墓標
この街には異界につながっているといわれる鳥居がある。都市伝説のようなその話の内容は語り手の趣味や時代の変遷によって尾ひれがついたり逆に単純化されもしたが、鳥居が外界につながっているという話の大筋は変わらない。それはどこにあるのか誰も知らず、不思議なことに場所に関しては一切の情報がなかった。街に残されたたった一つの神社にある色あせたそれではない、というのは常識的にささやかれている。子供たちの間で流行る遊びに夕暮れ時を狙って鳥居をくぐるというものがあるが、当然失踪した子などは一人もいなかった。それは幼いころ誰もが試したり話に聞いたりする実験である。中学生にもなればそんな彼らも都市伝説を信じることなどなくなり、冗談めいた口調で弟妹や近所の子らに話してやる。子供たちはその話を信じて面白がり、また同じことが繰り返され……こうして噂は噂のまま語り継がれていく。
ある語り手によれば、異界につながっている鳥居は血のように赤黒い色をしていて夜にだけ現れるという。また別の語り手によれば、その鳥居は百鬼夜行のように妖怪や人魂を引き連れて街の中を練り歩くのだという。鳥居は鬼の口の比喩表現であり、どこかで鳥居に出会ってしまうと鬼に食われて異界──つまり鬼の腹の中に行ってしまうのだと言う人もいた。共通していることは少なく、イメージもあやふやで掴みどころのない都市伝説だけがずっと囁かれている。
とはいってもこの街にそれ以上のものはなく、噂以外は全てがごく普通であった。大きな観光名所もない、通勤や通学、はたまた観光地に向かう列車の通り道にしかならない街だ。ほどほどに都会であったが田舎といえば田舎である、日用品を購入するのには苦労しないが少し珍しい本や道具を手に入れたければ街の外に出なければいけない、そんな場所である。一方が山に隣接し、他の三方は平地と隣接しているために大河ドラマブームに乗るための資本にも欠けるような街。土地もさほど広くないため、広大な畑や花壇といった田舎ならではの産業も建てられないような街。そんな街で育つ子供たちにはある程度決まった道が用意されている。小中高とエスカレーター式に進み、街の痒いところに手の届かない半端な都会具合に文句を言い、かといって本当の都会に育った人々のように垢抜けることもなく、あの都市伝説を耳にしては冗談だろうと笑い飛ばす。その子もそんなどこにでもいるような子供であった。その子はこの街で生まれ、この街で育った子供の一人であった。幼い頃こそ男児に混じって遊ぶような快活な女児であったが、その特性は彼女が歳を重ねるごとに徐々に失われてゆき、小学校の中学年を迎えるころにはすっかり没個性的な子供になっていた。成績は中の上、運動は得意でもないが極端に不得手でもなし、交友関係に悪いものは見られず、その範囲もクラスメイトや部活の仲間とおかしいことは何もなかった。家族関係もまあ悪くはない、近所付き合いもほどほどにする家庭に育ち、兄弟姉妹はいない。本当に絵にかいたようにどこにでもいる普通の一人っ子であった。
そんな彼女は中学生になったばかりのある日突如失踪する。学校や彼女の生家を中心に不穏な空気が漂い、地元の新聞はその事件を大々的に取り上げた。それはこの何もかもが平穏でつまらない街において、消えた女子中学生というものが一種のドラマ性を含んでいたからに他ならない。加えて彼女が自分で失踪する理由などなかったし、何より次の週末には映画を観に行く約束を友達としていたのだから……人々はこれを”単なる家出”という思春期の少年少女に起こりがちな物語の一つとしては見做してくれない。そんな周囲の恐れと興奮を支持するかのように、家族に聞いても学友に聞いても彼女が自ら失踪するそれらしい理由は見つからず、警察はこれを事件とみなした。誘拐か、それとも別の事件に巻き込まれたのか。緊張は高まる一方であり、興奮の冷めだした街には灰色のスモッグのような重苦しい雰囲気が漂い始め、その霧は人々の鼻腔から脳を侵した。
