事件編《後編》
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水咲の親友、佐々木原ののかは全力疾走で大学へ向かっていた。
悲鳴を上げたと思ったら、鈍い音がして会話が途切れた。電話は繋がったままなのに、いくら呼んでも彼女の返事がないのだ。水咲の身に何かあったのだ。佐々木原は良からぬ想像ばかりしていた。
まさか、華奈が殺されたとか? 華奈は今まで悪い犯人を何人も捕まえてきたから、恨みを持った犯人が復讐してきたとか? まさかそんなことになってないよね? 違うよね? 私、華奈がいなくなったら、これからどうすればいいの? せっかく理想の女性に出会えたと思ったのに。華奈が目標だったのに。そんなのずるいよ。
佐々木原の目に、汗と一緒に涙が滲み出てきた。あどけない顔にちょこんと乗った縁のないメガネの下から指で涙を拭うと、彼女は大学の正門を潜り抜けた。
1時限目は後15分で終わろうとしていた。校内は活気付いてきた。
佐々木原が3号館へ入って上へ伸びる階段を目にしたとき、息がゼーゼーしてこれ以上走るのは辛かった。彼女にしたら、こんなに走ったのは中学校の部活対抗リレー以来だ。
だが、ここで休んでいるわけにはいかない。彼女は目を腫らしながら階段を見上げた。長く険しい道のりである。
外からはセミがうるさく鳴いている。このときばかりは、10日しか生きられないセミのことを呪った。
そして、佐々木原は一気に階段を駆け登った。3階まで上がると、もう駆け上ることはできなかった。重い足を上げて手摺りにつかまりながら登る。気持ちは早く行きたいのに、体がついていかないというのはこういうことだ。
ところが、4階まで来ると、体力が回復したように体が動き出した。4階と5階の踊り場に水咲が倒れているのを発見したからだ。水咲は仰向けで倒れていた。
「華奈!」
再び涙が溢れてきた佐々木原は、水咲の所に行くと座り込んで体を揺さぶった。
「華奈!」
階段には、彼女のバッグ、携帯電話、右足のサンダルが転がっている。彼女のそばには左足のサンダルが転がっていて、階段から転げ落ちたのを物語っている。
「華奈! 起きてよ! さっき電話で言ったこと謝るから! もう、ミニスカポリスなんて言わないから、だから死んじゃダメ!」
「わかった、じゃ、死なない」
佐々木原は驚いて顔を上げた。水咲は目を開けて笑っていた。
「あれ? 死んでないの?」
「なーに、その言い方。勝手に殺さないでよ」
水咲は頭を抱えながら何とか起き上がった。
「ち、違うよ。だって華奈、電話してたらいきなり悲鳴あげて、それっきり何もしゃべらないからいけないんだよ」
「わたしも一瞬、何が起こったのかわからなかったんだけどね。いてて」
水咲は腰を押さえていた。
「大丈夫? 病院行かなくていいの?」
「なんとか大丈夫よ。ちょっと頭がクラクラするだけだから」
「一体何があったの?」
「誰かに蹴飛ばされたみたい。階段の上でののちゃんと電話してたら、いきなり背中を蹴られたの。ああ、痛い」
水咲は瞼を押さえて目をパチパチさせた。
「蹴った奴の顔は見たの?」
「ううん、見てない」
だが、取り敢えず佐々木原はホッとした。
「でもよかった、無事で。もう、心配したんだよ。何が起こったのかわからなかったから、余計不安になったんだから。華奈の胸、つぶれなかった?」
佐々木原は潤んだ目をして笑いながら言うと、水咲は佐々木原を叩く素振りをした。
「でも、誰が華奈のこと突き飛ばしたの? 私が推理したところによると、多分犯人は、華奈が今まで捕まえてきた奴だと思うよ。そうだな、一番可能性が高いのは、古谷敷さんかな? だって危なそうな人だもん。そういうこと、やりかねないもんね」
佐々木原は得意になって自分の意見を述べた。だてにいつも名探偵研究会の会長と一緒にいるわけではない。しっかりと水咲の推理術を学んでいるつもりだ。
「うーん、その可能性もないことはないけど……」
