調理その十四 二人の胸中
約10秒間。
藤島さんの長いお辞儀をしている間、沈黙が流れた。
やがて藤島さんはそっと身体を起こし、真剣な眼差しでじっと俺を見つめている。
確かに背景を聞いて、彼女の願いを、夢を叶えてあげたいと思わない筈もなかった。
だが、ここで俺も「そうですか」とすぐに納得して要求を受け入れる素直な人間でもなかった。
「お、俺だって、今の部活でやりたいことはある」
「それって…この前言ってた主将になるってこと?」
俺は「そう」と頷き、続けて答えた。
「去年男バスの大会の成績は3位で終わった。逆に言えばそれ以上の頂点には進めなかった。毎年大会に出場しているような強豪校ではないからこそ、油断しているとあっという間に全国への切符が途絶えてしまう。先輩たちが血と汗、涙の結晶で繋いでくれた襷を守り続ける。俺はその先導役に立ちたい」
「うん」
「そのためにはエースである俺が、来年度までに主将になって部員を導いていかないと厳しいと思っている」
「…私に目指したい姿があるのと同じように、あなたにも目指したい姿があるのね」
藤島さんは俯きがちに言い、俺の返答に納得した姿勢を見せているようだった。
「ああ、そういうことだ」
落ち込んでいく姿を見るのは心苦しいところがあるが、
「だから、すまん。俺は藤島さんの思いには応えられない」
心を鬼にして、俺は彼女からの勧誘を断った。
今度は俺が約10秒にわたって、頭を下げる番となった。
45度まで深くはないが、断腸の思いを含んだお辞儀はそれなりに重いと思っている。
「そう、わかったわ」
一方の藤島さんは理解を示したような姿勢を見せているが、内心俺のお断りを聞いて、何を感じているだろうか。
ようやく掴み取った、大都会の料亭で修行することへの履歴書がビリビリに割けてしまったのだから。
もしかしたらこの後一人で嗚咽を漏らしてしまうかもしれない。
そうだとしたら今後一生、この罪悪感を背負って生きることになってしまうかもしれない。
あーあ、何考えてんだろな俺。
でも駄目だ。自分の目標のためなんだから、仕方のないことなんだこれは。
そうだそうだ。これは仕方ないんだ。
気まずさを抱えた中、俺はおずおずと顔を上げ始めた。
そこには…。
「いいえ、わからないわ!!」
予想を軽く飛び越えた藤島さんの姿があった。
その声は、今までの藤島さんの中で、一番大きかった。
「私だって…」
「私だって、この夢を諦めきれないの!!」
藤島さんは、両手を胸に当てて力強く叫んだ。
そして真っ直ぐな双眸が俺を鋭く睨む。
その眼力は、さっき見せた時よりも遥かに強かった。
「私には、どうしても結城君が必要なのっ」
それは、一見誤解を招くような言葉にも聞こえるが、彼女の勢いに気圧された俺は、そんな余計な事を考える余裕もなかった。
悲しいほど優しく、そして閃々と光り輝く夕日。海岸沿いに伸びているバイパスから聞こえる自動車の颯爽なエンジン音、
ざぶんざぶんと力強く音を立てていく波。
それらが、俺たちの少し張り詰めた沈黙に、更に拍車をかけていく。
やがて、先に沈黙をかき消したのは藤島さんの方からだった。
「正直言って、私はあなたのことが嫌いだった」
「え!?」
藤島さんは「いきなりこんなこと言ったら、そりゃ驚くわよね」と言いかけた後、言葉を続けた。
「クラスではいつも頂点に立っていて、そのくせ勉強だって運動だって頂点にいる。才能に恵まれていることを自慢げに語っている。大抵はさ、才能なんて、表に出さないものじゃない。だから、自分の才をひけらかすあなたが、端から見て嫌いだったの」
彼女は、一度も噛むことなくスラスラと喋り出した。
だけども一番主張したいところには、抑揚をつけてきちんと強調している。
これは本心だったんだなと、改めて思い知らされる。
「う、それを言われると何も言い返せない…」
御曹司であるが故の気付かなかった部分だった。
恵まれた家庭、恵まれた知性、恵まれた素質であることを妬む人は、この世に一杯いるというのに。
だが藤島さんは「でもね」と言葉を付け足した。
「ある出来事から、表面だけで人を嫌うことを止めるようになったの」
そして藤島さんは、
「こんな私を変えてくれたのは、他でもないあなた自身だったのよ」
優しい眼差しでそう教えてくれたのだった。