事件編《前編》
映画製作サークル所属 七星 沙夜
1
またもやこの時期が近付いてきた。7千人の学生の気分が滅入る時期が。
学校にはテストがつき物である。義務教育者である小学生や中学生は勿論、高校生もこの時期になると気が滅入る。
ところで、大学の試験というのは小中高とは少し感じが違う。小中高の試験というのは、自分の実力を他人に知ってもらう為にやるようなものだ。だから、テストに危機感がない。だが、大学の試験は単位を修得する為にやっている。すなわち、留年せずに4年間で卒業する為だ。4年で卒業できないと学費がかさむとか、内定が取り消しになってしまうなど危機感がある。だから学生は、何がなんでも単位を修得しようと努力する。
あと1週間で試験会場と化す教室は、いつものように冷房が効いている。真面目に授業を聞いている学生は少ないのに、勉強する環境は最適に保たれている。
とある涼しい教室は教授の声と冷風の音だけで、あとは静かだった。授業を聞いている者や寝ている者は、この教室だけに限らずどの大学にも必ずいる。しかし、本のカギ括弧だけを読んで暗記している学生は、そう多くはいないだろう。
教室の後ろの窓際で、頭を抱えていた大学3年の七星沙夜は、授業を聞くよりも寝るよりも、手元の本の文章を憶える方が大事だった。
「ここには注目すべき点が3つあんの。お腹を刺されたってゆうことは、被害者は犯人と向き合っていたんだと思うんだよね。つまり、犯人と被害者は顔見知り。刺される前に、何か話してたんじゃないの?」
男ならまずチェックしてしまう程の美顔の持ち主である七星は、漆黒の長い髪を背中に垂らし、白のブラウスに黒のミニスカートを履いていて、まるで就職活動でもしているような、わりとキチッとした格好をしていた。彼女は化粧を一切していなくて、まさにスッピンだった。
彼女は声を出さずに、唇だけを動かして文章を復唱する。
「被害者は、出刃包丁のような刃の長い凶器で刺されてたんだよね。出刃包丁を普段持ち歩いている人間は普通いないから、これは計画的犯行ってことよね。ってことは……」
七星は唇をキュッと閉じた。黒のハイヒールのサンダルを足の指先に軽く引っ掛けてブラブラさせる。
結局、その後に続く言葉が思い出せなかった。彼女は苛立ちながら本を見た。
ああ、そうだ。このセリフだった。ワンシーンでこんな長いセリフは久しぶりだ。大体このシリーズはセリフが多すぎる。と言っても、本格推理物だからセリフが多いのは仕方ないのだが、どうもここのセリフにはまってしまったようだ。さっきから何度もやり直してばかりだ。憶えにくい。
彼女は一旦、台本を机に伏せて顔も伏せた。
もうだめだ。ここのシーンだけは、台本をカメラの脇に置いて見ながら言っては駄目だろうか。
そんな無駄な考えをしていても始まらない。彼女はすぐに起きると台本を見直した。何度も口の中で呟く。セリフの途中から最後まで言うとうまくいくのに、頭から始めると、やはりどこかでつかえてしまう。
しかし、こんなことになってしまうのも、恐らくあのことが気になっているからだろう。集中できないのは当たり前だ。
七星は今年の4月を思い出した。あのときが初めてだった。今まで溜まっていたものが爆発したのは。
4月。この時期は新1年生が入学して、各サークルは様々な手を使って部員を集めようとする。食堂でビラを配ったり、中庭で勧誘活動を行ったり。
大学がサークルのPR活動に協力してくれるのは、掲示板を提供してくれることだ。すなわち、サークルのポスターを貼らせてくれるのだ。この掲示板は全てのサークルが活用している。だから、それを見ればどんなサークルがあるのか一目瞭然である。
七星はそのとき、名探偵研究会の部長が水咲華奈子であるということを初めて知った。まさか彼女が、サークルの部長を担っていたとは驚きだ。それを知った途端、七星は益々腹が立ってきた。そして、誰もいないのを見計らって、名探偵研究会のポスターを破ってやったのだ。掲示板は1つではない。学内の至る所に設けられている。七星はその全ての掲示板に貼られた名探偵研究会のポスターを破ってやったのだ。
