第三話 白い魔女の囁き ~Magic waltz~ 後編
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清水刑事は柔らかな口調でそう言っていたが、壁に突き立てられた手は断固としてそこを通さないという意志を発している。口元には半ばまで灰になった煙草。
「あんた、誰だ?」サキエダの硬い声が問う。
「ん? ああ、そうか、君とは初対面だったね、枝崎、誠志くん。僕は西要町で起きている連続通り魔事件を担当している清水というものだ」
そう言ってドラマのワンシーンのように警察手帳を開く清水刑事をあたしたちは呆然と見ることしか出来ないでいた。ポケットの中で携帯電話が振動して誰かからの着信を告げていたが突然の状況に気が動転していてそれどころではなかった。
どうして今、ここに清水刑事が? 何故サキエダの名前を? 頭に浮かんだ疑問符は即座に合わさって一つの仮説が浮かび上がってきた。張り巡らされた罠にまんまとかけられてしまったような苛立ちと共に、あたしの口は勝手に動いていた。
「……あたしたちを監視していたんですか?」
「おやおや、優木さん、そんな怒った声を出さないでくださいよ、それに人聞きも悪い。仕事ですよ、仕事。警察は市民の生活を守ることが使命であり、こと本件に限っては人死も出ているからね。優木さんは重要な目撃者ですから、定期的に警官にパトロールさせていたんですよ。今日は帰りが遅いようだったので心配して見に来たんです」
「……」あたしとサキエダはなんと言えば良いのか分からず押し黙るしか出来ない。
どこまでが建前でどこからが本気なのか、清水刑事の口調からは察せないが、状況が悪い報告に向かっているという嫌な感覚があたしの胸の奥に重たく横たわる。そして次の瞬間には、別にやましい事をしているつもりはなかったが、自分の知らないところで「見られて」いたことの不気味さが迫り上がってきた。清水刑事はあたしたちの行動のどこまでを知っているのか? 何を考えてあたしを監視していたのか? 先ほど言っていたことが全てではないだろう。先程とは違う現実的な脅威に汗が吹き上がってきた。
「それで、優木さん、こんな時間にどちらに?」
「……さっきまで遊んでいて、これから家に帰るところです」有無を言わせない清水刑事の口調に押されて適当な理由を紡いだが、ここまで追ってきている以上、きっと信じてはくれまい。
「そうなんですか? 随分遠くから歩いて来られたみたいですけど、そんな遠くまで、しかも歩いて遊びに? 随分汗もかいていますね。……あーいえいえ、疑っているわけではないですよ、でも別にお祭り事があるわけでもないのに、高校生が夜に何しているのかなぁ、とね」
「デートですよ、デート。今時の若者のデートってやつです。遊園地なんて行かなくても一緒にいるだけで楽しいもんなんですよ? あと、プライベートなので、あまり詮索はしないでくれますか?」そう言ってサキエダの手を握って掲げて見せた。
「ああ……そう、デート、ね……」
案の定、食い下がるように質問を続ける清水刑事に適当な理由をぶつけて時間を稼ぐ。論理的に考えて、清水刑事はあたしが犯人またはその一味である可能性を疑っている、つまりは事件の容疑者として調査しているということなのだろう。そして、あたしにはその可能性を否定する材料はない。事件の目撃者は今のところあたししかおらず、しかも仮にここ最近の蒼と進めている調査のことが知られているとすれば、その姿は間違いなく怪しくみえる。次の事件を止めたいのは警察も同じであり、怪しくは罰せよ、というわけではないにせよマークしていた、といったところだろうか。
「ぁ」
思考の過程で思い当たった危うい落とし穴に思わず声が出そうになったがしかし、その声は声帯が震えてから口の外に出る前に、反射で気に閉ざされた唇によって圧殺されていた。
落とし穴はあたしの背負っているエナメルの部活バッグに入っていた。西条兄妹から貰った西要町の調査マップだ。調査対象の名前と結果の書き込まれたそれは見方によっては次の獲物候補を探しているようにも見える。或いは通り魔を追っている事がバレたとしても結局調査の継続は難しくなる。どちらにせよ、清水刑事に調査マップを見つけられるわけにはいかない。シャツの下を伝う汗の感覚が嫌にはっきりと感じられた。思わず一歩退いた脚の下で木の枝がパキッと折れる音が鳴った。
「そうだ、すぐそこに車がありますから、そこで話しませんか? ほら、二人共汗だくじゃないですか。日が落ちたとは言え、最近は立っているだけで汗が出てくるほど暑いですからね?」
