(24)晴太と渚の一日
土曜日の午前九時半。晴太は学校の廊下を走っていた。そして図書室のドアの前まで来ると息を切らせながら引き戸に手を掛ける。が、すぐには開けずに少し考え込んだ。それからゆっくりと戸を開くと、上半身だけ入り込ませて室内の様子を確認する。カウンター前の大テーブルでは数人の生徒が教科書やノートを見ながらペンを動かしている。その一番奥の席に一人の女子生徒の姿があった。晴太は室内に入り、音を立てないように戸を閉めると恐る恐るその少女のもとへと向かう。
「あの……海守さん」
「あ、久条くん。遅かったね、ちょっと心配しちゃったよ」
渚はどこかホッとしたように言った。どうやら遅れたことに関しては怒っていないらしい。
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃって……」
待ち合わせ時間は午前九時。三十分の遅刻である。しかし渚はそれほど気にしていないようだった。
「久条くん、いつも朝ギリギリだもんね。もしかして朝弱い?」
「実は」
「へぇ~。なんか意外!久条くんにも苦手なものとかあるんだね」
「そりゃあ、もちろん。むしろ苦手なものしかないよ」
晴太がそう言うと渚は「それは謙遜しすぎ!」とはにかんだ。
「久条くんが勉強得意なのを見込んで先生をお願いしたんだから。あたしの夏休みの為にもね」
「夏休み?ああ、そういうことか」
それを聞き晴太は妙に納得する。と、いうのも、この学校は一応進学校なので夏休みが始まって二週間ほどは課外がある。だが一応夏休みなので課外は昼過ぎには終わるのだ。部活などしていなければ午後からは自由となるが、追試をクリアしなければその時間がなくなってしまうというわけだ。とはいえ、毎日追試があるわけではないので、それ以外の日は普通に午後から休みなはずだが。まあ夏休みが少し潰れるというだけでテンションが下がってしまうものなのだろう。そんなことを考えながら晴太は渚を見た。彼女は「まあそれもあるけど……」と口をもごもごさせるが、すぐに明るい表情になる。
「それよりさ、座りなよ。一人じゃどうも集中できなくて……。ぜんぜん分かんないし」
渚の前には数学の教科書とノートが開いた状態で置いてあるが、ノートは真っ白だった。晴太は椅子を引いて座ると、鞄から自分の教科書とノートを取り出す。
「いつもは友達とかとしてるの?」
「いや、まあしてるっていうかしてないっていうか……。でもする時は一人が多いかな。友達と一緒だと喋っちゃうし。久条くんは?」
「僕も一人かなぁ。あ、でも最近は……」
最近は雨音と勉強してた。と言いかけてやめた。一応二人の関係は隠しているわけだし、それに、女の子と一緒に勉強してるなんて言うのが何となく恥ずかしかったというのもある。まあ、それを言えば今まさに女の子と一緒なのだが。
「最近は……?」
「いや、何でもない。それより、どの辺が分からなかったの?」
晴太は話題を変える。幸い、渚もあまり気にしていないようだ。絶望したような顔で分からないところを伝えた。
「何て言うかもう全部」
12時過ぎ。今日は学食も購買も空いていないので、晴太と渚は近くの店でお昼を調達した。土曜日の誰もいない教室、二人は窓際の席に並んで座っていた。吹き込む風が二つの袋をかさかさと鳴らす。晴太はもぐもぐと口を動かしながら窓の外を見る。透き通るような青空だ。遠くに盛り上がる入道雲が夏の訪れを告げている。
「久条くんってさ、結構女子力高いね」
不意に渚が口を開く。
「…………なんで?」
晴太は口の中のものを飲み込んでから聞き返した。
「だってそれ、パスタサラダって」
「ああ……。野菜好きなんだよね」
晴太は視線を落とし、苦笑する。ささみのパスタサラダ、税込み265円。とてもヘルシーである。もちろん晴太はヘルシーに惹かれたのではなく、野菜に惹かれて買ったのだが。
「そういう魚守さんは……結構ガッツリいくね」
晴太は渚の手元を見て言った。国産豚のカツサンド、税込み285円。パンよりカツの方が大きく、食べなくてもおいしいんだろうと分かる。
「家では魚が多いから、外では肉が食べたいんだよね」
渚はそう言うと大きく口を開けてカツサンドにかぶりついた。
「そうなんだ」
晴太もパスタサラダを口に運ぶ。それからしばらくは二人無言で食べることに集中した。
「久条くんってさ、すごく偉いよね」
渚が不意に口を開く。
「…………なんで?」
昼食を食べ終わり、心地いい風にウトウトしかけていた晴太は、はっとして目をぱちぱちとする。
「だってさ、いつもこんなことしてるんでしょ?勉強して、お昼食べて、また勉強する。あたしこんなに集中して勉強したのたぶん生まれて初めてだよ」
渚が大袈裟な調子でそう言ったので晴太は苦笑した。
「まあ、僕も今日は集中できた方だよ。もともと集中力はあんまりないタイプだし……。だからこそ、時間を掛けようと思ったんだけどね。集中できないなら時間を掛けるしかないって」
量より質、という言葉がある。だが、正直晴太の勉強の質はあまりよくなかった。気付くとボーッとしていることも多いので、これはもう量で稼ぐしかないと思ったのだ。
「でも偉いと思う。だって普通は集中力ないから勉強向いてないってなっちゃうもん。そこを、じゃあどうすれば勉強が出来るだろうって考えるところが偉いと思う」
