(26)渚の申し出
雨音と別れてから晴太は先程の会話を思い返していた。果たしてあれでよかったのか、もっといい言葉があったのではないか。しかし同時に、そんなに考え込むようなことではないのではないかとも思った。何よりあの時雨音は笑っていた。いくら出会ってから日が浅いと言っても、笑顔の種類ぐらいは見分けが付く。あれは間違いなく本当に嬉しいときの笑顔だった。と、結論が出たところで教室のドアが開いて渚が入ってくる。
「あれ?何かいいことでもあった?」
渚は晴太の顔を見るなり尋ねる。晴太は「ちょっと考え事してただけ」と答えて渚の顔を見る。本来ならばここで渚に聞かなければいけないことがあったが、彼女の表情を見てすぐに分かった。嬉しさを隠しきれない、そんな笑みを浮かべていたからだ。
「合格かな?」
代わりに晴太はそう尋ねた。すると渚は笑みを一層深めて嬉しそうに頷く。もしかすると渚も、合格という結果をどう伝えようか色々と考えていたかも知れない。いったん落ち込んだ振りをして見せようか、などと考えていたのかも知れない。しかし、どうやら溢れ出す嬉しさが勝ってしまったようだ。
「よかったね。努力がちゃんと実った」
それに対して渚は首を横に振る。
「久条くんのおかげだよ。追試ぐらいで大袈裟かも知れないけど、ほんとに……、一発で通るなんて思ってなかったし……」
追試の合否など、言ってしまえばそんなにたいしたことではない。特に今回は単位にも関わらないようだったし。だがそれが、勉強が苦手だと言っていた渚が自分で努力して勝ち取ったものなら喜びもひとしおだろう。
「まあ、役に立ててよかったよ」
晴太はなんだかホッとして、同時に肩の力が抜ける。
「それでね、お礼もかねて今度、ご飯でも行かない?いいお店知ってるんだ~」
ごく自然に、友達と遊ぶ約束をする時のような口振りで渚が言った。しかし、晴太にとっては一大事だ。まず何より緊張する。緊張することはしたくない。というかそもそも、晴太には彼女がいる。一応、ではあるが。おそらくこういう場合は断るべきなのだろう。しかし晴太はこういう場面で断るのが苦手だ。今まで不都合を感じなかったのはこういう場面に遭遇することがあまりなかったからだ。
「え?いいよ、お礼なんて」
と、言うのが精一杯だった。しばらくは言葉を濁しつつ振り切ろうとしたが、結局晴太は首を縦に振ることになった。まあ、雨音も仲良くするのは良いことだと言っていし、こういう申し出に乗っかるのも大事なのかも知れない。
「ほんと?じゃあ、今週末新栄の電停のとこにある広場で待ち合わせね?」
晴太の返事を聞いた渚は嬉しそうに言った。
そして当日。晴太は路面電車に揺られていた。出がけに夏希からどこか行くのかと聞かれたが、ちょっと本屋に行ってくると答えた。さすがに女の子と会いますとは恥ずかしくて言えなかったのだ。そういうときに便利なのが『ちょっと本屋に行ってくる』という言葉だ。不自然でないし、付いてこられにくい。まあ、中学校に上がってからは夏希の部活が忙しいため一緒にいる時間というのはかなり減ったが、それまではどこに行くにも付いてこようとして大変だった。今となってはいい思い出だが。
懐かしいことを思い出していると、終点の新栄街に到着した。晴太は電車を降り、広場の時計を確認する。待ち合わせ時間五分前。いつもより一時間も早く寝たかいがあると言うものだ。駅前のモニュメントの前には数人の男女が時計を確認しつつ誰かを待っているようだった。このモニュメント、球体のような、というか球体そのものなのだが、銀色の表面が太陽光を反射してキラキラと光り、その上台座から若干浮いているので高さがありかなり目立つ。そのため待ち合わせ場所として栄市民から重宝されている。
さて、と晴太はそのモニュメントの周囲を見渡すが、渚らしき人物は見当たらない。まあ、待ち合わせの五分前なのでまだ来ていなくてもおかしくはない。思えば一緒に勉強したときも普段の学校でも、晴太が着いたときにはすでに渚の姿があった。そのため、おそらくは晴太が渚よりも先に到着するなんてことは初めてではないだろうか。そう思うと晴太の顔は否応なくほころんでしまうのだった。が。
「久条くん!」
