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プロヴィデンスは変わらない  作者: 野兎症候群
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第三話 白い魔女の囁き ~Magic waltz~ 前編

 八月十三日。青く晴れた夏空の下、あたしは午前中で十一日目になる捜査をいったん切り上げ、学校に来ていた。高三用の進路相談の日だった。親父は相変わらずの不在なので、これまでの二年間と同じようにあたしはフミ先生と二人での面談だ。

 あたしの親父は四年前に母が病気で死んでから仕事ばかりに没頭するようになった。中肉中背、平均的な日本人サラリーマンの風貌だが、仕事に関してはよくできるらしいことを母から聞いたことがある。母は結婚するまで親父と同じ外資系企業で働いていたらしい。最近では親父は週の半分以上は仕事と出張を理由に家を空けるのが常になっていたが、或いは別の女を見つけて家に帰るのを避けているのかもしれない。あたしにはどちらでもよかった。

 以前、受験に関して久々に家で見かけた親父に言うと、「何処でも行けばいい。金だけは出す」と言われた。親父はあたしに無関心だが、最低限、親として果たすべき義務は果たすつもりはあるらしい。その点についてのみ、あたしは親父を尊敬しなくはなかった。

 その日もフミ先生は相変わらず白い服を着ていて、言ってしまえば全部が白かった。本当は細かな色合いもあるのだが、大雑把なあたしには全部白い、くらいしかその色合いを表現できない。

 進路希望、志望大学、受験科目、学費、いくつかの大学については入学後の住処など、一通りの話が終わった頃には外はオレンジと青のグラデーションが出来ていた。

「随分遅くなっちゃったわね。あんなことが連続してあったばかりだけど、ちゃんとひとりで帰れる?」

 フミ先生の言うあんなことというのは勿論、通り魔事件のことだ。警察はしょっちゅう学校に来て聞き込みをしているし、折を見てはあたしに「その後、何か変わったことはありませんか?」なんて聞いてくる。学校の中でもあたしは随分有名人になってしまったし、好奇心で事件のことを聞いてくる輩も多い。幸いにして学校は夏休みに入っているから部活や自習のために学校に来ている生徒くらいしか寄ってくる人間はいないが、とはいえ聞かれるたびに思い出したくもない記憶を思い出させられた挙句、説明しなきゃならないのは疲れる。そんな義務は勿論ないのだけど、それは何ていうか人付き合いの様なもので、避けては通れないのだ。そして説明するたびに流暢になっていく自分に呆れもする。

 外向けの説明に小慣れてくるとどうにも自分がドライになっていくような錯覚を覚える。いや、ドライという表現が正しいかどうかは分からないが、悩みを打ち明けるわけでもなく、只々機械的に他人が納得できる説明をすることが洗練されていく様な感覚になるのだ。自分の内心を興味本位で聞いてくる野次馬達に説明したとして、得られる共感も答えもないことは分かりきっているから、相手が納得できるだけの情報を与えて満足して帰ってもらえればそれでいい。

「もー、心配しすぎですよ。最近は警察もあたしの家の近くをよく巡回しているし、襲われる心配なんて全然!」

 そうは言いながらも、実際にはあたしは事件に以前より深く関わろうとしている。今日も面談が始まる少し前まで調査をしていた。この後もサキエダと合流して調査再開の予定だ。折角心配してくれるフミ先生には悪いが、あたしは犯人探しをするのをやめる気にはならなかった。

「まあ、そうなんだろうけど……私が一番心配しているのはあなたの心よ」フミ先生は少し困ったような表情を浮かべながら言った。チリン、と小さな鈴の音。

「えっ?」

「あなた、何かに怯えているように見えるわ」細められたフミ先生の視線が何かを見透かそうとするかのようにあたしを見た。

「そ、そんなことないですよー。なんですかーもうっ、フミ先生、まるで占い師みたいですね」

「うふふ、鋭いわね優木さん。先生になる前は何年かフリーの占い師をやっていたわ。もう三十年も前になるかしら。……まあそんなことはいいのよ。兎に角、私はあなたの様子がおかしいことがずっと気にかかっていたの。最初は気のせいかとも思ったけど、優木さん、あなた、事件以外で何か思いつめていることがあるんじゃないの?」

「思いつめているっていうか……」

 確信的があるかのように発せられるフミ先生の言葉にあたしは口ごもる。夕日がフミ先生をオレンジ色に照らして、顔の片面は黒い影に沈んでいる。鷲鼻がいつもより大きく見えた。白い魔女。フミ先生のあだ名が頭に浮かんだ。