「いえ、そんなに話すことはないですから……つッ!?」追求から逃れようと身を翻して歩きだそうとしたあたしの手首を清水刑事が掴んだ。壮年の見た目に反してその力は、強い。
「僕にはあるんですよ、優木さんから聴きたい話が」刑事として刻まれた年輪の様な深い皺の奥、鋭く細められた目は街灯を小さく反射した。
「あれー、ユッキーじゃん! やっほー! 今日のところは終わったみたいだねー。あらあらー、サキエダと手を握っちゃってラブラブだねぇ! ユッキーめ、羨ましい奴め、このこのー!」
突如背後から響いた陽気でハイテンションな声は、振り返らなくても葵子のものだとすぐに分かった。
「葵子、何でここに?」首だけ振り向きながら訊く。
「えーやだなユッキー、今日は一緒にごはん食べる約束をしていたでしょう? 二人でデートに行ってからなかなか帰ってこないからイチャイチャしすぎて忘れてるのかなって思って電話したけど出ないから仕方なくGPSを頼りにえっちらほっちら迎えに参上した次第なのですよ。偉いでしょ?」
「えっ? ご、ごはん? ああ、そうだったっけ?」
「あーほらもう忘れてた! まったくユッキーは悪い子ねー、ギューってハグしてくれたら許してあげるよ! さあ、さあ!」
そう言って両手を広げて笑顔で近づいてくる葵子の勢いに圧倒されたのか清水刑事の手が緩んだ。そのスキを突いて拘束から抜け出し、振り返ったあたしの胸に頭突きをするように飛び込んできた小柄な葵子を受け止める。みぞおちへの衝撃に少しむせそうになったが、文句の念は胸元から聴こえてきた普段聞かない葵子の極小の囁きでかき消された。
(ユッキー、状況はよく分からないけどちょっと危なそうだからとりあえず事務所に戻ろう?)
「え、ああ、えーと、ごめんね~ごはんのこと、すっかり忘れてて。葵子は偉い!」葵子の意図を察して話を合わせる。
「ええっと、君は?」先ほどの勢いを失った清水刑事が呟くように問う。
「ん、そう言う強面のおじさんこそ誰ですか? 僕はただの葵子ですよ?」
「葵子って……、僕は刑事……」
「えー、そうなんですか!? ユッキー、何か悪いことでもしてたんですか? あっ、ユッキー、もしかして今夜一緒にごはん食べられないの? 急用で取り込み中で難しそうなの? そうなの? 折角ごはん炊いて用意していたのにぃ〜」不服そうな表情で両手を上下にフリフリと動かして清水刑事に詰め寄る葵子。
「ああ、いえ、別に悪いことをしたわけじゃなくて、ただお話をですねー……」
「なーんだ、それなら良かった! じゃあ話は今日じゃなくてもいいですよね、刑事さん! ささっ、さっさと帰ってごはんにしようよーユッキー、お兄ちゃんもお腹空かせて待ってるしね!」
畳み掛けるように喋る葵子に話の腰を折られて勢いを失った清水刑事は口をモゴモゴさせて対応を考えあぐねているようだった。今がチャンスだ。
「じゃあ、あたしたちはこれから夕飯なのでもう行きますね」
「そう……、ですね。先約されていたご友人たちを待たせるわけには行きませんですし、話はまた今度、聞かせてくださいね」
苦虫を噛み潰した様な顔をした清水刑事を尻目に、未だ状況を掴めていないサキエダの手を引いてその場を後にした。
清水刑事の姿が見えなくなってからも葵子はさも自然な様子を装って収集したオカルト情報を得意げに話し続けた。或いは演技ではないのかもしれないが、兎に角、葵子のファインプレーによってひとまずの危機は去ったのだった。とは言え、西条兄妹の家に到着してドアを閉めるまでは気が休むことはなかった。今日一日で神経が随分摩耗した気分だ。
バタン、と閉めたドアを背にして思わずしゃがみこんだあたしとサキエダを蒼が「お疲れ様」と軽い調子で迎えてくれた。彼らがどうやってあのタイミングで駆けつけることが出来たのか、葵子は携帯電話のGPSと言っていたが冷静に今考えれば、あの場所は事務所からそんなにすぐに駆けつけられる距離ではなく何かしらのカラクリがあるに違いなかったが、疲れ果てた今それを確認する元気は最早残っていなかった。
「助かったわよ、ありがとね、葵子」
「……一応、僕も働いたんだぜ?」蒼は少し不服そうだ。
「ふっふっふっー! 持つべきは良き友だってことだね! いえーい、我々アミーゴ! ほら、ユッキーとサキエダも!」両手の親指をあたしとサキエダに突き出しながら陽気に言う葵子。
「俺もやらなきゃいかんのか、それ……」
「勿論! いえーい、アミーゴ!」
○
「警察が僕らを疑っていることは間違いないな」
