97話 諦観
「マナヤさん……今の話を、聞いていたのですか」
にわかにテナイアが立ち上がり、悲痛な表情でマナヤの顔を伺う。
「……ッ、はははっ……」
当のマナヤは、思いのほか落ち着いている様子だった。微妙に焦点の合わぬ目を伏せ、乾いた笑い声を放つ。
「なんとなく、そんな気はしてたんだよ。……それなら、簡単じゃねえか」
「か、簡単って……何よ」
ややふらつくような足取りで、アシュリーがマナヤに一歩一歩近づいていく。顔を上げ、そんなアシュリーを妙に優しげな目つきで見つめるマナヤ。
「俺はこのまま、記憶をテオに渡して統合されちまえばいい。それで万事解決だ」
「な、何言ってんのよ、あんた」
アシュリーがすがりつくように、マナヤの両腕を掴む。しかし彼はアシュリーから視線を外し、シャラの方へと顔を向けた。
「シャラ、聞いての通りだ。この体、もうじき完全にテオに返せるぜ。そうすりゃ、お前らは誰に気兼ねすることなく結婚生活を始められるだろうよ」
「待ってよ! マナヤ!!」
彼の正面に回り込むように、アシュリーがマナヤに顔を突き合わせる。
「あんた、何でそんなに落ち着いてんのよ! あんたが消えちゃうのよ!?」
「わかってるよ。大丈夫だ、俺は別に自暴自棄になってるわけじゃねえ。むしろ安心してるくらいだよ。本心だぜ」
「え……」
「別にいいじゃねえか、俺の記憶がテオに移るんだったら。俺の記憶がありゃ、召喚師を導く役目はテオに引き継ぐことができる。なら、俺はもう思い残すことは何も無ぇ」
「そういう問題じゃなかったでしょ!?」
アシュリーが悲痛に叫ぶ。だが彼は涼しい顔でそれを流した。
「いいんだよ、アシュリー。俺は元々、この世界じゃ異物だった。地球人だと思ってた俺は、そう思い込んでただけの副人格……人間ですらなかったんだ。なのに、この世界の人間に威張り散らして、自分は特別なんだとバカな優越感に浸ってたんだ。情けねえったらありゃしねぇ」
「そんなことない! あんたはちゃんとここに生きてる!」
「一つの体に、二人分の人格があるなんてのがそもそもおかしいんだよ。記憶をテオに統合しちまった方が、自然なんだ。俺だって……ありもしない故郷の事に思い悩まずに済む」
「っ……!」
「だからいいんだよ。俺はこのまま消えてなくなる。それが一番なんだ。それで全部うまく――」
――パンッ
弾けるような音と共に、マナヤが廊下に倒れ込んだ。アシュリーが彼に平手打ちをしたのだ。
「ってぇ……ッ、おまっ、いきなり何しやが――」
しかし頬を押さえ顔を上げたマナヤの文句は続かなかった。はっとしたような表情でアシュリーを見上げている。シャラの位置からは、彼を見下ろすアシュリーの表情は見えなかった。
「ふざけんじゃ、ないわよ……!」
静かな、しかし確かな怒りを宿した湿った声。
「あんたが居なくなるのが一番? 全部うまくいく? 本気で言ってるワケ!? バカも大概にしなさいよ!!」
「お、おい……」
アシュリーが俯く。ぱた、ぱた、とその足元に雫が落ちる。
「あんたはいつもそう!! 自分を犠牲にすればうまくいくって思ったら、勝手に決めて勝手に自分を後回しにして!」
「……アシュリー」
彼女は顔を上げてキッと再びマナヤを睨みつけた。
「――あたしの気持ちも考えなさいよ! ばかぁっ!!」
絞り出すように叫んで、アシュリーは廊下に出て走り去ろうとする。
「待って! アシュリーさん!」
慌てて扉をくぐりアシュリーの背に呼び掛けるシャラ。駆け出しかけたアシュリーの足が止まった。
「……あんたはいいわよね、シャラ」
「え……」
震えるようなアシュリーの呟きに、シャラが息を呑む。
勢いよく振り向いたアシュリーは、目から雫を振りまいてシャラを鋭く睨みつけてきた。
「マナヤが統合されちゃったって、あんたの大好きなテオが残ることには変わりないんだものね!!」