 事件以外に、それは避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢のことを暗示しているように思えた。だがすぐにその考えを打ち消す。だってこのことは誰にも喋っていないのだ。分かるとすれば、それはフミ先生が本当に魔女だった時だけだが、それは少し突拍子もないことのように思えた。まあ、きっと元占い師の洞察というものなのだろう。

「あら、ごめんなさい。問い詰めるつもりじゃないのよ。ただ、元占い師で担任でもある私に話せることがあったら、相談してほしいと思っただけよ。助けにはならないかもしれないけれど、話せば気分も少しは楽になるんじゃないかしら?」

「たぶん、信じられないと思いますよ? あたしはフミ先生のこと結構好きだから、夢見がちな女の子の妄想だと思われたくはないんですけど……」

「ふふふ、元占い師の包容力を信じてみれば?」

 否定の言葉を口にしながらあたしの気持ちの天秤は違う方向へ傾いていた。サキエダにも、葵子にも、蒼にも、そして顕にも言わなかったことを何故フミ先生に話したいと思ったのかはよく分からない。しかし客観的に考えてみれば、あたしはあたしを縛る重たい事実を他人と共有したいという気持ちをずっと持っていたということなのだろう。結果として、気が付いたときには口が自然と動き出していた。 

 フミ先生はあたしの、普通だったら到底信じるに値しない荒唐無稽に思える避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢と事件の話を、質問と確認をはさみながら熱心に聞いてくれた。夢のこと、事件のこと、対面した犯人のこと、西条兄妹と調査を始めたこと。最初はそんなに深く話すつもりはなかったし、何より人に説明したことがなかったからなかなか要領よく説明する自信はなかったけど、フミ先生が聞き上手のおかげか、随分スムーズに説明できたような気がする。捜査のことは或いは喋るべきではなかったのかもしれない、という考えが脳をよぎったが時すでに遅し、だ。

 一通りの話が終わった頃には空はもうすっかり暗くなってしまっていた。窓の外から聴こえていた蝉の鳴き声はいつの間にか止み、代わりに鈴虫の鳴き声が響いていた。話し終わってみると胸の重さが少し減ったように感じられて、改めてフミ先生は不思議な人だと思う。

「それで、あなたは避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢はどうして見ているのだと思う?」話し終わって一拍置いてフミ先生はそう聞いた。

「そんなのあたしが知りたいくらいですよ!」さっぱりだと肩をすくめて見せた。

「まあそうよね。……じゃあ優木さんは運命って決まっていると思う?」チリン、と鈴が鳴った。

「なんですか、突然?」唐突な問いに返答を一度保留して、フミ先生を見た。どんなことを意図しているのか分からない、曖昧で柔らかな表情があたしを見つめている。

「ふふ、大した意味は無い、ただの世間話よ。避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢が確定されている運命を見ているのか、或いは無数にある未来の一つの風景を見ているだけなのか……どっちなんだろう? って思って。あなたはどっちだと思う?」

「そりゃぁ前者ですよ。これまで一度も変えられたことなんてないんですから」

「これまでは、ね。でもそれは事前に見た未来になる道を選んで辿ってしまっただけかもしれないでしょう?」

「うーん、でもその夢の内容は結局終わった後にしか思い出せないんですよ。だから同じ道を選んだからすら分からない……あたしにはどうにも予定調和になっているようにしか思えないです」

「ライプニッツの哲学的に考えれば、確かにそうかもしれないわ。でもすべてが決まっているなんてことはあるかしら? 全て予定通りにだけ進めることだけを目的に神なる存在が世界を作ったのかしら? それは少しおかしいと思わない? 別に何が起こるか分かっているんだったらわざわざ世界を作るまでもないじゃない?」

「ああ、成程……フミ先生がさっき言った無数にある未来の一つの風景って意味、ちょっと分かったような気がします。だって、神様だって面倒ですもんね、細かいところまで運命で決めちゃうなんて。別に細部が決まっていなくても大体の構図さえ決まっていれば同じ未来ってことでいいんじゃないかって。月面着陸の時に最初に踏み出す足が右でも左でも大差ないっていう感じで」

「そうね。そう考えれば、避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見た先の未来を変えてみるために、あがいてやろうって気分にならないかしら?」