「そう……かな?」
「そうだよ!だからもっと自信持っていいんだよ!」
真っ直ぐに渚は、晴太の瞳を見つめる。思わず晴太も渚の瞳を見る。窓から風が吹き込んで、渚の髪の毛が揺れた。そしてしばしの沈黙の後、晴太は口を開く。
「えと……僕、そんなに自信なさそうに見える?」
「見える」
「そっか、そうだよね……」
同じ事を雨音にも言われたことがあるし、妹の夏希にもよく言われているのだ。『自信がなさそう』ではなく、『自信を持て』と。一体、自分は三人の目にどう映っているのだろうか。
「とはいえ自信……自信かぁ……。そんな自慢できるようなとこもないし……」
「まあ、これなら誰にも負けない!とか、そういう自信もあるけどさ、あたしが言いたいのはもっとこう、誰とも比べる必要のない自分っていうの?そういう意味での自信を持って欲しいわけだよ、晴太くんにはね」
「はあ……」
曖昧に頷く晴太だったが、言いたいことは何となく理解できた。
「自分は自分だっていう強さを持てってこと?」
「そういうこと」
「なるほど。なんかもっと難しい気がするけど……」
誰にも惑わされない。左右されない。そもそも比べる必要すらない。なぜなら他人と自分は違うのだから。簡単なことだ。だが、それを踏まえて生きるのはとても難しい。晴太も常々そういう風に生きられたらなあと思っているが、頑張れば出来るようなものではないこともよく分かっていた。
「あたしはね、他ならぬ久条くんだから言ってるんだよ」
渚はそう言って人差し指を立てた。
「僕?なんで?」
「そう、久条くんにね、見いだしてるわけ。無限の可能性ってやつをね」
渚がいたずらっぽく言うので晴太は思わず笑ってしまった。
「なにそれ?世界を救うとか?」
晴太も冗談っぽくそう言ったが、渚は急に真面目な顔になる。
「世界も……救っちゃうかもね」
「え?どういうこと?」
渚が思いの外真面目な顔で言うので晴太は驚いて尋ねるが、渚は小さく微笑んで「何でもない」と答えるだけだった。
「それより、そろそろ図書室に戻ろっか。今思い出したけどあたし、結構ピンチだから」
渚は黒板の上にかかっている時計に目を向けた。つられて晴太も時計を見る。14時前、二時間近くも休憩してしまった。図書室が使えるのは17時までだが、ピンチな時ほど時間が経つのは早い。渚の言葉に頷き晴太は机の上を片付け始める。
空はまだ十分青かったが、影の具合からか、それとも微妙な色の変化か、日が傾いているのが分かる。17時ちょっと過ぎ、チャイムの音を背に晴太と渚は校門へと向かって歩いていた。
「今日、いい天気だね。今更だけど」
歩きながら渚が言う。
「ほんとだね、今更だけど」
会話はそこで途切れて、気まずい沈黙が流れる。
「えっと……」
先に口を開いたのは渚だった。
「久条くんは電車出来てるんだよね?」
電車とは、魔力を魔力効率を上げる魔方陣に流し込むことで大人数の輸送を可能にした便利な乗り物である。今は魔力を流し込む運転手が不可欠だが、水の発明によって無人輸送も可能だと言われている。
「うん」
「どこ行き?」
「新栄町」
「そっか、あたしは漁業区行きに乗るんだ」
「あ、そうなんだ」
栄市は南北に路面電車が走っているのだが、南に向かう路線は途中で二つに別れている。一方は旧市街を通って、新栄町へ。もう一方は工業区を通って漁業区へと向かう路線だ。そして再び沈黙。今度も先に口開いたのは渚だった。
「えっと、じゃあ……電停まで一緒に行こうか?」
「そ、そうだね」
晴太はどもりながらそう答える。最近雨音と話すことが多いので、女の子との会話もある程度慣れてきたのではないかと思っていたが、やっぱり人はそう簡単には変われないらしいことを晴太は痛感した。
電停に着くとちょうど渚の乗る漁業区行きの電車が来ていた。
「じゃあ、あたし行くね?明日も……同じ時間に」
「うん。明日は遅れないようにするよ」
「ふふ。頑張って起きてね!」
渚はそう笑って、電車に乗り込んだ。それを見届けてから晴太は何となく空を見上げる。青空だ。ここ数日天気の悪い日が続いていたので、久しぶりに青空を見た気がする。よく見ると学校にいたときよりも西の方がオレンジ色に染まっていた。そして晴太はそのまま今日一日のことを考える。今までの人生の中でもかなり濃い一日だった。思えばここ最近、今日のように密度の濃い時間を過ごすことが多い気がする。特に女の子と。
「……雨音か」
晴太の口から自然とその名前がこぼれる。ここ最近のあれこれを思い返すとき、最後に行き着くのは決まってあの体育祭の前日、雨音と初めて言葉を交わした日だ。それに、水のこともそうだが、今回の渚とのことも、間接的にではあるが雨音が関わっている。もしかすると雨音は出会いの女神か何かなのではないか。そんなアイディアが頭に浮かんで、晴太は思わず笑ってしまう。しかしまあ、今はそんなことを考えている場合ではない。渚を何とか合格に導いてやらなければいけないのだ。そうして晴太は改めて、これからの数日間をどうするか考える。
おはこんばにちは、志賀です。昨日に引き続き更新です。読んで下さった方、ありがとうございます。次回投稿も是非また見にいらして下さい。




