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プロヴィデンスは変わらない  作者: 野兎症候群
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第二話 忘れてしまおう、と言う前に言葉が消えた ~Skyfall~

 静かな一か月が経った。六月十九日の事件の後、あたしの応急処置の甲斐あったのかは定かではないが、誰かの通報で駆けつけてくれた救急車によって通り魔の被害者の男――北島亘は病院に運ばれ、一命をとりとめた。その連絡を貰ってあたしは心底ホッとしたものだ。しかし結局、犯行自体を止めることはやっぱりできなかったことがあたしの気分を今でも重くしている。未だ状況は変わっていないのだ。

 しかしながら、六月十九日の事件を最後に避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢は見なくなった。夢の終わりが悪夢の終わりだというのなからもう犯行は起こらず、あたしの重たい悩みは無くなるのだが、悪夢の終わりが来たのかそうでないのかについてはいまいち確信はない。

 とはいえ、何時までも続く通り魔はない。イギリスの切り裂きジャックのようにいつの間にか犯行は止まり、そして解決されるか迷宮入りするものだ。別に西要町連続通り魔事件の結末がどちらになってもあたしには関係なく、今はただ気苦労がなくなってしまってほしいとだけ願っている。

 事件から二週間が経ち、面会謝絶が解除されたとき、学校帰りに一度だけ被害者の男の見舞いに行った。見舞いなんて慣れていないから何を持っていけばいいのか分からず、八百屋で適当に買ったリンゴを持っていくことにした。

 一二七号室、北島亘。病的に白いリノリウムの廊下を抜け、受付で教えてもらった病室のスライドドアを開けるとちょうど二人の刑事が事情聴取をしている最中だった。一人は三十路くらいの女性でもう一人は初老の男。刑事ドラマに出てきそうなアンバランスなペアに見える。彼らも被害者の回復を待っていたのだろう。

「あっ、取り込み中でした? それならお見舞いのリンゴだけ置いて帰りますけど……」ドアを開けた瞬間に全員がこちらを見てきてすこし気まずくなり、尻すぼみになりながらそう言った。

「んん? 君は……ああ、優木早織さんじゃないですか! お見舞いに来られたんすね。若いのに感心なことですねぇ」答えたのは柔らかい表情の初老の男。よく見ると見覚えのある顔だった。

「あー、えーっと、清水さん。先日の取り調べ以来ですけど今日も別の人の取り調べなんですね」

その刑事は通り魔事件の翌日にあたしに面会、という名の取り調べに来た人だった。

「はは、優木さん、私は何時も取り調べだけをしているわけじゃないんですよ。まあ、これも仕事の一環なんです。……そうだ、優木さんさえ良ければもお見舞いついでに聴取に同席してはどうですか? 北島さんの話を聴いて思い出すこともあるかもしれないですからね。折角いらしたんですし、どうですか? 北島さんもね、命の恩人である君に直接お礼を言いたいと言っていましたし、帰られるのは勿体ない」

 急に話を振られた北島はああ、そうですね、と戸惑いながらも同意の声を上げる。

「優木さん、話は刑事さんから聞いています。本当は意識が戻って直ぐにでもお礼を言うべきとは思っていたのですが、しばらく絶対安静だったもので……。ああ、メロンを貰ったんです。良かったら食べて行ってください」

「ぇ、ぁ、はい」

 断る理由も思い浮かばず、結局あたしも聴取に同席することとなった。大人ばかりに囲まれて居心地が悪いが一時の辛抱だと言い聞かせる。警察の人が持ってきたと思われる小玉のメロンを適当な大きさに切って食べながら話に耳を傾けた。メインの話は北島の当日の行動と通り魔についての情報の確認だった。

「俺は郵便配達のバイトをしてて……、襲われたのはバイトの帰りでした。あの日は他のバイトが休みだったせいで配達物が多くて、帰るのがいつもよりだいぶ遅くなったんです」

「警察で確認したところ、職場のタイムカードの記録は午後十時半ちょうどでしたね」清水が証言と記録を結びつけていく。

「ええ。疲れてたのでまっすぐ家に向かいました」

「帰りは徒歩で?」

「そうです。バイト先から家までそんなに遠くないので。歩いて大体二十分くらいの距離ですね」

「そうですか。それで、公園にはどうして?」

「水を飲もうと思ったんです。……そしたら後ろから声をかけられました」

「……通り魔」小さく呟いた声は北島に届いたようだった。

「はい。街灯が逆光になっていて顔はよく見えませんでしたけど、身長が百七十センチくらいの髪の長い奴でした。黒い長そでの服を着ていたと思いますが……すみません、どんな服だったかはよく思い出せません」

「どんなことを言われたんですか?」あたしが気になって尋ねると女性の刑事にキッ、という効果音が出そうなほど鋭く睨まれた。刑事には刑事なりの事情聴取の順序があるのかもしれない。清水は相変わらず穏やかな表情で北島さんの方を見ている。

「見てみると良い、月が綺麗だよ、って。見上げると満月で、嗚呼ホントに綺麗ですねって言おうとしたら目の前にそいつが走り込んできていて……ナイフで切り付けられていました。それからはよく覚えていません……。起きたら病室でした」

「声は……、声は男でしたか? 女でしたか?」

「声……、ああ……確か、男です。そこまで低くない、中性的な男の声だったと思います」

「なるほど。それでは――」

 そこから先は退屈な事実確認だけだった。途中、あたしにも何度か以前訊かれたことと同じ質問を訊かれた。発言に矛盾がないかどうかを見るためだろう。疑われているということは少し気分が悪かったけど、これが彼らの仕事なのだし仕方がないと納得するほかない。成果を出せなければ世間から怒られ、平和だと穀潰しと言われる。警察という職業は難儀なものだと思う。

 事件の日あたしが公園を通りかかった理由は避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢のことを言うわけにもいかず、ランニング中だったということにした。幸いにして、あの時のあたしはジャージとランニングシューズ姿だったこともありこの嘘は特に疑われることはなかった。

 退屈な事情聴取が終わる頃にはもう夕暮れ時になっていた。帰り際に「車で家まで送ろうか?」と女刑事に訊かれたが断って歩いて帰ることにした。刑事と一緒に居るとあたしの一挙一動を見られているような気がして気疲れしそうだったからだ。

「すぐ暗くなりますから、気を付けて帰ってくださいね」

「大丈夫です。最近学校でこれが配られたんで、何かあったら使いますから」そう言って私は掌サイズのマスコットを見せた。

「何かのマスコット?」

「ダイオウグソクムシです。これ、マスコットに偽装した防犯ブザーなんですよ? 可愛いでしょ?」デザインが気に入ったあたしはその異形のマスコットをぐっさんと命名してカバンに付けて持ち歩くようにしている。ぐっさん、という名前をあたしはとても気に入っているのだが、前に葵子にひどく馬鹿にされて以来、あたしの心の中でだけ呼ぶ愛称にしていた。

「ずいぶん凝ったデザインですね……最近の流行りなんかね。まあ気を付けてね」初老の刑事は手を振って別れを告げた。

 夕焼け色の空の下、街灯は早くも点灯しており夜の訪れを待っている。帰り道は会社帰りや買い物帰りの人達で溢れていてジョギングしにくいことこの上なく、あたしは仕方なく歩いて帰ることにした。走れば三十分くらいで帰れる距離だったがこの調子だと一時間くらいはかかりそうだった。

 気楽に帰るつもりだったが、気が付くと思考は勝手に聴取の内容を反芻しはじめていた。街灯が一定間隔を進むたびに眼球に反射する感覚があるが、その中身の情報は脳は思考には上ってこない。あたしの意識は現実を置き去りにして記憶をなぞっていくことにだけに集中していた。聴取の際中感じていた頭蓋骨の裏側をカリカリと引っかかれるような違和感の正体を探る。

 犯人は男、中性的な声、百七十センチ、ナイフ、月が綺麗、黒い服……。

 あたしはハッとして足を止めて振り返った。犯人らしい人物、公園に向かう途中に出会った黒いローブの人物のことを警察に全く話していないことに気が付いたのだ。事件の直後は混乱していたから言い忘れていたが、このことは言っておいた方がいいだろう。そう考えて引き返そうとしたが、二歩踏み出したところで止まる。

 ――良い夢、見れた?

