第一話 斯くして悪夢は始まった ~I dreamed a dream~
急に降り始めた雨の中をあたしは駆け抜けていた。雨に濡れて一塊になった前髪が額にくっついて鬱陶しい。それに雨のせいで肌に張り付いたシャツが気持ち悪い。学校指定の紺と緑のチェック柄のスカートが大股で走るたびに大きくはだけるのを感じるけど、部活用のスパッツを穿いているから問題ないだろう。
目覚ましはセットしていたけども、まさか夜の間に電池切れになって止まっているなんて思ってもみなかった。わざわざあたしを起こしてくれる心優しい家族はこの家にはいない。それに今日は、内容は覚えていないけど、何とも寝覚めの悪い夢を見ていたみたいで、起きた瞬間の疲労感のせいでいつもより長く寝ていることに気が付かなかったのも悪かった。結果、今に至る。不幸は重なるとより大きな不幸になるのである。
そんな目覚めの悪い夢は半年前から見るようになった。どんなにそのことを意識していても覚醒した瞬間には全ての記憶が消えている、そんな夢だ。きっと今、あたしの頭の中には避けがたい未来が記憶されているのだろう。記憶の内容はいつも通り、分からない。胸に少しの不安が残るが、気にしても仕方がないし、実際問題として学校に遅れそうだと自分を鼓舞して家を飛び出したのはつい三分前。いつもよりも三十分以上遅れて家を飛び出したから食パンを口にはさむ余裕もないまま走っているわけだけど、今度は雨が降り出した。全く、踏んだり蹴ったりだ。
私立西高はあたしの家から走って十五分、歩いて三十分程度の場所にある。自転車を使えばもっと早く行けるけど、残念ながら我が家に自転車はなかった。父は車通勤(今は事故にあって入院中だ)だし、あたしは陸上部としての自主練もかねて高校一年の時からジョギングで通学していた。ここ数年寝坊なんてしてなかったから自転車の恩恵なんてひとかけらも考えていなかったけど、こういう時に備えて家の倉庫に一台くらいは買っておいた方がいいような気がしてきた……が、今はどうでもいい! あたしは雑念を振り払って梅雨のぬるい雨を蹴散らしながら通学路を駆けて行った。
○
濡れネズミのようになって学校に到着した頃にはホームルームが始まる時間になっていた。慣れない中距離を走ったせいでだいぶ息が上がっていたけどとにかく教室に滑り込むと、ちょうど担任のフミ先生が出欠を確認しているところだった。フミ先生はいつも通りの真っ白な白髪に白い服を着ている。何処かでチリンチリン、と鈴が鳴る音がした。
「あら、おはよう。優木さん」
「はぁ、はぁ……おはようございます」
こんな状態の生徒を見ても落ち着きを失わないフミ先生は素敵だと思う。定年も近いベテラン教師の安定感とでもいうのであろうか。あたしは精神の安定を少し取り戻しつつ、まだ整わない息の合間を縫って声を絞り出して答えた。
「遅刻かと思ったけれど、間に合ったようね」そういってフミ先生は出欠確認を続けた。
まあ何とか、と手を挙げて答えて自分の席に座る。身体を止めて人心地つくと、べっとりと身体にまとわりついてくるシャツとスカートの気持ち悪い感触が気になり始めた。髪から滴る水滴が机を濡らす。早くジャージにでも着替えてしまいたいと思うのだがフミ先生のホームルームはなかなか終わらない。
「ふぇクシュッ」
正直な身体は不平を漏らすが集団の規律を大切にする日本社会を揺るがすには至らない。フミ先生は季節の変わり目で体調を崩さないようにとか、学校の近くに不審者が出没するからできるだけ友達と帰るようにとか、事務連絡中に思い付いたと思われる季節のトピックを取り留めもなく紹介している。フミ先生はああやってホームルームの終了時間ピッタリまで話し続けるのが常である。よくもまあ毎日色々なトピックを思いつくなー、と思いつつひとり焦れていると頭の上に良い香りのするタオルが落ちてきた。
頭をワシャワシャと拭きながら振り返ると西条葵子が「礼には及ばねえぜ、お嬢さん」とでも言いたげなキメ顔でこっちを見ていたのでウインクで返しておく。彼女はお調子者だが気遣いのできる良い人間だ。
「はい。そろそろ良い時間ですし、六月十八日の朝のホームルームを終わります。日直さん、号令をよろしくね」
「きりーつ。きょうつけー。れい!」
そうこうしているうちにその日のホームルームは終わった。あたしは葵子にお礼だけ言って急いで更衣室に向かった。一限で体育のクラスがあるとキャッキャ、ウフフしている女子供の渦に飲まれてしまうからだ。あたしはどうにもああいう女々しい雰囲気が好きじゃない。
さっさと濡れた制服を脱ぎ捨て、部活用のジャージに着替えて更衣室を出るとどかどかと雪崩れ込んでくる下級生の波とすれ違う。間一髪という奴だ。
「あっ、優木先輩!」
ギクリとして見るとすぐ隣に今年入部した陸上部の後輩がいた。名前は……残念ながらはっきりと覚えていない。灯とか明美とかそんな音の名前だった気がするが、定かじゃない。彼女はあたしより頭一つほど小さい小柄な子で、少し長めの前髪の間から覗く大きな目が上目遣いでこちらを見ていた。愛らしいそばかすの浮いた頬が少し赤い。いやな予感がして「おはよ」とだけ返して素早く去ろうとすると手をつかまれた。
「どうしたの?」仕方なく聞いてみる。
「あ、あの、先輩……。こっ、これ! あげます! えっと、ええっとぉ……ひ、日ごろの感謝の気持ちです!」