そこまで水咲が言った途端、佐々木原の自信は一気に崩れ落ちた。
水咲はゆっくりと立ち上がりながら言った。
「……多分、違うと思うよ。多分あの人だと思うけど」
「ええ! もうわかったの? だって顔見てないんでしょ?」
佐々木原は階段に転がっている水咲のハイヒールを拾ってやった。
「顔見てなくても想像はつくよ。多分、彼女じゃないかな?」
「彼女って誰?」
水咲はハイヒールを履くと、階段に腰を下ろして言った。
「七星さん。この前トイレで会った。イタタタ」
佐々木原は驚きながら隣りに腰を下ろした。
「あの人が? どうして? どうして華奈のこと突き飛ばす必要があるの?」
「わかんない。理由はわかんないけど、わたしのこと恨んでるみたいね。わたし、彼女になんか悪いことしたかな? でも、話したことなんてないし。あのときトイレで会ったのが初めてだし。トイレの入り方が気に食わなかったのかな? あっ、それとも馴れ馴れしく話しかけたりしたからかな?」
「そんなことで恨んだりするのかな?」
水咲はこめかみを指で押さえていた。
「ほんとに病院行かなくて大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと休めば直るから。ふぅ、でも痛かった。わたし、体やわらかいし、時季が夏だったからよかったけど、もしこれが冬だったらヤバかったかもね。体が硬直してるから、骨の1本や2本は折れたかも」
「うわぁ、もう、痛い話しないで。想像するだけで体が痛くなってくるよ」
2人が階段で座り込んでいると、下から学生が数人登ってきた。授業も間もなく終わるので、ぼちぼち階段を利用する学生が増えてきたのだ。座り込んでいた2人は、多少通行の邪魔になっていた。
「人通りが激しくなってきたね。取り敢えず、部室に移動しようよ」
佐々木原は立ち上がった。ふと階段の上を見上げると、水咲のバッグと携帯電話がまだ1人で取り残されていた。だからそれらを拾って水咲の手元に戻した。
「はい、華奈。忘れ物」
「ああ! 携帯壊れてる。電源押してもつかないよ」
「あーあ、さっきまでは繋がってたのに。新しいの買うしかないね」
「っもう。お金かかっちゃうなぁ」
水咲は髪をかき上げながら立ち上がった。
「あれ? 華奈。ストッキング伝染してるよ」
見ると、太ももの内側が伝染していた。
「もう、やんなっちゃうよ。ののちゃん、誰も来ないか見てて」
「ここで脱ぐの? トイレに行けば?」
「トイレに行くまでがみっともないよ。それにトイレまでちょっと遠いし」
「素早くやんなよ」
水咲はスカートの中に手を入れた。
水咲と佐々木原は名探偵研究会の部室に向かって歩いていた。水咲は少し顔を赤らめながら、いつもより早く歩いていた。対して佐々木原は、少しにやけながら彼女の後についていた。
「ストッキングを履いてない華奈って、なんか初めて見た。なかなかいいじゃん、華奈のナマ脚姿」
「もう、変なこと言わないでよ。部室に戻ったら代えの履くんだから」
水咲はいつになく恥ずかしそうな表情をしていた。そんな彼女を見ていて、佐々木原は非常に楽しかった。
佐々木原は、何故水咲が顔を赤らめているのか何となくわかっていた。生脚で歩くというのは、水咲にとっては慣れていないので恥ずかしいのだろう。いつもどんな人よりも太ももを出しているくせに、生脚は恥ずかしいというのが矛盾しているように思えるのだが、とにかく、早く代えのストッキングを履きたいから、こんなにも歩くのが早いに違いない。
水咲はいつも、バッグに予備のストッキングを常時持ち歩いているらしい。今みたいなことが起こったときの為だ。ところが、さっき階段の踊り場でバッグの中を確かめてみたら、予備のストッキングが入っていなかった。1時限目が始まる前、部室でバッグの中を整理してて、ストッキングを置いてきてしまったらしいのだ。
佐々木原は、自分の考えが合っているかどうか確かめるチャンスだったので、わざと水咲に質問してみた。