 あの人物は確かにそう言った。怪しい人物として警察に言うにはその根拠が必要だ。「良い夢、見れた?」という言葉はあたしの避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢を暗喩しているように思えるが、普通に聞けばただの挨拶のようにも聞こえる。そして、あの人物が怪しいと警察に言うとしても、あたしは黒いローブの人物の顔も容姿も全然覚えていなかった。太っていた・痩せていた、背が高かった・低かった、顔立ちはどうだった……、何も覚えていない。唯一憶えているのは中性的な声と、黒いローブだけ。これではあまりにも根拠に欠けているように思えた。

 あの時はローブを着ていたから女性かとも思ったが、北島さんの証言を聞いた後だと黒いローブを着た男の可能性もあるような気がする。男性とも女性ともとれる中性的な声。やはりあれは犯人だったのか? 考えがまとまらず混乱する。集中力が切れてきたせいか、自分が出口のない巨大迷路に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。

 あたしは止めていた足を自宅へと戻した。何も掴めないもどかしさのせいか自然と早足になった。



 長ったらしい校長の挨拶ばかりが印象に残る終業式を終え、先週から西高は夏休みに入った。今学校にいるのは教員たちの他には部活動に励む生徒と受験を控えた高三だけだ。あたしと顕はどちらとも該当していたが、優先すべきは勿論部活であり、勉強はもっぱら休憩時間とか部活後にフラフラの状態でやる程度だ。

 陸上部の練習している陸上競技用のグラウンドは夏の直射日光で加熱されてまるでサウナのようになっている。頬から滴ってくる汗の雫を何度タオルでぬぐったのか分からない。今朝見た天気予報では最高気温が三十六度の猛暑になるとのことだったが、体感的にはもっと暑い感じだ。他人行儀な平坦な声で「熱中症には十分ご注意ください」と言っていた涼し気なテレビアナウンサーが憎たらしい。

 陽炎が立ち上っている合成ゴムでできた赤いグラウンドは触ったら火傷してしまいそうなほど熱く、シューズを履いているにもかかわらず歩いているだけで足の裏が暑い。クーラーと日除けがある体育館を使える部活が心底うらやましいく妬ましい。こうも暑いと自分よりも優遇された環境にいる他者への嫉妬が増強されていくのだが、どんなに願ったところで陸上をやっている限り待遇改善は見込めないだろう。

「よーい、ドン!」

 掛け声を認識すると同時にクラウチング姿勢から素早く、一気に飛び出す。急激な加速。同時に周囲の喧騒が意識から失われる。身体の重心を前方に渾身の力で押し出すイメージが脳裏に浮かぶ。周りの走者を置き去りにしてあたしは熱いグラウンドを駆けていく。スタート前に陽炎の向こうに見えていたゴールラインが瞬く間に近づいてきた。

「優木はスタートダッシュが兎に角早いな。一瞬で加速できるしなやかで力強い筋肉がある。走るのも勿論早いが、スタートダッシュは全国の選手に引けを取らない、むしろリードできるほどのものがある。鍛えれば十分全国を狙えるぞ、優木!」

 陸上部に入部したばかりのころ、部活のコーチにそんなことを言われた。その時は「はあ、そうなんですか」と気のない返事を返した気がする。しかし、実際にちゃんとコーチに従って練習をしていったらあたしの足は見る見る間に速くなっていった。今では百メートル十二秒までタイムは縮まっている。大会最速ではないが、スタートダッシュの速さだけは大会に出ているどの選手よりも速い自信があった。練習は偉大だ。

 一瞬の思考が終わるころにはゴールラインを通過。タイムは十二秒二。汗が噴き出して音が戻ってきた。

 走っている間は聴こえないのだが、西高のグラウンドは無駄にたくさんの木々に囲まれているせいかカナカナカナとか、ミーンミンミンとか、ツクツクボーシとか、いろいろな蝉の鳴き声が一日中響き渡っていて結構五月蝿い。疲れ始めた午後の後半にもなると集中力が切れて余計蝉の鳴き声が大きく聞こえるようになってくる。練習の切りが良くなってきたところで校舎の一番上に設置されている時計を見ると、時刻は午後四時少し過ぎたあたり。猛暑のせいでいつもより身体も疲れてタイムも落ちてきたことだし、今日はこの辺で切り上げるのがいいだろう。

「陸上部! 今日の練習はここまで! 明日の予定について連絡するからみんな集まって!」

 大声でそう言って木陰に部員を集合させてコーチから聞いていた次の一週間の連絡事項を伝えていく。そもそも部長なんてあたしの柄じゃないんだけど、コーチから(一方的に)頼まれた手前、最低限の義務は果たさねばならない。夏が終われば二年生に引き継がれてお役御免になるからとりあえず頑張れ、と自分を納得させた。

 シャワーを浴びて制服に着替えてから自習するために教室に向かう。自習のためだ。さすがに高校三年の夏休みにもなると部活をやっていない同級生は皆受験勉強に勤しんでいるわけで、部活にかまけてて受験勉強が進んでいない今の自分の状況に最近焦り始めてきたのだ。疲れは溜まっているが、頑張れば今日中にあと四時間程度は勉強できるだろう。根性論は細かいことをうだうだ気にしなくて良いから嫌いじゃない。

 教室のドアを開くとエアコンで冷えた空気が顔に当たった。白いシルエットがドアについている小窓から見えた。

「あら、優木さん。こんにちは。部活はもう終わったみたいね。自習?」

 教卓の椅子に担任のフミ先生が座っていた。高三のテストの採点でもしているのかキュッキュと太めのペンを紙に滑らせる音が聞こえた。夏休みなのにご苦労なことだと思う。

 チリン、チリンと、何処からか鈴の鳴る音。夏休みの夕方の教室にはあたしとフミ先生しかいない。他のクラスメイトは図書館かどこかで勉強しているのだろうか? まあ人が少ないほうが静かでいい。

「そうです! それにしても先生は相変わらず白いですね」

フミ先生は白髪白服もそうだが、老魔女のような鷲鼻も特徴的な老教師だ。学校では柔和な雰囲気と見た目から【白い魔女】というあだ名もあるらしい。高校教師よりもどこかの魔法学校の先生をしているほうが似合っている、そんな先生だ。

 窓から入ってきた日の光がフミ先生肘あたりで何かに反射して輝いた。よく見るとフミ先生の白い服の肘あたりに小さな銀色の鈴が付いていて、それが先生の動きに合わせて鳴っていたことに気が付いた。フミ先生が現れるときはいつも響いている鈴の音の正体はアレなのだろう。全身白い服を着ているのもなかなかに特徴的だが、鈴のついている服なんてどこで買ったのだろう? 

「ふふふ、それは髪の毛のこと? それとも服?」

「あーどっちもですねー。ところでその鈴は何ですか?」

「ああ、これのこと? これは神社で神主をしている古い友人からもらったもので、何でも魔除けの効果があるんですって。私はあまり信じていないのだけど、でもいい音で鳴るから気に入っちゃって、こうして服に付けちゃったの」先生はお茶目な感じで言う。

 ふうん、そうなんですね、と相槌を打って世間話を切り上げる。あたしは自分の席に座って机に入れっぱなしにしていた参考書を取り出した。まずは物理からだ。物理は原理原則さえ覚えていればどんな難しい問題でも解けるから取っつきやすい。頭が勉強に順応してきたら数学か化学をやろう。英語はあんまり得意じゃないしやる気もないから、まあ寝る前にちょっと単語覚えるくらいで良いだろう。アンバランスで差別主義的な勉強の計画を立ててから計算用紙にペンを走らせた。

 一時間くらい経った頃、ドアをガラガラと勢いよく開いた。顕と、サキエダだった。サキエダの本名はたしか枝崎……誠志だった気がする。顕が呼ぶ「サキエダ」という音の響きがなんとなくしっくり着て、本当の名前はみごとに陰に隠れている。サキエダは顕と同じ体操部だ。身体の線は太めで体操部というより柔道部やラグビー部のような筋肉質の体格と角刈りの四角い頭のせいで熊みたいな印象を受けが、性格は温厚寡黙な感じの奴だ。顕とよくつるんでいて、あたしもたまに一緒に遊んだりしている。

「オッス、早織、お前も勉強しに部活終わってから戻ってきたんだな。やるじゃん」顕の軽い声と、

「ウッス」サキエダの低い声。

 教室の掛け時計を見ると時間は午後六時。体操部も今日の練習は終わって解散したのだろう。

 教卓の方をちらっと見ると何時の間にかフミ先生は居なくなっていた。勉強に集中していてフミ先生が出て行ったことにも気が付かなかったなんて、我ながらなんて集中していたんだ、と自画自賛をしてやる気を高める。

