第八話 「公爵令嬢は転落する」
セバスティアンが淹れてくれたハーブティーを飲み終わった私は、薔薇のハンドペイントが施されたティーカップを受け皿に置き呟く。
「朝食を頂いたし、ちょっと屋敷の周囲でも散策してみようかしら」
「でしたら、屋敷の裏山を少し登った所からこの辺り一帯の領地が見渡せます。山道の傾斜もゆるやかですので、ちょっとした散歩によろしいかと」
「そうなの? じゃあ、行ってみようかしら」
「山か……。危険な獣は出ないのか?」
ミシェルが尋ねると、老紳士はひとつ頷いて答える。
「この辺りの熊や狼などはハンターに駆除されてますし、毒持ちの生物もおりませんので、大丈夫かと。……ただ」
「?」
「ここから、すぐ東に湖がございます……。渡りの時期になると、そこに白鳥が飛来するのです」
「まぁ、素敵!」
私は動物全般が好きだ。特に鳥は大好きなので、近くに白鳥が住む湖があると聞いて胸が高鳴る。しかし、そんな私にセバスティアンは苦言を呈する。
「エリナお嬢様……。白鳥は、見た目がたいそう優美でございますが、あれは鳥の中でもかなり危険なのです……。気安く近づけば、大怪我を負う恐れがございます」
「そうなの?」
白鳥に対して、そんな獰猛な印象が無かった私は、思わず聞き返すとミシェルが長い脚を組み換えながら呟く。
「ああ、そう言えば……。白鳥に近づいたら、あの大きな翼で腕を打たれて、骨を折った男がいると聞いた事がある」
「ほ、本当に?」
半信半疑の私に老紳士は神妙な面持ちで頷く。
「攻撃的な白鳥に骨を折られるなど、まだ運が良い方でしょう……。白鳥は肉食動物すら返り討ちにし、全身、滅多打ちにされて殺された人間もおります」
「!?」
「不用意に近づいた子供が、白鳥の怒りを買って溺死させられた例が過去に何件もございますし……」
「そんな……」
「ですから、エリナお嬢様。くれぐれも白鳥に近づかないで下さいませ……。白鳥は縄張りに侵入するもの、特に巣に近づくものに対して決して容赦致しません……。どうかご注意下さい」
いくら白鳥が美しいとはいえ、そんな恐ろしい話を聞いた後では、好き好んで近寄ろうとは思わない。真剣な面持ちの老紳士の言葉に、私は生唾を飲み込みながら頷いた。
ミシェルに付き添われて玄関に向かうと、セバスティアンが白いコートを用意してくれていた。
「そんなに寒くないし、ちょっと散歩に出るだけだから、コートは必要無いわ」
「しかし、今日は風が冷えております。どうか……」
そういってセバスティアンは白いコートを差し出したので、心配性な老紳士を安心させる為、私は苦笑しながらコートに袖を通した。
「遠くに雨雲らしき雲が見えます……。午後から雨が降るやも知れません……。お早めにお帰り下さいませ」
「分かったわ」
セバスティアンが分厚い玄関の扉を開け、私が外に出ると屋敷の壁に生い茂っていた、ツタ植物はすっかり除去されていた。屋敷の外では昨日、ここに到着した時、真っ先に声をかけてくれたアッシュブラウンの髪色をした青年が複数の麻袋を開き、庭先で何やら作業をしている。
「おはよう。朝から精が出るわね」
「これは、エリナ様。おはようございます」
作業の手を止めた青年はエメラルドグリーンの瞳を輝かせ、笑顔で挨拶をしてくれた。
「貴方は庭師のラウルだったわね。何をしているの?」
「土を作っているのです」
「?」
「こちらの麻袋には赤玉土という土が入っていて、こちらの袋には腐葉土が入っているのですが……」
庭師のラウルが開けた麻袋の中を見ると、丸くてゴロゴロした小石のようなベージュ色の赤玉土と呼ばれる土と、黒い土がそれぞれ入っている。
「赤玉土に腐葉土を7対3の割合で混ぜた土を用意しておけば、ほとんどの種類の植物に使えますので……。植物の種類に応じて赤玉土の粒の大きさを、変える場合もありますが……」