「私いつも思ってたんだけど、どうして華奈って夏でもストッキング履いてんの? しかも黒。暑くない?」
「習慣みたいなもんね。履いてないとスースーして落ち着かないの」
やっぱりそうだ。
「なら、ミニスカートなんて履かなきゃいいじゃん。華奈の場合は超ミニだけど」
「だって、短い方が動きやすいし可愛いもん」
「パンツだって動きやすいよ。パンツは持ってるの? そういえば華奈って、いっつもミニだよね?」
「1本だけ持ってるよ。あとは全部ミニだけど」
よほどミニスカートが性に合っているのだろう。確かに、脚の長い水咲の為にミニスカートがあると言っても過言ではないだろう。但し、ストッキングを履かないとミニが履けないというのがネックなところだと思うのだが。
「へぇ、そうなんだ。まあ、華奈は脚長いし、綺麗だからね。ああ、わかった。七星さんそれで恨んでるんだよ。あまりにも華奈の脚が長いから嫉妬してんだよ。だって、七星さんて女優だもんね」
佐々木原は冗談のつもりで明るく言った。ところが、急に水咲の歩く速度が遅くなった。
「女優? どういうこと?」
「七星さんて、映画製作サークルの女優なんだよ。知らなかったの? ミスコンのときにも言ってたけど。でも、女優って言ってもサークルの女優だけどね。素っ気無く言えば役者担当。まあ、確かに美人だと思うよ。ミスコンに出るだけあるよ」
「女優なんだ」
そう言って水咲は考え込んだので、歩く速度が更に遅くなった。
「あっ、もしかして、華奈がミスコンで優勝しちゃったから恨んでるとか? あーあ、華奈も罪な人だね」
佐々木原は水咲を肘で突いた。
すると、水咲はハッとなって遂に立ち止まった。
「ののちゃん、ほんとにそう思う?」
「思うよ。華奈もある意味犯罪者だね。容疑は美人殺し。逮捕しちゃうよ」
佐々木原は手錠をかける仕草をする。
「違う違う。そういうことじゃなくて、自分は女優だから、ミスコンで優勝するのは当たり前だって、思うのかな?」
「思うんじゃないの? 私だったらそうだな。そう思って出てみたら、優勝したのは名探偵研究会の部長だったんだから、七星さんも驚いたんじゃないの?」
「やっぱ、それが妬みになるってこと、あんのかな?」
「あるよ。そうだよ、やっぱそうだよ。七星さんはそのことで華奈のこと恨んでるんだ。華奈が優勝しちゃったから。それならわかるよ」
佐々木原は初めて自分の推理に確信を持った。いつもなら、佐々木原の意見に水咲が反論してくるのに、このときばかりは水咲は感心しながら聞いていた。それを見た佐々木原は、1つの新しい発見をした。
「そうか。華奈は元から美人だから、そういう人の気持ちわからないんだ。絶対そうだよ。華奈のこと恨んでるのそれだよ」
「よーし。じゃ、七星さんの所へ行くよ。しっかり懲らしめなきゃ。ほんと痛かったんだから」
水咲は再びヒールを響かせて歩き出した。
「ミニスカポリスの逆襲だね」
佐々木原は楽しそうに言ったが、ハッとなって手で口を覆った。
「ああ! 今なんて言った?」
と、水咲が振り返ると、既に佐々木原は走って逃げていた。
「こら! 待て!」
部室へ向かった佐々木原を水咲は追いかけた。
3
七星はサークル仲間と2時限目の授業を受けていた。この授業は受講生が少ないので、寝ることは容易いが私語をするのは至難の技だ。だから、七星は大人しく台本を覚えることにした。
それにしても、さっきから救急車が駆けつけて来ない。一体どうしたのだろうか。まだ水咲を誰も発見してなくて、踊り場で倒れているのだろうか。まあ、それはそれで面白いことだ。この授業が終わったら見に行ってみよう。もし、そのときまでまだ倒れていたとしても、救急車を呼ぶつもりはないが。
まだ脳裏に水咲が倒れている姿が焼き付いていた。当分この記憶は薄れそうにない。しかも、蹴り飛ばした映像もきっちり覚えている。蹴り飛ばしたあのときは、もぐら叩きをするよりストレスの解消になった。
