色の無い世界と。
人の世はすべて善意でできている。
だれがそういったのかは覚えていない。しかし、言われてみればそうなのかもしれない。
良かれと思って築き上げてきたこの現代は、争いこそ無くならないが、それはすべて善意が成すことなのだろうと思う。初めは皆、誰かの為に働きかけ動いていたのだろう。それが、集団と言う大きな社会を生むようになって、個々が自分の益ばかり見るようになった。誰かの為にするのは、自分の二の次。そんなエゴイズムが渦巻く現代でも、最終的にはきっと善意が混ざっているのだと思う。そう。最終的に人は死に、地へと還るその時には、国によって作法は違えど葬儀が行われる。それは立派な善意なのではないだろうか。人が生きた最期に何の利益も成さないその行為は、まさしく善意そのものだろう。そんなことを考えていると宗教臭くなるので、人には言わないが。
しかし何かを考えていないと、どうにもこの状況に対処しきれない自分がいるのは事実だった。無意味な思想を講ずる原因が、今視界の目の前にあった。
仏壇に置かれた自分の遺影。
その前には自分の家族や親戚、大学の友人たちがうつむきながらに座っていた。各々、鼻をすすり、嗚咽を殺しながら、ただただ泣いていた。母も父も、その事実がまだ信じられないと言う様に、やさしく何かを語りかけていた。
ただただその光景だけが目に映る。
残念ながら、僕には声が聞こえなかった。音すら聞こえてこない。僕だって伝えたいこと、言いたいことがある。でも、喉まで出かかるばかりで、僕の口からは声が出なかった。音が伝わらない。
聞くことも、話すことも、泣くこともできず、ただただ見ているだけ。うつむき丸める背中を、自分の遺影を、この光景を見るしかなかった。
こうしていると、自分は本当に死んだのだと実感が湧いてくる。こんなに唐突に自分の世界は終わってしまうのだと。
儚いとは、このことだろうか。
そんな儚い人生であっても、友人がわざわざ僕の実家まで来て、こうして目を腫らしてくれていることが、素直にうれしく思えた。だが同時に、喪服なんてものを自分の所為で着せてしまったことに申し訳なさを感じた。
そんな時だった。
遠慮がちに襖を開け、腰を低くして入ってくる人影があった。それに気が付いた一同がなんとなしに振り向いた。とたん、僕の遺影のすぐ目の前にいた人物が、その人影目掛けて飛びついて行った。
母だった。
母は、顔を真っ赤にし、止まらぬ涙も拭いもせずに何かを口にしている。怒鳴っているのだろうか。聞こえない自分としては、母の豹変ぶりが唐突過ぎてよく分からなかった。いったい何を言っているのか。何を叫んでいるのだろうか。
やがて母はその人物に掴みかかり、畳に押し倒すような形で覆いかぶさった。こんな母の姿を見るのは初めてだと思った瞬間。不意に振り上げた母の右手が、下敷きになっている人物の頬を叩いた。
その光景に周りにいた人たちは時が止まったかのように誰も動かなかった。そして、もう一度母が腕を振り上げた時、ようやく我に返った父が止めに入り、その人物から母を引き剥がす。それでも母はしきりに何かを口にしていた。おそらく、「殺してやる」と。そう口の形が言っているような気がした。
対して、押し倒された方を見やると未だ姿勢をそのままに、畳に背中を預け、母に叩かれた左頬を赤く腫らし、目は空ろを見ていた。まるで抜け殻の様だった。だが、その顔に違和感を覚えてはっとする。
―――あの時の女性だ。
あの時、信号待ちをしていた僕のカバンを引きずりながら倒れてきた、あの女性だ。だが、今になってよく見ると少し違った印象を受ける。女の子だろうか。あの時はそんなに注意深く見てなかったから気が付かなかったが、10代後半くらいの若い女の子だった。僕より2、3歳年下くらいだろうか。そうなるとおそらく大学1年生くらいだろうか。
彼女は頬を抑えることなく、ゆっくり起き上がると、またしてもゆっくりとした足取りで、僕の遺影の前まで来て腰を下ろした。その間、友人や親戚は視線だけ彼女を追い、何も口にしなかった。そして、未だに父に抑えられている母は、懲りず彼女に飛びつこうとしていた。この中にいる誰もが、言外に彼女に帰れと言っているような気がした。
だが彼女はそんな視線も、母の声も気にも留めず、白く細い手で線香をあげる。
「ごめん、なさい。優斗さん。」
―――え?