なんだかすごい気迫で胸元に何かを押し付けられたせいで、何かを確認せずに思わず受け取ってしまった。見ると可愛らしくデコレーションされた包装の中にはクッキーとピンク色の手紙。
好意は嬉しいが、まあ何とも言えない虚しい感情も同時に沸き上がってくる。スポーツをやっていて女子にしては背が高い、というだけなのだが、たまにこうして手紙を貰ったりすることがある。ノーマルなあたしとしては何とも複雑な気分だ。女子高というわけでもないのに、と思わずにはいられない。
何か言った方がいいだろうと目線を上げたときにはその子は居なくなっていた。女の子はどうにも分からないなと思う。あたしは朝食代わりに貰ったクッキーを消化しながら、手紙を読みながら廊下を歩く。あの子には後で優しく断っておこう、と決めたところであたしの教室に着いた。
教室は何やら騒々しい様子だった。いつも大声でおしゃべりしている仲良しグループは平常運転であるが、それに加えて教室全体がどこか興奮したような雰囲気に満ちていたのだ。
「ねえ、顕。なんかあったの?」近くにいた幼馴染に訊く。
「ああ、早織、おはよう。あれだよ、西条がそろそろ次の通り魔事件が起こるんじゃないかって噂してんだ」
そう言って顕は教室の後ろの方で車座のように人を集めて嬉々として喋っている葵子を指さした。今時珍しいおかっぱ頭を楽しそうに左右に揺らしながら喋っている。中学の頃からの付き合いだが彼女の情熱の向かう先は未だによくわからない。今みたいにゴシップまがいな話を熱心に調べていたかと思うと、急に生命の神秘を語りだしたりする。実際に人死にも出ている事件について嬉々として話題に上げていくところはあまり褒められたものではないが、それも直ぐに別の話題に変わっていくだろう。
「通り魔……ね。正直あんまりだけど、ちょっと気になるかな」気が重くなりながらも無視できないことだった。
「ん? 珍しいな、早織がそんなゴシップまがいなものに興味を持つなんて。まあ、もうチャイムが鳴るから昼でも訊いてみれば?」
そうする、と答えたところで始業のチャイムが鳴った。一限目は経済である。先ほどとは違う理由でお腹が痛くなってきた。
○
キーンコーンカーンコーン、と四限目終了のチャイムが鳴り、ある者は食堂に向かい、またある者は弁当を持って思い思いの場所へと散っていく。前者のあたしは葵子を連れ立って地下食堂へと向かう。朝の寝覚めの悪さから容易に予想されたことではあるけど、午前中の授業には眠気のせいで全然集中できなかった。たまにはこういう日もあるのも仕方がない。何も生産しない午前を過ごしても腹は減るのだ。
「それで葵子、朝はなにに盛り上がってたの? なんか通り魔の話らしかったけど」
「ふふう、よくぞ聞いてくれたぞよ、我が親友よ! 私立探偵葵子ちゃんの華麗なる推理を聞かせてあげよう……それもタダで!」
彼女の発言は別に嘘ではなく、葵子は兄弟で本当に私立探偵事務所|(普通の自宅だけど)を営んでいるのだ。とはいえ、警察が表立って調査している通り魔事件の調査依頼が来るはずもないだろうから、たぶん葵子の趣味で調べているのだろう。葵子は探偵である以前に噂好きの性分なのだ。あまり面識はないが、葵子の兄の下にはどういうわけか色々な情報が集まってくるらしいから、葵子の兎に角知りたいという欲求を満たす情報源には事欠かない。
「それで?」
「えっ、随分ドライな反応ッスね。……まあ、いっか。ズバリ言っちゃうと、今年の初めから始まった西要町連続通り魔事件には法則があるとおもうわけなのよ。ユッキーは一回目の事件を憶えてる?」
西要町連続通り魔事件。まるで推理小説のタイトルみたいだけど、自分の住んでる街の名前は事件の接頭辞には入ってほしくないものだと嘆息した。記憶を辿る。
「……ああ、今年の一月二十八日ね。それに、その次が確か……三月二十三日。どっちも男の人がナイフで刺されて――」
「おお、すごい! バッチリ日付まで覚えているとは……葵子びっくり。実はユッキー、この事件狙ってる? ふふう、まあそんなことは置いておいて。そんでね、これまでの二回の通り魔の犯行には共通点があるんだけど、分かる?」
「んー、月末に多いかな。後は被害者が男で……犯行は夜って――」
「そう! 流石、我が親友にして助手一号くん、いや、ちゃんかな。まあいいわ。そうなんスよ。犯行は夜、月末。そしてその共通点は……満月! つまり十五夜! だとすれば次の犯行は遠からず起こるのではないかと推理されるわけなのです」葵子はキメ顔で満足したように言った。言葉を被せるように早口で言葉を紡いでいくのは彼女の癖だ。あたしは話の進みが速くて好きだけど、人によって好みが分かれるところだろう。
「ふうん、なるほどね。一理ある……あ、でも一月の犯行は完全な満月じゃなかったと思うけど?」あたしは夢で見た少し欠けた月を思い出していた。
「ぐぅぅ、痛いところをつくわね。……ユッキー、さすがだわ。葵子もねーもちろんそこんとこは気が付いていたんだけど……まあ、何か犯人側の事情があるのかもしれないわねー。今後の調査課題だわ」
他愛もない話がひと段落したところで食堂に到着。食券を買ってあたしはうどんコーナー、葵子は定食コーナーにそれぞれ並んだ。カウンターで愛想の良いおばちゃんに食券を出す。三百円なり。
「カレーうどんの大盛で」
「あいよ。……あー、ごめんなさい! 今日ねぇ、カレー、もう終わっちゃったのよ。材料の仕入れ間違えちゃって。代わりに天ぷらうどんでいい? 料金は同じで良いからね」