冷たい飲み物を飲んで落ち着いたところで蒼が口を開いた。
「そうですよね……」あたしの落ち度でこんな事態になってしまったように思えて弱々しい声ができた。しかし蒼は気にした様子もなくいつも通りの調子で言葉を紡いでいく。
「だが、かと言って調査を止める訳にはいかない。時間は残り僅かだからだ。それは君たちが一番分かっているだろう? ではどうすれば良いか? 残りの日数と警察の監視を考えると調査は間に合わない可能性が出てくる」
「虱潰しはここまでで、あとは犯人に当たりをつけてダイブするしかないってことだね! 場に出ているカードが分からない状態でのドヤ顔オールインを決めてやろう!」
「そういうことだ。しかし、今のところ僕らは犯人の当たりをつけられるほどの手がかりを持っていない。しかし、時間はない。どうするか? これまで君たちに見てもらってきていた人間は候補から外すとして、まだ数十人の候補者が残っている……」
いつも滑らかな蒼の言葉はそこで濁った。眉間にしわを寄せて何処かに考えを巡らせている。手がかりは多くなく、今はそれに加えて時間もない。目の前の私立探偵の頭の中では現時点でできるだけ成功確率が高くなる次の行動を考えているのだろう。
「うーん、お兄ちゃん、もしかして結構悩んでる? 難しい感じ?」ひよこのように手首から先だけをぴよぴよと動かしながら葵子。
「そうだな。何か当たりをつけられる手がかりさえあれば良いんだが……」
清水刑事の突然の出現で頭が混乱していたが段々と調子が戻ってくる。
マイランドの出来事は不可解に過ぎた。異世界の幻覚。喫茶店マイランドで起きた事と感じた悪寒を思い出し、体が震えたが手を握り締めて、耐える。今ある唯一の手がかりはそれだけだった。客観的な証拠のない頼りない手がかりだったが、帰り道で考えていたことを話す決心をする。兎に角それにすがるしかなかった。
「手がかり……なら、多分、あります。あんまり確信は持てないけど」
「なるほど、そうか……。しかし、だとすれば或いは……だが一体何故わざわざそんなことを……? 何を考えている?」
あたしとサキエダの体験した話を聞いた蒼は思いの外あっさりとそれを受け入れてくれたようだった。
今回もまた、避けがたい未来の夢のことは結局言わなかった。マイランドでの話を信じてもらえなかったら白状する覚悟だったが……幸か不幸か、これでまた言い出す機会を失ってしまった。
或いは避けがたい未来の夢を演出している存在にそう仕向けられている可能性もある。だとすればあたしは何処までも誰かの計画の中で踊らされている人形に過ぎないのかもしれない。それは考えすぎだろうか? 突然湧いてきた疑問が少し気になったが、疲れているせいかそれ以上思考は進まなかった。
蒼は何か思い当たる事があるのか、先程よりも眉間の皺を深くしながらブツブツとつぶやき、虚空を眺めながら部屋の中を歩き回り始めた。その姿は何かに取り憑かれたようで、先程あたしの感じた異世界が溢れだしてきたかのような不安にかられたが、別にそういうわけじゃなさそうだった。
「おーい、何か分かったの?」と、葵子。
「……いや違う、そうじゃない。干渉する理由は……」
「あー、ダメだわユッキー。お兄ちゃん、こんな状態になったら暫く戻ってこないよぅ。でも良かったんじゃない? 僕にはわからないけど、さっきの話が多分何かの手がかりにはなりそうってことなんだから、地道な調査の甲斐があったってもんだね! 良かった良かったー。あっ、そういえば二人ともご飯は食べた? さっきまで食べてたパスタの残りくらいだったらあるけど?」
「あー、食べたい。夕飯も食べてないし、なんだか今日は疲れたし……。サキエダは?」
「良いのか?」
「勿論! いえーい臨時晩餐会だぜー」
悩むことは尽きないが、このひと時だけはゆっくりしようと思った。悩み続けるには人間の脳は小さすぎるのだ。もう時間はない。休めるときに休んでおくのが吉だと、誰かが言っていた。あたしもそうしたいと思った。
たぶん、明日から先は、身を焦がすほどの焦燥と時間との戦いになる。避けがたい未来なんて見なくとも、その未来をあたしは容易に予測できた。そして翌日、その予測はあたしの想定をはるかに上回る、最悪な結果となって表れることになった。
○
翌日、八月十六日。窓の外からしんしんと降る雨の音と、それを蹴散らして走り抜けていく自動車の音で目が覚めた。目覚めは重かった。
リビングのテレビを点けて天気予報をチェックする。今日の天気は終日雨、明日は曇りで明後日が晴れ。そして明後日は満月だった。期限はあと二日しかない。あたしは不安感の中、家を出た。