前の方から聞き覚えのある声が聞こえた。聞き覚えがあるどころか、渚の声だ。しかしさっき見渡したときには特にそれらしい人物は見当たらなかったはず。改めてモニュメントの周りを見ると、こちらに向かって手を振っている少女がいた。渚だ。見慣れない私服姿に加え、髪型もいつもと少し違っていた。普段は後ろで一つに結んでいる髪を、今日は結ばずに下ろしていたのだ。なるほどそれは気がつかなかったわけだ、と晴太は納得する。
「海守さん。もしかして待たせちゃった?」
「ううん、あたしが早く来すぎただけ。あたし早起きだから。その代わり夜はすぐ寝ちゃうけど」
渚は少し笑いながらそう言う。晴太は「僕と真逆だ」と笑った。
「さて、そろそろ行こうか。もういい時間だし」
渚は時計を確認する。確か今日はいいお店を教えてくれるということだったが、果たしてどんなお店だろうか。晴太は渚の好き嫌いなど全く知らないので、正直見当も付かない。あれやこれやと思いながらも晴太は渚と並んで歩き出す。
「広場の丸いやつさ」
「うん」
「あれ、タイトル何か知ってる?」
「知らない」
「球体って言うらしいんだけど……、そのまんますぎない?」
「確かに……球体だからね」
「う~ん、芸術ってよく分からないなぁ」
渚が難しい顔をするので晴太は思わず笑ってしまった。晴太自身、芸術に触れるのはわりと好きだが、芸術を理解しているわけではなかった。
「あ、でもあたしは結構好きなんだよね、あれ。なんか丸くて綺麗だし」
そう言ってから渚は「あたし今バカっぽいこと言っちゃったね」と笑った。晴太もつられて笑う。
「でも、案外、それが正解だったりして」
「というと?」
渚は首をかしげる。
「意味を持たせたというよりは、単に綺麗さとか、収まりの良さを意識して作られたのかも知れないってこと。遊び心だったり、あえて意味を持たせなかったり、意味を理解することだけが芸術の見方じゃないのかも知れないなぁと思って」
「わぁ、なんか芸術家っぽい!」
「それは……褒めてるの?」
「もちろん!やっぱり久条くんはすごいなぁ」
どうやら本当にそう思って言っているらしい。晴太としてはスルーしてくれて構わないくらいだったが、そこが渚の素直さというかなんというか。彼女のいいところである。
そんな話をしつつ、晴太と渚は新栄の街を歩いて行く。新栄町は島の中央より少し南側に位置し、さらに南に行くと漁業区、北には旧市街、東に工業区と西には山が広がっている。が、晴太にはどこをどう進んでいるのか全くは分からなかった。それは晴太が一年前に越してきたばかりだからというのもあるが、晴太の家があるのは旧市街の外れで、漁業区の方には来ることがないというのが大きい。そんな晴太をよそに、渚は勝手知ったるといった具合にずんずんと進んでいく。そして一軒の店の前にたどり着いた。大通りから一本入った場所にあり、黒を基調とした中々おしゃれなたたずまいである。
「……って、ラーメン屋さんか」
『らーめん専門 uoiti』
頭上の看板に書かれた文字を見て晴太は思わず呟く。
「まずかったかな……?」
渚は少し心配そうに尋ねるが、晴太はむしろホッとしていた。女の子からの誘いなので、なんかそれっぽいカフェとかだったらどうしようかと思っていたのだ。だが、ラーメン屋であれば気軽に入れそうだ。
「いや、ラーメンは結構好きだよ」
晴太がそう答えると渚は「よかったぁ」とホッとした表情を見せた。
「じゃあ、注文決めていこうか」
それから渚は入り口横の壁に貼ってあるメニューに目を向ける。
「っていうかもう、あたしは決まってるんだけどね」
「これ」と渚はメニュー左上に一番大きく書かれた魚介豚骨の文字を指さした。
「ここにはよく来るの?」
「うん。よく来るっていうか、来てたっていうか。実はこのお店、昔からあるとこなんだけど、最近店主が替わったとかでリニューアルされたの。だからリニューアルされてからは初めてって感じかな。外装が結構変わってて、一瞬分からなかったけど」
「そうなんだ。あ、じゃあ僕はこの鰹ラーメンってのにしようかな」
魚介豚骨と比べて表示は控えめだが、店長のオススメと書かれている。店長がオススメするということは、利益が出やすいか力を入れているかの二択だが、まあどちらも晴太にとってはどうでもいいことだ。晴太は単純においしそうなのでそれを選んだ。しかし鰹ラーメンとはあまり聞かない名前だが、一体どんなものなんだろうか。
「uoitiって魚市場の魚市だからね。店名も前は漢字で『魚市』だったんだけど、リニューアルで味まで変わってなければ美味しかったはず」
