避難絨毯
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あと一ヶ月もしないうちに、僕たちも卒業だね。
在校生も卒業生も歌を歌うけど、もうカンは取り戻せた? 卒業する者としての最後の勤めらしいし、もう少し頑張ろうか。
――え? 整列しながら体育館に向かうのも最後だから、せいせいする?
ああ、集団行動の最たる例だよね。移動教室の時なんかはバラバラだけど、集会とかがあって体育館とかに行く時、きっちり並んでいくんだよね。先生も学級委員も大変さ。
あれ、なんで並んでいかなきゃいけないか、考えたことある?
めったにないケースらしいんだけど、ある事態に備えるためらしいよ。その時の話を聞いてみないかい?
僕のおじさんが体験した話になる。おじさんといっても、まだ20代だからさほど歳は離れていない。どちらかというと、お兄さんの印象?
そのおじさんなんだけど、学生時代には君と同じように、整列して移動するのがかったるくて仕方なかったらしい。そもそも教室ごとにテレビがついている学校だったから、晴れでも雨でも、教室でテレビ朝礼やってろよと思っていたらしい。
どうせ退屈な長話で、半分眠りながら聞いているんだ。前で表彰される要素も皆無で、立ったままぼけっとしながら過ごす時間というのが、退屈で仕方なかったってさ。それでも一部の人は校長先生の話からすべて、熱心に聞いているものだから、ものすごく不思議だったらしい。
――言いなりじゃなく、俺が思ったように動いちゃいけないのか。もうがきんちょじゃないんだぜ、俺は。
常日頃、そう考えていたおじさんは、反抗の機会をじっくりとうかがっていた。
ターゲットとされたのは、およそ月に一回ある避難訓練の時だ。
たいて大きな地震があった時を想定され、校舎の一部分が倒壊したりとアナウンスされるわけだけど、「実際に地震があった時に、もたもた整列なぞしていたら危ないじゃないか」と、常日頃から考えていたらしい。
押さない、駆けない、しゃべらない、戻らない、近づかないの「おかしもち」。特に二番目の「駆けない」を馬鹿丁寧に守っていたら、余震とかが来た時、一緒にぺしゃんこになってしまうじゃないか。
日々、仲良くしろと話をされるが、いざという時まで道連れになるつもりはさらさらない。
自分だけ、ちょっとでも抜け出せないものだろうか。しかも、こそこそせずに堂々と。
おじさんはそう思い続けながら、瞬間を待ち受ける。
そして予定されていた6コマ目――あらかじめ、あると分かっていたら訓練にならないんじゃないか、とも考えていたらしいおじさんだけど――に、緊急用のベルが校舎内に鳴り響く。
机の中に潜るように先生に言われるみんな。この時はまだ、おじさんはちゃんと言うことを聞いた。
このタイミングではわざと過ぎて悪目立ちする。狙い目は地震が収まった設定で、教室の外に整列して、避難のための移動をする時だ。この時には背の高さ順に並ぶのだけど、おじさんは男で一番、背が低い。必然的に一番前に並ぶことになる。
みんなの先導役。言い換えれば、自分についてこられないことが問題なのだ。
廊下に並び始める、生徒たち。おじさんのクラスがある階は二階で、ちょっと歩けば昇降口直行の階段を降りることができる。
でも、避難訓練だとその最短ルートは、上の階の崩落があったというアナウンスのため、遠回りを強いられるのが常だった。
クラスの先頭を切るおじさんだけど、3クラスのうち真ん中に位置する教室だから、他のクラスの尾っぽにくっつくことになる。
「極力、前の人から離れすぎないように」
いつも言われていることだだけど、近すぎたら近すぎたで、今度は前の先生の背中で見えなくなってしまう。クラスの先生たちは列の一番後ろで、乱れを正すのが役目だ。
好き勝手は長続きしない。せいぜい、この蛇のように並ぶ列の間隔を、狂わせることくらい。
でも、自立していることを示したいおじさんにとっては、やることに意味があった。