朝十時。学校の近くでサキエダと合流し、商店街の店が開き始める時間帯になったのを見計らってマイランドに向かう。昨日の日付が変わる頃、蒼がマイランドの調査を決めたのだ。昨日の一件もあり、あたしたちは再びあの奇妙な幻覚に随分と警戒して行ったが、しかし幸か不幸か、ドアにはクローズの札。緊張が抜けて脱力気味にドアを見ると下の方に小さく午後五時から営業と書いてあるのを見つけた。
試練の時は少し先延ばしにされたようだったが、それは何というか学校の定期試験が一日後にずれたような感覚で、つまり苦しむ時間が伸びたかのような胸の重たさを感じた。短距離走者のあたしにとって、継続的な緊張や集中は得意とするところではない。あたしは中長距離用のトラックにまんまと誘い込まれているんじゃない? 今自分が走っている道が見えない相手によって用意されたような、不安な気持ちがよぎる。
足元に不安を感じたまま最速のペースで走れるの? 選択肢のない状況だ。足元がどうであっても……、最善を尽くして走るしかないのだ。
「閉まってるな……、どうする?」部活を休んで昼間から駆けつけてくれたサキエダが困った声で聞いてくる。
「そうねぇ……、このままここでずっと待っているわけにもいかないだろうし……、そうだサキエダ、最近行けてなかったけど顕のお見舞いでも行かない? このところ行けてなかったし、あたしたちがやっていることも、伝えなきゃいけないかなって」
「お見舞いか……そうだな、あいつもきっと暇しているだろうし、なにより犯人がもうすぐ捕まるって分かれば少しは元気になるだろうしな。それに俺はともかく、優木が来てくれるのは喜ぶんじゃないか? ああそうだ、何か果物でも持っていくか? だったら俺の家に寄っていこうぜ。実家が八百屋なんだ」
サキエダは普段よりも口数多かった。もしかしたら深刻そうな、気が進まなそうな表情を知らず知らずのうちに浮かべてしまっていたようだ。不器用なサキエダらしい気遣いなのだろう。
病院までのアスファルトの雨で濡れていた。雨が降っていても元気な蝉の声は木々から漏れ聞こえており五月蝿いことこの上なく、しかしそれは異常な事態の中にいるあたしにいつもと変わらぬ夏の日常があたりに満ちていることを教えてくれた。異世界は人間の頭にのみあるのかもしれない、と哲学者のような言葉が頭に浮かんだ。あたし達は湿った大気の中を歩いていった。
「そんで佐藤がさ……」
「はは、まったく、あいつらしいな。牧野はどうだ?」
あたしとサキエダと顕は病室で他愛もない雑談をしている。病院食が不味いだとか、大学受験の勉強とか、話題は思いつくままに移ろって行ったが、大体は大会を控えた体操部の練習の話だった。部活の話をしているサキエダと顕は何処にでもいる男子高校生のようで、事件などなかったという幸せな錯覚を憶えさせてくれる。顕の表情はまだ弱々しいが、話している間は時々笑いもしたから、傷も多少は回復してきたのかもしれない。彼らの話の部外者であるあたしは少しの疎外感を憶えながらその様子を見ていた。どんなふうに顕に話を切り出せばいいかを迷いながら。
顕のいる病院に行くのはおよそ半月ぶりだった。調査が忙しかったのもあるが、それを理由に顕の見舞いに行くことを避けていたことは否定できない。
通り魔によって刻まれた顕の傷はすぐに治るものではない。しかし問題はそれよりも、精神的な傷だ。辛そうで、苦しんでいる顕にかけるべき言葉を部活バカのあたしは知らない。努力自体を奪われた努力家の顕の絶望を、知らない。あたしが見舞いを避けていたのは結局、寄り添って顕を支える自信がなかったからだ。
通り魔を捕まえれば事件は解決する。顕へ、「仇は取ったよ」なんて言うことも出来る。でも、それはあたしにとっての解決であって、顕にとっての解決じゃない。犯人を捕まえたって、顕の傷は治らないし、奪われた可能性も戻ることはない。あたしは自分にとって大切なことだけにしか目を向けてなかったのだ。つまり、自分の罪悪感を無くすことだけに腐心していたのだ。我ながらクソ野郎だと思う。
だが、調査を止めるつもりはなかった。自分の中にある避けがたい未来を完結させなければならないからだ。
通り魔事件と避けがたい未来、時期を同じくして起こった二つの悪夢。特別な何かを聴く通り魔の男。占いと言ってあたしたちを鐘の音が鳴り響く異世界に誘った黒髪のお姉さん。奇妙な不幸の連鎖は全て避けがたい未来の夢から始まった。だから事件を終わらせるためには避けがたい未来の夢を完結させなければならない。単純で説明性に欠けた考えだ。しかし、この結びつけは避けがたい未来の夢を見たことのあるあたししか出来ない。そのことが確信をより深くしていた。