「確かに! ……あー、でもちょっと待ってください。精神論的には確かにそうなんですけど、でも実際にはこれまで避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見てきたことは一度も変えられたことはないんですよ?」

「ふふ、そうらしいわね。でも、さっき話を聞いた限りだと、全ての未来を見ているわけじゃないのでしょう? 避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見る未来は忠実に再現されているとしても、未来の大体の構図であり、全部じゃないわ。つまり夢で見た以外の部分は決まっているわけじゃないなら、ナイフに刺された夢を見ても、あなたの行動次第ではその先にある未来は変えられるのよ。北島さんや顕君を助けたように、ね」チリン、と再び鈴の音。

「全部じゃない、か……」

 あたしはフミ先生の言った言葉を頭の中で反芻した。大枠だけが決まった未来だから変えられる。なるほど、それは納得できる。しかし、根本的な問題がまだ残っていた。


 どうしてあたしには避けがたい未来(プロヴィデンス)が見えるのか?


 フミ先生と議論したことによって避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢を見ることについてはポジティブに捉えることが出来た。だが、何故あたしがそれを見れるのか、それが分からない。避けがたい未来(プロヴィデンス)が確定した未来だと仮定するとして、その未来は既に神のような上位存在によって規定されていることになる。だとすれば、あたしが避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢を見ているのはその存在の意思なのか? どんな意図があるのか? 今のあたしには分からないし、その存在と対面できるとも思えなかった。

 加えて、避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢に連動するようにして始まった西要町連続通り魔事件。長い髪の男は何かを知っているのだろうか? あの問いかけるような目にはどんな意味があったのか?

新たに浮上してきた疑問を口に出そうとして、フミ先生の驚きの声でかき消された。

「あら、もうこんな時間! そろそろ守衛さんが見回りに来る時間だから、今日はそろそろお開きね。また、困ったらいつでも相談しに来なさい。調査も、頑張って」フミ先生は静かに微笑んで言った。

 教室の時計を見上げると時間は午後七時を回っていた。もうサキエダは先に行って待っているかもしれない。遅刻だ。大会前の追い込み時期にわざわざあたしたちに付き合ってくれているサキエダを待たせるわけにもいかず、あたしは慌ててバッグを持って立ち上がった。

「あ、はいっ! またお願いします!」

 教室を出ると心なしかいつもより身体が軽いような気がした。今なら自己新記録を出せるような感じだ。湿気っぽく暑い大気を吸い込んで、薄暗い廊下を駆けて行った。緑色の非常灯が点々と光っていてあたしの進むべき道を照らしていた。



 調査は計画的に進められているという自負はあるのだが、残念ながら調査を始めて二週間近く、これといった収穫や進展はない。気持ちは時間が経つにつれて焦れていくのだが、焦ってもどうにもならないこともある。蒼が言うには探偵の仕事の大半がそういう時間であるらしい。つくづくあたしには似合わない職業だと思う。

 今日は八月十四日。満月は四日後の八月十八日だ。それまでに一応一通りの捜査は完了するように蒼が計画して、その指示に従ってあたしとサキエダで調査を進めている。四日後までに犯人が見つからないのであれば、最初にたてた蒼の目算が外れたということになるが、人手も情報も不足しているあたしたちに周辺地域まで含めて調査する余裕はない。今はこの調査をやり遂げる以外にあたしたちにできることはないのだ。

 西条兄妹の手によって西要町で調査する地域は九区画に分けられた。西要町はあまり大きい街ではないが、それでも周辺地域を合わせて人口は一万人にも上る。そうすると一区画あたり大体千人ほどの人間が居るわけで、これを虱潰しに二人で顔を確認していくというのは現実的ではない。その現実的ではない数を数百人程度の候補に絞り込むのが西条兄妹の役割だった。毎日メールで送られてくる候補の名前、性別、年齢、住所、電話番号、職業の情報はとてもありがたいのだが、情報社会の怖さを感じられずにはいられない。西条兄妹は役所のコンピュータでもハッキングしているのではなかろうか。深くは立ち入らない方が良さそうだと思った。