「あ、はい」
他愛もないやり取りをした後、あたしはその避けがたい未来を今朝、夢で見たことを思い出した。他愛もない平和な未来だったことに安堵のため息が出た。葵子の話は気にかかったけど、今日のところは杞憂に終わってくれそうだ。
避けがたい未来の夢はあたしに関係のある未来の出来事を見せる。そして規則性は分からないけど、経験上あたしに与えるショックが大きいものを優先的に見せる。だからたぶん、今日はカレーうどんより大きな事件は起きない。あたしは平和な一日を過ごせることの幸せを感じながら葵子と昼食を楽しむことにした。
「ん? ユッキー、ちょっと機嫌良い?」
「カレーうどんのつもりが、天ぷらうどんにランクアップしたからね」
「なるほど! 流石ユッキー、チョロいわね」
「まあね」
○
避けがたい未来の夢を見るようになったのは二十一世紀も二年目に突入した今年、二〇〇二年一月二十八日、最初の通り魔事件の時だった。
あの朝は今日と同じように疲労感を伴う気怠い目覚めから始まった。何か嫌な夢を見ていた気がしたが、その内容は目覚めた瞬間に雲散霧消してしまっていた。
良く晴れた冬の空の下、あたしはいつも通りジョギングしながら学校に向かっていた。冷たい一月の風が顔に吹き付けるが少し走って身体が暖まった後はあんまり気にならなかった。馴染みの商店街を駆け抜けていく。商店街には近々市長選挙があるらしく意味があるのか甚だ疑問な謳い文句と政治家の顔が映ったポスターが張り出されていた。いつも通りの街の風景。
それから学校で授業を受けて、部活をして、家に帰る。あたしは普通の高校生のルーチンを淡々とこなしていた。
帰宅後、ご飯を食べて、風呂も入って、家族の一員である黒ウサギのウーさんにエサをあげて宿題を片付けたところで時計を見ると十一時十一分。特に見たいテレビ番組もなかったからどうしようかと視線を漂わせていると窓の向こうに輝く月が見えた。満月から少し欠けた楕円形の月。
ふいに瞳の裏に魚眼レンズを通して見たような奇妙な光景が浮かんだ。いつもより高い位置から見える見覚えのある商店街、薄暗くて細い路地、二人の人間、黒いロングコート、首と腹から血をながしながら倒れている男。
「えっ? ぁ……、んん?」白昼夢を見たような錯覚。
光景は一瞬だけ浮かんですぐに消えた。目線を動かして時計を確認する。十一時十二分。色々な情報が一気に頭に入ってきたけど、時間はほとんど経っていないようだった。まるで既に見たことのある光景を記憶の底から思い出したみたいな時間が圧縮された感覚。デジャブという奴だろうか?
そのときのあたしは深く考えることもなくそのまま寝ることにした。きっと昔見たサスペンスドラマのワンシーンでも思い出したのだろう、と思って。
翌日、昼前の授業の最中、緊急の全校放送があった。先生達が一旦全員職員室に呼び出された後、しばらくしてフミ先生が教室に入ってくると西要町で通り魔事件が起きたと聞かされた。
「被害者は男性の方で、人気のない夜道を歩いているところを襲われたようです。今朝、皆さんが登校してから発見されたばかりであまり詳しいことはまだ分かっていませんが、犯人はまだ捕まっていないそうです。今日はたぶん皆さんで集まってから集団下校することになると思いますが、通学だけじゃなく私用で外出する時も誰かと一緒に行動するようにしてくださいね。不便だとは思いますけれど、犯人が捕まるまでの辛抱です。大丈夫よ、こんなことはずっとは続かないから」
聞かされた犯行現場はあたしの通学路の商店街から入ったところにある狭い路地だった。今朝もその前を通ったはずだけど、その路地のことは全く記憶に残っていなかった。それくらい日常的な場所で殺人が起こった、とも言えるのかもしれない。ただそうは言っても、その時のあたしにとって、事件は何処までも他人事だったし、テレビで報道される他県や他国の事件と大差ないものだった。通学路上でそういうことが起こると学校生活に支障が出て嫌だな、とだけ思った。
先生達が生徒の親からの電話対応に忙殺されていている中、フミ先生はいつも通りの調子でそう言って各教室を回っていった。彼女のおかげかは分からないけど、その日は先生達よりも生徒達の方が落ち着いていたと思う。
結局その日は休校になった。住んでいる場所の近い生徒でグループを作り、先生達に送り届けてもらう形で集団下校した。小中学生じゃあるまいし、と思ったけど事件現場が近いこともあって学校側の対応が慎重になるのも仕方がないのだろう。街には警察官が沢山いて、それを見てようやくなんだかとんでもないことが起きているような非日常性を感じた。
「まさかこんな大きな事件が俺達の街で起こるなんてな」
「ホント。これじゃあしばらくジョギングで通学はできなそうね」
家の近い顕と共に歩いて帰宅途中、暇な時間は他愛もない世間話でつぶした。
顕は小学校の時からの仲で、高校生の今でも気さくに話すことが出来る数少ない男友達である。同年代の男子も女子もよくわからないグループ意識を持っている奴らが多いし、彼らの間の暗黙の了解的なルールにはどうにもついていけない。昔からの付き合いの顕も、いつかそんな奴らの戦列に加わってしまうんじゃないかと心配していたけど、杞憂に終わってくれたみたいで、あたしにとって居心地のいい関係を維持してもらっている。
「それに日が落ちてからも出歩けないだろうから部活もしばらくは休みになりそうだしな。夏に大会もあるからあんまり休んでもいられないんだけどな」