七星は、隣りの椅子に置いてあるバッグを覗き込んだ。中には、財布やハンカチ、携帯電話に紛れて野球の硬式ボールが隠れていた。大学の野球部から盗んだものだ。
七星は台本を憶えるのをやめ、少し授業に集中することにした。
*
授業が終わると、七星は自分の所属する映画製作サークルの部室にすぐには向かわなかった。寄る所があったのだ。言うまでもなく、5号館の2階にある名探偵研究会の部室である。
3階建ての5号館には狭い教室が多い為、あまり使われていない。だからいつもその館はひっそりとしていた。今日は1つ授業があるのか、名探偵研究会の部室の隣りの教室は明かりがついていて扉が閉まっていた。だから、次の時限の始業のチャイムが鳴っても、七星はすぐに行動を起こさなかった。まだ部室の近辺には学生がうろついていたからだ。事を起こすまで、彼女は3階の廊下の端の窓に寄りかかって外を眺めていた。
セミがけたたましく鳴いている。窓を開けても暑さを凌ぐことはできそうになかった。風が吹いていないからだ。
やがて、館内は水を打ったように静まり返った。外はセミの声だけかと思ったら、キャッチボールをやっている学生もいたようだ。この大学の壁は防音壁で覆われているのだろうか。教授の声は全く外に漏れてこない。
彼女は念の為、ヒールの音がしないように忍び足で階段を下りた。そして、名探偵研究会の部室の前に立ちはだかる。バッグから野球ボールを取り出し、廊下に誰もいないのを確認すると、勢いよくドアの窓ガラスに向かって投げ込んだ。
ガラスは派手な音を立てて砕け散る。部屋にいた部員が悲鳴を上げたのを聞いた。
七星は静かに、そして速やかにその場を立ち去ると、一旦近くの女子トイレに逃げ込んだ。幸いなことにトイレにも誰もいなかった。
七星は洗面台に手を置くと、化粧などしていない自分の姿を鏡で見つめた。手櫛で前髪を揃え、右を向いて左を向いて、顔の角度を変えて身だしなみをチェックする。それにしても、いつ見ても自分の顔にうっとりしてしまう。こればっかりは親に感謝すべきことだ。申し訳なくて、化粧などできるはずがない。
「一体誰なんだ、こんなことすんのは?」
「今度こそ野球部じゃないの?」
「俺ちょっと行ってくるよ。こんなこと、2度もやられたらたまんないよ」
廊下から男女の声が聞こえてきた。恐らく名探偵研究会の部員だろう。
そう、これが2回目だった。1回目も同じく、野球部からボールを盗んで投げ込んだ。名探偵研究会だけあって、犯人を捜しに来るのではないかと思っていたのだが、そんなことはなかった。やはりその名の通り、探偵を研究しているただのマニアックな人間が集まっているサークルらしい。そんな人間に、ボールを投げ込んだだけで犯人がわかるはずがない。
すると、七星の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「七星さん、今どこにいるんですか?」
「トイレです。すぐに参りますから、お待ちになって下さいね」
七星は電話をしまうと、もう一度鏡を見て身だしなみを確認した。廊下は落ち着いたらしく、さっきの男女はいないようだ。
そして、トイレから出ようとしたとき、外からヒールの音がしてきたと思ったら、扉が勢いよく開かれてブルーのサングラスを頭に乗せた女性が入ってきた。七星のよく知っている女、水咲華奈子だ。まさかここでバッタリ彼女に出くわすとは思わなかった。
かかとの高い白のサンダルを履いた水咲は、ワックスで湿らせた茶色交じりの髪を腰まで垂らしている。半袖の白のブラウスの襟を立て、大きな胸が収まりきらないのか、上2つのボタンを外して胸の谷間を見せている。汚らわしい。そして、ヒップラインにぴったりとフィットしたブルーのタイトマイクロミニスカート。実に汚らわしい。さらに、この暑苦しい中、花柄の刺しゅうの入った黒のストッキングを履き、長い脚を自慢するように全ての太ももを露出させていた。涼しい格好なのか、暖かい格好なのかわけがわからない。