「お疲れーッス。なに、あんたらも勉強? それにサキエダがうちのクラスに来るのは珍しいね」

「俺はあんまりやる気が湧かなくて帰ろうとしてたんだが、運悪く顕に捕まっちまったんだよ」

「まあいいじゃんか、サキエダ。勉強は一緒にやってればダレなくていいだろ」

「もー、お喋りするんなら帰りなよ。あたし、折角集中して勉強を始めたとこなんだからさ」

 まあそう言うなよ、と顕は返した。顕は自分の席、サキエダは少し離れた適当な席に座って勉強を始めた。言葉の割に真面目にやる気はあるようだ。葵子のような文科系の人間だったら間違いなくだらけているところなのだろうが、流石は運動部と言ったところで、やるべきことと場所があればきちんとやるのだ。受験のプレッシャーもあるのかもしれない。

 教室にはノートや計算用紙の上を走る三人分のシャープペンシルの音が響きだした。


 集中力が切れてきて顔を上げると男共が参考書に視線を落としたままウトウトしていた。部活の疲れが出たのだろう。ちょうどいいから気分転換がてら声をかけてやる。

「そういえば顕達って、最近結構遅くまで練習してるけど、何かあるの?」

「あっ? ……ああ、八月の終わりに大会があるんだ。俺、レギュラーだからさ、高校生活最後の大会に賭けてるんだよ。青春の最後をいい結果で終えるって、ドラマみたいでなんか良いだろ?」あたしの声にビクリと震えて起きた顕は寝起きを悟られないように努めた口調でそう言った。

「そんなうまくいかないって」

「うわ、早織冷たっ! いいんだよ、ドラマは流れとかで勝利を掴んだりするけど、俺は努力で掴み取ってやるつもりなんだからさ。ファイトー! いっぱーつっ! ってね」

「ははっ、元気でよろしい! あたしも夏の大会に向けてもういっちょ頑張ってみるかなー」

「今よりももっとゴッキーっぽくなるな」

「うっせ、サキエダ。集中しろ馬鹿」ぼそっと余計なことを言うサキエダは殴られたいらしい。

「ひでぇ……」

「まあまあ、停戦停戦。もうちょっとやったら帰ろうぜ。あんまり遅くなると最近あぶねぇし、特に早織は二度も事件に遭遇してるからな。二度あることはなんとやらだ」

「通り魔事件なんて何度もあってたまるか! あー、でももし今日通り魔が出てもあんたらが守ってよね。あたしは逃げるから、その間に。全速力で」

「ははっ、まあ任せとけって」

 ふざけて言ったあたしの言葉に顕は力強く答え、サキエダはそう言った顕を眺めていた。


「じゃあ俺、ちょっとトイレ行ってくるわ。帰り支度して玄関で待っててくれよ」

 全員の勉強がひと段落したところで顕はそう言って教室を出ていった。帰り支度なんてすぐに終わってしまって、手持無沙汰になったあたしとサキエダの間には微妙な沈黙が落ちた。サキエダと一対一で話したことがないからか、顕という橋渡しが居なくなってどんなふうに雑談を切り出せばいいのかよく分からないのだ。カチ、カチと教室に据え置かれている丸時計の秒針の音が大きな音を立てて時を刻み始めた。

無言に耐えられなくなったのか、或いは言葉を探していたのか、沈黙を突拍子もない言葉で破ったのはサキエダだった。

「そういえば優木は顕と付き合ってるのか?」

「えっ!? ……あはは。なにさ、藪から棒に」寡黙なサキエダがそんな話題を振ってくることが何となく面白くて笑ってしまった。

「いや……、別に深い意味はないんだがな。部活のとき、顕が良く優木のことを話してくるからさ、何となくそう思っただけだ」

「ふうん、顕があたしのことをねぇ……。それはまあ、近所に住んでるし、幼馴染だし、お互い話題には事欠かないけどね。でもまあ、それだけだよ。色恋沙汰になったことなんて一度もないし、そもそも顕はあたしよりも胸の大きなグラビア系女子の方が好みみたいだよ。この前雑誌の美人さんに目が釘付けだったからねー。恋愛的にはあたしのことはアウトオブ眼中って感じでしょ」

 そうは言いながらあたしは少し意外に思っていた。顕があたしのいないところであたしの話をしているなんて思ってもみなかったからだ。その事実はあたしの胸を何となく躍らせた。なんだが嬉しいような、何とも言えない気分だ。或いはサキエダの言うように好意のしるしなのかもしれない。そしてあたしも或いはその好意を……。

「? どうしたんだ?」サキエダの不審そうな声で我に返る。思考が連想ゲームをしていたようだ。

「あ? ああ、なんでもないよ。ホントに」首をフルフルと振りながら答える。頬が一瞬緩んでしまったような気がする。

「……。ふうむ、まあいいさ。なんだ、優木もまんざらでもなさそうじゃないか」

「おい、どういう意味だよ、サキエダ」非難の目を向ける。

「いや、他意はないさ。ただ、腹を決められずに悶々としている親友の背をちょっと押してやろうと思っただけだ」

 肩を竦めながら四角い顔を気取った感じに歪めるサキエダ。あたしでもサキエダの言わんとする意味は分かる。すこし顔が熱くなった。……赤くなったかもしれない。

「おい、サキエダ、顕に余計なこと言うなよ。ホントになんでもないんだから!」小声で釘を刺しておく。

「ははっ、そういうことにしておくよ。野暮なことは言わないさ」

 笑いを噛み殺しきれない顔のサキエダに内心で「嘘つけ!」と叫んでいたが、思考はあるかもしれない顕との甘いような未来をシミュレートしていた。この妄想は現実になってくれるのかな? ちらりと見た愉快そうなサキエダの身体はごつごつとした筋肉質でキューピットには見えなかった。

「おーい、まだかよー!? 早くいこうぜー」廊下の先で顕が呼ぶ声が聞こえた。



 今、あたしは顕と二人で夏の夜道を歩いている。校門を出てすぐ、じゃあな、と左手を上げてサキエダは一人で帰って行ったからだ。直前に顕に何やら耳打ちしていたのは見間違いではないだろう。要らん気を回してくれる。でもまあ、サキエダのことはこれまで温厚寡黙な奴だとばかり思っていたが、案外気さくでいい奴なのだと分かった。顕はいい友人を持っている。

 帰り道は鈴虫の鳴き声でにぎやかだった。蝉もそうだが、こんな街中のいったいどこで彼らは生活しているのだろうか? 夜風は昼間に熱されたアスファルトのせいでぬるく、あまり涼しくはなかったけど、心地よかった。何処かで焼き芋の屋台でも出ているのか香ばしい香りが漂ってきた。昼から水分以外を入れていない胃が思い出したように人道的扱いを要求し始めた。

 空にはうっすらと雲が広がっていたが、たまにできる合間から時折満月がうっすらと覗いていた。星はほとんど見えない。都心のこの街で見えるのは一等星と月の輝きくらいで、あまりロマンティックには感じなかった。

「顕、嫌なことがあったときって、あんたどうしてる?」

 何となく無言の時間が長く続いた後、あたしは世間話をするようにそう切り出した。内心は顕の口から出てくるかもしれない告白の言葉にドキドキしている。なんでもないような会話をして気を紛らせたかった。もとよりあたしは繊細な無言の駆け引きができる人間じゃないのだ。

「なんだよ、突然」

「いやさ……、ほら、色々あるじゃんか、最近。受験勉強とか、連続通り魔とか、……あーあと変な悪夢を見た後とか」

「なんだよそれ、悪夢だけずいぶん日常的だなー。まあ、受験とか通り魔事件とかはまだ終わってないから忘れるっていうのは難しいけどさー、もう終わった悪夢くらいだったら気にしないで普通に過ごして忘れればいいんじゃないか? 走って、水飲んで、寝て、起きれば大抵のこと嫌なことは忘れられるさ、少なくとも俺はな」

「なにそれ、馬鹿っぽい」

「言うなって。自分で言ってて同じこと考えたけどさ。聞こえていても聞こえなかったり忘れたふりをするもんだ、大人はな。嫌なことなんて終わってしまえばそれまでなんだからさ、いつまでも気にしてんなって」

「言えてる。……あーあー、そうか。大人は忘れてしまうのかー。それもいいかもね。ふふっ」

 時系列があべこべだ、と笑いがこぼれてしまった。避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢はまだ起こっていない未来の出来事なのに、見終わってそれが現実に起こるまでは過去の出来事で……何とも掴みがたい。終わったことだから気にすることはないというのは、避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢の場合は決まっているから気にしないでもいいってことなのだろう。確かに決まったことを心配するのはただの気苦労が増えるだけで意味はないのかもしれない。考えてみれば当たり前のことだけど、顕から聞くと本当にそう思えるのは不思議と言えば不思議なことだ。同じ言葉でも発する人間によって違いものだ、と思った。