「顕はホントに部活馬鹿だよね。前から思ってたんだけどさー、体操ってそんなに楽しい?」
「うっせ、毎日飽きずに走ってるお前もそんな変わらないだろうが。それに大体のことはさ、しばらくやって上手くなると楽しくなってくるんだよ。俺の場合はな。それより……なあ早織、明日から通学どうする? 一緒にジョギングしていくか?」
「それも一考かな。とりあえず、自転車通学の顕はいつもより早起きする必要があるね。できる?」
「……考えておく。無理だったら置いて行ってくれていいぞ」
「少し遠回りだけど嫌がらせに呼びに行ってやんよ」
「マジかよ……」
家に近づいてきたところで事件の起きた場所の前を通った。黄色いバリケードテープが張ってあって警察の人とマスコミらしき人が群がっていたからすぐに分かった。近くの電柱には見覚えのある選挙ポスター、バリケードテープから覗く薄暗くて細い路地。
一月二十八日、午後十一時十一分。あの夜見た光景が重なった。デジャブ。倒れた男。黒いロングコート。楕円形の月。足が地面から離れてしまったような錯覚。
「早織? どうかしたのか?」どこか遠くで顕の声が聞こえた。
「えっ!? いや、あー、何でもない」足を止めていたことに気が付いて慌てて歩き出した。
それから何となく気分が乗らず、無言のまま家の近くの公園の前で顕と別れた。
その日は珍しく親父が居て、一緒に(とは言ってもお互いが存在しないみたいに無言で)夕食を食べながらあたしはひとり茫然とテレビを見ていた。画面にはさっき見た現場。父親はニュースに無関心なようで、ただあたしの作った夕食を機械的に口に書き込んでいる。テレビを見つめるあたしを黒ウサギのウーさんが鼻をヒクヒクと震わせながら黒い瞳で見上げていた。リビングの丸時計の秒針がたてるカチカチカチという一定のリズムがアナウンサーの声に重なる。
「――被害者は近くに住む三十歳の建設作業員、月島充さんとみられ、現在警察で身元の確認を行っているとの情報が入っています。また、犯行時刻は昨日、一月二十八日、午後十一時前後と推定されており、警察は付近の住人への聞き込み調査も並行して行っている模様です。それでは現場の斎藤さんに繋ぎたいと思います――」
テレビに映し出された被害者の顔写真はあの夜見た刺された男に似ている気がした。既視感。思考は言葉にする前にある推論に至り、あたしは胸が重くなるのを感じた。立ち上がる。
「……あたし、先に風呂入るから」
「ああ」感情のない脊髄反射から出たみたいな返事を背中で聞きながら冷たいフローリングの上に流した蜂蜜のような鈍い動きで風呂場に向かった。
あたしはきっと他人の空似で、昨日のデジャブが錯覚だと自分に言い聞かせる。しかし、熱いシャワーを浴びてベッドに潜り込んでも胸を圧迫するような嫌な感覚は無くならなかった。思考が勝手に暴走して事実を繋げて仮説を組み立てていく。
あたしは、もしかしたらあの通り魔事件が起こることを知っていた?
予知夢という言葉が頭をよぎった。テレビとかでよく聞く超能力の一つ。或いはどこかの神話の神が持っているとされている未来視の能力。バカバカしい妄想で、子供の勘違いだと一蹴しようとした。しかし、否定するに足る確証は何処にもない。
もしかすると、あたしはテレビで被害者――月島を見る前からその被害者を知っていた? つまり事前にあたしは見ていた? 通り魔によって月島が襲われるのを。……でも、どこで? 昨日の夜、急にフラッシュバックした光景を見たときに何か思った気がする。あの時、何を思った?
「まるで、既に見たことのある光景を記憶の底から思い出したみたいな――」
言葉にすると背筋に寒気が走った。その日の朝は特に寝覚めが悪くて、瞬間には夢の記憶は残滓もなく消え去っていた。
――あの朝、あたしは月島が襲われる夢を見ていたんじゃないか? つまり、予知夢を。
非現実的だし、普段のあたしなら「まさかっ!」と笑い飛ばしてしまったことだろう。それにもしそうだったとしても、あまりにも役立たずな予知夢なのは確実だった。
予知夢の内容を思い出したのは昨日の十一時十一分で、犯行時間は十一時前後。その一致を必然と考えるなら、予知夢の記憶は事件と同時に思い出していると考えるのが普通だろう。つまりその仮説に従うなら、いくら先に夢で見て知っていたはずでも、その内容を思い出せるのは全部終わった後なのだ。だとすればあたしには物語の世界の主人公のように未来を変える力はない。ただ起こる悲劇を知るだけの――能力。天から授けられた能力というより、たまたま巡り合ってしまったお節介な不幸だ。
「なんでこんな変なものをあたしに見せるんだよ!」
小さく毒づくと他人に悪戯された時みたいにイライラした気分になった。部屋の中を歩き回っているといつの間にか部屋に入ってきていたウーさんにぶつかりそうになって我に返る。
頭が冷えると、あたしはこの能力によって将来訪れるかもしれない取り返しのつかない後悔に背中まで冷たくなった。
今回の通り魔事件をあたしは知っていた。あたしは知ってて、止められなかった。それでも今回は赤の他人だったから、よくはないけど、よかった。後味が悪いような感覚が残るくらいだ。じゃあ次は? もし、同じように友人が殺される夢を見て、そして実際に殺されてからそのことを思い出したら? あたしはそのことを後悔せずにいられるだろうか?