だが、七星には水咲の服のファッションしか不評することがなかった。アクセサリーは左手首に腕時計、右足首にシルバーのアンクレット。鮮やかなピンクの口紅の上にグロスを塗り、唇を輝かせて妖艶な雰囲気を漂わせている。まつげが長く、左右対称に整った眉毛と大きな瞳。薄っすらと塗ったブルーのアイシャドウ、歯並びの良い真っ白な歯。その整った顔立ちを崩さない程度に化粧をしている。大きなバストに大きなヒップ、引き締まったウェスト。七星といずれ劣らぬ美顔とスタイルだ。
こんな女がサークルの部長だなんて。最初見たときは、お金が欲しさに風俗でアルバイトをし、いざやってみると面白いほど稼げるので抜け出せなくなってしまった馬鹿な女、と思っていたのに。ちょっとショックだった。
七星は水咲をにらみつけた。水咲はいい匂いのする香水を漂わせながらその横を素通りしようとしたが、七星の視線を感じたのか、七星と目を合わせるなり笑顔になると話しかけてきた。
「あのぅ、なにか?」
だが、七星はすぐに目をそらすと、水咲の甘い美声を無視してトイレの出口に向かう。そして、ドアのノブに手をかけたとき、またもう1人の女が入ってきた。
「華奈、待ってよ」
子供っぽい声をした童顔のその女性は、いつも水咲とくっついている金魚のフンだ。
童顔の彼女は、茶色交じりの髪を上げてまとめ、アニメのキャラクターが印刷された半袖のティーシャツにブラウンの革のスカートを履き、白のソックスにベージュの革靴を履いている。スカート丈は水咲に比べたら可愛いもので、膝上10センチだ。アクセサリーは時計とイヤリングとネックレス、そして縁のない眼鏡をかけている。
七星は彼女には興味なかったのでトイレから出ようとした。すると、水咲がまた声をかけてきた。
「あのぅ、ハンカチ落とされました?」
振り向くと、水咲は七星のハンカチを持っていた。ライトブルーのマニキュアを塗った、細くて長い指で握っていた。さっき携帯電話を取るときに落としたのだろう。
七星はムスッとした表情で水咲の所まで行くと、無言でハンカチを奪い取った。そして、そのままヒールを響かせトイレから出た。
「あれ? 今の人……」
どうやらトイレのドアは防音壁ではないらしい。童顔の女の声がトイレから聞こえてきた。
七星はドアの近くで聞き耳を立てた。
「……もしかして、七星さんじゃないかな?」
「七星さんて、誰だっけ? 聞いたことあるけど」
水咲の声も聞こえた。
「ほら、去年の学園祭のミスコンに出場してた人だよ。七星さんが優勝するかと思ったのに、まさか華奈がミスキャンパスになるとは思わなかったよ」
「そうだ、思い出した。さっきの七星さんか」
七星は廊下で2人の会話を聞いていて無性に腹が立ってきた。
せっかく優勝できるかと思ったに、水咲のせいで恥ずかしい思いをした。散々周りの友達から絶対に優勝できると言われ続け、自分でも勝ちを確信していたのに。水咲さえいなければ、優勝は間違いなしだったのに。何が「思い出した」だ。自分は優勝したからって、うぬぼれて人の名前を忘れるな。あなたより、私の方がずっと美人だ。あなたさえいなくなれば、わたくしがこの大学で一番なのよ。
つまり七星は、水咲を妬んでいた。そして、今の2人の会話を聞いて、妬みがやがて憎悪へと変わっていった。
それにしても彼女らの会話を聞いていると、どうやらこの2人は部室にはいなかったようだ。これから部室へ向かうのだろう。
「こら! 何やってんの!」
トイレから水咲の叫び声が聞こえてきた。七星は一瞬ハッとなってトイレのそばから離れた。しかし、水咲のその言葉は童顔女に放ったようだ。
「逃げろぉー!」
童顔女がトイレから飛び出してくると、部室の方へと駆けて行った。そのあと水咲も飛び出してくると、童顔女を追いかけながら言った。
「覗くな! へんたーい!」
そんな楽しそうな水咲を見ていると、益々苛立ちを覚えた。やがて、憎悪は殺意へと芽生えていった。
2
現在、映画製作サークルでは、本格推理サスペンスドラマの撮影に入っている。物語は1話完結形式で、主人公の探偵が事件を解決させるというものだが、探偵の設定というのが美人女学生で、大学で起こった事件を解決する、というものだった。その女探偵役をやることになったのが七星だ。まさに、七星にぴったりの役柄だ。