そして、それは同時に自分の為でもある。あたしは色々なことに同時に集中できるほど器用な人間じゃなく、一つのことに全力疾走するしか能のないランナーだ。あたしにはスタートラインとゴールテープが必要で、今そのゴールテープは通り魔が握っている。あたしが次の一歩を踏み出すために、顕を支えられるようになるために、そのテープは切らなければならないのだ。
『……今年一月から続いている西要町連続通り魔事件ですが、犯人が捕まらないまま約七ヶ月が経過しました。警察は……』隣の病室の年老いた老人が聞いていたラジオから通り魔事件のニュースが聞こえた。
「通り魔かぁー。怖いねぇ。随分経ってるってのに、犯人も捕まならんし……物騒な世の中だね」誰に話しかけているかもわからない調子はずれの老人の声が響いてくる。
「ああ……そうだ顕、俺達は今さ、西条兄妹の探偵事務所と一緒に通り魔の犯人を追っているんだ」サキエダがそう切り出した。
「えっ?」顕の驚いた声。
「犯人の目星もついているんだ。今回の満月で、犯人を捕まえて事件は一件落着さ。もう、突然刺されて何かを奪われることなんてないんだ」
「そうそう。葵子も蒼もすごいんだよ。パソコンを使ってなんでも調べあげてきてくれるの。次の満月まで時間はないけど、あと少しでたぶん、この事件は終わるんだよ」
雪崩のようにそこまで喋ったところで沈黙が落ちた。顕の表情が硬くなっていた。
「……ろよ」
「ん? なんだって」サキエダが聞き返す。
「……やめろよ、そんな危ないこと! 死人も出てるんだぞ? 捕まえようとして殺されたら、元も子もないだろ……。犯人を捕まえたって、全部元通りになるわけじゃないんだぞっ。警察に任せて捕まるのを待っていればいいじゃないか!」
「警察が全然犯人を捕まえられないからやってるんじゃないか! このまま待ってたら数日後の満月にまた被害者が出るんだぞ。俺達で防げるならやるべきだ!」
「素人で高校生のお前たちに何ができるんだよ!?」
「何って……」
顕の言葉に興奮したサキエダが反論するが、それは火に油を注ぐようなものだった。客観的に見て、顕の言っていることは正しい。本来なら通り魔事件の捜査に高校生であるあたし達が出る幕ではないのだ。あたし達がこの件に関わっている理由は、ひとえにあたし自身のためだ。顕の正論を覆せる言葉を、あたしは持っていない。
時計を見る。午後三時半ちょっと前。行かなきゃならない。物事が上手くいってもいかなくても。未来は刻一刻と迫ってきているのだ。ここで言い争っても答えは出ない。どうあがいても、あたしは自分の信じた道を進むしかない。振り返って後戻りできる時間はもう、ほとんどないのだ。
「……時間、だから、今日はもう帰っちゃうね。外せない用事があるの」
「……」
「……ああ、またな」
「また、ね」
まるで出来の悪い捨て台詞のような歯切れの悪い挨拶をして部屋を出た。
◯
カラン。午後四時。ドアの前には相変わらずクローズの札がかかっていたが、試しに押してみたドアは空いていた。まるであたし達だけを中に誘っているようだ。罠かもしれない、と思った。戦争映画や小説の中によくあるブービートラップのような、致命的な罠。平和で平均的な日本人として生きてきたあたしにとって非凡で、子供が考えた悪ふざけのようにどこか非現実的な妄想じみている。でも、脳裏に焼き付いた異世界の感覚がそれを妄想として切り捨てさせてくれない。
サキエダを目線を合わせ小さく頷いてから意を決してドアを押した。見えない不安に足を止めている時間は、ない。
薄暗い店の中に入るとドアはひとりでに閉まった。背後で響いたカラン、という音に不安な気持ちが膨れ上がる。逃げ場のない水の中に囚われたように周囲の空気が重く感じられた。振り返るとそこにあるのはなんてことのない木製のドアなのだが、いざとなったときにこれを押し開けて逃げることが出来るのだろうか? 鍵がかかって閉じ込められる最悪なイメージが頭から離れない。手で軽く押してきちんと動くことを確認してから、店の奥へと足を踏み出した。
慎重な足取りで入る。電気が落ちているせいか店の雰囲気は昨日来たときには感じなかった、廃墟の退廃し堆積した埃の気配を伴っているようだった。走らせた目線の先、開店前の店内には誰もいない。