嫌な考えを忘れようと、今考えた仮説について粗探しをした。何処かに理論的破綻を見つければ、くだらない妄想と割り切れるような気がしたからだ。そもそも本来あたしは何事にも運命を感じてしまうような夢見がちな人間じゃないはずだから。
近所で非日常的な事件が起きて、それがたまたま昨夜見た夢の内容に近かっただけではないか? 仮に、予知夢を見ていたとして、そもそも何故あたしが? 超常現象だとしてその駆動力は何なのか? 見測されるまで状態を確定できない量子的な世界において未来を完全に知ることはできないはずではないのか? 見た未来の夢を忘れている理由はなにか? 疑問はいくらでも湧いてきたけど答えはあたしの部屋の何処にも落ちていない。肯定材料もなければ否定材料もない。論理的帰結を求めるのは極めて難しい悪魔の証明と向き合わされている絶望的な気分になった。
考えることに疲れた。思考は泥沼にはまった。あたしはこんな出来事が一回で終わって、そのまま忘れられればいいや、と思考を切り上げる。青春を生きる若者の一時期生まれるような些末で、しかし自分にとっては重大だと感じてしまうたぐいの思い込みの一つで、時間が経って振り返れば路傍の石程度の価値しかないようなものだと思うことにする。
気分を変えようとCDをかける。あたしが一方的に信愛を注いでいるビル・エヴァンスのアルバム、Moon Beams。繊細で仄かな夜の雰囲気を感じさせる静かな旋律がスピーカーから溢れ出す。お気に入りのメロディに乗って、いつもならすぐに訪れる穏やかな気分はしかし、不在のようだった。
仕方なくアルバムを二回リピートするように設定してから白熱電灯を落として目を閉じる。暗くなったはずなのに瞼の上に光を感じた。目を薄く開くと、ベッドの上の窓から丸い月が覗いていた。表面の模様がまるであたしをあざ笑っているように思えて、「こっち見んなや」と呟いてカーテンを引く。
部屋が暗くなったことを確認して再び目を閉じる。目が覚めて出来損ないの予知夢の記憶が失われるのと同じように、この眠りから覚めたときに昨日今日の出来事を全部忘れられていたら良いと思う。
眠りはなかなかやってこなかった。
○
あたしの願いの甲斐なく、それから何回も未来の夢を見た。部活帰りにそそのかされて一枚だけ買った宝くじで五十万円が当たること、車に轢かれたカラスの死体が家の前の道路に落ちていること、クソ親父が交通事故で入院すること、三月二十三日に再び通り魔事件が起きること。取るに足らないことから人死にまで、なんでもだ。夢の中のあたしは相変わらず魚眼レンズを通じて少し高いところから未来の出来事を眺めている。
この予知夢を見始めてから五ヶ月くらいの時間が経ったけど、分かっていることはあまりない。これまでの経験から言えることは、①予知夢はその前の晩に見ている、②あたしにとって重大なその日の出来事が見えること、③そして見た結果はどうあがいても変わらないということ。予知した出来事が起きるその瞬間まで思い出せないのだから、変えられないのは当然のことだった。
あたしはその不条理な予知夢を【避けがたい未来の夢】と名付けた。プロヴィデンスはキリスト教で言うところの神の意志、摂理と言う意味だ。予知夢に関する文献を調べている途中に偶然見つけたその言葉の含む変え難い未来のニュアンスが皮肉的でいて的を射ているような気がしたからその名前を取ることにした。
名前を付けたことに大きな意味はない。ただ、捉えどころのないその現象に名前を付けて理解を固定化しようと思ったからだ。呼び名もない漠然としたものを考えられるほどあたしの頭は良くない。避けがたい未来の夢が超常現象でも超能力でもなんでもよかったが、とにかく法則性を見つけたかった。そうしないとあたしはいつまでも知りたくもない惨事の第一発見者になり続け、後出しの後悔や苦い気持ちに苛まれ続けることになる。
西要町で連続して起きている通り魔事件は最悪だった。知り合いが襲われる可能性があった。もし、クラスメイトや友達が襲われれば、あたしはそれを真っ先に見ることになる。その恐怖にあたしは今も心の中で怯えている。
やめて! そう叫びたくなったことは何度もあった。同時に、世の中には見ない方が幸せなものが沢山あることを知った。殺人事件や事故のことなんてニュースや噂話程度で聞いて「ふぅん」って済ませてしまいたかった。別にそれらが起こる瞬間なんて見なくても良かった。臭いものに蓋をする、という言葉があるけど、それがいいと思う。全てを知ったからって満足して幸せになれるわけじゃないんだ。しかし残念なことに避けがたい未来の夢は蓋を気まぐれに開けるような能力だった。あたしは目の前に出されるショッキングな光景をただ目撃する役目を与えられている。クソ食らえだ。
そして六月十九日。その日も起きた瞬間に疲労感を憶え、また同時に、何か見たことを確信した。昨日もより重たい疲労感に嫌な予感が重なった。天気予報は夜まで快晴で今夜は月が出ると四角い顔のアナウンサーが早口で言っていた。
時刻は午前六時半。あたしはベッドから抜け出して部活に行く支度をする。朝練は七時からだ。
○
「歴史とか経済とかやってるとさ、お腹痛くなんない?」
午前の授業を終え、顕と葵子とあたしは食堂で売ってる弁当を買って屋上で食べていた。屋上は夏が近づいてきているせいで気温は少し高いけど、まあ空の下で食べるごはんのおいしさと比べたら大したことではない。屋上には他にも十人ちょっとくらいの生徒が出てきていた。長閑で平和な時間の流れを感じる。くだらない世間話も自然と口から漏れ出てくる。
