのはお前の力じゃなくて――――」


 ――――足りなかったのは、俺の覚悟の方で。

 首狩りと――殺人鬼と対峙することの意味を、俺はまるで理解出来ていなかったのだ。


 それに、


「環様。今日はもう、部屋に戻ってもいいでしょうか? その……環様に、話しておきたいことがありまして……」


「……ああ、そうだな。どのみち、これ以上の捜索は無意味だろう。警察にだけ通報して、今日はもう休もう」


「……ありがとうございます」


 冷たい夜風が頬を裂く。月明かりが、俺たちの顔に影を落とす。

 柵のないビルの屋上の端に立ち、人っ子一人通らない寂れた道路を見下ろす。ほんの数階程度の高さ。けれども、あと一歩前に踏み出してしまえば、俺はその程度の高さに殺されてしまえる。


 人は脆い。首なんて落とさずとも、ほんの十メートルの高さから落ちるだけで、簡単に殺せるくらいには。

 けれども、彼女は死なない。セレーネは、その程度の高さでは死ぬことはない。


 それは彼女が操人形だから。人ならざる――人に非ざるものだからだと、そう思っていた。

 そう思っていたし――そう信じていた。


 彼女がそんな嘘をつくはずがないと、信じることにしていた。

 セレーネはどこまでを知っていたのだろうか……いや、尋ねるまでもないか。


 おそらくはすべて。彼女は、己のすべてを知っていた。

 自分が人間であることも含めた、そのすべてを。


 彼女の――人にあらず、さりとて操人形でもない少女の背に乗り、俺は夜の街に身を投げ出す。

 かつて人であった彼女の背中が、心なしか冷たくなっているように感じられた。


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