「そーそ。忘れてしまおう、嫌なことなんてな。ははっ、でも早織がそんなこと気にするなんてな! 女の子っぽいところあるじゃん」

「なにそれ、どういう意味? あたしは元から女の子だよ」頬を膨らませて女の子っぽい抗議をして見せる。

「そうだったっけな」顕は子供の頃によく見た無邪気な笑顔であたしを見た。

 顕はふいに足を止めた。つられてあたしも立ち止まる。街灯の下で顕とあたしは向かい合う。顕のブラウン色の大きな瞳があたしを正面から捉えていた。ついに来たか、とあたしは顕に気取られないように手をぎゅっと身構えた。胸の鼓動が耳の裏に反響している。

 顕は少し躊躇するように一度深呼吸して、

「なあ、早織。俺さ――」

 その時、何かが顕に左からぶつかり、顕の頭が慣性に従って左に振れて――それら一連の動きがゆっくりと流れて見えた。



 同時に避けがたい未来(プロヴィデンス)の記憶が脳裏に再生され始めた。しばらく見ていなかったせいで夢を見た後特有の気怠さを見逃していたことに遅れて気が付く。

 俯瞰した位置からの今の状況の記憶が見える。黒い服を着た髪の長い人が顕の横腹に何かを突き立てている。ナイフだ。ゆっくりと二人の身体がバランスを崩しながら右方向に動いていく。このままでは危ない! 背筋を冷たい感覚が走り抜けた。

「ッ!」最良の策を考える間もなく、あたしは両手を突き出して黒服を思いっきり突き飛ばした。

「……!」誰かの鋭く息を吐く音。

 前のめりになってバランスを崩していた黒服は簡単に地面を転がった。顕と黒服との間に少しの距離が出来る。ナイフが抜けた。避けがたい未来(プロヴィデンス)の風景は一瞬の遅れもなくその姿を別の角度から映している。黒服の手には赤く濡れたナイフがまだ、ある。そしてあたしの足元には……顕。

「はあ、はあ……」

 大したことをしたわけでもないのに息が上がっていた。どうしようもないような状況が重なって頭に血が上るばかりで何から対処していいのか、行動の優先順位がつけられない。全身が震える。うまく目線を動かすことが出来ず肉眼で顕の様子を見ることはできない。しかし避けがたい未来(プロヴィデンス)の風景はあたしに今の惨状を教え続けている。目線の先で黒服が立ち上がった。

 街灯が黒髪に隠れた通り魔の顔を薄く照らす。彫りの深い顔には怒りの表情。刻まれた皺が無数の影を顔面に作っている。その憎悪のこもった視線はまっすぐあたしを捉えて離さない。街灯を反射しただけのはずの男の目は紅色に光って見えた。これまで感じたことのない、言葉を交わす余地のない拒絶の色。男は長身の割に身体は細かったが、異様な目の輝きと雰囲気のせいか巨大な怪物のように見えた。

「ぁぁあ……ぉぉ、おまえ……!」男は口から戦慄くような声を漏らしながら、あたしに向かって一歩踏み出した。手には顕の血の滴るナイフ。

「……ッ!」背筋に悪寒が走ると同時に喉から声が漏れて、金縛りが解けた。

 あたしはこういう状況でやるべきことを忘れていなかった。ここ半年学校で毎日のように指導されていたこと。一度停止していた思考は動き出すと同時に単純で最も生存率が高くなる方法を選定し終わっていた。

「ぐっさん!」男が二歩目を踏み出すよりも早く、あたしはカバンについているマスコットのストラップを右手で強く引っ張った。


 たちまち鳴り出す大音量のけたたましいブザーが閑静な住宅街に響き渡った。


 男は足を止めて困惑の表情を浮かべている。あたしの通学カバンにぶら下がるダイオウグソクムシのマスコットは最大音量で非常事態を周囲に伝えてくれていた。

 目線の先、男は迷っているように見えた。たぶん、あたしたちを殺すか、逃げるかで。前者なら顕はきっと殺されてしまうが、あたしは全速力で逃げれば助かるかもしれない。

「そんなこと、しないけどね……」

 心に浮かんだ不逞な考えを言葉で否定する。考えは何時か言葉に、行動に、習慣に、人格に、そして運命になるから気を付けろって、マザーテレサが言っていた。全部が全部、運命にまで発展するとは思えないが、この考えは運命に成り得る気がしたから、否定する。あたしは顕を死なせたくない。死なせることを運命にしたくない。

 しかし、思いとは裏腹に身体はまた震えだした。殺されるかもしれない。避けがたい未来(プロヴィデンス)の記憶はまだ続いているが、結末を教えてくれはしない。あたしも顕も死ぬ、最悪の結末を想像せずにはいられない。恐怖はあたしの意思を骨抜きにしていく。虚勢が崩れ去る前に、終わってほしい。

 想いが誰かに通じたのかどうなのか、幸いにして終わりはすぐにやってきた。

「――!」

 男が何か言う。表情と口の動きからそのことだけは分かったが、肝心の内容はぐっさんの鳴き声に埋もれて聞こえない。男の問いかけるような表情が見える。目には先ほどの異様な輝きではなく、なんというか……何かを願うような、渇望するような色があった。

 あたしは首を横に振って答える。男が何を想って、何を訊いたのかは分からなかったが、あたしとこの男の見えている風景は違いすぎていて、たぶん言葉も違いすぎているように思えて、拒絶した。

「……」

 男は顔を失望したように歪めて、俯いた。長い髪に顔が隠れる。次の瞬間に顔を上げて襲い掛かってきそうな気がしてあたしは男から目が離せない。男の口元が小さく動き、誰に伝えるわけでもなく、うわごとのように淡々と闇夜に消える言葉を紡いでいる。

 動きのない視界の中でチラチラと光の瞬きを感じた。男の握っているナイフだ。刃先が細かく震えて光を反射している。それがどんな情動によって引き起こされているのかは分からない。怒りか、恐れか、或いは歓喜か。いずれにせよあたしと顕にとっては脅威でしかない。顕……?

「顕!」

 あたしは気が付いて足元に目を落とす。道路には顕の足が無造作に放り出されていて、目線を上げると赤黒く染まったシャツとそれを押さえる顕の大きな蒼白な手。顔は見たこともない苦悶に歪んでいて息は荒い。しゃがんで傷口を顕の手の上から押さえる。冷たい手と生暖かい血液が顕の身体の中から脈動して流れ出てくる。

 夏の暑さのせいだろうか? 全身から汗が噴き出して、特に顔から垂れる汗が嫌に多い。誰のか分からない心臓の鼓動が嫌にうるさくて、鼓動が鳴るたびにどうしようもなく焦ったような気分になった。時間がじわりじわりと一秒ずつ、いや一鼓動ずつ過ぎていく。自分がいったい今、何をしているのか分からなくなってくる。

 ぐっさんは未だ鳴き止まない。

 全ての音が遠く、くぐもって感じられた。どうしようもない理不尽を前にあたしは自分自身の耳を塞いでいるかのようで、うまく聞こえない。プールに潜ったみたいな――息苦しいけど、水面の向こうの現実の音はうまく伝わってこなくて、どこか隔絶されてしまったような、そんな感覚。


 それから後のことはよく覚えていなかった。気が付くと通り魔の男は居なくなっていて、あたりには救急車かパトカーの音が響いていた。肩を揺さぶられてかけられた声に顔を上げると何故かフミ先生が居て何か言葉をかけてもらったような記憶があるが、いつの間にか意識を失ってしまって夢なのか現実なのかよく分からなかった。

 しかし、そんなことはどうでもいい。問題なのは顕が襲われてしまったことだった。

あたしが一番恐れていたことが現実になった。あたしはどうしようもないほどに西要町連続通り魔事件の当事者になってしまったのだ。

 避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢は希望なんて与えてくれない。いつも結果と後出しの後悔だけを残して、そして今回はあたしを通り魔事件の舞台に置き去りにしてどこかに行ってしまった。



 事件の翌日、あたしは病院のベッドの上で清水刑事に徹底的な事情聴取を受けた。怪我はしていないけど、医者の勧めで一日二日入院して様子を見ることにしたのだ。

 前は柔和な印象だった清水刑事も今回は表情が硬い。あたしが二回連続の通り魔事件の現場にいたこともあるだろう。通り魔の容疑者として睨まれているのは間違いない。前一緒に居たきつい感じの女刑事は今日はいなかった。