「分かるぅ! ユッキー、馬鹿だもんね! いてッ。もー叩かなくてもいいじゃん!」
「口が悪い。大体ねー、ああいうお行儀の良い科目って苦手なんだよね。それにほら、あたしって数学とか物理とか直感でできるやつはいい感じじゃん。馬鹿じゃないぜ」
「問題が解けるのはいいけど、早織はもっと立式をしないと受験には使えないぞ?」顕の飽きれたような声。
「顕もあたしを的にするか! いいんだよ。ちゃんと試験の時は多少は時間かけてまじめに解答するからさ」
「あー、それ全然勉強出来ない奴の発言ッスねー、いたッ」あえて余計なことを言ってくる葵子を再び叩いておく。
「だいたいさ、あたしに時間のかかる体系的な勉強は合わないんだよね。その場で考えてその場で答える、短期決戦で決まるやつの方があたしには合ってる!」
「またぁ! 才能のある短距離走者はこれだから困るッスね。顕くんもなんか言ってやるといいッスよ。グサッと来るやつ」
「俺に振んなよ……。まあ早織には勉強より短距離が似合ってるのは確かだな。……最高タイム、何秒だっけ?」
「十二秒ジャスト」何となくピースを突き付ける。
「はえーな、さすがゴッキー! ぅぐぅ……本気で殴りやがったな……」こいつらはあたしに殴られるためにセリフを選んでいるんじゃないかと疑いたくなってきた。
「顕……、そういえばお前が『走っているときに風に翻っていた髪の房がゴキブリの触覚みたいだね』なんて言い出したせいで一時期あだ名がゴッキーになったことを思い出したわ、今! あれから、あだ名をユッキーにまで軌道修正をするのにずいぶん時間がかかったけど……この恨み、今ここで晴らさでおくべきか!」
「もう殴ってるッスよ! そうそう、葵子ちゃん今思い出したけど、あれですよ! 昔読んだ本によると普通人間の集中力はそこそこをキープできるのは一時間が限界で、最高の集中力をキープできるのは十分もないらしいッスよ。ユッキーの場合、さらに少ない十秒くらいしか集中力持たないけど、その分スペシャルに集中できる能力があるんですよきっと。いやーすごいね、尊敬しちゃうね! 足とかあたしと同じくらいほっそいのに!」葵子が謎のフォローを入れる。
「短距離は足が細いほうがいいんだよ。……あ、くだらないこと言っている間に休み時間、終わりそうじゃん。さっさと食べて戻ろ」
「りょりょ」葵子はおかっぱ頭のキレイにそろった前髪に右手を当てて答えた。顕は既に食べ終えてムシャムシャと頬袋を膨らませているあたしたちを珍獣を見るがごとき目で見ている。残念ながらここに羞恥心とか持った女子はいないのだよ、とテレパシーを送るが通信エラー。
弁当の残りをさらに口に詰め込んでいると近くで昼食をとっている別のグループの会話が耳に入ってきた。
「あー、フジ、ごめん。今日は写真部で夜、満月の撮影会があるからカラオケは無理だわ。晴れた満月の日は久しぶりでさ、下級生がみんな張り切ってるんだわ。また今度誘ってくれよ」
「残念やな。ちなみにどこで撮るんだ?」
「この近くにある千早緑地公園ってところ。ホントは星空を取りたいんだけど、いかんせん都心だからね。大体うちの部で満月取りに行くときはあそこでやってる」
「あそこってさ、俺の家の近くなんだけどよくペンライトとか、カメラのフィルムケースとか落ちてるんだよなー。もしかしてお前らのせい?」
「……さあな。一応注意はしてんだけど何しろ夜間撮影であまり周りが見えないから、ほら機材とかを適当に置いといて忘れるとかあるじゃん? たぶん不可抗力」
「言い訳がましいが……まあ今日撮影に行くならちょうどいいから片付けておいてくれよな」
「ああ、俺の後輩がやっておくさ。きっとな」
「クソ野郎だな」
今日は満月。耳の奥で葵子が昨日言っていた「そろそろ次の犯行が起こるんじゃないかと思うのです」という言葉が蘇った。あたしは首を振って弁当の残りを飲み込んだ。
○
あたしの通っている私立西高は部活に力を入れていることで、地元ではそこそこ有名な高校だ。特に運動部は高校三年生の夏まで練習が続き、夏の大会を終えて引退となる。だからほとんどの高三の生徒は今の時期でも本格的に受験勉強をしないまま部活動に勤しんでいる。とはいえ、うちの学校は曲がりなりにも東京都の進学校を自称しているだけに授業ペースは速く、高校二年の終わりには高校教育は終了し、その後の授業は体育を除いて全部受験対策になっている。そのおかげもあってあまり自習の時間の取れない生徒もそこそこの受験用の学力を培っているから、夏の終わりに部活から解放されていざ勉強を始めてもそこそこの大学には行ける。学校も生徒もそこそこ、私立西高はそんな学校だった。
「なあ早織、お前はどこの大学に行くんだ?」
顕はそう切り出したのは部活の帰り道だった。その日は偶然、体操部の帰宅時間に重なって顕に会ったから一緒に帰ることにしたのだ。時刻は午後八時。小腹がすいて入ったハンバーガーショップのカウンターで、あたしはバーガーに噛み付いていた。あたしがもぐもぐと急いで咀嚼して「ちょっと待って」的なジェスチャーをすると顕は苦笑して言葉を続けた。
「俺はあんまり決めてないんだ。将来とか、よくわかんないしな。とりあえず大会が終わってから勉強して、いい感じの大学に受かったらそれに行ってみようかなって思ってる。浪人も悪くない。親父は『お金はあるから医学部に行け』とか言っているけど、正直あんまり興味ないんだよな、これが。だからとりあえず大学でも何か頑張ってみて、それから将来は考えるつもりなんだよ。このまま体操を続けるのも面白いし、勉強して研究者になってもいい。俺はそんな感じだ」