「っ!」
背筋に冷たいものが走るような感覚。思わず身がすくみ、たたらを踏んで数歩後退してしまう。自分の顔が恐怖と罪悪感に引き攣っているのがわかった。
そんなシャラの様子を見て、アシュリーがはっと息を呑んだ。彼女の顔色が青い。
「……ごめん、なさい。シャラ。……言い過ぎたわ」
「っ……アシュリー、さん……」
「ごめんっ……ちょっと、頭、冷やしてくる……!」
「あ……」
目を伏せたアシュリーが、逃げるようにその場を走り去っていく。それを追いかけても良いものか迷ったシャラは、伸ばした手をゆっくりと引っ込め、胸元で両手を押さえる。
直後、彼女を追うのに最適な人がいることを思い出して振り返る。その先には、尻餅をついた体勢のまま俯いているマナヤの姿があった。
「マ、マナヤさん! 早くアシュリーさんを追いかけて下さい!」
「……んな必要ねぇだろ」
「マナヤさん! まだわからないんですか、アシュリーさんは――」
「わかってるよ!!」
俯いたまま叫ぶマナヤ。その悲痛な声に、シャラも勢いを失ってしまう。
「んなことはとっくにわかってんだよ! でも、だからってどうしろってんだ!」
「それ、は……」
「俺はただのテオの別人格だ! 誰かとくっつく資格は無ぇしそんな立場じゃねえだろ!」
「――マナヤさん」
喚くマナヤに、部屋の中からテナイアがゆっくりと話しかけてきた。
「ここ最近、急にテオさんが貴方の記憶を見るようになったと聞いています」
「……」
「マナヤさん、貴方は自分が消えてしまいたいと願っている。だからこそ、テオさんとの統合が始まっているのではありませんか」
思い切りマナヤへと振り返るシャラ。幾ばくかの沈黙の後、ふっと諦めるように寂しげに笑っていた。
「……正解ですよ。俺が不甲斐なかったせいで、この体は一度死んだ。そのせいで父さんと母さんが犠牲になった」
「マナヤさん、それは貴方の責任ではありません。貴方は立派に戦って下さいました。貴方のおかげで、召喚師解放同盟にも大打撃を与えることができた。連中の企みを暴き、彼らの切り札を一つ曝け出すこともできたのです」
「それだけじゃないんですよ、テナイアさん。俺は、あいつを……アシュリーの心を、かき乱しちまった」
彼はギリ、と両拳を握りしめていた。
「……アシュリーは、良い女だよ。あいつなら、もっと良い男とくっつける。その方があいつは幸せになれる。あいつのためにも、あいつは俺のことなんかさっさと忘れちまったほうが良いんだ」
彼のその言い草に、シャラは食って掛かるように鋭い表情で異を唱える。
「違います! アシュリーさんが幸せになれるのは――」
「俺に付き合ってる時間があったら、あいつはその時間を使ってもっと良い男を探しゃいい。その男と愛を育むのに費やせばいい。俺に構って時間を無駄にするこたねえだろ」
「そうじゃありません! マナヤさんがこのまま消えちゃったら、それこそアシュリーさんはずっとずっと後悔します!」
思わずマナヤの目の前にしゃがみこみ、彼の両肩を掴んでゆするシャラ。
しかしそんなシャラに、彼は冷ややかな目を向けた。
「シャラ、お前は後悔しないってのか?」
「え?」
「俺があいつとくっついたら、この体はお前とあいつで二股することになるんだぞ。俺がアシュリーといる間、お前は一人になる。それでもいいのか」
「……それは、覚悟の上です」
ちくりと胸が痛んだが、それでもなんとか気丈に言い返す。だがマナヤの眼差しは変わらない。
「お前が良くても、アシュリーはそれでいいと思うのか?」
「っ……」
「お前がテオと居る間、アシュリーの方だって憂愁に沈むことになる。あいつにもその覚悟を押し付けんのか?」
言葉が出なかった。先ほどの胸の痛みが、一層その大きさを増す。