今、彼女の声が聞こえた。確かに、ごめんなさいとそう聞こえた。
驚く僕をよそに、彼女はその場を立ち去ろうと、部屋の出口までくる。だがその時、母が近くにあった写真立てを彼女目掛けて投げつけた。
乱暴に放たれたそれは、運悪く振り向いた彼女の側頭部に直撃した。微かによろけた彼女は、右のこめかみ辺りから血を流しながら、依然として床に落ちた写真立てを拾い上げる。それは、いつの日かに家族で旅行に行った時に3人で撮った写真だった。近くにいた僕の友人に写真立てを手渡すと、彼女は一礼して、その場を後にした。
そして、また部屋の中には静けさが戻る。先程までとは違った静けさに。
わかる。
分かるさ。
今去って行った彼女は、間違いなくあの時交差点で倒れ込んできた女性だ。
そして、みんなは”彼女が僕を殺した”とそう思っている。誰一人、彼女を擁護しようとしないこの場の状況が何よりの証拠だった。
憎しみが。憎悪が。敵意が。すべて、あのか細い背中に伸し掛かっていた。
あの瞬間を、僕ははっきりと覚えている。死んだ瞬間を。
茹だる様な暑さの中、多くの人が信号待ちをし、その中で倒れた人がいた。それに押し倒された人がいた。そして、たまたま歩道から踏み出て倒れ込み、たまたま直進する大型トラックが来てしまった。
倒れたのは彼女で、押し倒されたのが僕で、その時たまたま引き潰されたのが僕だった。
ただそれだけだ。
それだけなのに、彼女はまるで人殺し扱いだった。
僕は不思議と彼女に悪感情は浮かばなかった。
僕が死ぬ原因を作ったのは、確かに彼女だ。しかし、それは偶然が重なってしまっただけの、どうしようもない事故だ。
トラックの運転手にしたって、いつもの配達ルートを通っていたに過ぎないのだろう。僕の脳裏にこびりつくクラクションとブレーキの音。あれは運転手が必死に事態を回避しようと対処した結果だろう。殺意や居眠り、ましてや交通上の違反はないように思える。
故にあの場に悪者は誰一人として居なかったと言える。
だから僕は、僕が死んでしまったと言う事実を仕方のなかったことだと受け止める。そして、同時にこの場に来た彼女に罪悪感を覚えてしまう。
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『ある夏のデキゴト。
外は記録的な猛暑で、朝の通勤時間、誰もが苦い顔をしながら道を進んでいた。
強制的に歩みを止められる信号待ちの歩道で、一人の女が意識を失って倒れた、
運悪くその前に立っていた男は、彼女と一緒に火傷しそうになるほど熱い地べたへと倒れ込む。
そこへ一台の大型トラックがクラクションを鳴らし、盛大なブレーキ音を立てながら突っ込んでくる。
―――その日、男は死んだ。
―――その日から女は―――
―――人殺しと呼ばれるようになった。』
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彼女は、悪者になったしまった。
僕があそこで死んでしまったばっかりに。
”ごめんなさい”と確かに彼女はそう言った。彼女の声だけが、僕に聞こえたのだ。はっきりと。
どんな思いここへ来たのだろう。ここへ来れば最悪、ああなることも予想できたはずなのに。
そんなことを頭の中に巡らせながら僕は彼女を追い掛けていた。
てっきり自由が効かないものだと思っていた身体は、まるで生前のように自在だった。
どうやら僕は、棺に眠る肉体にも生まれ育った家にも縛られていないようだ。
(そんなに遠くへは行ってないはずだけど)
家を出て左右を見渡し彼女の姿が見えない事を確認すると、駅の方角へと走りはじめる。
だが、彼女の姿は一向に見当たらなかった。
商店街を抜けるとすぐ目の前に駅が見えてくる。でも、そんな速くにここまで来られるのか?
(家へ来るのに電車を使わなかったってことか………?)
さほど長くない商店街を念入りに見張りながら進んだが見つけることが出来なかった。
ようやく彼女の行先に見当違いをしていることに気が付いたが、他の考えが浮かばなかった。
小柄な彼女の足取りなどたかが知れている。それなのに、追いつくどころか姿を見つける事さえできないなんて。
(………一度引き返すか)
初対面どころか、数秒間しか見ていない人間の行動パターンなど分かる筈もなく、とにかく辺りを見渡しながら来た道を引き返していった。
路線バスを使うにしたって家からだいぶ離れた場所にあるし、そんなに本数も多くないから大抵は電車を利用する人が多いのだ。
そうなるとあとは、タクシーだろう。
仮説として、もともとタクシーで来ており、外に待たせていて、それに乗って帰ってしまった可能性がある。
そうなるともうお手上げだ。彼女が家にもう一度来ることなんてもうないだろう。この機を逃せば彼女に会う機会がほぼ無くなってしまう。
自分が死んだ事は理解した。だけど、今胸にあるこの痛みは、どうしようもなく向ける矛先が分からなくなってしまった。