「ふうん、自分の歩んだ道の先に夢があるって感じね」
「誰の言葉?」
「さあ? でも顕ってさ、そうやって意外に将来考えてるんだぜ、って風を装ってるけど、成り行き任せで結局何にも考えてないよね。知ってたけど」あたしは口の中のものを呑み下してから答える。
「うっせーよ。まあ、考えている風を装ってもう少し言ってやると、だ――自分の過去も、現在も、未来も、すべて自分の手の届くところにしかないと俺は思う。宝くじである日突然億万長者になるようなことは奇跡でも起こらない限り、ない。だから俺は努力するんだ。……だからさ、その結果は成り行きで良いんだよ。なるようにしかならないんだから」
「そんなもん? 人生」
「そんなもんだろ? 未来なんて所詮過去現在の延長にしかないんだ」
「未来なんて過去現在の延長にしかない……か」あたしはその言葉を小さく呟いて反芻した。
「そういう早織はどうすんだよ? 陸上、続けんの?」
「んー考えてない……ってあたしも顕みたいなことを言ってるわ」
「全くそうやって……。早織はあれだよな、人のことは色々聞くけどさ、あんま自分のこと言わないよな」
「そう?」あたしは首をひねった。
「そうだよ。秘密にしようとしているわけじゃないだろうけどさ、なんか喋りたがらない感じ」
「そう……かもねー。なんかさ、あたしって別にナルシストってわけじゃないし、顕とか葵子みたいに言いたいことがいっぱいあるわけじゃないし、そもそもあたしの話なんて十人並みだし……」
「そんなこと気にしなくていいじゃんか、長い付き合いなんだしさ。それに少なくとも俺は早織の話を聞きたいしな」少し照れたような顔で笑う。
「そう? 物好きだね」
「うっせ。試しになんか早織のこと言ってみろよ」
「マジか……、んーあー、えっと、最近ウーさんが六歳になった」
「は? なんだそりゃ」
「あたしの家で飼っている黒ウサギのウーさん。かわいいよ?」
「そうか……。そういうのじゃないんだけど、まあそんな感じで。あたりさわりのない世間話もいいけど、たまにはプライベートのことも話すと気分転換になるだろ?」
「気分転換って、……ねー。あたしは別にそんなに疲れてないけど?」何か見透かされているような気がして少し焦って答える。
「馬鹿言うなって。最近暗い顔していること、多いじゃんか。俺が何年間早織と顔を合わせてると思ってんだよ? ……まあ図々しく悩んでること話せー、なんて言わんけどさ、悩ましいときにこそ関係ないことでも声を出して話してると救われるって……」
「救われるって?」
「先週、道端で目線が会った占い師が言っていた。ついでに千円取られた」
「あはは。でもまあ、いいアドバイスのような感じがするね、有料だけど」
「だろ? 俺が払った金の分だけそのアドバイスを有効に活用してくれよ」
「善処しようかな」顕は苦笑して、お前らしい答えだ、と言った。
その後は他愛もない話をした。避けがたい未来の夢のことは言えなかったけど、日常的で平和なことを色々話した。ペットのこと、最近買ったストラップのこと、好きなジャズミュージシャンのこと、家族の悪口、恋愛の話。驚いたことにいつの間にか顕には好きな子が出来ていたみたいだったけど、詳しく教えてはくれなかった。
「顕も青春のひとときを過ごす高校生なんだな」適当に言ってやると、
「お前も同学年の癖にさ、なに自分は違うみたいなコメントしてんだよ」
「ぅーん、あたしの場合あんまり青春っていうほどキャピキャピしたりしてる感じじゃないしなー。どっちかっていうと部活して、帰って家事をして、音楽聞いて、寝る感じ」
「確かに青春している感じじゃないな」
「だろ?」
「だろ、じゃねえよ。早織はもうちょっと女の子っぽくしていれば彼氏の一人も出来るんじゃねえの?」
「さもありなん。後ろ向きに検討しとく」
「検討する気が窺えねえな」
思いがけず話が盛り上がったけど明日も学校があるし、と午後十時前には顕と別れて帰路についた。別に顕と楽しく会話することはいつでもできると思っていた。
○
その日、家で帰りを待っていてくれたウーさんにニンジンを与えてからシャワーを浴びた。パジャマ替わりにしている古いジャージに着替えて部屋の窓を開けると暖まった頬に気持ちのいい夜風が当る。気持ちいい。
なんだか気分のいいあたしは最近お気に入りのジャイコブ・コーラーのCDアルバムをラックから取り出してプレイヤーで再生した。滑らかに連続し、起伏するピアノのメロディが流れ出す。
「……♪」
あたしは窓の近くに椅子を持って行って座った。風が心地よく体を冷やし、音楽が心を満たす。至福のひととき。あたしはさっき顕に言われたことに思考を巡らせる。
「将来、ねぇ……」
あの時は何となくはぐらかしてしまったけど、よくよく考えても自分の将来のことなんてよくわからなかった。普通に高校を卒業して、大学に入って、サークルとかバイトとかして、卒業したら就職して、それから少し働いてから結婚して、適当に平和な家庭を築く。そんなどこにでもある他人行儀な未来図が頭に浮かぶ。バカバカしいとも思うし、現実はそういう風にしかならないようにも思える。
未来なんて過去現在の延長にしかない、と顕は言った。それならあたしの未来はどんな風になっているのだろう? 例えば三年後は相変わらず走っているのだろうか? 或いは顕や葵子と高校卒業してもつるんで遊んでいるのだろうか?
