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9/7 後編

 目に光が差し込むような感覚があった。

 吐き気は、もうない。倦怠感も、もうない。不快感も、もうなかった。

 だから俺は、ゆっくりと重い目を開けた。

那須(なす)君、やっと起きた」

 額に置かれた濡れたハンカチが頭の中を覚ましていく。……多分、友達になった日に加賀梨が持ってた奴と同じ奴。結局、彼のハンカチを汚してしまった。

「加賀梨、か。一つ聞く。ここ、って……公園だよね?」

 彼はしっかりと時間をかけてうなづいた。

「悪い、少し遊びすぎて……疲れが祟ったかなー」

「……サッカー、嫌いなの?」

 寝起きで体が重かった。だけどまさか、倒れるなんて思ってもなかった。

「もうそろそろ5時半くらいか? それじゃあ家に帰らないと」

「ねえ那須君、何があったか教えてほしい」

「んーっ、肩はまだ重いかなー」

「那須君、俺に教えてくれ。何が、あったのかを」

 ──もう無理かな、ここで彼のことをスルーするのは。助けてくれたし、言っても別に……別に。

「分かったよ加賀梨。だけど、まあ。つまらない話だよ」


    ☆


 サッカーというスポーツを始めたのは、小学校二年生の頃だったと記憶している。


 少年団に入って切磋琢磨し合う日々は、はっきり言って楽しかった。いつでもボールを触っていて、いつでもプロで活躍している夢を見ていた。

 サッカーが上手い、わけではなかったと思う。だけど、クラブチームみたいな実力至上主義の場所で出場できるレベルにはいたと思う。……これはまあ主観だが、少なくともチームの中では上手い部類に入っていた。比較して、ということだ。

 ボールを追うのが楽しかった。ボールを蹴るのが楽しかった。


 そして、その過程で作られていく友達関係が、とても愛おしかった。はずだった。


 中学に入っても部活としてサッカーは続けた。一年からベンチ入りなんて大それたことは出来なかったけど、二年になればサブには置いてもらえた。


「それで何があって、那須君は()()()()()()倒れるようになったの?」

「────怪我。それだけ」


 大怪我とは言えない。いわばスポーツ病というものだ。オスグッド・シュラッター病。膝の脛骨が出っ張って痛むという骨軟骨炎。簡単に言うなら、剥離骨折と粉砕骨折。その両方が膝の脛骨に起こるという、病気であり、怪我である。サッカーやバスケをしているなら聞いたこともあるはずだ。


 ────俺のその痛みに、彼らは気づかなかった。何度も警告を出したのに。


 中二の冬。チームが二年主体になったと同時に、スタメン起用されることが日常になった。

 走った、走った、走った。そして、俺だけがついていけなくなった。痛みで、同じく走ってきていた奴らに越され、後ろに越された。

 だから病院にも行って、顧問にも言った。マネージャーとして、一時戦線離脱。

 俺の背番号8のユニフォームは、短期間だけど着けないからと後輩に渡された。試合も、練習も、俺抜きで行われた。


 気づいた。俺がいないフィールドが、一番綺麗だということを。


 気づいた。俺だけ横で見ていることの悲しみを。

 疎外感、ではない。それを言葉で表現することは難しい。


 だけど、あえていうなら、罪悪感。

 自分は彼らのように走れない。だから走らない。──それはあり得ないことだった。彼らは頑張っているのに、俺はそれを横からしか見ることができない。


 最初の一週間は良かった。歩くことすら難しい状態で、サッカーをするなんて持ってのほか。学校は親が車で送迎。上履きを履こうとすると膝が痛くなるから、友達に履かせてもらう。そんな、新たな日常。


 次の週には自分で歩けるようになった。学校までも、大丈夫だった時より時間がかかるがなんとか徒歩で通学できた。マネージャー業にも腕を奮った。


 その次の週には痛みに耐えながら階段を上り下りすることが出来るようになった。練習は厳しさを増していった、俺を置いて。


 その次の週、およそ一ヶ月たったときのことだった。痛みもさほど無くなったし、階段も少しの違和感を気にしなければ上り下りも楽にできるようになった。だから、久しぶりにスパイクシューズを履いた。久しぶりのグラウンドに興奮しながら走ろうとした。