2時限目終了のチャイムが鳴った。ようやく楽しい昼食だ。何だか今日は気分がいい。今日の昼食はまた格別なものになりそうだ。
「七星先輩。今日は4時からクランクインて、監督が言ってました。学食でロケだそうです。昨日のと今日最後の撮影」
カメラ担当の宇和島がそう言った。
「もしかして、昨日のシーンをもう一度やり直すつもりなのかしら?」
「監督が納得しなかったみたいで」
七星の気分は曇った。せっかく今日はいい日だと思っていたのに。
「また同じシーンをやらせる気? 何が気に食わなかったのかしらね。セリフ忘れちゃいましたわよ。あの人何考えてるのかしら?」
「沙夜」
隣りに座っていたメイク担当の中津が七星のことをにらんだ。
「わがまま言ってちゃダメだよ。みんなで作ってる作品なんだから」
「だって……」
七星はふてくされながらバッグに筆記用具をしまう。
「こんにちは」
突然の滑舌の良い甘い美声の挨拶は、どうやら自分にしたらしい。七星は顔を上げた。と、そこには信じられない光景があった。挨拶をしたのは、倒れて気を失っているはずの水咲華奈子だったのだ。彼女の隣りには、金魚のフンの童顔女もいた。
なんでこんな所にいるの? いや、どうしてそんなにピンピンしているの?
「知り合い?」
中津は不思議そうにそう聞いた。
七星は今の混乱した状況から自分のいるべき立場を一瞬忘れ、危うく「知り合いだ」と言いそうになった。確かに水咲のことをよく知っているが、知っていてはまずい。
「う、ううん。違う」
「ほら、わたしだよ」
この女は何を言ってるの。まるで久しぶりに友達と会うような言い方じゃない。あんたと喋ったことなんて一度もないのよ。こっちはあんたのことよく知ってるけど、あんたは私のこと少ししか知らないでしょ?
「七星沙夜さんだよね? 映画製作サークルの。去年のミスコンに出てたよね? 映画製作サークルの人に聞いたら、七星さんはここにいるって言ってたから」
ミスコンに出てたっていうのは、隣りの童顔女に言われて思い出したんじゃないか。今まで忘れてたくせに、さも自分は知っていたような口を利くんじゃないわよ。
すると「ミスコン」という言葉に反応したのか、中津が急に叫んだ。
「ああ! もしかして、ミスコンで優勝した人?」
「そうです」
佐々木原は水咲に代わってそう答えた。
ミスコンで優勝したと聞けば、見知らぬフリはできない。七星は仕方なく思い出したフリをした。
「ああ、水咲さん」
「へぇ、あなたが水咲さんか。なるほど、生で見てもやっぱり美人だ」
中津は水咲に歩み寄ってまじまじ見つめた。
水咲はニコッとすると、七星に視線を移した。
「わたし、七星さんに最近会ってるんだよ。覚えてるかな? ほら、この前トイレで、七星さんのハンカチを拾ってあげたの、あれわたしだったの」
七星はもう一度思い出したフリをした。
「ああ、そうだったんですか。水咲さんとは存じませんでしたわ」
ここからは自分がいるべき所ではないと思ったのか、中津は先に学食に行っていると告げた。
「あっ、待って。すぐに終わるから」
七星は彼女を引き止めようとしたが無理だった。多分、彼女なりに気を使ってくれたのだろう。
そして、七星は改めて水咲を見つめた。さっきの踊り場で倒れていた水咲とはえらい違いだ。実に生き生きとしている。でもよく見ると、彼女の格好が少し変わっていた。黒のストッキングが黒の網タイツになっていた。多分、転げ落ちて伝染したんだろう。
水咲のことはできる限り調べ上げたつもりだが、こんなに近くで彼女を見るのも、まともに会話をするのも、今日が初めてである。
さて、一体どういうことだろうか。何故水咲は私の所へ来たのか。
「わたくしに何か御用ですか?」
七星は少し機嫌が悪そうな態度でそう聞いた。
「わたし、名探偵研究会の会長やってるの。今度ぜひ遊びに来てね。いつでも歓迎するから」
「わたくし、サークルに入っておりますから」
「ううん、別にいいの。遊びに来るだけでもいいから」
「そうですか。でもわたくし、色々と忙しいので。それに、今のサークルやめるつもりございませんから」