 調査は時間帯を分けて一区画当たり二日間かけて調査している。どの時間帯にどの候補の家を見るかは蒼のメールに書いてあるから、あたしとサキエダは地図とにらめっこしながらそこに急行して遠くから望遠鏡で観察する、そんなルーチンが続いていた。ここ最近の調査で、かなりたくさんの人間を見た。人数にすれば三百人程度にもなるだろうか。候補の人間を見ていて思ったのは、顔から受ける印象が多少の例外はあるにせよ、どれも似通っているということだった。偶然ではないだろう。きっとプロファイリング結果とあたしの証言にある程度合致する人物を西条兄妹がきちんと選定してあたしたちに指示を出しているのだ。パソコンとモニターとケーブルがひしめくあの部屋から外に出ることなく調査を進める蒼はまるで有名小説に出てくる安楽椅子探偵ミス・マープルのような名探偵みたいだった。

「ふぅ……、なかなか見つからないわね」

「そうだな」

 あたしがサキエダにそうぼやいたのはこれで何度目になるか、数えること自体に意味はないが二桁は余裕で達していると思う。手元に広げたA3サイズの地図の上には赤いバツ印だけが大量に書き込まれている。憂鬱な気分をリフレッシュさせるために水出しコーヒーをすすると口の中に苦く、甘い風味が広がった。コーヒーはカフェインと一緒に砂糖を取るのに最適だ。苦味は思考を落ち着かせる。

 午後七時半、あたしたちは今日の調査地区にあるマイランドという小さな喫茶店に居た。今日はサキエダと合流するまでにほとんど調査が終わったから、時間を取ってこれまでの調査結果をまとめて考察することにしたのだ。本当だったら学校や蒼の事務所で打ち合わせた方がお金がかからず経済的なのだが、あいにく調査する場所が学校からは少し遠かったから、仕方なく適当に客の少なそうな喫茶店を選んで入ることにしたのだ。

 店はカウンターとテーブル合わせて十席程度の小さな作りで、お洒落な洋風の装飾品がところどころに飾られていた。メニューにある珈琲の値段も特段高いというわけでもなく、自然と人が集まりそうな良い雰囲気の店だったが、不思議とあたしたち以外の客はいなかった。外の色褪せた古めかしい看板と開いているのか閉まっているのかよくわからない入り口のせいだろう。カウンターの奥にはブラウンのベストと白いウェイターエプロンを腰に巻いた黒い長髪の綺麗なお姉さんが座っていて何やら文庫本を読んでいた。総合的に考えて商売目的というよりもどちらかといえば個人的な趣味のお店といったところだろう。

 奥まったところにあるテーブル席に座ると右手の壁が本棚になっていることに気が付いた。アルベール・カミュの異邦人、アンソニー・バージェスの時計仕掛けのオレンジ、ジョージ・オーウェルの一九八四……、どれも聞いたことはあるが読んだことのない洋書ばかりだったが、異国感のあるこの喫茶店には似合っているような気がした。あのお姉さんの趣味だろうか。

 店の中をぐるりと見まわしていた視線が向かいの席に腰を下ろしたサキエダを捉えた。何処か落ち着かないような、硬い面持ちで木製テーブルの上の模様を見つめていた。

「ん? どうしたん?」

「……あ? ああ、こういう場所に入ったのは初めてだから、……なんていうか居心地が悪くてな」ポリポリと頬を掻きながらサキエダが答える。

「あーなるほどね、男子はあんまりお洒落な喫茶店とかに入って友達でお喋りとかそんな感じじゃないからか。まあ、別にこれから誰かに会うわけじゃないし、別に自然にしてればいいんじゃない? 目下あたしたちがやるべきは事件の調査なんだしさ」

「……まったく優木はマイペースというか、率直というか……」

「ご注文は?」誰かの中性的な声がサキエダのすぐ後ろから響いた。

「わっ!?」サキエダの驚いた声。

 他愛ない会話をしている間にさっきまでカウンターの後ろに居たお姉さんが歩いてきていたようだ。彼女の白く華奢な手にはおしぼりとメニュー。髪の黒さと対比すると青白く見えるほど白く整った顔にはつまらなそうな無表情が浮かんでいる。

「あー、えっと、じゃあ……アイスコーヒーをお願いします。サキエダは?」

「……同じのを」特に考えている素振りもなく答える。きっとまだ緊張していてメニューから選ぶ余裕もないのだろう。

「そう」

 お姉さんは言葉少なく答えるとおしぼりをポイッとテーブルに置いてカウンターに戻っていった。きっとコーヒーを入れながらまた読書に戻るのだろう。接客態度に問題があると思わなくもないが、調査結果の考察のために来ているあたしたちにとっては店員の無関心は有難かった。家ではなく喫茶店で仕事をしているサラリーマンたちの気持ちが少し分かったような気がした。