 ──────ものすごく、痛かった。

 オスグッド・シュラッター病の完全な治し方。それは完全にスポーツなどを中止し休養を取ること。

 そんなものを待っていたら、俺の居場所なんてなくなる。


 松葉杖みたいな、目に見える病人のサインが、俺の怪我には無い。だから、『私は怪我をしている』という明確なサインが無い。

 みんな、怪訝に思っていたと思う。どうして治っているはずなのに、彼は練習に出てこないのか。多分それは怪我ではなく、辛くなった冬練をやりたくないからだ。

 外から彼らを見て、そう言われているような気がしてきた。


 怖くなった。もしこのまま練習に参加できなければ、自分はこの部活にいる意味はない。この部活にいるのなら、スパイクを履いて戦わなければいけない。だけど、それができない。自分の身体だ、大切に扱え。なんて言われても俺はサッカーをする。だけど、この痛みが、尋常じゃないんだ。


 俺にボールは蹴れない。……それなのに、サッカーボールが沢山ある環境。それが、俺を急かすように見えて────怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて、逃げた。


 俺の居場所なんてなくなる。いや、そもそも居場所なんて無かった。だからサッカーをやめた。もうサッカーに関する全部が怖かった。友達って思ってた奴とも、距離を取った。──俺が足枷になんかなってたら、それこそ本末転倒だからな。


 そして、独りよがりに孤独を享受するようになった。

「それでも、小学校六年生で作った、背番号のストラップだけは手放せなかったんだけどね」

 「結局、友達の面影に縋ることしかできなかったんだ」そうやって、俺は長話をしめた。


    ☆


「そんな過去が……」

「誰だって、一つや二つくらいあるだろそういう奴」

 長話悪かったな、と加賀梨に言う。こんだけ自分のこと話したのは初めてだ。

「今も、痛むの?」

「ああ、たまにな」

 心が寂しかった。何故か、ズキズキと痛む空洞があった。それを、心なしか加賀梨で埋めていた。──結局俺は、誰かに頼ることしか、縋ることしかできない。

「……俺はさ、サッカー辞めて良かったって、思ってないんだ」

 俺の物言いに、加賀梨は少しだけ首を傾げる。

「確かに、友達を失くしたのは俺の責任だし仕方ないんだけど……それでもあいつらとは、サッカーで仲良くしたかったんだ。別に、サッカーだけが俺とあいつらを繋ぐものってわけじゃないけど」

 なんていうか、と言って言葉を続けた。

「なんていうか──行き先にさ、明日って字が無くなったんだ」


 だから全部諦めたんだ。そんな、俺の悲痛な叫び。


 それにも、彼は心を持って接してくれた。

「那須君、明日だよ。明日どうなるかが大切。それに明日って必ずやってくるから、それから逃げちゃダメなんだ」

「明日って、そんなこと言われても……トラウマなんて解決しないと思うけどなぁ」

「トラウマなんて解決しなくていいじゃん」

 びっくりした。彼がそんなことを言うとは思わなかった。加賀梨は熱血で、それでいて少し冷めた奴って感じだった。だけど、その声は少しおぼろげに聞こえた。

「過去は変えられない。だけど、未来なら変えられるでしょ? だからここで指切りでもしようよ、那須(なす)和妻(わづま)──俺たちが、本物の友達になるために」

「加賀梨……俺は、友達に向いてないタイプだよ。トラウマ持ち、発作持ち、陰キャ、オタク、他多数のエトセトラ!」

「それ、本当に友達に向いていないタイプがいうセリフじゃないよ、和妻! てか絶対に友達になれないって思ってた奴でも、案外友達になれるもんだったりするんじゃね?」


 今の俺はきっと、多分、だけど確実に。世界一の笑顔で、友達にこう言った。

「確かにそれ、合ってるかもな……洋一!」

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