調理その七 始業式の朝
「ふぁ~あ」
朝の目覚め一番の欠伸をして一日が始まる。
毎日のように顔を洗って歯磨きをして、身支度をする。
自分で顔を洗うことが出来るようになったのは、中3になってからだったが、勿論これは誰にもバラしていない。今後バラすことも無いだろう。
リビングルームには、俺の他に執事と専属メイドがいる。
朝食のメニューはフレンチトーストとブレンドコーヒー。
ちょっと贅沢な日には、エッグベネディクトとエスプレッソコーヒーがついてくる。
だが俺は昔からコーヒーは苦くて飲めないので、いつも特別に紅茶を用意してくれている。
「坊ちゃん、コーヒーが飲めないと大人になってから困りますよ」
高校生になっても一向に大人の味が飲めない俺に、執事が眉間に皺を寄せる。
「うっせ、余計なお世話だ」
俺に対しての小言には聞き飽きており、冷たく突き返す。
「いずれ分かるときが来ますよ。今は分からなくても、そのうち」
そして、俺がこうやって突き返すときには決まって、何処か悟ったようなことを言って終わらせてくる。
このおじいさん、ほんと計り知れない。
今日は始業式当日。
俺は毎日、執事から高萩駅まで送ってもらっている。
自宅は、駅から大分離れたところにあるため、車が無いと不便なのである。
ここ高萩という町は実に田舎である。茨城県北部であるため一応関東の仲間入りなのだが、もはや東北地方と統合しても何ら不思議ではない。
「坊ちゃん、いってらっしゃい」
駅舎に着いて俺が車から出た途端、執事がお出かけの挨拶をしてきた。
「もうその呼び方止めてくれよ、中学の頃から言ってるじゃないか」
朝食の時は咎めなかったが、坊ちゃんという呼び名に、正直俺は快く思っていない。
そうやって唇を尖らせて言っているのに対して、運転手の執事はにっこり微笑んだまま。
もう3年くらい前から、呼び方を止めてくれって言ってるんだが、一度も止めてくれたことが無い。実際諦めてます。
改札を通り過ぎ、ホームで電車を待つ。
「ふぁ~あ」
目覚め一番のときと全く同じような欠伸を、体をぐっと伸ばしながらした。
久しぶりの早起きなので、今朝から異様に眠い。
これから嫌というほど早起きをするのだから、そのうち身体が慣れるようになる。
俺が通っている日立山高校は、3つ先の駅の日立駅から、歩いて十分程度のところにある。
県内ではないが、県北部で限定すると最も優秀な進学校だ。
ちなみに県内トップは県南の取手にある私立高校なのだが、あそこは本当にエリートな生徒が集まる化け物揃いの名門校だ。
電車が来るまで10分程度の時間があったので、島式ホームのベンチで一人座り込んだ。
あの時に見せた藤島さんの表情が、今でも目に焼き付いている。
淡白な反応ではあった。だがその横顔は、唇を強く噛んでいる様子がこちら側からはっきりと見えた。
まるで何かを堪えているようだった。
家事が全く出来ない一人の生徒のためだけに、部活動を犠牲にする。
それだけ活動実績に傷が入るはずなのだ。
なのに何故、部長さんはリスクを冒してまで、俺を入部させようとするのか。
戦力になるからってあの時言ってたけど、どうも腑に落ちない。
もしそうだとしたら、別に部員である必要は全く無いのだから。
いくら探したって解答なんて見つかるわけがない。
どれだけ手を伸ばそうとしても、彼女の懐には指一本も触れることが現時点では、出来なかった。
そうやって俺が悶々とした様子で黄昏ていると、上り方面土浦行きの常磐線がやってきた。
登校時は毎回この電車に乗っている。
この時間は乗客数が少なく、落ち着いて座れる。
車内に入ってきょろきょろと辺りを見回してみると、右側のボックスシートの方に見知った女の子が座っていたので、そっちの方に行ってみた。
学校では、個人の事情なんて二の次だ。
藤島さんのことは一旦忘れ、目の前の女の子に気を向けることにした。
「よっす。みはっち」
「ゆ、結城!?」
「何だよ、そんな驚いて。新学期早々俺と会うのがそこまで嫌だったのかよ」
俺はそう言ってへらっと笑ってみせた。
「別に。嫌なんかじゃないし、ただ普通に驚いただけだし」
「本当か?」
「当たり前じゃない。何でこんなことで嘘つく必要なんてあんの? あとさり気なくほっぺ触んないで」
俺が人差し指で頬をぐりぐりしてくるのを嫌がり、素早い手つきで俺の手首を掴んできた。
「へいへい、さーせん」
彼女の名前は、一ノ瀬三春。
紫色の髪に、片方だけお団子状に束ねている。
女子バスケ部所属で、身長は153~155cmといったところ。
そのせいかポジションはSFだと思われがちだが、動体視力に長けており、その点からPGを担当している。
俺も一回女バスの試合の様子を見たことがあるが、確かに三春のパス回しの起点には目を見張るものがあった。
360度自分の周りにいる味方チームと相手チームの立ち位置を正確に把握し、その上で最適なパスをするのを得意としている。
そのプレーは、圧倒的なドライブの速さで相手チームを翻弄するプレーを得意としているPFの俺には到底真似できない。
けど、そんな運動神経の良さとは裏腹に、体躯のせいか、子動物のような可愛さが彼女から無意識に滲み出ていて、揶揄いたくなってしまう。
「全く。皆してあたしを可愛い者扱いすんだから。って今度は頭撫でてるし!」
三春がぷくぅと頬を膨らませて俺を睨んでくる。
「あ、わりいわりい。つい」言われてひょい、と手を避ける。
「ついなんてレベルじゃないでしょ、もうそれは」
けらけら笑って揶揄ってくるのを止めない俺を横目に、三春は辟易していたが、忽ち頬を赤らめ、両手の人差し指の先と先を合わせてもじもじしていた。
「でも…もうちょっと……し、てほしいかも」
「え、今何て言った?」
「な、何でもないっ!」
そう言って三春は、ぷいっと反対の窓側を向いた。
窓から薄っすらと透ける彼女の表情は、変わらず顔が熱っていた。