 少しして、運ばれてきたワイングラスのようなお洒落なグラスに入ったアイスコーヒーを飲みながら情報を整理し、今に至る。


「まず一度、最初から情報を整理した方がいいんじゃないか? 情報が散発的すぎて、正直俺も少し混乱しているような気がする」

「……そうね、あんまり悩んでばかりだと良いアイディアも浮かばないし、ね。これまで起きた四回の事件の概要は確認しなくてもいいよね?」

「ああ」

「どの事件も西要町の、人通りの少ない通りで実行された。共通点は、満月前後の月の出た日であること、被害者が全員若い男性であること、犯行は日が落ちた夜であること……」

「それにナイフを使った犯行であること、か」

「うん。あたしは偶然、三回目と四回目の事件は現場に居合わせて、四回目の事件は犯人を見た」

「顕を刺した、黒い長髪で線の細い男。……しかし、その一回の目撃情報だけだと単独犯か、複数犯かは分からないな。ただ、これまで人通りが少ないとはいえこれまで四回も優木以外の目撃者もなく犯行を行っていることを考えると、どちらにせよ周到に準備して実行されている可能性が高いな」

 これまで何度も議論してきた内容をおさらいするが、そこに新しい情報は入っていない。自分たちの分かっていることの少なさが再認識される。

 あたしはサキエダや蒼や警察が知らない、かつ犯人に迫るうえで重要と思われる情報をいくつか持っているが、そのことを言うことはできない。避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見たものを正しいと証明する術がないからだ。従って、それを根拠に捜査を進めることはできない。さらに言えば、根拠のないことを言えばその分だけあたしが疑われていく危険性がある。オオカミ少年になってしまったらおしまいだ。だから避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見たことについてはあたし自身で考えていく必要があるのだ。

 あたしだけが持っている情報の中で分かることと、そうでないことを整理してみる。

まず犯人が複数犯であるかどうかは魚眼を通して見ている犯行は視点が近すぎて犯人以外の存在が居るかどうかよく分からないため不明。分かっていることは、実行犯はいつも犯行後に月を見る癖のあるあの男であるということだけだ。

 二つ目に、顕が刺されたときにあの男が言っていた言葉。時間が経って、あたしはあの時の言葉の内容が何となく分かっていた。あの時は聞き取れなかったがその口の動きは、自分の目と避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢で見ていた光景とが合わさって嫌に鮮明に覚えていたから、今朝、蒼と一緒に捜査を始める少し前に書店で読唇術の本を見て確かめたのだ。一つ一つの唇の動きを思い出しながら言葉を繋げて一つのフレーズが出来たとき、背筋が冷たくなるのを感じた。あたしの記憶が違っていて何か勘違いをしているならそれでよかった。でも、勘違いだと切り捨てるにはあまりにも暗示的だった。


 き、こ、え、て、い、る、の、か。


 記憶の中の男の口は確かにそう紡いでいた。あの男が何を意図してそうあたしに問うたのか? それは分からない。しかしそのことは、あたしが避けがたい未来(プロヴィデンス)を夢で見るのと同じように、あの男が何かを聴いているのではないか? という考えをあたしの中に産んだ。だとすれば、最初の通り魔事件から始まった避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢との整合が取れる。つまり、西要町連続通り魔事件の犯人とあたしの間にはなにかしらの因果が存在するということになる。

 そこまで考えて、ため息をついた。全ては可能性の話で確からしいことは何もない。犯人の男が何を聴いたのかも分からない。手っ取り早く見つけて聞き出せばいいのだろうが、それが出来れば苦労しないというものであり、とどのつまり何も解決の糸口が見えていないのが現状だ。

「悩ましいなー、もうっ」テーブルに置いた地図に突っ伏して頭を抱える。

「まあまあ、元気出せって。いくら考えて分からなくたって、結局は犯人を見つけ出せば全部片付くんだ。地道に探していけばいいさ。ところで犯人像についてのプロファイリング結果はどうだった?」

「この前会った時、蒼さんは宗教的な生贄とか、精神病者の犯行とか過去の事件からいくつかの想定を教えてくれたけど、いまいち分からないのよねー。あたしが見た犯人は……抽象的で感覚的な言い方になっちゃうけど、何かを憎んでいるような目をしていた。誰も信じる人間が居ないみたいな、なんていうか水の檻の中に住んでいるような、そんな感じ。精神病者って一括りにしてもいいのかもしれないけど……」

