追放者 その1
イルレンジョリレオッパと名乗った旅人は奇怪な出で立ちをしていた。ユパは彼のような者を、これまでに見たことがなかった。イルレンジョリレオッパは古ぼけた、砂漠の暗闇の中に長い間置き去りにされたままのような、寂しい灰色と霧色を油膜の上で混ぜ合わせたようなローブを羽織っており、裁縫の解れた袖から覗く手は深い山脈のように皺くちゃで、指は年老いた魔女のように不気味に節くれだっていた。イルレンジョリレオッパはフードを目深に被っていたが、彼の額の髪の生え際からは人の指が重なり合ったような形状をした奇妙な角が伸びており、その先端がフードの奥から覗いていた。それは何かを求めるように頭から伸びているように見えた。少なくともユパにはそう見えたし、そうとしか考えられないようにさえ思えた。けれど、そんなことは結局、考えても仕方のないことだった。
私は追放されたんだ、とイルレンジョリレオッパは言った。彼はユパの店のカウンターに腰かけており、その夜はまだ彼以外に客が居なかった。狭いカウンターと、テーブルが三つほどあるだけの、酒の種類もさほど多くない小さな店だったが、そこは確かにユパの店であり、ユパの支配する空間だった。イルレンジョリレオッパは客というよりはその空間に迷い込んだ異物であり、彼は夜の客としてカウンターに座ってはいるが、その存在はもっと違う意味を持っているようにユパには思えた。
ユパがウシュクベーハと呼ばれる琥珀色の酒を小さなグラスに注いでやると、イルレンジョリレオッパはそれにそっと手を伸ばして、指でつまむようにして音も立てずに持ち上げた。その濁って歪んだ黄金色の酒を一口だけ舐めると、彼は強いアルコールにあてられたような息遣いで、こそこそと話し出した。
あなたはわたしのイルレンジョリレオッパという名前を奇妙に思うかもしれないが、わたしはここからずっと遠い場所から来た者で、これはわたしの故郷ではとても一般的な名前なのです。わたしはそこで翻訳者として働いていていました。というよりも、わたしの故郷の人間はみな生まれながらの翻訳者で、わたしの一族、もしくはわたしの国は、翻訳者の一族であり、通訳者の国なのです。わたしの額から伸びる角は、この世界のあらゆる言語を翻訳することができます。話し言葉や書き言葉に関わらず、どんな言語であろうと、どんな言語にでも完璧に置き換えることができます。実際、わたしはいま、この角の力を使ってあなたに語り掛けています。この角になぜそんな力があるのかは、わたしの国の者たちも、誰も正確なところは知らないのですが、どうやらこの角は、話し言葉を翻訳する際には一種のテレパシイのようなもので相手の頭脳が発する波長のようなものを読み取って、それを人間種の用いるあらゆる言語の原型規則を通して、別の頭脳が発する波長に置き換えることができるようなのです。それはわたしたちにとっては無意識のうちに行われるので、実際にあなたの言葉がどういう言葉になっているのか、わたしにはわかりません。ただ、置き換えの雰囲気を感じるだけです。わたしはわたしの母語を使ってあなたに語り掛けているつもりではあるのですが、あなたにはわたしがあなたの母語を流ちょうに使って話しているように聞こえていることでしょう。
そうだね、とユパは言った。あなたはぼくの国の人間にはぜんぜん見えないけれど、あなたの話している言葉はたしかにぼくたちの国の言葉だし、その響きはとても正確で、綺麗で、きちんとしているように聞こえる。
そういうものなのです、とイルレンジョリレオッパは言った。わたしたちの国の人間には、みなこの角が生えています。わたしたちはこの角を翻訳角だとか、翻訳器官とか呼びます。わたしたちの国はとても小さいけれど、わたしたちはこの特異な能力ゆえに様々な国から重用されます。他の国の外交官になったり、他の国の政府や研究機関、はては古い神の言葉を扱う聖職者のための通訳者になったりもします。翻訳や通訳という分野において、この世界でわたしたちに勝る存在はいないのです。わたしたちはそうやって他の大国に重宝されることで、その政治中枢に取り入り、食い込み、結果的にわたしたちの国の独立を守ってきました。わたしたちの国は吹けば飛ぶような小さな国ではあるのですが、使命を持ってあらゆる国に派遣される者たちの働きによって、わたしたちの国は長いこと侵略や、隷属といった災難から身を守ってきました。
イルレンジョリレオッパはそこまで語ると、ちびちびと舐めてきたグラスをついに空にした。ユパは彼のために次の酒を注いでやった。彼は新しいグラスを有難そうに両手の指を使って持ち上げると、大事そうに一口だけ舐めて、また話し始めた。
わたしもそのような使命を持った通訳者の一人として、ある国に使われるようになりました。ガオンという名前の国だけれど、あなたは知らないでしょう。ここからとても遠い場所にある国だから。どれくらい遠いかというと、それはもう、人が一生かけて歩いたってたどり着けないほど遠いのです。言葉でその遠さを伝えるのはとても難しい。あなたがもしも永遠の命を持っていたとしても、これからその国まで歩いて行こうと思ったら、たどり着くころにはもうそのガオンという国は無いかもしれない。そうして残念がって帰ってくるころには、きっとこの国も無くなっているのです。それくらい遠いのです。そしてもっと残念なことには、きっと、どれだけかけたって、その国には歩いてたどり着くことはできないのです。
とても遠いんだね。ユパはそう言った。
とても遠いのです。イルレンジョリレオッパはそう言った。
ユパは何となく、今日は長い夜になりそうだと感じた。