仲良くなりたい
本日二話目です。
帰宅したヒューゴの姿を見た瞬間に、ネルの幸福メーターは振り切った。
一方でヒューゴはいつも通りだ。少なくとも、ネルを見てうれしそうには見えない。メーターの針が少し戻った。
やはりアマンダに余計なことを言わず、無難に先輩だと伝えたことは正解だったようだ。ネルは自分をほめてあげることにした。
けれど、面白くない。
言い逃げしたときあんなに怒ったくせに、自分だって似たようなものじゃないか。なんだかズルい、とネルはムッとする。それに、何も言わずに避けるなんてひどいとも思う。
「『お付き合いしているの?』なんて聞いちゃったわ」というアマンダのひと言にだって、ネルはまたドキッとしたのに、ヒューゴは無反応……
――んんん?
よくよく見ると、その耳が赤い気がする。
色白なヒューゴの肌色の変化は、表情よりもずっとわかりやすいのかもしれない。少なくとも動揺はしているようだ。
照れているのなら、うれしい。だけど。
ネルはアマンダに向かって、にっこり笑った。あえて意味深に。
「ヒューゴさんには、とてもとてもお世話になってるんですよ」
「あら、そうなの」
アマンダはおっとりと微笑む。
「ネルさん、無愛想な子だけど、これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
ため息が聞こえた。
もっと動揺するといい、とネルは思った。
帰りはヒューゴに送ってもらうことになった。
二人になると先ほどより気が小さくなってしまったようで、ネルは少し緊張した。色々と弁解したり、違う話題を振ったりと慣れぬことをしてみたものの。
――でも、やっぱり。
抑えておけない。
「……もしかして、避けられてます? 私」
ヒューゴの反応を見るに、どうやら本当に避けられていたらしかった。気がついていてもショックだ。
もうそんなのはごめんである。
もし、本気で嫌がられているわけじゃないのなら。
「ごはん、食べに行きましょうよヒューゴさん」
食事くらいいいじゃないか。そっちがそう来るなら、研究室まで押しかけてやろうという気持ちで――
「今日の予定は?」
予想外の返答に、思考が止まる。
「え?」
「ある?」
真っ直ぐな視線に、ドキドキする。飛びつきたい。いや、そうじゃなくて。
「ないです! なんにもないです!」
「じゃあ…………散歩でも」
仏頂面のヒューゴが言った。
あふれてくる幸福感。
ネルはあらゆるものに感謝のキスを送りたくなった。代わりに両手を高く上げ、ぴょんと跳ねる。
「しましょう! 散歩! やったー!」
ヒューゴは何故か、音がしそうな勢いで顔を背けた。
一緒に散歩できるのがうれしくて、ネルは体も心も弾む。
人生の素晴らしさを大声で歌いたい気分だ。衝動のまま、ヒューゴに手を差し出す。
「手、つなぎましょう、ヒューゴさん!」
「つながない」
ヒューゴの返答は速かった。鋭いナイフを投げられたかのようだった。
「ええー」
半歩前を歩いていたネルは振り返る。ヒューゴは不自然にうつむいている。これで前は見えているのだろうか。
「……。照れてます?」
「別に」
ネルは黒い髪からはみ出た耳を見て、くふっと笑う。もう、わかってしまったのだ。ヒューゴの弱点。
「照れてくれたなら、いいです。今日のところは」
ヒューゴは前髪ごと額を抑え、ため息をついた。
「……今日のところはって……一体どこを目指してるんだ君は」
ネルは目を上に向けて、考えた。目指すところは……
妄想が広がる。
向かい合って食べる朝ごはん。
ネルの作った料理を食べて、普段の100倍くらい優しい表情で、「おいしいよ」なんて言ってくれるヒューゴ。
――良い。とても、良い。
ネルはうっとりした。ヒューゴはネルの10分の1くらいしか食べなそうだけれど。朝から肉は食べなそうだけれど。
昼ごはんは、またあの店に行ってもいい。手をつないで散歩して、その後に夕ごはん。今度はヒューゴが作ってくれるかもしれない。
そのあと……そのあとは……
夕暮れの公園を思い出す。あともう少しだった。
眼鏡に鼻が触れそうなほど近くて、心臓が爆発しそうだったけど、ちょっと惜しかった。
食後に二人で話していると、ふと沈黙が訪れる。
カタンと立ち上がったヒューゴの、テーブル越しに伸ばされた手がネルの頬に添えられて。
少し口の端を上げて、近づいてくる緑の瞳が目の前でふっと細まって。
「ネル……す――」
妄想は終わった。終わらせた。これ以上は危険だ。
ブンブンと頭が飛びそうなほど首を振るネルの知識は、かつて友人から借りた少女向けの物語で止まっている。
あのときは「ふうん」と思ったネルだったが、なんだ素敵じゃないか、もっと読んでおけばよかったと少し後悔する。
ネルはやけどしそうな頬を抑えながら前を向き、言葉をひねり出した。
「……どこって、ヒューゴさんともっと仲良くなりたいだけですよー」
そう、仲良くなりたい。
もっとたくさん笑って欲しい。たくさん話したい。もっと、もっと。
「……………………段階を踏んでもらえると助かる」
耳をすまさないと聞こえないほど、小さな声。
でも、ネルの耳はしっかりとらえた。
「なるほど! 段階ですね! ちょっと調べときます!」
途端に調子を取り戻したネルは、メモメモ、と手のひらに書きつけるマネをした。ヒューゴは慌てて止める。
「いや、いい。君は調べなくていい。不安しかない」
焦るヒューゴが珍しくて、ネルは楽しくなってきた。
「えーそうですか? でもまず、そうですね。名前は呼んで欲しいです! 仲良しの第一歩じゃないですか?」
「……」
うきうき待ってみたが、しばらく沈黙が続く。
視線は合わない。いつまで待っても。
しびれを切らして顔をのぞきこもうとするのを手で制し、ヒューゴは低めの声で言った。
「……ちょっと考えさせてくれ」
「ええー。呼ぶだけなのに」
「急には無理だ」
そんなに難しいだろうか。
ネルには戸惑う理由がわからない。しかしヒューゴがそう言うなら、待っていようと思う。
「はあーい。じゃあ、気長に待ってまーす」
仕方ないなという顔で大げさに肩をすくめ。
そして思いつく。
「じゃあ、代わりに手をつなぎましょう! ね? それならこないだもう、経験済みじゃないですか!」
「け、経験って……」
再び手を伸ばし近づくネルを避けながら、ヒューゴは目を泳がせた。
「とにかく、つながないって言ってるだろこんなところで!」
「え、どこならいいんですか?」
ついに睨まれてしまい、ネルは黙った。真っ赤な顔で睨まれても怖くないけれど。
不機嫌そうなのは、だいたい照れ隠しだ。もう知っている。
――それにしても、段階って?
恋人同士になるまでの? それとも、なってからの? 自分達の関係は、どっちなのだろう。
今のヒューゴに聞いても答えてくれそうにないし、希望でないことを言われたらちょっと悲しいので、ひとまず聞かないことにした。
どちらにしても、これは仲良くなるまで時間がかかりそうだ。だけど、これはこれでとても楽しい。ネルはにんまりした。
――まずは本かな。
ヒューゴには止められてしまったが、早速「段階」について調べてみようと、心に決めたネルであった。
おまけのおまけまでお読みいただきまして、ありがとうございました!