ラウルは翠色の瞳を細め、屈託の無い笑顔で一握りの土を手に取り、嬉しそうに土を見つめる。彼の心から楽しそうな様子に感心してしまう。
「本当に土いじりが好きなのね……」
「はい! 実は僕の祖父が趣味で造園の研究をやっていて、祖父の影響で僕も興味を持つようになったんです。大きな造園に携わるのが夢だったので、こうして、こちらで仕事をさせて頂けて本当に感謝しています!」
実は昨日、セバスティアンから屋敷の召使いについて聞いた時に彼についても、軽く説明を受けた。
庭師ラウルの祖父は趣味とはいえ、プロ顔負けの造園知識があり、その祖父に手ほどきを受けていた、ラウルも若いながら、造園、植物に関して博識でセンスも良く、これまで手掛けた造園はまだ少ないながら、非常に素晴らしい仕事をしていた為、セバスティアンが彼をスカウトしたのだと言う。
「そう。それは良かったわ……。私も良い庭師に、この屋敷で仕事をして貰えて嬉しいわ」
「そ、そんな……。良い庭師だなんて」
頬を上気させて、はにかむラウルを見ながら、伝えておかねばならない事を思い出す。
「あ、そうだ。大変だと思うけど、この屋敷の造園に関して、貴方に一任するわね。人手が必要な作業はセバスティアンに相談して召使いの手を借りてね」
「えっ!? あの、本当によろしいのですか? 僕はエリナ様や、セバスティアンさんのご指示を仰ぎながら、造園作業を行おうと思っていたのですが……?」
「私は専門知識が無いし、セバスティアンも全面的に貴方にまかせるつもりで考えていたから問題ないわ」
「!」
こういうのは素人があれこれ口を出すよりも、本業の者に一任した方がスムーズに事が運ぶし、彼も仕事がやりやすいだろう。
「ぼ、僕がこの屋敷の造園を全部…………」
「あー。面積は広いけど、もともと長年放置されていた屋敷の庭園だから、あまり重く考えないで気を楽にしてやってちょうだいね。あと、言いにくいんだけど経費が潤沢では無いから、その辺りもセバスティアンと相談しつつ、お願いね」
「は……。はい。あ、あの……」
「?」
「エリナ様の、好きな花は何でしょうか?」
庭師に尋ねられた私は唇の下に指を当て、少し考えて答える。
「……薔薇かしら」
「! 僕も薔薇は大好きです! でしたら、美しい薔薇が咲き乱れる庭園を目指しましょうか?」
「素敵ね! 是非お願い! そういえば私、ちょっとガーデニングでもしようかと考えて、王都で植物の種を購入していたの。正面玄関付近のような目立つ場所じゃなくて、片隅の小規模なスペースで、土いじりがしたいのだけど可能かしら?」
「もちろん可能です! 日当たりの良いスペースを整えておきます!」
「嬉しい! 楽しみだわ」
「ちなみに、エリナお嬢様は、何の種を購入されたのですか?」
「カモミールにラベンダーとか、ハーブの種をいくつか……。初心者でも育てやすい物を……」
「ああ、なるほど……。カモミールにラベンダー等でしたら、確かに初心者でも育てやすいですね……。ちょうど、今作っている、この土も早速、使えます」
庭師のラウルは翠色の目を輝かせ、やわらかなアッシュブラウンの髪を揺らしながら、うんうんと笑顔で頷いた。
「うふふ。セバスティアンから、貴方は腕もセンスも良いって聞いてるから、期待しているわ」
「! ご、ご期待を裏切らないように頑張りますっ」
「じゃあ、楽しみにしてるわ」
庭師のラウルと別れた私は、後ろについていたミシェルと裏山を目指して歩き出す。
「ミシェルは全然、口を出して来なかったわね?」
「造園や植物の事はサッパリ分からないからな……」
「ヴィクトルの時とは全然、様子が違うから驚いたわ」
「あんな純朴そうな庭師と、あの軽薄な男を同じ扱いにする訳無いだろう……。大体、私をあれだけイラつかせるのは、奴くらいだよ……」