魚市場の魚市か、と納得して、晴太はここが漁業区と新栄町の間に当たる場所だということを思い出した。ずいぶんと外れの方だなと思っていたが、魚を仕入れるため漁業区に近い方が都合がよかったのかも知れない。
「とりあえず、入ろっか」
「そうだね」
渚が入り口の扉を引いて中に入る。それに続いて晴太も中に入った。店内に足を踏み入れた途端、ラーメンの美味しそうな香りが鼻をくすぐる。
「いらっしゃいませー!!!」
同時に店員の声が店内に響き渡る。オシャレな外装とは打って変わって、ラーメン屋らしい非常に威勢のよいかけ声である。特にこだわりがあるわけではないが、ラーメン屋の威勢がいいとなんだか妙に安心するなぁと晴太は思った。
「二名様ですか?」
「はい」
店員の問いかけに渚が頷く。
「お好きな席にどうぞ~」
店員はそう言うと奥に引き返した。
「結構混んでるね……。カウンターでもいい?」
「いいよ」
晴太はそう答えてから店内を見回す。それなりに広さがあるにもかかわらず、テーブル席はあらかた埋まっていた。お昼時なのでスーツや作業服姿の男性が目立つ。
「いつもこんな感じなの?」
カウンター席に渚と並んで座ると、晴太は尋ねる。
「う~ん、ここはいつも人が多いけど……、今日は特に多いかも知れない。やっぱり新しくなったからかな?」
「そうかもね」
店員が二人分の水とお手ふきを持って来た。晴太と渚はそれぞれの注文を伝える。注文を聞いた店員は再び厨房へと引き返していった。晴太は水を一口飲む。
「あ、あのさ?」
おもむろに渚が切り出した。
「なに?」
「えーっと、その…………あっ、あのね、あたしのお父さんって漁師なんだ」
その前に何かを言いかけてやめたようだったが、晴太は特に追求しなかった。
「お父さん漁師なんだ。なんか意外かも」
「でしょ?よく言われるんだ。でもまあ、普通はこんなものだよね。むしろ漁師の娘っぽい女の子ってどんななのって」
「はは、確かに」
例えば警察官の子供は逆にぐれているイメージがあるが、それは映画やドラマの影響だろう。こうだからこう、そうである可能性が高い。事実に基づいていたとしても所詮はイメージに過ぎない。そのイメージが見当違いなこともあるし、イメージされる側が特殊である場合もあるだろう。
「そういえば、魚守さんがラーメン好きっていうのも意外だったな」
晴太がそう言うと、渚は「あー、それもよく言われる」と苦笑した。
「あたしに言わせれば、ラーメンが嫌いな人なんていないでしょって感じなんだけどね」
「あ、でも僕、昔はメンマが苦手だったな。スジが残るのがどうしても……」
「あ~、そういえばあたしもメンマ駄目だったなぁ。ま、あたしの場合はラーメンと一緒に食べてから、大丈夫になったけど」
「え?でもさ、ラーメンの具以外でメンマ使うことってある?」
「え?うちでは色んな料理にメンマ入ってるけど……」
晴太と渚は互いに顔を見合わせる。
「久条くん家はメンマ使わない家庭なんだねぇ」
「いや、使わない方が一般的だと思うよ」
メンマの話で盛り上がっていると注文したものが運ばれてきた。晴太の前には半透明の茶色いスープ。渚の前には麺が見えないほど白濁したスープが置かれる。渚はまずレンゲでスープをすくって一口啜る。晴太は麺に手を付けた。
「美味しい?」
晴太が麺を飲み込むのを待たずに、渚は尋ねる。
「うん」
晴太は咀嚼しながら頷いた。鰹出汁がうどんを彷彿とさせるが、細いラーメンの麺との相性も中々だった。あっさりした味も晴太の好みにぴったりとはまる。
「これは、また来たいかも」
晴太は口の中のものを飲み込むとそう言った。
「ほんと?よかった!」
渚はまるで自分が褒められたかのように喜んだ。
「また来ようね!」
「ん?ああ……うん」
渚にそう言われ、一瞬戸惑ったが、晴太は頷いた。『また来たい』とは、一人で来ることを想定して言ったのだが、ここでそれを言うのも野暮だと思ったのだ。
ここまで読んで下さってありがとうございます。どこで切ったらいいか迷った結果これくらいの文字数になりましたが読みにくくはなかったでしょうか。最初は2000文字ちょっとにするつもりだったのですが、やっぱり短すぎるかなと思い、増やしました。
番外編を書いていたのを忘れてて、もしかすると変な順番で投稿することになるかも知れません。申し訳ない。




