185話 暗雲
「……もっと、撫でなさいよ」
「アシュリー?」
「あたし、頑張ったんでしょ。……ご褒美、ちょうだいよ……」
居間の暖炉前で、二人が寄り添い合いながら会話しているのが聞こえる。
自室への入り口脇にある壁の裏で、シャラは二人に姿を見せないままそっと聞き耳を立てていた。シャラも、アシュリーの戸惑いを感じていて心配していたからだ。
衣擦れの音と、マナヤが頭を撫でる微かな音が届く。
「……っ、……っ!!」
そして、アシュリーが声を抑えながら静かに泣いているような様子も。
(アシュリーさん、よかった)
聞き耳を立てていることに少し後ろめたく思いながらも、自分の目に溜まった涙を拭うシャラ。
背を預けている壁の裏から届いてくる、二人の幸福そうなやり取りの気配。それに安心し、そっと壁から体を離す。もうあとは、二人っきりにしてあげるべきだろう。
音を立てぬよう、ゆっくりと自分の寝具へと向かった。
テオのいない寝具へ。
(あ、れ……?)
ぽろりと、拭ったはずの涙が再び零れる。
慌てて手のひらで涙をまた拭うシャラ。が、後から後から涙が溢れだしてきてしまって、止められない。
『あたしの気持ちも考えなさいよ! バカァッ!!』
『ありがと、な。……よく、頑張ってくれたな。アシュリー』
――苦しんでいたマナヤさんとアシュリーさんが幸せになれて、嬉しい。
『俺があいつとくっついたら、この体はお前とあいつで二股することになるんだぞ。俺がアシュリーといる間、お前は一人になる。それでもいいのか』
『マナヤさんの人格が、逆に主人格の座をテオさんから奪い、マナヤさんをベースとして統合されてしまう可能性も残されているのです』
――テオが、私のそばにいないのが、寂しい。
この家で眠る時、今までずっと『テオ』が表に出てきている状態だった。だから、いつもテオと一緒に眠っていた。
シャラが、テオのいないこの寝具で、たった一人で寝るのは……
テオが召喚師になってしまったことを呪い、引きこもってしまっていた時以来だ。
シャラはもう、勝手にどんどん流れ出る涙を拭うことを諦める。
だらりと手をぶら下げ、涙が頬を流れるまま虚ろな目で寝具を見下ろした。
「……っ」
安堵からくる涙か、寂しさから来る涙か。
シャラ自身にも、わからなかった。
***
同日の同時刻。
シャラたちがいるセメイト村の遥か西。
コリンス王国の西に接している大国、デルガド聖国。国土に砂漠と火山が多い、大陸の西を広く支配下に置いている国だ。
その聖都『クァロキーリ』に建っている豪華絢爛な聖城の一室。
女王の寝室にて、金箔が織り込まれた寝間着を纏った長い黒髪の女性が、机に向かって腰掛けていた。
彼女の肌はやや浅黒い。日差しの強いここデルガド聖国の民によく見られる肌色だ。
(『共鳴』に目覚めた者が、コリンス王国に二組も……)
寝室に置かれた仕事机に置かれている書類を手に、頭の中で独り言ちる女性。
デルガド聖国の聖王ジュカーナ・デル・エルウェン。
既に王配に先立たれ、独り身となった女王だ。
(『共鳴』持ちは、『神託』を受けた者よりも神に近いとされる。神の御使いにも等しい)
死した者を蘇生魔法で甦らせた際、死者が神と会話することで得られる神託。デルガド聖国は、各地からそういった神託を纏め、神の意思を一つの体系に纏め上げる『宗教帝国』だ。
そんな神託よりも圧倒的に希少とされ、通常は数十年に一組現れる程度でしかない『共鳴』持ちの者達。それが、あろうことかこのデルガド聖国ではない国に二組もいるという。
(しかもその内の一組は、あの『神託の救世主』を名乗っていると)
ここ数十年、神託の内容といえば『封印師を優遇せよ』というものばかりだった。
だが四年前、急にこれまでにない神託が下った。封印師を救う救世主が、この世界へと舞い降りてくるというものだ。
そして唐突に、コリンス王国がとある少年を『神託の救世主』と認めたという。
どこからか神託を嗅ぎつけた詐欺師の可能性も捨てられなかったが、その者が『共鳴』にまで目覚めたと聞いた。となれば、神託の救世主である可能性は一気に高くなったというものだ。
(神の御使いは、我が国にこそ相応しい)
神の意思を伝えることはデルガド聖国の誇りである。御使い様が他国にいることなど、許しがたいことだ。
なんとしてでも、その御使い様をこの国に取り込まねばならない。
聖王ジュカーナは、その者達をデルガド聖国へ招くための書類をしたためる準備を始める。
(なに、召喚師……いや、封印師であれば、我が国に取り込むことなどたやすかろう)
美しい唇を、やや不敵に歪めながら愉悦に浸る聖王ジュカーナ。
封印師はどの国でも冷遇されている。無論このデルガド聖国を除けば、の話であるが。
この『神託の救世主』を名乗っているマナヤ・サマースコットという少年。彼が封印師の評判を高めるために奮闘している、とは聞いている。だが当のマナヤは、あろうことか辺境の村に留まっているという報告があった。おおかた、封印師であるという理由で密かに蔑まれ、辺境に追いやられているのだろう。
であれば、このデルガド聖国でそれなりの地位を約束してやれば、喜んでこの国へと移り住んでくれるはずだ。
(そうすれば、余の治めるデルガド聖国は更なる地位を得て、よりその権威を高めることができる)
書類をしたため終わった聖王ジュカーナは、豊かな髪を靡かせながら立ち上がる。机に置かれた純金の杯。酒の入ったその杯を手に取り、背後の窓から夜空を見上げた。
(デルガド聖国のさらなる富と繁栄に、神の祝福あらんことを)
夜空に向かって杯を掲げ、満足そうに杯に口を付けた。
(……それにしても、あの銅鑼息子には困ったものだ)
と、聖王族の自覚もなく聖城を飛び出していった、困りものの息子へと思いを馳せる。
彼女の息子、すなわち王子は今年でもう二十歳になる。にもかかわらず彼は母である聖王のやること為すこと全てに反対するばかり。数ヶ月前にはとうとう城を出ていってしまった。
彼が城を飛び出して遊びほうけることは、今回が初めてではない。過去にも何度か城を抜け出し、勝手に町や村へとお忍びで出かけていってしまうクセが彼にはあった。一体どういう手を使ったのか、騎士達にも捜索させているというのに毎度一向に見つからないのだ。今回も例外ではない。
(あやつのことだから、死んではおるまいが)
王配が亡き今、あの王子が時期の聖王となるのだ。すでに立太子の儀も済んでいる。いつまでも王族としての自覚を持たず、遊んでばかりでいては困るのだ。ただでさえ『聖王』は一般王国の国王とは違い、高潔な精神を要求されるのだから。
神の御使いである『共鳴』覚醒者を招く際にも、王子にも王族として参列して貰わねばならない。このまま戻らないようであれば……
(最悪王籍を外し、甥姪に王位を継いでもらうことも考慮せねばならんか)
かすかに頭痛を覚えながら、彼女はふたたび金杯を傾けた。