ミシェルは、げんなりしながら自身の美しいプラチナブロンドをかき上げた。
屋敷をぐるりと回って裏山へ行くと確かに緩やかな傾斜の山道があった。傾斜の土道を歩きながら暑くなってきた私は額に汗を流しながらコートのボタンを開ける。木漏れ日が差し込む山道を登っていくとやがて開けた場所に出た。
「ああ、これは確かにこの辺りが一望できるな」
「本当……。来た甲斐があったわね」
遠くで小鳥たちのさえずりが響き、気持ち良い風が青々とした広大な大地を吹き抜ける。右手の眼下には美しい湖も見える。かなり透明度の高い湖だ。まるで鏡のように上空の白雲が湖面に映っている。
「辺境に行く事が決まった時は、かなり気が沈んでしまったけど、ここも悪くないわね。王都のような賑やかさは無くても、美しい自然に囲まれて癒されるわ……」
「私としても二言目には結婚しろと、口うるさい父から解放されて、ありがたい限りだよ……」
「ミシェルったら」
「もっとも、エリナに事実無根の濡れ衣を着せ、こんな所まで来る原因になった、アルヴィンという王子に会ったら、一発ぶん殴ってやらないと気が済まないが……」
「…………」
「あ……。済まない、つい……」
「いいのよ。……それより、セバスティアンの言っていた通り、なんだか雲行きが怪しくなってきたわ。雨が降らない内に帰りましょう」
「ああ……」
来た道を戻りながら考える。婚約者だったものの、まだお会いした事が無いアルヴィン王子が、どうして私の所為だと置き手紙を残して行方不明になったのか……。
元婚約者のアルヴィン王子さえ戻って来て、きちんと証言してくれれば、私に対する世間からの誤解が解けるというのに……。
実は立場ゆえに結ばれぬ相手と恋に落ちて、出奔したのだろうか……。しかし、王子が望んで無理な相手など、ほとんど居ない気がする……。
相手が、どこぞの国の姫君ならば、一筋縄では行かないかも知れないが、そんな高貴な身分の姫と恋仲なら噂の一つや二相つ、ありそうな物だ。しかし、そのような浮いた噂は一切聞こえてこない。
仮に恋の相手が平民なら反対されるだろうが、どうしても諦められない時は、妾か愛人にでもすれば済むと考える王侯貴族がほとんどだろう。やはり相手が平民の場合でも、本人が行方をくらます程の事とは思えない……。まして私の名前を出すなど……。
あんな手紙を残していけば、私が非難されるのは分かっていた筈……。いったい何故、アルヴィン王子は私が追い詰められると分かった上であんな手紙を書いたのだろうか?
怨みでも持っているならば嘘の手紙で、私を陥れようとしたのだろうと推測できるが、そもそも私と王子の間には『国同士で決められた婚約者』であったという事実以外、なにも無い。
唯一、私からアルヴィン王子に送った手紙は婚約祝いの品に対する、お礼の手紙だ。内容は素晴らしい品々を贈ってくれた王子の心遣いへの感謝。王子に直接、お目にかかれる日を心待ちにしております。などといった当たり障りの無い文面で、あの手紙を読んで王子の心が傷つけられたなど、ありえないと思うのだが…………。
答えの出ない思案にくれていると不意に、足元の落ち葉の隙間から、黒っぽい光沢が蠢くのが目に入る。よく見ると、それは黒っぽい身体をうねらせながら移動する長い蛇だった。
「へ、蛇!」
私が思わず声を上げると、暗黄色の蛇は紫色の舌を見せながら、尾を震わせカタカタと音を立てながら、鎌首をもたげて淡黄色の腹を見せながらこちらを威嚇し、視線が合った私に飛びかかってきた。
「きゃっ!」
とっさに蛇を避けた私は、山道から足を踏み外し、バランスを崩して空中に身体を投げ出してしまった。
「エリナっ!?」
異変に気付いたミシェルの声が辺りに響いたが、すでに遅い。私はなす術も無く、傾斜を転がり落ちた。