都市伝説に加え新たな噂が漂い始めるのにそう時間は必要なかった。なぜなら、警察や両親の決死の捜索にも拘らず彼女は見つからなかったからである。それは潔癖なまでに徹底した無収穫具合で、人々は彼女のいた痕跡さえも目にすることができなかった。いるかもしれない誘拐犯から連絡もなければ彼女の身に着けていたものが道端に打ち捨てられているということもない。コンビニや雑貨店に寄った形跡もなく、学校の外で彼女を見たという人物も現れなかった。捜索は難航し、暗礁に乗り上げ、とうとうそこから進展することはなしに数十年の時が経過することとなる。人々は味のないガムに飽きてしまい、やがて彼女のことを口にするのはごく限られた一部の人間だけとなってしまった。こうしてこの街から一人の少女がすっかり消えてしまったのである。彼女のことを今でも話題にするある人は言う、あの子は鳥居にさらわれてしまったのだと。冗句にも似たそれはいつからか定説となり、消えた少女はあの都市伝説と混ざり合ってこの街に残ることになる。
ある語り手は言う。この街には異界につながっていると言われる鳥居があると。その鳥居は夕暮れになると重い足音を響かせながらこの街を徘徊し、獲物を探しているのだ。その鳥居の中に入ってしまうとこことは違うどこか別の世界に連れていかれ、絶対に戻ってこられないのだという。鳥居の向こうには中学生くらいの少女が一人立っていて、怯える獲物に明るい声で「おいで、おいで」と語りかけるのだ。それは新たな犠牲者を見つければ少女が鳥居の外に出られるからかもしれないし、鳥居が以前捕まえた少女を使って悪さをしているのかもしれない。語り手は神妙な面持ちでため息をつくと短い話を閉じた。
山の奥深くには人が立ち入らないような場所が多数存在している。夜になるとフクロウのような鳥の鳴き声が山を下って街まで下りてくるが、逆に登ってゆくものは何もない。そんな不文律を破るようにして、がたりごとりと鈍い音を響かせながら山肌を登ってゆくものがあった。キャンプ用のコンテナを転がしているような、大きな木を引きずって運んでいるような、そんな得体のしれない音が丑三つ時の山に鈍く染みわたる。それは物も言わず淡々と登頂を続けており、周囲に気を使っているようなそぶりなど少しも見せなかった。仮にこの様子を誰かが見たり写真に収めたりしたとして、あるいはひどい騒ぎになったとしても自分には何の関係もないことだと言わんばかりに。
幸いあたりにそのような人影は存在せず、それは何にも邪魔されることなく山の頂上へたどり着くことができた。驚いた山の小動物たちが甲高い声で騒ぎ立てながら湿った地面を縦横無尽に逃げ回っては宵闇に食われるようにして消えていく。それは地面の様子を確認すると震える身体をうまく使い穴を掘り始めた。そこは木々の日陰になっていたおかげで柔らかい地面であり、不器用そうに見えるその身体でも徐々に穴を掘ることができた。足に土がかかり、黒い靴に焦げ茶色の土がこびりついてカビのようなまだら模様を作る。穴はゆっくりと大きくなってゆき、白くいびつな形の石を幾つか底に残してその目に叶う大きさになった。それは満足げに身体を揺らすと、狙いを定めるかのようにゆっくりと穴に両の足を入れる。太い足を靴のまま穴に埋めてしまうと二、三度ゆさゆさと身体を揺らし落ち着く場所を探っているようであった。やがてそれはその場に収まり、動くこともなくなった。怯えて隠れていた小動物たちが戻ってきたのはその数時間後のことである。突如出現した大きな身体の何かを警戒するように周囲を走り回ったり、地面に埋まっている足をひっかいて傷をつけてみたり、数分そうしていたかと思うと次の瞬間には興味を失ったかのようにまたどこかへ走り去ってしまう。しばらくすれば別の動物が同じような行動を繰り返す。そうして夜は更け、山と街は朝を迎えようとしていた。
山の頂上にそびえる鳥居を朝日が照らす。山を登っていたのは真っ赤な鳥居だったのだ。先ほど動物たちに傷つけられた場所が朝日を受けてまぶしく光を反射する。それは周囲の木々に阻まれて山の下からは到底見えるものではなく、ひっそりと隠居してきた老人のような風格を携えていた。それゆえに長い間誰にも気が付かれずにそこに立っていることになるのだ。これが、この鳥居の真実である。