 清水刑事に言われて目撃した通り魔の似顔絵も描いてもらった。でも、あたしの記憶をもとに描かれたスケッチはよく似ているようも、的外れなほど違うようにも思えた。そう言ってしまうと清水刑事は益々あたしへの疑いを深めるだろうと思って黙っていることにした。その当てにならなそうな似顔絵を見ているとなんとなく、あの時見た通り魔が街中を歩いているところを警察に捕まる未来は存在しないような気がした。

「未来……か」あたしの漏らしたつぶやきは清水刑事の耳には届かず、病室の空気に消えた。

 避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢を見るようになって以来、未来というものがどうしようもない袋小路に続いていて逃げ場のないもののような存在にあたしの中でなってきている。あたしがすることはすべてうまくいかなくて、それでいて悪い奴は捕まらないクソッたれな世界がどこまでも続いていくようなどうしようもなさを感じる。

 警察の事情聴取もひと段落した退院間際、親父が見舞いに来た。警察から連絡が行ったらしい。親父は病室に入ってくると特に何か訊くわけでもなく、ただ「海外出張に行く」と言って出て行った。親父の無関心はいつも通りだ。いっそのこと、あたしが死ねばよかったと思っているに違いない。子持ちの独身男にとって、あたしは邪魔な存在でしかない。ただ、その無関心が今はありがたかった。これ以上頭を悩ませたくなかった。あたしにとって、顕が刺され、あたし自身が当事者になった今をどうすればいいのか? それだけが問題だった。

 記憶は連鎖して、退院してすぐに顕を見舞いに行った時の情景に行き当たる。胸の奥が重くなった。

 結論から言えば、顕は死ななかった。不幸か幸いかは、あたしには分からない。

 しばらく面会謝絶にはなったが、命に別状はなく半年ほどで退院できると顕を担当している若いフランクな感じの先生は言っていた。

「ごめんね、早織ちゃん。顕君の詳しい病状は親類以外の部外者には言えないんだ。最近、病院じゃあ個人情報の取り扱いが厳しくなっちゃってねぇ……。いくら命の恩人でも言えないんだよ」

「……幼馴染じゃ、ダメですか?」

「幼馴染か……うーん、甘美な響きだ。青春って感じで。幼馴染で命の恩人なら、仕方ないよなー」

 訊くと、刺されたナイフは幸い内臓を傷つけはしなかったらしく、時間はかかるが治癒できるということだった。悪くないニュースなのだがあたしは悪寒を感じずにはいられなかった。――もしあの時、あたしがたまたま通り魔の男を突き飛ばしていなかったら?

「いやあ、本当に運が良かったね。もし刺されたままだったら……おっと、ちょっと不謹慎だったね。でも、ホント、早織ちゃんのおかげで顕君は助かっているんだし、結果オーライっていうか――」

 ――きっと死んでいた。今回はたまたま運が良かっただけで、次に同じことがあったとしたら、きっと助からない。

 あたしは自分が薄氷の上をこの先何時までも歩み続けなければならないかのような、重心の置き場も定かじゃない底知れぬ不安を感じた。何時この氷を踏み割って冷たい水底に沈み込むことになるのか? 水の檻に囚われる自分の残像が脳裏に浮かんだ。透明な檻の中にはナイフを持った髪の長い男が居て、あたしを見据えて何かを問いかけている。冷たい水はその音を伝えない。発すべき答えの分からないあたしは……。

「――あれ、どうしたんだい早織ちゃん? 顔色が悪いけど……、嫌なことでも思い出しちゃった? まあ、あんなことがあったばかりだから仕方ないよ。ちょっと休でいくかい? おいしい紅茶があるんだけど」

「あ、いえ……大丈夫です。今日はちょっと貧血気味なだけですから。えっと、顕の面会が大丈夫になったら教えてください」

「あっ、そう?」

 あたしは水の檻から逃げるように早足で病院を出た。空には真夏の太陽がギラギラと輝いていて、コンクリートの道路からは陽炎が立ち上っていた。じめじめした暑い空気に満ちた帰り道を走って帰ったから家に着く頃には汗びっしょりになっていたが、冷たい水の感覚はまだ身体に残っていた。


 それから一週間ほど経って面会謝絶が解除された。顕の病室は一人部屋だった。スライド式ドアを開けると白い清潔な感じの棚、ベッド、カーテン。どれも病院らしい病的な色合いが満ちていた。

「よっ、顕。元気? あ、サキエダも来てたの?」努めて明るい声で挨拶した。

 顕はベッドの上で仰向けになっていた。長身の顕にはベッドは少し窮屈そうで、足がベッドの端からはみ出していた。刺された腹部は曲げられないから座ることも出来ないのだろう。そして、ベッドの脇にはガタイのいいサキエダが居て、個室を少し狭く感じさせている。

「……ん、優木か。さてと、邪魔すると悪いから、俺、先に帰るわ。さっきの話、お前の代わりになるか分からんが、頑張ってみる」

「ああ……頼んだ、サキエダ。大会、行けたら見に行くよ」

「馬鹿、無理しねえで寝てろ。じゃあな」

 サキエダは顕としていた話を切り上げて病室から出て行った。横を通り過ぎたサキエダの顔は少し思いつめているような感じだった。

「何話してたの? 部活の話?」

「まあ……な。俺がこんなんだから夏の大会の代理を頼んだんだ」言うと顕はそっぽを向いてしまった。数日ぶりに聴いた顕の声は弱々しかった。

「そう、なんだ」

「……」

 続く言葉もなく病室が静かになる。あたしはサキエダの座っていた椅子に座った。

 ベッドに横たわる顕を見る。顔には何かを押し隠した能面のような硬さ。腹部はガーゼと包帯で覆われていて痛々しい。時折顕の肩が震えていることに気が付いた。傷が疼くのかもしれない。起こった悲劇の深刻さが重力を持ったみたいにあたしの胸を重くする。こんな重みを感じるくらいならあたしが刺された方がずっとましなように思えた。

「痛む?」

「……」顕は小さく首を横に振って否定する。顔はそっぽを向いて表情は読めなかった。

 顕の側頭部を見ながらあたしはその内心を想った。

 顕との付き合いは長い。小学生三年生から同じクラスになり続けているせいか、或いは何となく気が合うせいかなにかと同じ時間を一緒に過ごしてきた。悪ふざけをするときも、それが見つかって先生に怒られるときも、部活の大会で勝って喜んだ時も、負けて泣いたときも、あたしの母親がいなくなった時も、顕の父親がバブルで破産した時も。そのせいかもしれない。あたしには顕が一番苦しんでいることが何となく分かった。自分の努力でどうしようもないことに直面した時、顕はいつもそんな硬い無表情を作るのだ。

「しばらく、体操、しばらくできなくなっちゃったね」

「ああ」掠れ声。

「夏の大会も、出れないんだね」

「……」

「……ごめん」言葉を選ぶのが上手くない自分を呪いたくなった。

「なんで早織が謝ってんだよ。悪いのは通り魔だろ」

「うん、そうだけど……、守れなくてごめんって思って。顕、遅くまで練習頑張っていたのに、それなのに……」

「やめろって! ……らしくない慰めなんてすんなよ」

 感情を抑えるような低く抑揚のない声が響いてあたしは黙った。あたしは頭が良くないからなんて言えばよかったのかは分からない。ただ形のない重さがあたしの胸の奥に、たぶん顕の胸の奥にも横たわっていた。全てを快刀乱麻に断ってくれる【何か】が現れてあたしたちの悩みを一笑して取り払ってくれる、そんな幼稚な妄想が頭を駆け巡った。しかし現実は変わらず、時間は戻らない。幸せで無責任な妄想に浸れるのは自分が当事者ではないときだけなのだと悟った。

「……じゃあ、顕、あたし今日はそろそろ帰るね」

「……」

 いたたまれない気持ちになってあたしが席を立っても顕はこっちを見なかった。

「また、来るから。今度は何か果物かお菓子でも持ってくるから」

 返事を待つのが怖くてあたしはスライドドアを開けて病室の外に出る。その時、顕の震える声を背中に聞いた。

「これが運命っていうなら、それを決めたクソ野郎をぶん殴ってやりたい……。俺には努力しかできないっていうのに、努力することもできない運命を用意するなんて、どうしようもない悲劇作家だよ。クソッ」