「何か追加でご注文は?」

「「!?」」突然響いた声にあたしとサキエダはビクリと身体を震わせた。

 いつの間にかサキエダの背後にはさっきと同じ表情でお姉さんが静かに立っていた。まるで忍者みたいな人である。

「あ、いえっ、もう出るんで、お会計お願いします」しどろもどろになりながらかろうじてそれだけ答える。

「あら、そう。じゃああちらで」

 そう言ってレジの方にくるりと背を向けて戻っていくお姉さん。背を向ける瞬間にちらりと見えた顔はつまらないものを見たような表情に変わっていたように見えた。相変わらず営業のやる気は感じられない。

 会計はあたしが払うことになった。サキエダが財布をどこかに忘れてきたのだ。最初は意気揚々と「俺が払っとく」と言っていたサキエダだったが、レジの前でポケットに財布がないことに気が付いて慌てた顔はなんとも強面に似合わず可愛かったが、当の本人は随分しょんぼりしていた。一緒に調査をしているんだし、そんなに気にしなくともいいのにと思ったが、それは男の意地みたいなものなのだろう。世の中には条理とは少し違う呪いめいた風習がはびこっているし、それに抗うことは容易いが、それを大切に思っている人間を裏切る必要はあるまい。まあ、今度奢られてやろう。

 カウンターで会計を済ませているとカラン、と入り口のドアを開けて新しく三人組と二人組の客が入ってきた。あたしたちがいる間は人が居なかったが、コーヒーも美味しかったし、店も綺麗だから案外人気店なのかもしれない。

「お洒落で良いお店ですね。お姉さんひとりでやっているんですか?」お釣りを受け取りながら何となく社交辞令のようにお姉さんに訊く。

「僕ですか? うふふ、僕はただのバイトですよ。オーナーは今日はコーヒー豆の仕入れで留守にしているのです」お姉さんの見た目に似合わない僕という一人称が気になった。

「ふうん、そうなんですか。あ、コーヒー美味しかったです。ご馳走様でした」

「あら、そう? それは良かったわ。そうだ、君たち、せっかく来てくれたんだし少し占いでもしてみないかしら? 僕の占い、よく当たるんですよ?」

「占い? いいんですか?」五人も新しく客が来たのに放っておいていいのだろうか、と思いながらも先ほどまでの無表情とは変わって少し人懐っこそうな表情になったお姉さんに興味が湧いて聞き返した。

「うんうん、いいんですよー。さてさて、ではでは、こっちをまっすぐ見てごらんなさい。ほら君も」

「お、俺もか?」

「ええ、勿論! うふふ、緊張しなくてもいいのよ? 君たちはただ僕の目を見るだけで良いんだから」

「え? それだけでいいのか?」

「ええ。そうすれば君たちは自身の未来を覗き見ることが出来るの」

「あたしたちの未来……」

「そう、君たちの未来。僕の占いは少し特殊なのよ。占いの結果は君たちの瞳に映るわ」

 何の根拠もなく、インチキ臭い売り文句だと思ったが黒髪のお姉さんが発した未来、という言葉があたしの中に妙に引っかかった。この頃あたしを取り巻いて離れない言葉。

 あたしは興味に負けてお姉さんの瞳を見た。お姉さんの瞳があたしと、その横でたじろぐサキエダを捉える。瞳は照明が付いているのにもかかわらず光を吸い取っているかのような漆黒の色合いを帯びていて、底なしの井戸を覗き込んでしまったような不安感が胸に広がる。ごくり、と無意識のうちに喉が唾を呑み込んでいた。

 刹那、あたしは水の中に居るような錯覚に囚われた。地面がなくなった様な、というより身体がなくなってしまったように足の裏の床の感覚も身体に吹き付けるクーラーの感覚も消滅した。明るい店の中に居たはずなのに周囲の光は乱反射してそこにあったはずの物の輪郭をことごとく曖昧にしていた。カラン、と遠くで店のドアが開く音がした。また誰か客が入ってきたのだろう。音は現実のものだったが、視界はぐにゃぐにゃになっていてまるで異世界に迷い込んでしまったような心細さを感じた。

 異世界の中、唯一輪郭を保っているものがあった。黒髪のお姉さんだ。先程と同じ、笑みを浮かべているようだったが、あたしにはその表情が先程とは違って見えた。どう違っているかを表現する言葉はあたしの中にはなかったが、ただ深い水の底を覗き込むような二つの黒い瞳が、得体の知れない生物の触手に絡みつかれたようにあたしの身体を硬直させた。コーンコーン、と遠くで西洋の大きな鐘が鳴る音が幾重にも重なって響いてきた。西洋の教会で聴くような荘厳な音色、しかし、あたしにはどこか一方的に押し付けるような傲慢さの化身のように感じられて、目をぎゅっと閉じた。