そして七星は立ち上がった。
「ちょっと待って下さい。まだ話の途中です。あっ、私は佐々木原です。私も華奈と同じサークルです」
佐々木原はぺこりとお辞儀をする。
「佐々木原? 変わったお名前ね。佐々木じゃないんですね?」
七星は少し馬鹿にするような口調で言った。
「そ、そうだけど……」
佐々木原はその後に何か言いたそうだったが、ぐっと堪えていた。
「わたくしに御用件て、サークルの勧誘ですよね? わたくしはあなた方のサークルに入るつもりはさらさらございません」
しかし、水咲は手を振って七星が行こうとするのを阻止した。
「違う違う。実はこの前のことを謝ろうと思って。ほら、トイレで会ったときのこと」
水咲の言っている意味がわからない。何を謝ろうと言うのか。
「七星さん、わたしのことにらんでたよね? それ以来ずうっと気になってたの。どうして怒ってたんだろうって。多分、ハンカチを拾ったからでしょ?」
「おっしゃってる意味がわかりませんが」
そこまで聞いても、水咲の謝りたいことというのがわからない。
「あのハンカチは、七星さんの彼氏がプレゼントした物で、わたしなんかが触ったから怒ってたんじゃないの?」
「水咲さん、面白いことおっしゃりますね。被害妄想が激しいんじゃございませんか? 大体、わたくしに彼氏なんてございません。それに、今時ハンカチをプレゼントする男なんて……。でもその前に、わたくしが怒ってたっていうのがわかりませんけど」
確かに、あのとき水咲のことをにらみつけていた。だが、にらみつけていたという事実を認めてはならない。にらみつけていた理由は、階段から突き落としたのと同じ理由なのだから。だから、覚えていない振りをするのが自然だ。
「なんだ。怒ってたわけじゃなかったんだ。変な心配しちゃった」
そして、水咲と佐々木原は笑い合った。
「もしかして、わたくしに用ってそんなことですか?」
「うん、それだけ」
なんだ、それだけか。こっちこそ変な心配をしてしまった。
「そう。じゃ、わたくしはこれで失礼します」
七星は今一度立ち上がった。と、突然水咲がこっちに倒れてきた。七星はとっさに水咲を受け止めた。
「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
七星は水咲を引き離す。
私に気安く触るんじゃない。
「ごめんなさい。実はさっき、1時限目が終わった後だったんだけど、誰かに階段から突き飛ばされたの。それで、まだちょっと頭がフラフラしてて」
「突き飛ばされた?」
「正確に言うと、後ろから蹴られたんだけど。そのお陰で携帯は壊れちゃったし、ストッキングは伝染しちゃうし、もうやんなっちゃった。ストッキングは予備の持ってたんだけど、間違って網タイツ持ってきちゃってた。ほんとは普通のストッキングがいいんだけど、しょうがない」
水咲は自分の網タイツを見ていた。
「ふうん、それはお気の毒ですね。誰かに恨まれるようなこと、なさったんじゃありません?」
七星は本当のことを冗談のように言った。
だが、水咲は冗談に聞こえなかったようだ。
「多分そうだね。実はわたしのサークルに何回か嫌がらせみたいのがあったんですよ。最初はサークルに恨みがあるのかと思ったんだけど、違ったみたい。今日のでわかった。どうやら、わたしに恨みがあるみたい」
そう、その通りよ。やっぱ名探偵研究会の会長だけあるわね。ついでに恨みとは何か、犯人は誰かを当ててみなさいよ。
「まあでも、わたしを突き飛ばした犯人像っていうのは、だいたい想像できてるんだけどね。犯人は女性です」
七星は眉をひそめた。
彼女はただのマニアックなサークルの部長じゃないの? まさか、犯人を捜し出そうなどと考えてんじゃないでしょうね。
「へぇ、面白いですね。どうして女性だってわかるんです? あっ、ご覧になったんですか?」
もし、見られていたなら、水咲は知っていてわざと私の所に近付いて来たということになる。