 あたしは後ろ手にドアを閉めるとその場にうずくまった。悔しがる顕の悲しみと言葉にならない自分の感情のうねりに巻き込まれて身体が引きちぎられそうだった。顔を覆った指のすき間から涙がこぼれ出る。

「ホントに……クソ野郎だよ」

 悪態をつきたかったけど、恨むべき通り魔の名前をあたしは知らなかった。そのことが余計悔しくて、泣き声を上げないように食いしばった歯のすき間から荒い吐息が漏れた。

 ふいにポケットに入っていた携帯電話が短く二回震えた。メールだ。気を紛らわすために見ると葵子からだった。短い見舞いの挨拶の下にこう付け加えられていた。

『事件があったばかりで大変だと思うけど、協力してくれない? 西要町連続通り魔事件について、お兄ちゃんが依頼を受けて調査を開始したの! お兄ちゃん、優秀な探偵だからもしかしたら顕の敵討ちができるかも!?』

 八月三日。顕が刺されてから二週間が経っていた。



 待ち合わせは学校だった。夏休みも半ばに差し掛かってきていたが私立西高は受験生のために終日解放されている。そのせいでそんなに数は多くはないが、暇を持て余した生徒達がたむろする場にもなっている。学校側は行き過ぎた風紀の乱れがない限り生徒の自主性を尊重する方針を取っているから口うるさく注意されることもなく、長期休みに入って人のあまりいない学校は居心地がいいのだ。

 自分の教室に入ると既に葵子は教卓の上に座っていて、その横には何故かサキエダが居た。あたしが入ってきたことに気が付くと二人は手を掲げて出迎えてくれた。

「オッス」

「おっ、ユッキー早いね! あれ、どうしたの? 目元が赤いけど――」

「それで事件調べるってどうするの?」無駄に接近してくる葵子を押し返し、無用な詮索は退けて話を急かす。

「単刀直入だね! まあいいか。えっとねー、僕のお兄ちゃん――蒼っていうんだけど――が依頼を受けて事件の調査を始めたの! ん? 誰に依頼されたのかって顔だね? でも残念、お兄ちゃんは守秘義務があるからって僕にはクライアントのこと教えてくれなかったんだよね。でもでも、依頼人の人が面白いこと言っていたみたい」

「面白いこと?」サキエダが訊く。

「なんでも『目的は早く犯人を捕まえることだから、別の人と協力してもいいし、協力者に捜査情報を共有してもいい。最終的にきちんと犯人を捕まえるかその手がかりを見つけて、それでいて犠牲が出ないように調査をして頂戴』って言われたらしいの。慈善活動みたいな感じだけど、それだったらわざわざお金をかけて依頼してこなくても警察に任せればいいような気がするんだけど……まあお金が入るしいいかなって依頼を受けたのが昨日の夜。お兄ちゃんは依頼を受けるか悩んでいたみたいだったけど、葵子ちゃんがバーンっと『受けます!』って言って今に至るのです」

「確かにおかしな依頼だな。探偵事務所ってのはそんな依頼、多いのか?」

「ううん、全然。超イレギュラーだよこんなの。まあでもほら、世の中お金が大切だし? 金払いの良い客の要望は甘んじて受け入れるのです。それがサービス業というものなのです。え? 依頼料がいくらかって?」

「聞いてない」話が脱線しそうになるのを元に戻す。

「あっそう? まあいいや。でね、でね! 最近、ユッキーちょっと元気ないじゃん? きっとすっごく事件のこと気にしてると思って声かけたの。僕らもう高三で受験が終われば卒業だけどさ、青春の最後をしみったれた通り魔の嫌な記憶で汚れたままにしたくないなって僕は思うんだ。ユッキーはもしかしたら別のことに悩んでるのかもしれないけど、でも事件が解決すれば全部丸く収まって結果オーライになるんじゃない? あーあー、ちょっとうまい言葉が思い浮かばないんだけどさ、つまり、一緒に捕まえようってことなの!」

「あ、うん、そうね――」

 葵子にまくし立てられて思わずそう返してしまったが本当に良いのだろうか? いや、良いか悪いか以前に私立探偵と素人でしかも高校生のあたしらが頑張ったところでどうにかなるのか? そんなあたしの疑念をよそに葵子は言葉を続けていく。

「でしょ!? ユッキーも一緒に調査した方がいいと思うでしょ? それにね、サキエダも手伝ってくれるって! みんなで力を合わせれば勇気百倍だよぅ!」そう言って右手を頭上に掲げる葵子は何か新しいおもちゃを与えられた子供みたいにノリノリだ。サキエダに視線を向ける。

「俺は……顕との相談のことを部活の連中に伝えに来たら西条に捕まったんだ」

「何言ってんの? サキエダは顕の親友ともいえる男でしょ? 仇討ち敵討ち上等ってもんじゃないですか。ほれ、僕たちと一緒に犯人捕まえようぜ、相棒」

「誰が相棒だ」

 少年探偵団じゃあるまいし、とも思ったがあたしは葵子、サキエダと一緒に葵子の兄の探偵事務所に行くことにした。正直言って、この調査によって犯人が捕まるとは思っていなかった。捕まえるために行動しているという免罪符がほしかったのだ。あたしの為の免罪符。こんなことをしても顕は救われないって分かっているけど、それでも……。つくづく自分勝手な人間だと自分が嫌になった。

 夏の余りにもまぶしい太陽の光の下を歩いていく。気温は三十五度を超える猛暑日だったけど、気分は冷え切っていた。


「葵子からすでに聞いたことがあるかもしれないが、犯人はどうやら満月付近の日を狙ってるみたいだ。その証拠に犯行は常に晴れて月の見える夜だけだ。まるで狼男みたいだと思わないか? ああ、そうそう満月ではないが、今日の夜とかはよく月が見えるだろうな。満月付近のこういう日は事件が起きないか警戒しておいた方がいいだろう。それと早織くん、とりあえず今わかっている情報を教えてくれないか? もう警察に何度も説明してうんざりしているころだとは思うが、頼むよ。情報源は多いほうがいいんだ」

 あたしたちが事務所(普通の高層マンションの一室だ)に到着した出会いがしらに葵子の兄――蒼はそう言って出迎えてくれた。この連想ゲームのように言葉が続いていく喋り方は西条家の血のせいなのだろう。家族団らんで囲む食事の場がどんな状況なのかを想像して少しげっそりした。隣のサキエダも同じ想像をしたのか苦い顔をしていた。

 道すがら葵子に蒼がどんな人物なのかを聞いた。たまに葵子との話題にのぼっていたから何となくは知っているのだが、私立探偵をしているという蒼の人物像はいまいちピンときてはいなかった。

 蒼は葵子よりも五歳年上で二十三歳、三年前に大学を中退して今は専業で探偵をしているという話だった。中退後に学生時代に築いた人脈をもとに探偵業を始め、現在経営は安定軌道に乗っているらしい。髪は肩にかかるくらいの長さで、身長は低いらしく百五十センチくらいだという。話を聞く限り、それは葵子とほとんど同じ容姿に思えた。イメージは葵子の男版と言ったところか。

 そして到着してみればまあ、予想にそんなに反しない人物が居たわけである。付け加えるとすれば、身長が低く、顔が中性的だったから年上のお兄さんというより少年のような印象だったことくらいだ。

「成程、そうか、長髪で線の細い男、黒い服、常軌を逸した目……異常者、の一種なんだろうな、恐らく。でも狡猾に逃げ回っている。とすると計画を念入りに作り込んでいる知能犯か、或いは複数犯か、実行は長髪の男でその他に逃がし役がいる? 凶器にナイフを使った理由は何かあるのか? 相手に接近しなければ使えない武器としての特性から考えると、格闘戦に自信がある? しかし現実としては早織くんにまんまと犯行を邪魔されている。とすると――」

 挨拶を抜きにして警察の事情聴取と同じことを伝えると、今度はぶつぶつと独り言を言いながら高速のタッチタイピングでパソコンに何かを入力し始める。蒼の大きなパソコンには無数のコードが繋がっていて、壁に据え付けられている四つのモニターには全部別々の表や何かの文書、写真、何処かのカメラの映像が映し出されている。キーボードを打つ音とパソコンの排気音が低く響く蒼の事務所は、あたしが知っているどの場所とも違っていた。それはサキエダも同じようであたしたちはすっかり毒気を抜かれていた。思い描いていた探偵とはだいぶ違う。探偵というよりもサイバーハッカーのようだった。

