118話 ブラッド・イノセンス
村へとたどり着いたテオ一行。
コリィ宅の裏手と防壁の間で、テオとシャラ、アシュリー、ディロンが焚火を囲んでいた。皆、丸太を椅子代わりにして座っている。
「……終わりました」
「テナイア。コリィと彼の家族は?」
家の外壁からこちらへとやってきたテナイア。ディロンがそれを迎え、訊ねる。
テナイアは微笑してゆっくりと頷いた。
「もう大丈夫です。コリィさんも明日には目を覚ますでしょう。彼の家族は今、コリィさんに寄り添っています」
「そうか」
答えを聞いたディロンは、無意識のまま焚火へと視線を移した。テナイアがそんな彼の隣に座る。
「嘘、でしょ……マナヤが、モール教官を襲ったなんて……」
見たことが無いくらい青褪めているアシュリーが、顔を引き攣らせていた。
テオから説明したのだ。マナヤがモール教官を襲おうとしたことを。
……そしてマナヤが、コリィを襲った者達を皆殺しにしていたことを。
「――ディロンさん」
そこへ、シャラがゆっくり顔を上げ呟く。皆の視線が彼女へと集中した。
「以前、言ってましたよね。人を殺したら、人間じゃなくなるって。……あれってこういう事、だったのですか……?」
震え声でディロンに問いかけるシャラ。皆の視線が一斉にディロンへと移る。
その視線を受けたディロンが、しばしの沈黙の後に、ため息。
「……そうだ。マナヤの状態は、人が人を殺めた時の反応そのものだった」
「ディロン」
隣のテナイアが、彼の手に自分の手をそっと重ねていた。
安心させるように、ディロンがテナイアの手を握る。そして、テオらの方へと顔を戻して話し始めた。
「自分と同じ種の存在を、殺さぬこと。これは神が定めた大自然の摂理だ。自分の種が生き残るためにな」
まあ特殊な条件で禁を破る種も存在するが、とも続けて、そのままディロンは語り続ける。皆が固唾を飲んで彼の言葉に聞き入っていた。
「人が人を殺す。そうやって、その自然の摂理に逆らった時、どうなるかわかるか?」
皆が顔を見合わせる。
当然の反応にディロンが頷き、その視線が次に向かった先は、アシュリー。
「例えばアシュリー。君はモンスターと対峙した時、咄嗟に何を考えている?」
「えっ!?」
突然話を振られて、アシュリーはあたふたしてしまう。そんな彼女の様子に小さく笑いながらも、ディロンは説明を始めた。
「特に君達剣士が真っ先に考えるのは、『どうやってこのモンスターに剣を叩き込むか』ではないか?」
「あっ……は、はい。どういう角度で斬り込むか、どの位置を斬り裂くか突くか……そういう感じ、です」
アシュリーの答えに、真顔に戻って頷くディロン。
「それと同じだ。一度人間を殺してしまうと、人を『殺していい存在』と見るようになってしまう。人と対峙する都度、”どうすれば殺せるか”という考えを巡らせてしまうのだ。無意識にな」
その説明に、全員がぞわりと背筋を震わせた。
「想像ができるか? その人物をどうやって殺すか……どんな人間と顔を合わせても、常にそれを考える。自分の意に反して、反射的に頭の中に浮かんでしまう。その通りの行動をして、その人物が自分に殺される姿を、否が応にも想像してしまう」
……たとえそれが、自分と親しい間柄の人物であったとしても。
全員の顔が青ざめていた。
近しい人間を、モンスターと同等のように見るようになってしまう。抹殺すべき対象として。
それは、一体どんな地獄だろうか。
「自分の隣にいる人間を、常に殺す対象として考えるようになってしまう。ゆえに、人間ではなくなる。あるいは、『世界が変わる』とも言いかえることができるかもしれないな」
こちらに視線を向けてくる。テオは青褪め、俯くようにして目の前の焚火を見つめた。
世界が、変わる。
確かに自分は、別世界を知っている。大地も文化も食事も、何もかもが違う世界。だがその世界も、人が笑いながら共存する世界であることには変わりなかった。
人を殺すことを常に考える世界など、テオには想像がつかない。
「私達は、人が”人殺しを経験していない状態”のことを『流血の純潔』と呼んでいます」