七星は緊張していた。
「見てないよ。電話してたらいきなり後ろから蹴られたんだから。ただね、蹴られたからわかったの。犯人はハイヒールを履いてたね。あの背中の感触はハイヒールに間違いないと思うな。犯人は女性です」
七星は一瞬身動きが取れなかった。動いてしまうとヒールの音がしてしまうからだ。今日、七星はハイヒールを履いている。動いても動かなくても、見ればわかるのでそんなことをしても無駄なのだが、今は動きたくなかった。
「でも、ハイヒールを履いている人なんて、この大学に何人もいるから、それだけじゃわかんないけどね」
水咲はにこりとして下を見た。
「わたしだって履いてるし、七星さんも履いてる。わたしはハイヒールしか持ってないけど、七星さんは、あれ持ってる? 暑底ブーツ」
七星は慌てて答えた。
「も、持ってますよ」
「あれって危なくない? みんな1回は足を挫いてるみたいで。それに、車運転してて事故を起こしたっていう事件もあったし。あんなの良くないよね」
少し動揺してしまったが何のことはない。ただ犯人は女であると言っているだけなのだから。ちょっと前進しただけではないか。それよりも、今の水咲の発言が気に食わなかった。
「わたくしは一度も足を挫いたことはございませんけど。そういう水咲さんは、履かれたことあるんですか?」
「ううん、ないです」
「それなら、そういうことおっしゃる権利はないんじゃございません? そういうことは、一度ご自分でお履きになられてからおっしゃって下さい」
水咲は申し訳なさそうにうつむいていた。
「ごめんなさい。反省します」
水咲華奈子を謝らせてやった。こんなに気分の晴れやかなことはない。
七星は元気を取り戻すと、その場から立ち去ろうとした。だが、水咲はまだ行かせない気らしい。
「七星さんは、今日は何時限目から学校に来てるの?」
水咲は笑顔で尋ねてきた。その笑顔が、腹が立つほど美しい。
早く水咲から離れたい気持ちを押さえて、七星は仕方なく答えた。
「1時限目からですけど」
「科目は?」
「心理学です」
「あっ、そうなんだ。じゃ、わたしと同じだ。わたしも心理学とってるんだよ。その心理学の後、突き飛ばされたんだけどね。でも心理学って、やっぱり人気科目だけあって面白いよね?」
だが、七星は水咲と同じ考えを持ちたくなかったので、敢えて否定した。
「そうですか? わたくしは別に、面白いとは思いませんけど」
そのときの水咲の表情は見ていて面白かった。何とかして私に嫌われないようにフォローしようとしたようだ。だが、彼女は適当な言葉が見付からないらしい。それ以降黙ってしまった。
「あのぅ、もう失礼してよろしいですか?」
「待って下さい、七星さん」
すると、今まで2人の行方を見守っていた佐々木原が、また行く手を阻んだ。
「なんですか? わたくし、もうお腹ペコペコなんですけど。早くしないと、お昼終わっちゃうんですが」
佐々木原はもじもじしながら口を開いた。
「一緒にお昼食べませんか? 駅前のパスタ屋で。これから華奈と行くんですけど」
パスタ屋という言葉でやっと確信が持てた。水咲を突き落とす直前に彼女が電話をしていた相手は、この佐々木原だったんだ。ということは、多分こいつが水咲を発見したんだろう。
ったく、女同士で仲のよろしいことで。こんな2人と、どうして私が一緒にお昼ご飯を食べなきゃいけないのだろう。せっかくの楽しみの時間が無駄に過ぎるだけだ。
「せっかくですけど、学食で友達が待っているので。それに次の授業もあるから、駅前まで行って帰ってくるだけの時間もございませんし。まあ、本音を言いますと、初対面のあなた達とお昼を食べに行っても、面白いとは思いませんので」
七星は嫌味を込めてそう答えた。
しかし、2人はさほど堪えている様子はなかった。
「じゃ、華奈いこっか」
「じゃあね」
水咲は手を振って別れを告げた。
水咲のその笑顔に、七星はたまらなく腹が立った。
第11話 美しき被害者~事件編《後編》【完】