「お前の兄貴、なんか……すげえな」サキエダが冒険家が洞窟を探検していたら思いがけず何処か別の世界にたどり着いてしまったかのような、未知との遭遇にただただ驚いたような声を上げた。

「でしょ? お兄ちゃんは天才サイバー探偵なのですよ。インターネットで色々調べたり、仲間の人に調査依頼を出したりして集めた情報で推理していくんだけど、自分ではほとんど動かず家にこもりっきり! 車椅子の名探偵ならぬ、引きこもりの名探偵! すごいでしょ?」

「それ、僕のことちょっとけなしてない?」モニターを見ながら蒼がツッコミを入れるが葵子は聞こえないふりをしている。

「それで、あたしたちはどうすればいいの?」カタカタと鳴るキーボードの音がしばらく響いていたが、じれてきたあたしは蒼を急かすように訊いた。蒼は背中を向けたまま右手を器用にこちらに向けて『待て』のジェスチャーをしたのでしばし閉口して待つことにした。数分してエンターキーをパーンと高らかに叩く音が鳴ると同時に椅子が反転して蒼がこちらを向いた。

「待たせたね。単刀直入に言って、これから早織くんとサキエダくんには主に実働部隊として動いてもらいたい」

「俺と?」「あたし?」声がサキエダと被った。

「そう、君たちだ! サイバー探偵とはいってもすべてを調べることはできない。それに西要町連続通り魔事件は現在進行形で進んでいる。名探偵みたいに事件が終わってから犯人を捜す暇はないんだ。捜査は通り魔の犯行に合わせてリアルタイムに進めていなかなければならない。だからこそ、若い助手たちに実働部隊を任せようと思う。人を雇うお金もあんまりないんでね」

「……誰が助手たちだ」サキエダがボソッとこぼすが蒼は聞こえていないかのように続ける。

「まあ、それはいいわ。で、実働部隊としてって、具体的に何をするの?」

「はは、それをこれから説明しようとしていたところさ。噂通りせっかちさんだなー。まあいい。これを見てくれ」

 西条兄妹にせっかちさんなどと言われる筋合いはないと思いながら蒼の指の指す先にあるスクリーンを見る。そこには西要町の地図が表示されていて、所々に星マークが付けてあった。

「なんだこれ?」サキエダは疑問の声を上げる。

「事件のあった場所ね」直ぐにピンときた。実際に行ったことのある場所にある星を見ると胸が痛む。

「そう、その通り。今年の一月二十八日、三月二十二日、六月十九日、そして七月二十一日。それぞれの犯行は決まって満月の前後の晴れた夜に行われた。実際に調べてみると犯行の行われなかった二、四、五月は満月前後は雨か曇りだった。加えて、犯行場所は西要町の中に集中している。これらのことから言える、いや推測できることが二つある」

「一つは、犯人はあえて満月の日を選んで犯行を行っていること?」

「そうだ。そしてもう一つは、犯人は近くに住んでいる可能性が高いということだ」

「どうしてだ? 疑われないようにわざわざ遠くから西要町に来て犯行をしている可能性もあるだろ?」サキエダが訊く。

「もちろんその可能性もある。しかし、考えてみてほしい。サキエダくん、例えば君が狡猾な通り魔だとして、果たして見知らぬ土地で殺人、死体遺棄をしたいと思うか?」

「どういうことだ?」サキエダは困惑の表情だ。彼はどうにも表情豊かな奴だと思った。

「あんまり想像はできないかもしれないな。まあいい。これはプロファイリングというものだ。聞いたことぐらいはあるだろう? プロファイリングとは過去の事件の犯行の特徴・性質を分析し、新しい事件の犯人の特徴を推測するものだ。この場合で言うと、通り魔をする犯人は土地勘がある人間が多い、という実績に基づいた推測だ」

「通り魔に関するプロファイリングは他にもいろいろあるよ! 例えば、無職、或いは自営業等の仕事で、あまり人と接する必要がない、劣等感、孤独感が強い人間とか」葵子が胸を張って自慢げに補足する。

「根暗な人にほとんど当てはまりそうな特徴ね」あたしは目を細めて蒼を見やる。

「僕を見るなよ。まあいい。ここからは今回の通り魔事件の犯人についての僕の考察だが、ちょっと気になっていることがある。よく犯罪心理学では通り魔事件の犯人は反社会的側面を持つといわれているが、今回それが当てはまらないんじゃないかと僕は考えている。というのも、早織くんの証言だと犯人は犯行を邪魔されたとき、何かを問いかけるような行動をしたということだっただろう? 暴力ではなく言葉で早織くんに何かを確認しようとした、というのが引っかかっている。反社会的というのは何となく違う気がする。加えて、気にかかるのは被害者が十代後半から三十代の若い男性であることだ。通り魔は男で、しかし女性ではなく男性、しかも若い男性ばかりを狙っている……。無差別的な通り魔と考えることはできなくはないが、何かしらの意図を感じる。その意図が何なのかは計りかねるところではあるが……」

 蒼の推理を聞いて思考する。通り魔の犯人像は確かに特徴をとらえているような気がした。同時に、蒼の言う引っかかりも理解できる。あたしにも満月の夜に通り魔に化ける怪物が、統計的なデータから導かれた犯人像と酷似しているとはどうしても思えなかった。異様な目の輝きを持った男の姿が網膜に浮かんだ。この事件の犯人は常識の通じない【何か】なのだと思った。人知れず震えそうになった足をキュッと閉じて堪える。

「さて、一気に喋ってしまったが、君たちにやってもらいたいことは犯人捜しだ。家に潜んで世間の目を忍んでいる可能性もあるが、最低限食糧の買い出しは必要だし、犯行の前にはターゲットの行動を調べるために出歩いているはずだ。早織くんは犯人の顔を知っているから、一目見れば分かるだろう? サキエダくんと協力して調査してほしい」

「犯人探しって、西要町の住人を全部調べろってこと?」

「流石にそこまでは言わんさ。僕と葵子で情報調査をして候補地を指定するから、そこを重点的に調べてほしい。こちらの方で分かったことや逆に現地に行って調べてほしいことがあったときには携帯電話のメールで送る」

「分業ってわけね。大体分かったわ」

「ホントは葵子も一緒に行きたいんだけど、私そんな体力ないからねー。涼しいクーラーの効いた部屋でユッキーたちが汗だくになって調べている間、色々調査しておくから!」

「……」嫌味を言っているつもりのなさそうな笑顔の葵子を数秒見つめ返した。


「そうだ、これまで私立探偵をやってきた僕の勘だけど、この事件……思ったより厄介かもしれないぞ。警察もそんなにあんまり当てにできないかもしれない」

 あたしとサキエダが紙切れにメールアドレスを書い手渡すと蒼が世間話をするような口調でそう言った。紙切れをキーボードの横に置くと蒼は腕を組みながら部屋の中を大股で右へ左へフラフラ歩き始めた。シャーロックホームズを気取っているのかもしれない。

「警察が当てにできない?」

「ははは、早織くん。なんでもそうやってオウム返しに聞き返すと馬鹿だと思われるよ? まあさておき、今回までに発表されている犯人の遺留物、例えば髪の毛なんかはどれくらいあると思う?」

「十個くらい?」今まさに馬鹿にされているように思えてムッとしながら答える。

「ははっ、惜しいね。正解は零個だ」

「何もないってこと? 四人も被害者が出ているのに?」思わず聞き返した。

「そうなのよねー。僕も最初訊いたとき驚いたけど、警察は犯人の証拠に関する情報を一つも出していないんです。過剰秘匿だとテレビのコメンテーターが言ってました」葵子が言う。

「情報を一つも……?」それが差す意図を掴めず聞き返す。

「そもそも犯人逮捕前に公開されている情報は犯人に明かすことのできる範囲に限られているんだ。だから、捜査の上で重大な証拠があったとしても公表されていない可能性がある。既に重大な証拠を警察が見つけているなら我々にとって喜ばしいことだが……それが七ヶ月も続いて犯人も捕まっていないとなると、そうでない可能性が高い。つまり、少なくとも言えるのは我々の手の届くところに犯人に繋がる物品はないってことだ。……いや、或いは――」蒼が珍しく言い淀んだ。