いや、違う。店の奥、この前あたしが座っていた場所に、椅子と一体になっていたかのような静けさで、一人の男がこちらを向いて座っていた。髪の長い男だった。椅子に座る姿は、線が細い長身。その男の顔は暗がりに沈んでいたが、その男の触れた暗闇から延び広がる冷気を伴う異世界の気配は間違いなく……、
「……っ! 通り魔……!」
「なんだって!?」
考えるより早く口を突いて出た言葉にサキエダが身体を緊張させる。通り魔事件の犯人が目の前にいる。通り魔を捕まえるか、逆に殺されるか……、どうあがいても荒事は避けられない。確証が取れた今、蒼が言っていたように後は警察に引き渡すことが出来ればあたし達の目的は達せられる。だが、わざわざ待ち構えていたかのように誰もいない店内に座って待っていた通り魔がそれをさせてくれるとは到底思えなかった。解答を得るために飛び込んだ場所が脱出しがたい檻に様変わりしたように思えた。
「……私は、統島。……統島栄水と申します。この店の、オーナーをしています。貴方は、優木……早織さんですね、私が顕さんを送るのを邪魔した」低く慇懃で、加えてどこか病的な響きの言葉が椅子に座っている男から投げかけられた。
「なんで、あたしの名前を知っているんですか?」
「ええ、ああ、そうでしたね。貴方は知らないんでしたね。すみません。顕くんのお見舞いをしに何度か病院に行ったんですよ。一か月前の夜、貴方に邪魔されたせいで、彼は苦痛と共に無用にこの世に留まらねばならなくなったので、彼のその苦痛を和らげるために」
「顕の病院に……!? 何しに行ったの? まさか……口封じでもしようとしていたの!?」
「いいえ、違いますよ。人聞きが悪い。……お見舞いです。幸い、彼は私の顔なんて覚えていないようでしたね。初対面を装ってニュースで刺されたことを知った、きっと神のご加護とお導きがありますよ、と伝えたら笑顔で感謝されました。顕くんは良い人間だ。早くあの方の下に送ってあげたいのですが……」
「あの方?」
「ああ、そう、名前でしたね。見舞いに行ったある時、ちょうどあなたの姿を見かけて後ろから追いかけていったことがあったのです。その時に聞こえた会話から貴方の名前を知りました。私に仇を成す貴方の名前を。優木、早織さん」
統島の昏い色を宿した瞳があたしを見た。冷たく重たい気配に気圧されて一歩下がる。隣に立っていたサキエダに肩がぶつかる。悪寒で体中の毛が泡立った。
「逃げられないですよ?」突如背後から響いた声とドン、と床に何か重いものが落ちる音。
「えっ?」先ほどまで隣にいたサキエダが居なくなっていた。
背後を振り返る。そこには出口のドアを塞ぐように立つ、黒髪のお姉さん。
目線を落とすと足元には力なく崩れ落ちたサキエダの姿。
避けがたい未来が再生される。天井から見下ろした風景が頭の奥に広がる。これも予見されていた未来だったのだ。
背後でギシリ、と床が軋む音が聞こえた。統島が立ち上がったことが天井からの視点で分かった。広くはない店内で前後を挟まれた。加えて至近距離。携帯電話で蒼と連絡を取る余裕はない。脳が焦りを訴え、身体を縛ろうとする。あたしは親指の爪を人差し指の側面に突き立てて、
「こ、のっ!」恐怖で硬直する足に掛け声をかけてあたしは低姿勢で黒髪のお姉さんの方に突撃した。最速のスタートダッシュ。出口はそこにしかない。
「こっちに来ても、僕、困っちゃうかな」余裕の顔が見えた。
ドン、という衝撃が腹部に広がったと思った瞬間、身体は宙を舞って数瞬の後、カウンターに背中がたたきつけられた。肺の中の空気が強制的に排出され、絶息。目の前が暗くなり、周囲から音が遠のいた。身体が言うことを聞かず、重力に従って頭部が傾き、床にゴン、という音を立てて打ち付けられた。蟻の目線になる。天井からの視線は監視カメラのような無情さで客観的事実だけをあたしに見せている。
鼓膜、というより頭蓋骨に直接響くコツコツ、というという音は足音だろう。統島と黒髪のお姉さんが近づいてきている。ドアはもう見えない。出口のない世界。状況は詰んでいた。
「優木、早織さん。貴方は何なのですか? 何故、私が戦士たちをあの方に送る邪魔をするのですか? 私はてっきり貴方も同じ声に導かれているのかと思っていたのですが」
抑揚のおかしな、狂気を帯びた声が頭上から問いかけられる。不可避の圧力が幸か不幸か朦朧としていた意識を揺さぶり、気を失うことをかろうじて防いでいる。
「ふうん、返事がないわね。起こしてあげたらどう?」
「はい、御使い様」
漸く回復してきた聴覚がそんなやり取りを捉えた瞬間、腹部に衝撃、再度の絶息。
「かっ……、うぅっ」ゲホゲホと咳き込む。