シャラにだって、わかっていた。アシュリーにそういう思いを味わせることになると。だからこそ自分も、アシュリーにマナヤを任せることを一度は躊躇したから。
そんな自分の様子を見て、顔を背けたマナヤがゆっくりと立ち上がっていた。
「わかったろ。これ以上、あいつの感情を膨らませるわけにゃいかねえんだよ」
「マナヤ、さん……」
途端、マナヤの体がぐらりと一瞬揺らめく。一瞬にして彼の雰囲気が変わり、軟らかい表情となって目をぱちくりとさせた。
「……え? シャラ? あれ、僕、ロビーに行ってたはずじゃ……またマナヤが出てきたの?」
「て、テオ」
「シャラ? どうしたの?」
マナヤが引っ込んでしまったらしい。ふらつく足でテオに近寄ったシャラは、ぎょっとした表情になった彼に支えられる。
「テオ、入れ。君にも話を聞いてもらう」
「ディロン?」
そんな中、椅子に座ったままだったディロンが静かに口を開いた。テナイアが思わず彼の顔を見る。
「テナイア、事こうなった以上は彼にも知っておいてもらった方が良い。テオだけを蚊帳の外にするわけにもいくまい」
「……それは、そうですが」
「テオ、これから説明する。座るんだ」
ディロンが掌で椅子を指す。テオはシャラの背をそっと支えながら、二人して部屋の中へと戻った。
***
「マナヤが、消えたがってる……?」
テナイアから一通りの説明を聞いた後。テオが自らの身をかき抱く。シャラも顔を伏せて表情が沈んでいた。
「……やっぱり、僕のせいで」
「テオ……」
テオのその言葉を聞いた瞬間、シャラが複雑な表情で彼を見やる。それに気付いた彼は思い出したように「あっ」と声を漏らした。
「シャラ、マナヤの幸せのことで僕に言えないことがあったって、もしかして」
「……うん。マナヤさんは私やテオに遠慮して、アシュリーさんと一緒になりたがってないと思った、から……」
かつてスレシス村で、マナヤ自身の幸福についてテナイアから話を聞いた時。
アシュリーのことを直観的に思い浮かべたシャラだったが、今までテオには言い出せずにいた。テオが自分をも責めるとわかっていたから。
「マナヤ……アシュリーさん」
両手で頭を抱えてしまうテオ。そしてふと気づいたように、ディロンへと向かい顔を上げる。
「ディロンさん、テナイアさん。お二人も、マナヤは居なくなっても良いと考えているんですか」
「無論、考えていない」
ディロンは迷いなく即答した。
「彼のこれまでの功績はもちろん、テナイアを救って貰った恩もある。このまま報われずに消えてしまうのは忍びない」
「そう、ですよね……」
「だが、彼は完全に覚悟を決めてしまった顔をしていた。同じ男の立場から言わせてもらうが、ああなった男はもはや感情論では動かん。理屈が必要だ」
「……」
テオにも心当たりがあったらしく、納得顔で俯く。
が、すぐに決意したような顔になって立ち上がった。
「僕、アシュリーさんを探してきます! やっぱり放っておけません!」
と、扉へと駆け出して部屋の外へと飛び出していった。
「……テオ」
彼を心配げに見送るシャラ。自分が追って良いものか、判断がつかなかった。
その時、テナイアが息を吐くのが聞こえる。思わず振り返ると、ちょうどテナイアが真剣な表情になって話し始めるところだった。
「これもお話しすべきか、迷っていました。ですが、やはりシャラさんにはお伝えしておきます」
「……テナイアさん?」
まだ何かあるのか、とシャラが声を強張らせる。
「大事なことです。……シャラさん」
「は、はい」
「先ほどのアシュリーさんの危惧。シャラさんにとっても、他人事ではないのです。今はまだ可能性にすぎませんが」
「え?」
アシュリーの危惧とは、どれの事だろう。嫌な予感がしつつも、テナイアの次の言葉を待つ。
「――」
続いた彼女の説明に、シャラは顔面が蒼白になった。