「流血の純潔……?」
テナイアの言葉の一部を、テオが反芻。
「その通りです。人が、人を殺すことを忌避する感情。それはとても純粋で、とても尊いもの。ゆえに、自らの手で人を殺してしまい、人間性を失ってしまうことを『流血の純潔を散らした』と表現します」
そこまでのテナイアの説明に、アシュリーがふと気付いたように顔を跳ね上げた。
「そ、それじゃあ! その『流血の純潔』を失った人は、どうなってしまうんですか!?」
視線が再びディロンへと集中した。おもむろに目を閉じたディロンが、心なしか憂うような声で話し始める。
「殺人を経験した者の反応は、様々だ。その罪の意識と、常に浮かぶ『殺しのビジョン』に心が耐えきれず、自ら命を断つ者もいる」
ひゅっ、とアシュリーが青ざめて息を呑む音が聞こえる。
「あるいは殺しにスリルを覚え、人を殺すことを至上の快楽とし、殺人鬼に成り果てる者もいる。……コリィを攫った連中のようにな」
続いたディロンの言葉に、今度はテオがはっと息を呑んだ。
マナヤの記憶の中にもあった。これといった目的もなく、ただ『人を殺したいから殺す』ことを選んでいた、ブライトン一味。
(あれは、そういうことだったんだ)
何かの拍子に人殺しを経験してしまい、そしてそれだけを追い求めるようになった。狂気に身を染めてしまった者達の末路。
「――はたまた、周囲にいる人間達を手あたり次第に疑うようになる者もいる」
次に語られた例に、皆が一様に疑問の視線をディロンへ向けた。すっと目を開いたディロンが、努めて無表情に詳しい説明を始める。
「人を殺す事態の原因となった壮絶な経験を軸に、今後それをどんなことをしてでも防ごうとする。その結果、些細な事で人を疑うようになり……『万一から知人を守るため』という強迫観念のもと、疑わしきを片っ端から殺めようとする。全ては、人殺しに成り下がってしまった自分自身を正当化したい一心でな」
――あの時、モール教官を殺そうとしたマナヤがそうであったように。
パチパチと、焚火からなる小さな破裂音だけが、しばしその場に満ちる。
「……ディロンさん」
と、そこへおずおずとテオが疑問の声を上げた。
「僕、人を殺したマナヤの記憶を、見ました。……でも、僕自身は今、誰を見ても『人を殺すビジョン』なんて、見えません」
シャラとアシュリーがこちらを振り向き、息を呑むのがわかった。
ディロンとテナイアは一瞬顔を見合わせ、直後テオに視線を戻す。
「それはおそらく、君とマナヤが別々の人格であるためだろう」
「人殺しを経験したのは、あくまでもマナヤさん。テオさんはマナヤさんの記憶で見ただけで、それをただの『情報』としてしか認識していないのです」
二人の説明に、テオが首を傾げる。
「それじゃあ……その、僕は『流血の純潔』を……」
「ああ、君はまだ散らしてはいないのだろう」
ディロンの答えに、テオとシャラが顔を見合わせてほおっと息を吐く。だがその表情に、喜びはない。
「ま、待って下さい! じゃあマナヤは、たった一人でその苦しみを……!?」
アシュリーの問いかけ。それは、この場の全員が感づいていたことだ。
「テオ。今、マナヤがどのような状態か、わかるか?」
ふとディロンは、テオへと話を振ってくる。
「……」
「て、テオ?」
押し黙ってしまったテオに、焦れたようにアシュリーが追及してくる。ぐ、と唇に一瞬力を入れたテオは、覚悟を決めてゆっくり顔を上げた。
「……マナヤは今、僕の頭の中で、鍵を掛けて閉じこもってます」
「鍵をかけて……?」
隣にいるシャラが首を傾げてきた。そちらに顔を向けたテオが頷く。
「うん。いや、鍵というより大岩……岩戸、って言った方がいいのかな。そうとしか表現できないんだけど……今までと違って、『出たくない』っていう強い意志を感じるんだ。こうなる直前に、『俺は何をしようとしたんだ』って、震えてた。だから、その……」
「マナヤさんは、自分がモール教官を殺そうとしてしまったことを後悔している。そして、目覚めることを拒否しているということですね」
