脳喰う人々
批評批判を読んでいるとそのクオリティを保てる人ってほとんどいないのな。
急速に劣化して、大抵同じことの繰り返しになっていって壊れたレコーダーがオウムかよってな感じだ。
視点が広がったり理解が深まったりすることはない。
なぜなのか。
他人なり政治なりに批評批判する時は、自分が正しいお前が間違っていると言うスタンスに立つしかない。
俺が間違ってるっていうスタンスでやる批評、どんなんだろうな?
俺は間違ってるがお前も間違っているというスタイル?
俺が間違ってるという認識を得るためには正解なり正しい状態なりを知っていなければならない。
なので正解を知りながら間違いを正せない状態でないと、俺は間違っているがお前も間違ってるというスタンスで批評はできない。
どんなんだそれは?
アル中がシャブ中を批判する時には成り立つのか。
俺はアル中だけど、お前はシャブ中じゃんって素面の人から見たら両方病院なり施設で依存症の治療受けろや、あとシャブ中は自首しろ、なので、批評批判にはどうして俺は正しいのスタンスが必要になる。
なので理解が止まる。
正しいが故に批評批判する対象に対して理解が深まることもないし、視野が広がることもない。
つまり知的作業としてはそこで終わり。
安易な批評がすぐ劣化する理由がこれ。
俺は間違ってるんでなかろうかというスタンスであれば、それは本当に正しいのかと調べたり検証したりもするだろうが、俺は正しいスタンスではそれは望めない。
それどころか俺は正しいを補強する情報だけを拾うようになる。
ので、全ての情報摂取がただの自己満足になり、意味をなくす。
それなのに、批評批判は他人を好き勝手に棒で殴るようなもんなので非常に楽しい。
癖になる楽しさだ。
だから批評批判を繰り返すが、それに対する理解は最初で止まってるので同じようなことを繰り返すしかない。
繰り返しなので最初と同じ楽しさを味わうために、自然と舌鋒は鋭く過激になっていく。
さて、以上を踏まえて批評批判ってなんの意味がある?
ただ自分の知的領域をドブに捨ててるだけじゃん。
自分で自分の脳味噌をスプーンでえぐって脳味噌うめーって貪ってるのと同じじゃん。
ドラッグと同じで快楽を得るには代償がいるってことだ。
だからやめろ、なんて当たり前のことは言わない。
むしろもっとやれ。
俺以外の奴がアホになるのは歓迎だし、自分の知的領域を全て食いつくしたあとにどうなるのか、俺はそれが見たい。
ただ燃え付きるのか、それともパラノイアの領域にシフトするのか、はたまた自分の知的領域を食いつくしたから他人の知的領域を喰うようになるのか。
俺はそれが見たい。
だから批評批判する人はもっとやるべし。
そして俺に観察させろ。
結構な確率で他人の知的領域を喰うようになると思うんだよな。
特的の個人に対する度を越した粘着とか、まさに他人の知的領域を食ってるようなもんじゃん。
誰もそうとは気づいてないだけで、他人の脳を食ってる知的ゾンビって結構いると思うんよな。
そしてアヘ顔ダブルピースとはこういうことかと理解する。
あれが一体なんなのかわからんかったのよ。
普段とのギャップがいいのかと思っていたけど、違うな。
自分の知的領域をドブに捨てるのが快楽なら、他人の知的領域をドブに捨てるのも快楽なんだ。
ギャップとか関係なくただ純粋に快楽なんだな、あれは。
なるほどまた一つ賢くなった。
アへ顔ダブルピースで。