避けがたい未来の視線を通じて統島に蹴られたことが分かった。そしてその後ろでサキエダが床を這ってこちらに向かっていることも。
あたしは演技も織り交ぜて咳き込みながら、しかし直ぐに立ち上がれるように身体を折り曲げる。チャンスはたぶん、一度きりだ。避けがたい未来で俯瞰視点であたしが状況を捉えているというアドバンテージと、サキエダが統島達の注意を引いた、その一瞬だけ。
「くっ……、ふっうぅ……」
再度、腹部に蹴りを受け、その衝撃でカウンターに身体の左側面がぶつけられる。内臓がかき回されたような不快感と重い痛みをじっと耐える。じれったいほどゆっくりした数秒が流れて、そして、
「おぉぉぉっ!」サキエダが雄叫びと共に統島の足を掴んだ。統島はバランスを崩してカウンターに倒れ掛かる。
同時にあたしは低姿勢のままクラウチングスタートの要領で統島達の間を走り抜ける。今度は吹き飛ばされることはなかった。
「ふふふ、足掻いてみなさい。結末は変わらないわ」
耳元ではっきりと聞こえた声は、以前聞いたローブの女性と同じであることを、今更になってはっきりと認識できた。普段なら昨日会話した時点で分かるはずの類似点も、何故かこの女性が絡むと上手く結びつかない。催眠にかけられていたのかもしれない。
足を止めずにドアを押し開けて店の外に出る。背後を振り返ると閉じかけたドアの向こうに統島の昏い瞳と蹴られて床に転がったサキエダの姿が見えた。足が静止しかけるが、走る。ここでサキエダを助けに立ち止まるわけにはいかない。
今日は満月ではない。だから、例え通り魔に直接遭遇してしまったとしても今日殺されることはない、はずだ。最悪の場合、あたしかサキエダどちらか一方が逃げて警察と蒼に連絡して次の事件を止める。逮捕を直前にして通り魔がこれまでのポリシーを貫くかは分からなかったが、あたし達は事前の打ち合わせでそうすることに決めていた。
「もし、俺が捕まっても気にせず全速力で逃げるんだぞ」
「なんであたしが逃げる前提なの?」
「そりゃぁ、なあ……優木、お前の方が走るのが速いし……、まあそんなことは良いんだ。何かあったら意地でも俺が時間を稼ぐから、走り抜けろよ、優木」
「うん……、分かった。でももしそうなったら、後で必ず助けに行くから、死なないで待っててね」
「ああ、そうするさ」そう言ってはにかむ様に笑うサキエダの顔。
サキエダのためにも、今は自分の役目を果たすだけだ。
商店街は人払いでもされたかのようにガラン、としていた。安全な場所が何処かは分からなかったが大通りから狭い路地を駆け抜ける。道には人っ子一人いない。あの喫茶店のドアが別世界に繋がっていたのではないかという不安感。であるとすれば統島達から逃げるのは不可能だが、そんな白昼夢のようなことはない。親指を握り込むように突き立てた人差し指からはじんじんとした痛みがあるし、吹き飛ばされてカウンターにぶつかった左わき腹はまだ痛む。これは間違いなく現実だ。それを確かめるように速度を増した足で路地を抜けた。
飛び出した大通りには人込み。雑踏の音と何処かから聴こえる話声。目の前に広がるお手本のような日常の風景に、現実と分かっていても、非現実的な世界を脱し、人間の気配に安堵する。同時にどっと汗が吹き出した。距離を考えず無茶苦茶に走ったせいで息が上がっていた。
「サキエダ……」
額から流れ落ちる汗を無視し、息を整える間も惜しんで携帯電話を取り出す。まず蒼に電話して警察にあの店を押さえてもらわなければ、
プルルルル。
二つ折りの携帯電話を開く前に着信音が響いた。驚きながらも反射的に携帯電話を開くと液晶画面に【サキエダ】の文字。嫌な予感に背中が泡立つ。震える指で受話器のマークが書かれたボタンを押して携帯電話を耳に当てる。このタイミングでかかってくる捕まったはずのサキエダの携帯電話からの着信。それは間違いなく……、
「……もしもし?」
「ああ、優木、早織さん。良かった、つながって。枝崎くんですが、こちらで預からせて貰っています。手荒にはしてませんよ? ただちょっと、眠ってもらっています。こういうと悪者のようですが、人質として」
果たして、それは統島の声だった。病的な抑揚が不安感を増幅させる。
「人質……」
「ええ。優木、早織さん。私は思うのです。私たちは一度、話し合わなければならないと。貴方を導くものと、私を導く神が違うのであれば、私は私の天啓を遂行するために貴方を殺さなければなりません。もし、同じなのであれば共に行きましょう。次の満月が迫っています。時間はありません。明後日の夜、千早緑地公園でお会いしましょう」