言いよどんだテオの言葉を、テナイアが引き継いだ。躊躇しつつも、テオが小さく頷く。
視界の隅に移ったアシュリーが震えているのがわかった。
「しかし、そうなると厄介なことになった」
「……どういう、ことですか。ディロンさん」
俯いているアシュリーが、ディロンの方を見ずに震え声で問いかける。
「『流血の純潔』を汚してしまった者には、心のケアが不可欠だ。だが、テオの意識下に閉じこもってしまっては……」
「彼に私達の言葉が届かなければ、彼の心を癒してあげることができません」
ディロンに続き、テナイアも無念そうに嘆息する。
アシュリーが絶望の表情で二人へと振り返ったが、ディロンの言葉は続く。
「こうなってしまっては、今まで以上にマナヤは、自分が消えてしまうのを望んでいることだろう。人間でなくなってしまった自分自身を恐れて」
「……っ」
「そして、統合されるわけにはいかない。なぜなら、今のマナヤがテオに統合されてしまっては……」
シャラが気づいたようにハッと顔を上げた。
「テオが大丈夫なのは、マナヤさんの記憶を『情報』としてしか見てなかったから、だから……」
「そうだ。統合してしまった場合、人殺しの経験が、テオにも移る。それはすなわち、テオの『流血の純潔』も散る、ということに他ならない」
――僕も、人間じゃ、なくなる?
頭の芯が痺れるような感覚に囚われ、目の前がモノトーンになる。
そこにテナイアが目を閉じながら、こう宣告した。
「なので……マナヤさんは『統合』ではなく、『消滅』を選ぶでしょう。テオさんの心を、守るために」
全員が、言葉を失う。
「……なんで、よ」
ぽつりと滲んだ声で呟いたのは、俯いたままだったアシュリーだ。
「なんで、マナヤばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないのよ……! あいつが一体、何したっていうのよ!?」
絶叫のように吐き出す。アシュリーの頬から、堪えきれない涙が次から次へと地面に垂れ落ちる。
「なんで……なんでよぉっ……」
膝から崩れ落ちたアシュリーが、そのまま泣き伏せてしまう。
誰一人として、そんな彼女を慰める言葉が見つからない。ただただ、顔を伏せて沈黙するしかなかった。
(……マナヤ)
マナヤが、自分の中からいなくなる。今まで自分を、シャラを、周りの皆を守ってきてくれたマナヤが。
言い知れぬ心細さが、テオの心の中に満ちた。
***
「ディロン」
「……テナイア?」
その日の深夜。
騎士隊の宿泊施設から出て、ただ一人空を見上げていたディロンの元に、テナイアが歩み寄ってきた。
「眠れないのですか?」
「……ままならないものだ。彼の流血の純潔を守りきれなかった」
と、自身の右手を拳にし、それを見下ろす。
そんなディロンの拳に、テナイアの手がそっと添えられた。
「ディロン、貴方一人がその責任を感じることはありません」
「私の責任だよ、テナイア。人間でなくなったのは、私も同じ。だからこそ、私がその罪を全て背負うつもりだったというのに」
無念に苛まれ、目を閉じるディロン。
彼が人殺しを経験したのは、十年前。ディロンが十八歳になった頃。
既に黒魔導師として優秀な実力を発揮していた彼は、父親の伝手で王国直属騎士団に迎え入れられた。
そしてその任務の時、初めて『召喚師解放同盟』と遭遇。当時はまだ連中も野良モンスターではなく、自身らの召喚モンスターを使って戦いを挑んできていた。
その時、初めて召喚師解放同盟所属の召喚師を、自らの魔法で殺した。
それ以来、周囲の誰も彼もに浮かぶ、殺しのビジョン。自分自身に恐怖し、ビジョンを見ないようにあらゆる人間を遠ざけようとした。気が狂いそうになり、一時は自らの命を断とうと考えたこともある。
そんな当時の自分を救ってくれたのは、王国直属の白魔導師隊に所属していたテナイアだ。
召喚モンスターに殺されそうになっていたテナイアを救ったのが、ディロンだった。その恩もあってか、テナイアはディロンの心のケアをしてくれた。面会を拒否するディロンに、何度も足繁く通ってきてくれた。