「或いは?」

「いや、警察が何かを隠蔽しているのかも……って思っただけだ」

「なんだって!?」サキエダの驚嘆が部屋に響く。

「あくまで、ちょっとした思い付きだよ。そんな深刻に捉えなくてもいい。ただ今の状況を導ける第三の方法が警察による事件の隠蔽かなって」

「……そんなこと、あり得るんですか? 昔は秘密警察とかあったって聞きますけど」

「そりゃ戦前の話だろう? まあいい。あり得るかどうかという問いに答えると、イエスだ。警察も所詮人間の集まりで、身内意識もある。犯人が身内にいた場合、身内が起こした不祥事をもみ消そうとすることはあり得ない話ではない。でも僕はその可能性は低いと思うな」

「あっ、葵子分かるよ! それだったら事件が続くわけがないからでしょ」右手を点につき上げた葵子が嬉しそうに言う。

「イエス! 不祥事を隠蔽するにしても限度はあるし、通り魔事件が続けばそのうち隠蔽は間に合わなくなる。身内の犯罪なら犯人が分かった時点で拘束するなりなんなりしてそれ以降の犯行は押しとどめるはずだ。だから合理的に考えて、警察は決定的な手がかりをつかんでいない状況だと考えるのが自然だ」

「分からないことばかりってわけね」

「探偵の仕事の始まりなんてそんなもんさ。悲観しても仕方ないさ。兎に角、日が暮れる前に大雑把に調査地域をまとめてしまおう。時間を無駄にするわけにはいかない。次の満月は八月十八日で半月くらいしかないんだ。現地調査と僕のネットワークからの情報収集は並行して進めていく必要がある。まず西要町の――」

 前途多難な予感がした。この予感は良くも悪くも避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢よりも現実的だった。これまで避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢にずっと悩まされてきていたから気が付かなかったけど、避けがたい未来(プロヴィデンス)の夢が見れない場所にも別の未来があるのだ。そしてその未来は間違いなく自分の足元から続いている道の先にあって、あたしの行動次第で変わってくる。あたしができるのはひたすら走り回ってまだ現実になっていない前途多難な予感の芽を一つずつ刈り取っていくことだけだ。

 次の満月まであと半月足らず、蒼が言うように時間はあまりない。あの男が次の満月に顕の病室に現れて顕を殺さないとは限らないのだ。あたしは腹筋に力を入れて息をゆっくりと吐いた。それまでに、犯人を見つけるのだ。あたしたちの手で。



 それから最初に調査に行く地域を絞り込んだ。最初の場所はあたしの家の近く、第一の事件が起きた場所の周辺だった。紙に印刷した拡大地図には一世帯ごとに住人の名前が印字されていた。あたしの家には親父とあたしの名前が書いてある。どうやってこんな情報を入手したのだろうかと不思議で訊いてみたが、「企業秘密」の名のもとに黙殺された。捜査のコツ、警察や住民に怪しまれたときの対処方法、持ち物の確認……、一通りの準備を終えたときには時刻は午後四時を回っていた。

「大体確認することも終わったし、あたしたちはそろそろ調査に行ってくるわね」そう言ってあたしはドアへと向かおうとすると、

「ちょっと待ってくれ」蒼が少し大きな声を上げた。

「ん?」あたしたちは立ち止まって振り返る。

「いや、君たちがあまりにも乗り気だったから言い出すタイミングが掴めなかったけども、調査を始める前にこれだけは言っておこう」

「……なんです?」改まった蒼の声に何かを感じて身構える。

「これから我々の捜査が上手くいったとしても、最後は警察に任せるんだ」

「なんで!? こんな大きな事件なのに! 僕たちで捕まえれば大手柄間違いなしだよ?」葵子は不服そうに反論する。

「そういう考えが危険だから釘を刺しているんだ。人死にが出ている事件で非武装で格闘の素人がまかり間違って犯人に近づいてみろ――新たな犠牲者になりかねない。そのことは通り魔と対峙したことのある早織くんが一番よく分かっているだろう。兎に角、物語の中の名探偵みたいに犯人逮捕まで追い詰めたら、鬼が出るか蛇が出るか分からないんだ。くれぐれも深追いはするなよ。見つけてその情報を警察に渡せばいいんだ。君たちに頼む仕事はそれ以下でもそれ以上でもない。約束できないならこれ以上は手伝ってもらうことはできないが……、どうする?」蒼は先ほどまでとは違う真剣みのある声色で言った。

「……約束、するわ。目的はあくまでもこの西要町の通り魔事件を早く終わらせることだから。その代わり、きちんと最後まで手伝ってくださいね?」

「そうか。それならば、微力ながら尽力しよう。まあ、この事件は僕の事件でもあるからね。手伝うというより、終わらせることが僕らの仕事さ」そう言った蒼は先ほどまでの雰囲気はなくなり、おどけたような声に戻っていた。


「ここまで話を聞いていてなんだが……、俺はこれから一度部活に戻るぞ」蒼の事務所を出て最初の調査地に向かって歩いているとサキエダが申し訳なさそうな声でそう言った。

「ああ、大会だっけ?」病院で聞いたサキエダと顕との会話から何となくそのことなのだろうということは見当がついていた。

「そうだ。顕から夏の大会の代理を頼まれているんだ。犯人捜しのために練習を欠かしてしまったら顕に会わせる顔がないんでな」

「じゃあ結局捜査はあたし一人でやる感じかー」

「いや、早合点するなって! 俺が手伝えるのは部活が終わった後だと言いたかったんだ。午後七時には合流できる。それまではそっちで調査してみてくれ。……俺も犯人を捕まえたい気持ちは一緒なんだ」サキエダは照れ隠しのつもりかそっぽを向いて言う。顕はいい友達を持っていると思った。

「なんだ、それなら心強い! でも悪いわね、付き合わせちゃって」成り行きとはいえ、サキエダを断れない場所まで引っ張って行ってしまったような気がして少し申し訳ない気持ちになった。

「気にするな。……そうだ、優木」サキエダは背を向けて走り去ろうとして一度立ち止まって振り返った。

「ん?」

「俺がいない間にあんまり無理はすんなよ。西条兄の弁じゃないが、深追いは危ない気がする」

「分かってるって。一人で行動している時は『コレ』を使って遠くから探すだけにするから」あたしは蒼が貸してくれた黒い双眼鏡の入ったバッグを指さした。

「そうだな、それが良い。じゃあ後で」右手を小さく掲げた後、サキエダは学校に向かって走って行った。


 こうして西条兄妹とサキエダ、あたしによる西要町連続通り魔事件の調査はなし崩し的に始まった。これからどうなるのかは正直なところイメージ出来なかった。色々なことが今日一日でありすぎて考えの整理が良くできていない。どうにも状況に流されているような気がした。それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ判断はつかない。でも、悩んで立ち止まっている時間はもうすでにないのは明らかだった。あたしは進みながら考えていくことにした。

 私立探偵の蒼は物語に出てくる名探偵のように華麗にこの事件を解決してくれるのだろうか? 一瞬目の前に奇妙な光景が浮かんだ。詳細が省かれて主要要素以外が欠落したイメージ。妄想だ。しかしその中には先ほどまで喋っていた蒼がいた。浮かんだ妄想の中の蒼は関係者と清水刑事を前にパソコンとモニターの部屋を歩き回りながら推理を披露している。周りにいる脇役たちはその饒舌な論理の連続性に翻弄されて言葉をはさめずにいる。そして部屋の奥には髪の長いあの通り魔が……。

 あたしは頭を振って他力本願な妄想を振り払う。きっとそんな未来はない。現実はそんなに甘くないことをあたしは 避けがたい未来(プロヴィデンス)を見る中で嫌というほど分かっている。どうしようもなく変えがたいことも。しかし、この先の未来はまだの避けがたい未来(プロヴィデンス)ではない。決まっていない。

 あたしは目的地に向かって駆け出した。カナカナ、というヒグラシの鳴く声が五月蝿い。アスファルトからは陽炎が立ち昇っている。近くを走る高速道路からは自動車が忙しなく往来する音がドップラー効果で強調されている。横切った八百屋の軒先からは壮年で小太りの店主が似たような体型のおばさんと世間話に花を咲かせている。西要町には平和な日常が広がっているように見えた。しかし、その全てを無視してあたしは走り抜けて行く。最初の犯行があった路地を横切ったとき、視界の隅に枯れた花が供えてあるのが見えた。何ともないように見えるのは単なる見せかけなのだ。人間が多すぎるからそのことが埋もれているだけなのだ。

 急に辺りに影が落ちて、あたしは空を見上げた。夏空には巨大な入道雲が天高く昇っていて太陽を隠していた。日陰は一時的なものであと数分もすればまた陽が出るだろう。空は平和の様相を醸し出している。しかし、あたしにはこの街には抗いようのない不穏な影がかかっているように思えた。

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