七星はこの数日間、どうやったら水咲を殺せるかを真剣に考えてきた。今まさに、七星は逆の立場になろうとしていた。探偵ではなく、犯人になろうと。しかも、ドラマではない、現実の犯人になろうと。
こういった推理ドラマの製作に携わっているのだから、何か水咲を殺すいい方法が思いつくんじゃないかと思ったのだが、自分は創作者ではないので、そう簡単に完全犯罪など思いつくはずがなかった。このとき初めて、推理小説を書くことの大変さがわかった。
数日悩んだ挙げ句、結論は、とにかく授業が終わった後、水咲の後をつけて人気がない所に行ったら、後ろから首を絞めて意識を落としてやろうと考えた。完全犯罪の方法が思いつかなかったので、七星は気絶させる程度でやめることにした。
実は七星は、水咲と同じ科目をとっているのが1つだけあった。それは、今日の1時限目にある心理学の授業だった。この授業はいつも水咲は出ているので、狙うとしたらこの授業の後だ。しかも、今までの動向から見ると、水咲は心理学の後は何もないらしくて、部室へ行っていた。名探偵研究会の部室は5号館にある。あの館は人気が少ない。だから、水咲を襲うのには適した場所だ。
但し、1つだけ問題があった。この前トイレで出会った金魚のフンだ。あの女はいつも水咲と行動している。だから水咲が1人になることなんて、まず有り得ないのではないか。もし、水咲を気絶させるチャンスがなかったら、別の手を考えるしかない。
そんなことを心配しながら3号館の心理学の教室に入った。やはり今日も、1時限目にもかかわらず満席状態だった。
七星はいつも、教室の後ろの方に座っていた。それに対して水咲は、いつも前の方に座っていた。七星は水咲のことをよく知っているが、向こうはこっちのことなど知らないだろう。それは、トイレの外から聞き耳を立てたときの水咲の発言から証明されている。まさか自分が狙われているとは思ってもいないに違いない。
七星は後ろのドアから教室に入り、適当な席を見つけて座る。教室を見渡すと、1人で座っている水咲を確認した。まだあの童顔女は来ていない。彼女は七星の席からよく見えた。光沢のある水咲の長い髪が目立っている。
始業のチャイムが鳴った。教授が来ると同時に、教室はすぐに静かになっていった。これも人気科目の魔力だろうか。教授が喋り出す前には、完全に私語はおさまっていた。
「さて、前回はロールシャ・ハ・テストについての実験をしたんだったな。それでは今回は……」
全学生が教授を見つめる中、1時間30分の講義が始まった。
「授業はまだ30分ほど残っていますが、今日はここまでにします。実はこれから学会がありまして、私は行かなければならないので早めに終わらせます。まだ授業をやっている教室があるので、移動するときは静かにお願いします」
他の授業は早く終われば歓喜で奮い立つのに、この授業ばかりは学生はみな残念そうな表情をしていた。
だが七星にとっては、これほど幸運に恵まれていることはなかった。だから計画を実行することに決定した。第一に、授業が早く終わったのだから、多分水咲は部室に戻るに違いない。今はまだ授業中で校内はひっそりしている。水咲が部室に戻るまでにチャンスが訪れるに違いない。第二に、結局、あの童顔女が教室に現れなかったのだ。最初は遅刻してくるのかと思ったら、どうやら朝起きれなくて授業をサボったらしい。まあ、朝起きれないのは学生の性分だ。
この2つの好条件が揃うことなど、もう二度とないだろう。これは計画を実行しろという神の合図なのだ。
七星は絶対に見逃さないように、水咲を視界に入れながら、素早く勉強道具をしまった。そして、いつでも立ち上がれる準備をした。
だが、水咲は次の授業がないので、のんびりとバッグにしまっている。なかなか席を立とうとしなかった。
学生はみるみるいなくなり、黒や茶色の頭で埋め尽くされていた教室は閑散とした。数人しか残っていないのに、煌々と発光している蛍光灯が無駄な努力をしていた。
七星は机に置いたバッグの上で手を組んで身を屈め、水咲が動くのを待った。
教室の前と真ん中辺りに数人の学生が集まって話をしている。大きな教室に小さな声がこだまする。2時限目までまだ20分あるので、時間潰しをしているのだろう。