「はい、おしまい」

「えっ?」「おうっ」

 パンッ、と叩かれたお姉さんの手の音で我に返った。身体の感覚が急に戻って思わず声が漏れたが、足元がふらついたが直ぐに両足に力を込めて体勢を立て直す。

 隣を見るとサキエダは呆気にとられた様な表情を浮かべていた。同じ感覚を味わったのだろう。

 額から知らぬ間に吹き出した汗が雫となって流れる。短距離を何回も休まず走りきった様な激しい喉の渇きを感じた。

 悪夢のような不気味な時間は随分長かったようにも思えて慌てて辺りを見渡すと、さっき入ってきた客がちょうど席に座ったところだった。全ては一瞬だった? しかし耳の奥には連結した呪詛に似た鐘の音が今なお残っていて、白昼夢にはどうしても思えなかった。

 意識を目の前に戻す。黒髪のお姉さんは胸の前で両手を合わせてちょうど仏教の祈りのように合掌させていた。口元は薄く笑うように弧を描いていたが目はあたしたちではなく何処か遠くを見ているような、掴みどころのない表情。あたしは美術の教科書で見た古代ギリシャのアルイカイックスマイルを思い出した。

「どうだったかしら? 何か見えた?」

「…………いいえ。あたしはなんにも」

 なんとかそれだけ答える。嘘を言いたかったわけではないが、口はその先の会話を拒否するための言葉を紡いでいた。見えた得体の知れない何かは口に出して説明し難く、あまりにも異質なものであった。あたしは出来るだけそのことから意識を遠ざけた。しかし、思い返したくもない感覚は未だに身体を浸していた。

「…………」サキエダは何も喋らないが、その表情を確認出来るほど、あたしは直前までの異様な感覚から覚めていなかった。身体が重い。

「あらそう? 結構自信あったんだけどなー。うふふ、まあそういうこともあるのかしら」

「そう……ですか。……じゃあ、俺らはそろそろ帰ります」サキエダの硬い声が頭蓋骨の裏側に響いた。

「うふふ、また来てくださいね」

 動けずにいるあたしの手を取ってサキエダが足早に出口へ向かう。お姉さんと視線が外れた瞬間、見えない操り糸が切れたみたいに身体の重さは消えたが、あたしは精神と肉体が一度離れてからくっつけられたみたいな曖昧な感覚の中に居た。

 カラン、という音と共にあたしたちは店を出た。



 あたしとサキエダは手を繋いだまま無言で繁華街を通り過ぎていく。街には仕事帰りのサラリーマンや酔っ払い共の話し声、ネオンの光が溢れている。賑やかでどこか退廃的な夜の繁華街の雰囲気は今のあたしの気分とは対照的だ。

 先程までの異世界の続きにいるような心地からまだ覚めていないようなふわふわした感覚の中、あたしたちは歩いて行く。日中に加熱されたアスファルトからの放射熱で蒸し暑い大気の中、歩いて行く。汗ばんだ指先が気になり始めるくらいに落ち着きが出てきた頃には辺りにはなじみのある風景に変わっていた。西高の裏手にある通学路だ。どうやら三キロ以上も夢中で歩いていたみたいだ。気が付けば頬を伝っていくつもの汗の雫がシャツの肩口を濡らしていた。

 更にどこかに突き進んで行こうとするサキエダの手を後ろに引っ張ったところで無言の行軍は終わりを告げる。

 通学路にはまばらに街灯が輝いていているが、周囲を見渡す限りその恩恵に預かっている人間はあたしたち以外には居ない。部活があるとはいえ、午後九時近くになれば学校の近くは無人になるのだということに気が付いた。顕が刺されたあの日も同じような時間帯で、学校の近くだったことを思い出す。