そして目をつけていたポイント。遠回りをしてたどり着く、反対側の階段へ。
前を進む隣のクラスの先生は、なかなか背が高い。自然、歩幅も大きいものになる。
おじさんは、あたかも自然において行かれているようにペースを調整。「おかしもち」に律儀な生徒たちはおじさんを非難してこないし、どついたりもしてこない。
そして階段に差し掛かった時には、すでに前の先生の間で、階段にして三段、四段くらいの余裕が生まれていた。
ふちに足をかけたところで、距離感を図るおじさん。
――ここで、一気に。
数段抜かしで飛び降りる。足を踏み外したように見せかけながら。そうすれば、わずかにでもルールからはみ出すことができるんだと、その時はそれしか考えられなかったらしい。
つま先だけ段から出して、「ぐらり」と体を揺らす。すぐ後ろの子が「危ない!」と、禁を破って声を出してくれたけど、お構いなし。おじさんは両足を離して、一気に前を行く先生の手前の段まで飛ぶ。
そのほんのわずかな間で。
前の先生の頭髪、そのつむじのあたりが、一気に何本も宙に舞った。それを受けて、先生自身も手を頭にやりながら、足を止めてしまう。
計算が違った。本来なら先生がそのまま進むことで、自分が降り立つはずのすぐ手前の段。そこが先生の図体で塞がれてしまっていた。このままだとぶつかる。
跳んでいる体をのけぞらてブレーキがかかるか、とささいな抵抗を試みるおじさん。その顔を、見えない何かが蹴り飛ばした。
おかげでおじさんは、立ち止まった先生の直前で尻もちを着くことができたけど、今度は自分のすぐ後ろで、先ほど注意した子が「うおっ」とうめき声をあげる。
振り返って、理由がすぐに分かった。
飛び降りたことで、おじさんとその子の間に生まれた、数段の空間。そこにいつの間にか、紫色の液体がぶちまけられて水たまりになっているんだ。
鼻をつままずにはいられない、発酵臭。たちまち騒ぎになったけど、おじさんのクラスの担任がすぐにその場を収拾。水たまりをよけて歩くように指示した後で、髪の毛が舞った先生と共に、おじさんを連れて生徒指導室へ。
「どうして、あんなことをしたんだ?」
外で校長先生が、スピーカーで何かしゃべっているのをバックに、担任の先生がおじさんを問い詰める。
おじさんはあくまでとぼけた。体調が悪くて足が鈍ったし、階段も踏み外した、と譲らなかったらしい。やがてその場にいた先生二人は、教室の隅へ移動して、ひそひそと話し合った後、もう一度おじさんに近づいて言う。
「いいかい。「おかしもち」のルールって言うのには意味があるのさ。
今日の避難訓練とか、みんな列になって動くだろう? あれはね、私たちの頭の上を絨毯代わりにして、動いていく妖精さんが現れることがあるのさ。そいつは、私たちに幸運をもたらすために、体を張っている。まるで『イナバの白ウサギ』のごとく、一人一人の頭を確かめるようにね。
それを、君が唐突に乱してしまった。前との間隔が開いていたなら、そのままにしておけばまだよかったんだ。妖精さんが跳んで、君の頭を踏むのをじっと待っていたならば。
それをあの落ちようだから、着地が狂ってしまった。おかげで妖精さんは地面に落ちて、あの有様、というわけさ。ま、妖精さんは死ぬわけじゃないらしいけど」
今頃は整列して話を聞いているみんなの頭を、駆け回っているさ、と先生。
あの水たまりを見てしまった以上、適当な与太話とは思えない。
妖精さんに触れられないと何か起こるのか、とおじさんが先生に尋ねたところ、はっきりとは分からないと言われたらしい。
なんでも、妖精さんはいつも訪れるわけじゃないみたいで、それと今回のおじさんの行動が重なるようなことは、今までなかったとのことだ。
学校を卒業した後も、おじさんは特に大きな不幸を被ることはなかった。
ただ、この時の話にずっと後ろめたさを覚えていて、ささいなミスや不利益でも、あの時、妖精さんに触れていなかったからかなあ、とぼんやり逃げ道にしてしまうように、なってしまったのだとか。