「ちょっ、ちょっと! 天啓って何? サキエダは無事なの?」
「ええ、今は無事です。しかし貴方がもし、警察を呼んだり、仲間を連れて待ち合わせ場所に来た場合は、候補者ではない枝崎くんには残念ですが、死んでいただきます。私は無用な殺人はしたくありません。是非、一人で来てください。では」
「待って、あんたの目的は何なの!?」
「すべては、天啓のままに」
ブツっ、という音と共に通話は一方的に切られた。脱力した腕が落ちる。携帯電話を握った手が力なく振れた。
人質、天啓、次の満月、明後日……。電話口の統島栄水の声が頭の中にこだまする。統島の昏い瞳がフラッシュバック。結末は変わらない、と言った黒いローブの女。床に力なく転がったサキエダ。十分ほどの間に起こったことが頭を目まぐるしく駆け巡る。何をすればいいのか分からない。警察に頼ってしまったらサキエダは殺される。蒼に応援を呼んでもらうことも出来ない。かといってあたしだけで向かっても、殺されることは確実だ。何をしても袋小路から脱出できる道が見えない。短距離選手にはゴールが必要なのに、それが見えない。
再び携帯電話が震える。葵子からだ。ことの顛末を伝えると、質問や詮索はほとんど挟まれずただ、今すぐ迎えに行くね、と言われた。いつもお喋りが過ぎる葵子とは思えない短い会話を終えて電話は切れた。
あれ、あたしは今いる場所を伝えただろうか? そんな疑問が湧き起こったが、そもそもどんな内容を葵子に話したのかすら覚えていなかった。気が動転しているというやつなのかもしれない。そう考えるあたしの心は冷静そのものを装っているが、思考は夢の中でいるように一向に進展を見せない。迷宮に迷い込んでしまったかのように前後不覚になる。
いけない。サキエダを助けなきゃ。でも、どうやって? 統島を捕まえて。足が速いだけのただの女子高生のあたしに逃げる以外の何が出来る? …………。あの魔術師めいた黒髪のお姉さんもいるのにどうやって? あたしは……、
「ユッキー!」
「っ!」
強く肩を揺さぶられて我に返る。眼前には心配そうに眉を寄せた葵子がいつの間にか立っていた。葵子はガクガクと揺さぶる手を止めない。頭が揺れて平衡感覚が麻痺してよろけそうになったところで葵子に抱きついて乱暴な振盪を止めさせた。
「ユッキー、生きてる?」
「頭が揺れて辛い……」
「なら良し! タクシーで来てるからひとまず事務所に戻ろう」
「事務所……! そうだ、サキエダが……」
「それは後! 一旦戻って対策を考えなきゃ! そんな憔悴しきった顔で外歩いていたら警察に捕まっちゃうし、なにより今はまずユッキーが落ち着かなきゃ。サキエダを助けるためにね」
「……うん」
「へい、タクシー! こっちだよ」
タクシーの奥へと押し込まれて、急発進。タクシーは繁華街を抜けて中央環状線を走って行く。
窓から見えない繁華街の奥には統島の店がある。あの異世界は西要町という街に隠れるようにして確実に存在しているのだ。そして、時折触手を伸ばして誰かをからみとっている。常識の通じない相手にあたしはどうすればいいのだろう? 答えは見つからない。
通り魔を追っていたつもりが、あたしはいつの間にか異世界の怪物に行き着いてしまった。倒し方の分からない、怪物。怪物はあたしを昏い目で見て、認識した。もう逃れられないという諦観が沸き起こり、身体に力が入らなくなる。異世界に誘った避けがたい未来の夢を恨ましく思う気持ちも今は朧だ。自分が正しいと思った道を進んでいたはずなのに、どういうわけかどうしようもない状況にいる。
思えば、ここ最近ずっとそうだ。走って行った先は袋小路か足場の悪い悪路か、或いはゴールテープ不在のそもそも短距離用ではない別のコースだったり、およそ短距離ランナーの性分に合わない状況ばかりが用意されていて満足に百パーセントの力で走りきることさせてくれない。記録の出る可能性のない状況ばかり続いている。状況だけじゃない。スランプ中の陸上選手のように気持ちも酷く挫かれている。状況から抜け出せないことへの苛立ちよりも諦観が勝り始めている。悪い兆候だと分かっているのに、何もできない。
隣で葵子が何か喋りかけているようだが、内容は一向に頭に入ってこなかった。
少しして雨が降ってきた。スコールのような激しい雨だ。
「ただの夕立です。降りる頃には止んでいますよ」タクシーの運転手はそう言ってワイパーのスイッチを入れた。
ワイパーのない後部座席の窓はすぐに水滴で覆われ、街明かりの溢れる繁華街は見えなくなった。