当時のディロンが、彼女を遠ざけなくなった理由は、一つ。
テナイアを信頼していくにつれ、彼女への『殺しのビジョン』のみ徐々に薄れ、次第に消えていったからだ。
「……お前が居てくれなければ、私はとうに人生に絶望していた。だからこそ……」
目を開けたディロンが感謝の念も込め、切なそうにテナイアを見つめる。
今なお、ディロンはあらゆる人間に対して『殺しのビジョン』を見続けている。例外は、テナイアに対してのみだ。
「……だからこそ私は、他の誰にも同じ思いをして欲しくなかった」
「貴方が背負っている荷の重さは、私にもわかるつもりです。……私も、蘇生魔法の際に似たような感覚を味わっていますから」
寄り添ってきたテナイアが、諭すようにそう言った。彼女のその手も、微かに震えている。
蘇生魔法を行使する際、一人を甦らせるために二人の人間を生贄にしなければならない。その際にテナイアも、人殺しに似た感覚を受けた。
テナイアがまだ持ちこたえているのは、生贄が死ぬのがあくまでも『副作用』であるためだ。直接的に殺しているディロンの衝撃とは、比較にならない。
人が死ぬ間接的な要因になるのと、直接トドメを刺すのとでは、心への衝撃に雲泥の差がある。だからこそ、『流血の純潔』という言葉が生まれた。
「そもそも私は、あの子らを巻き込むべきではなかった」
今更ながら、ディロンが嘆く。
神託の救世主に期待していた部分は、確かにあった。しかしそのために、純粋だった少年を狂わせてしまった。
彼らをこの戦いに巻き込んだせいで、テオらは命を落としかけ、その蘇生により両親を亡くした。そして今、マナヤにこうやって地獄を味わわせている。
「神託に期待し、彼らを招いたりなどしなければよかった。スレシス村に行きたがった時、無理にでも止めればよかった」
「いいえ。どのみち彼らは、きっと巻き込まれていました。セメイト村の時点で既に、召喚師解放同盟に目をつけられていたのですから」
テナイアが諭してくる。
「……それだけではない。私はいつの間にか、マナヤのみならずアシュリーやシャラをも巻き込んでいた」
ギリ、と情けなさに歯ぎしりするディロン。
スレシス村で、召喚師解放同盟による襲撃があった時。同盟の幹部らを一人で足止めしているというマナヤの救援に行く際、アシュリーとシャラを連れていくべきではなかった。
召喚師解放同盟と戦うために編成された騎士隊は、すでに流血の純潔を失った者達で構成されている。アシュリーらは村の防衛に回し、自分は騎士隊の者達を連れて行くべきだった。
しかし、テナイアはそっとディロンの頬に手を当てる。
「止めようとしても、あの時の二人はきっと頑なに同行したでしょう。マナヤさんを放って、じっとしていられる子達ではありませんでしたから」
「……テナイア」
「あの子達は既に、私達にもそう引けを取らない戦士。そして、テオさんやマナヤさんにとっての心の支えです。だからこそ貴方は、アシュリーさんやシャラさんを連れていったのではありませんか?」
「……」
「私達がすべきことは、今さらあの子達を遠ざけることではありません。彼らを全力で守ること。これ以上あの子達を悲しませたり、苦しませたりしないことです。違いますか?」
底知れぬ慈愛の目で、ディロンの目を覗き込んでくるテナイア。
「あの子達を信じましょう、ディロン。テオさんとマナヤさんを……そして二人が信頼する、あの子達を」
「そう、だな」
眉間の皺が消え、微笑を浮かべるディロン。
ふと、彼は自らの黒ローブのケープ部分を脱ぎ、それをそっとテナイアの肩に被せる。
「あっ……」
「戻ろう。この時期、夜の潮風は体が冷える」
「……はい」
一瞬、微かに驚きの表情を浮かべたテナイアが、ディロンを穏やかに見つめ返す。彼の顔から、憂いが幾分か消えていた。
「ありがとう、テナイア」
宿舎へと歩きながら、隣を歩くテナイアにぽつりと告げる。
そっと、テナイアがディロンの腕に、自身の腕を絡ませた。