 生ぬるい夜風が不気味に吹いた。右手は知らず知らずにダイオウグソクムシのマスコットを握っていた。

「サキエダ、もう遅いから帰ろう? 今日の分の調査は終わったし、なんだか疲れた」

 あたしは言い訳のようにそう言う。さっき見たことを思い出すことを脳が拒否していた。その話題から遠ざかることを望んでいた。それは何処かおかしな思考の流れだった。異世界に似た空間で感じた深い水の底にいるような感覚は、あたしが通り魔の男に抱いているイメージに酷く似ていることに、あたしは既に気がついているのに。もしかしたらあの店員のお姉さんを調査すれば決定的な手がかりが手に入るかもしれないのに、その考察に踏み込むことを脳が拒否していた。トラウマ的な記憶みたいに触り難い感覚が頭の中を渦巻いていた。

 サキエダが振り返る。無骨な顔には強張った表情が浮かんでいる。今になって気が付いたが、サキエダはあの悪夢に似た時間を体験しながらあたしをここまで引っ張って来てくれていたのだ。きっとあたし同様に夢現のような、そんな感覚に包まれていたに違いないのに。

 ここ二週間ほどサキエダと行動してきたが、正直言って彼のことは顕の親友でお人好しな人間くらいにしか認識していなかった。でもそれはほんの一面だったみたいだった。ごついだけじゃなくてカッコイイところもあるじゃん、と思ったがそんな軽口を口に出す元気はなかった。今度余裕が出来たら、きちんとお礼を言おうと心に誓った。

「優木、さっきのは一体……? 俺たちは幻覚か何かでも見たのか? まるで溺れて水の底に沈んでいくような……」

「……分からない、けどその口ぶりからするとあたしたちは同じモノを見ていたみたいね。幻覚と言うより、喫茶店のお姉さんに催眠でもかけられたのかも知れないわ」

「催眠か……。でも催眠ってあんなに簡単に、それに俺たち二人に同じモノを見せられるようなものなのか? それにあの不気味な感覚は……」

「そんなことをあたしに聞かれても分からないわよ。……とりあえず今日は帰って寝ようよ。詳細は明日考えれば良いんだから。西条兄妹への報告メールは……帰って、落ち着いてから出そうかなー」

「ああ、そうだな」サキエダも流石に変な体験をして疲れてしまったようで何処か気が抜けたような声で答えた。

 帰路に足を向けようとして、手に残る抵抗を感じた。

「……手、離さないと帰れないよ?」

「ん? うぉっ! す、すまん」

 サキエダは慌てたように手を離した。半ば無意識で手を繋いでここまで歩いてきていたようだった。それだけ必死だったということなの知れない。汗ばんだ手には慣れない他人の体温の名残が残っているような気がした。

「それじゃあ、また明日ね。あたしはこっちだから」

「おう、途中まで同じ道だから送っていくぞ」

「そう? 今日は曇っているから多分、通り魔の心配はないだろうけど、まあ、じゃあボディガードよろしくね」

 暗い空を見上げて星一つ見えないことを確認して言う。天気予報では今日までは曇りで、明日以降、四日後の満月の日までは快晴の予報になっていた。テレビの天気予報欄で輝く星マークが恨めしく思えたが、天気はどうしようもない。それまでの間に可能性を虱潰しにして犯人を見つけるしかないのだ。

 これと言った明確な手がかりは手に入れられてはいないが、先ほどの喫茶店マイランドのことは気にかかった。あたしの記憶が正しければ西条兄妹の調査リストにはあの店は入っていなかったが、それで本当に良かったのだろうか? 黒髪のお姉さん、占い、幻覚の中で観た水の底……現実的で論理的な関係性を説明することはできなかったが、しかしこれはこれまで見つけることが出来なかった何かに繋がる糸口であるような予感がした。それがどんな糸口かはあたしにはよく分からないが、考察は西条兄妹に頼もう。あたしの頭ではどうしても考えられないが、彼らならきちんと調べ上げてそれがただの思い過ごしかどうかを明らかにしてくれるだろう。

 仮に喫茶店マイランドが何かに繋がる糸口だったとして、問題なのは時間だ。あたしは西条兄妹に送る本日の報告メールの内容を考えながら胸の底に不安が広がるのを感じた。あと数日。その間に止められなければ、誰かが死ぬかもしれないのだ。危険にさらされるのはサキエダかも、西条兄妹かも、フミ先生かも、或いは再び顕かもしれないのだ。その避けがたい未来(プロヴィデンス)を、あたしは見たくない。

 あたしは身体を反転させ、帰路へと足を向けて歩き出そうとした。

「おっと、優木さん。どこに行くんです?」

 そこには電柱に手をついて道を塞ぐように立っている壮年の男がいた。

「清水さん……」

 つぶやきが唇の間から漏れた。

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