水咲を見てみた。彼女は携帯電話を取り出して、何やらいじっていた。
こんなときに電話なんてしてる場合じゃないわよ。早く部室へ行きなさい。いつまでここにいるつもりなのよ。
二度と来ない絶好のチャンスが訪れても、それをうまく利用できなければどうしようもないじゃないかと半ば諦めかけたとき、小さな電子音が鳴り響いた。それは携帯電話の呼び出し音だ。電話が呼んでいたのは水咲だった。
水咲は電話に出ると同時に立ち上がり、バッグを肩にかけて前のドアから外へ出ていってしまった。
それを見た七星も、慌ててバッグを肩にかけて席を立ち、後ろのドアから出た。
この3号館から外へ出るには、校舎の中央にある中央階段と校舎の両端にある東階段、西階段の3ルートがある。校舎の出入口は中央にあるので、どうしても中央階段は人の行き来が激しい。心理学の教室は校舎の端に位置していたので、教室の後ろのドアから出ると西階段が近い。前のドアは中央階段が近い。だから当然、水咲は中央階段へ向かった。
水咲が階段へと姿を消すと、七星は逃すまいと中央階段へ小走りに走った。そして、廊下を折れて階段を下りようとしたとき、いきなり目の前で背を向けている水咲が視界に入った。まだ水咲は階段を下りていなかったのだ。七星は驚いて静かに引き返す。そして、廊下からこっそり階段を覗く。水咲は階段を下りる一歩手前の所で立ち止まって電話をしていた。
「そんで、今どこら辺にいるの?」
水咲は手摺りにつかまり、階段を一段一段とゆっくり下りたが、また立ち止まった。
「あっ、もうすぐじゃん。わたし3号館の5階にいるよ」
七星はその会話を聞いているとイライラしてきた。
電話をしながら足を動かせないのだろうか。さっさと行ってほしいのに。
水咲は相変わらず階段を3段下りた所で立ち止まっていた。彼女は今日も、白のブラウス、ブルーのタイトマイクロミニスカートに黒のストッキングを履き、長い脚を露わにしていた。確かにスタイルはいいし綺麗な顔をしている。だが、そんなに綺麗な女が2人も、この大学にいる必要などない。しかも、1人は名探偵研究会所属だ。そんなマニアックなサークルに所属しているのだ。それでは、映画製作サークルで女優をやっている立場はどうなるのか。女優より美人な女性なんて、ここにいちゃいけないのだ。
七星はふと辺りを見渡した。そういえば、廊下を見れば誰もいないし、階下から人の足音や声がしてこないではないか。そこにいるのは自分と水咲だけ。まさに、これ上ない状況ではないか。大絶好のチャンスを逃すところだった。
七星はゆっくり静かに水咲の背後に忍び寄った。
「そうだ。今日のお昼、駅前のパスタ屋に行かない? 久しぶりに行こうよ」
水咲は腕を組んで電話をしている。彼女の目の前は、階下へ伸びる階段だ。
その瞬間、七星は首を絞めて気絶させる計画を急遽変更することにした。
「よし、決まりね。じゃ、早く学校に来なよ。遅刻したお仕置きするから」
水咲のその言葉で、間もなく電話を切ろうとしているのがわかる。七星は深呼吸をすると足を上げた。
「ああ! こらっ、ののか! あとで覚えてなよ! ひどいからね!」
笑いながら言う水咲は、電話を耳から離そうとした。しかし、それよりも早く七星は水咲の背中を蹴飛ばしていた。
「キャッ!」
水咲は一瞬悲鳴を上げると、そのまま前へ倒れ、階段を転げ落ちた。バッグと携帯電話は宙を舞い、長い髪を振り乱して水咲は転げ落ちた。階段の踊り場まで転がり落ちると、水咲は仰向けになって床に倒れた。そして、低い呻き声を発して額を手で押さえていた。
どうやら死んではいないようだ。意識が朦朧としているのだろう。
七星は唇を一舐めして、水咲の倒れた姿を見て感傷に浸った。やってやった。水咲を突き落としてやった。ざまぁみな。いい気味だ。死ななかっただけでも有り難いと思いなさい。
七星は水咲の醜態を脳裏に焼き付けると、目撃者が現れないうちにそこから静かに立ち去った。
階段に転がっている携帯電話から、取り残された水咲の親友が叫んでいた。
「華奈? 華奈? どうしたの? ねぇ、聞いてる? 華奈!」
第11話 美しき被害者~事件編《前編》【完】