ふふっ。際限なく未来を思い描いて疲れ始めたところであたしは笑って考えるのをやめた。キリがないし、どうにも顕の出した問いに悩まされている、という現実がバカバカしく思えたからだ。顕とは小学一年生で席が隣り合った頃からの付き合いだけど、いつの間にそんな哲学的なことを考えるようになったんだよ、と言ってやりたくなった。まだそんな遅い時間じゃないし、ケータイに電話をかけて少しくらいさっきの話の続きをしてみようか。
パカッ、と最近発売されたばかりの折り畳み式のケータイを開く。親父の分を買うついでに買ってもらったけど、前使っていたものよりも一回り小さいモデルだ。技術が進化してどんどん小型になっていくんだなーと感心する。
――その時、あたしはすっかり忘れていた。今朝、起きたときの気怠さを、まだ避けがたい未来が起きていないことを。四月五月と事件が起きていなかったせいで油断していたのかもしれない。避けがたい未来は必ず起こる。そのことを忘れていても、確実に避けがたい未来は迫っていた。
ケータイの電話帳から顕の番号を探しているうちに、壁掛けアナログ時計の針がカチリ、と音を立てた。目を向ける。午後十一時。
視覚が切り替わる。同時に魚眼から見た風景の記憶が蘇った。
我に返る。幸せな気分なんてどっかに吹き飛んでいた。
あたしは着の身着のままで家を飛び出した。玄関を裸足で飛び出したところで急ブレーキ。避けがたい未来の夢で見た現場は少し遠かった。玄関に戻って通学用のランニングシューズに足を突っ込む。靴下がないせいでうまく履けず焦燥感に苛まれる。靴紐を乱暴に結んで家を飛び出した。
人気のなくなった閑静な住宅街を全力で駆け抜ける。もしかしたら今回はまだ間に合うかもしれない。普段走っている短距離よりも何倍も長い距離だったが、肺が死にそうでも足を全力で動かして駆けていく。体感的には過去最高速度を出している気がするが、今はそんなことどうでもよかった。ただ前に進むことだけを考える。
チリンチリン。
鈴が鳴る音が聞こえた。自分の荒い呼吸と激しい心臓の音で音なんてほとんど聞こえていなかったど、何故だかその鈴の音だけは浮かび上がるようにはっきりと聞こえた。
音の発生源を探すと目の前の十字路から黒いローブのようなものを着た人影が出てくるのが見えた。顔は影になっていてよく見えなかったけど小柄で華奢なシルエットからするとたぶん女性? 夏も近いこの時期にローブなんて着る必要があるのかとも思ったが、今はどうでもいい。奇妙な通行人の隣を走り抜けようとしたとき、小さかったけど嫌にはっきりした声が聞こえた。
「良い夢、見れたかしら?」中性的でどこか機械的な響き。
十メートルほど駆け抜けたところで言葉の意味を理解。しかし慌てて急ブレーキをかけて振り返ったときには、先ほどの黒いローブの女性は既にそこには居なかった。夢か幻か、或いは単純にただの見間違いだったのか。後にはキツネにつままれたような腑に落ちない後味の悪さだけが残された。
再び走り出そうとしたとき、「もしかしたら通り魔の犯人かもしれない」と直感が告げた。背中に冷たい汗が噴き出る。そして深く考え始める前に再び走り出す。すぐさまそこから離れたいことと、夢で見た場所に向かわなければならないという焦燥感に駆られたからだ。あたしは通り魔と相対して無傷でどうにかできるようなヒーローじゃない。そこら辺をきちんとわきまえて、あたしは全力で走った。百メートル十二秒ジャストで走りきる感覚。短距離であたしに追いつける人はほとんどいない。通り魔も追いつけない。あたしは必死になって走った。
夢で見た公園に到着した時には心臓が爆発しそうで眩暈に襲われた。汗腺が狂ったように汗が全身から噴き出していく。それでもなんとか足を動かして公園の半ばまで入って背後を振り返る。そこには――誰もいない。とりあえずは安心だろう。
大きく深呼吸を繰り返しながら辺りを見渡す。入り口から公園を囲むように左右に広がる柵はさびれ、雑草もあちこちから生えている。子供の頃はよく遊びに来たものだったけど、少子化の影響か、家庭用ゲーム機の普及のせいか、人が離れた廃墟のような朽ちた雰囲気があたりに漂っていた。公園の名前は思い出せない。
息が整う前に記憶を頼りに夢で見たシーンの場所を探す。ジャングルジム、シーソー、鉄棒、雲梯……公園の奥にあるブランコ、その脇のベンチの傍に何かがあるのが見えた。心臓の音が五月蝿くなったような錯覚。重たい予感が胸を圧迫する。再び走った。
オレンジ色の公園灯の下、大柄の男が首から血を流して倒れている。見知らぬ人だ。意識はあるみたいで、弱々しく口をパクパクさせながら焦点の合わない目線を宙に漂わせていた。
駆け寄ろうとしていたあたしは首を中心に広がる黒い血の池を見て、怯んで立ち止まってしまった。素人目には致命傷に見える。しかしまだ男は動いている。生きている。助けなきゃいけないと思うと同時に……助からないなら早く死んでくれと思わずにはいられなかった。他人の生命の責任を緊急事態だからと押し付けられているような、避けられない重圧と底知れぬ不安感が思考を支配する。足元が抜けたような落下感。
「ぁ……ひ、人が倒れてます! すごい怪我をしてます、救急車を……、誰か救急車をお願いします!」
気が付くとあたしは息が整わないまま大声で助けを呼んでいた。普段は出さない音量に喉が痛くなってからは駆け寄って傷口を押さえた。頭が思考に耐えられなくなったのをいいことにあたしの身体は現実的な行動を始めていた。考えるより行動する方が余計なことを忘れられるからいい。
血は喉元から噴き出ていた。出血の勢いは飛び出すほどではないから頸動脈は切れていないのかもしれない。でも押さえた指の下から泡が出てきていたから、もしかしたら気道が切れている? とはいえあたしには押さえる以外どうしようもできない。気道を潰さないようにそっと、でも強く喉を圧迫した。その間にも地面に垂れた生暖かいぬるぬるとした血がジャージの膝を染めていく。嫌な汗が全身から噴き出して顎から背中から滴る感覚も気にならないくらいに必死に声を張り上げた。
悪夢なら早く終わってよ! そう願いながらあたしは何度も助けを叫んだ。いつまでも続く生き地獄のような時間が早く終わるように。声は何処にも届かず、闇に吸収されているみたいな、終わりのない無力感。悲しみなのか恐怖なのかよくわからない感情のうねりに乗って涙がとめどなくこぼれて、地面に吸い込まれる血を少しだけ薄める。
救急車のサイレンはいつまで経っても聞こえない。
ねえ、顕。あたしのこの未来は、どんな過去現在の延長にあったっていうの?