第七話 「公爵令嬢は甘い言葉に惑わされない」
窓から気持ち良い朝の陽射しが差し込み、心地よい小鳥のさえずりで私は目を覚ました……。と言いたい所だが、現在の精神状態が影響したのか昨晩の深夜は前世の夢……。
つまり自分が殺害される悪夢を見て、夜中に飛び起きてしまった……。よって疲れが取れず、朝からナーバスだ……。しかし、気持ちを切り替えないといけない。
婚約者の心を弄んで捨てたという事実無根の濡れ衣を着せられ、婚約破棄の挙句、辺境にやって来た私だったが、昨晩、私のいとこで護衛のミシェル・ド・ブレイズと、料理人のヴィクトルが学園時代の同期で犬猿の仲だと言う事が発覚した。
ヴィクトルの女癖の悪さは他に類を見ない程らしいが、彼の料理の腕は確かだった。昨夜のディナーも見事で見た目が洗練されていたのは勿論、味も申し分なく、彼を蛇蝎のごとく嫌っているミシェルですら唸らせる腕前だった。もっとも言葉にしたのは「黙って料理だけ作っていれば良いのに……」という一言だったが……。
王都で人気のレストランでも新進気鋭の料理人として評判が高かった彼が、オーナーの妻に手を出してクビになった時にちょうど、再就職先を探して、ここに来たら学園の同期ミシェル・ド・ブレイズと鉢合わせしたと言うのだから、巡りあわせというのは分からない物だ。
辺境の地へ行くと決まった時には、さぞかし寂しい場所なのだろうと思っていたが、こちらでの生活は思いのほか賑やかになりそうだ。
今朝もヴィクトルが朝食を作ってくれるはずなので楽しみに階段を降りて行くと、すでにダイニングルームではセバスティアンが、テーブルセッティングを整えており、後は料理を待つばかりとなっていた。
「おはようセバスティアン」
「これはこれは……。おはようございます。エリナお嬢様」
「エリナ!? おお、天使! 昨日も可愛かったけど、今日も可愛いなっ!」
私の声を聞きつけた赤毛の料理人、ヴィクトルがダイニングルームの向こうから、にゅっと顔を出して満面の笑みで手を振って、ウインクまでしてみせた。早朝にも関わらず、相変わらずの様子で私は苦笑する。
「……おはよう、ヴィクトル」
「今朝も俺の天使の為に、心を込めて朝食を作らせてもらうぜ?」
「誰がお前の天使だ」
私の背後には騎士服を身にまとい、アイスブルーの瞳を光らせたミシェル・ド・ブレイズが、いつの間にか佇んでいた。
「げっ! ブレイズ!」
「あら、おはよう。ミシェル」
「おはよう。エリナ」
金髪の麗人、ミシェルは私にニッコリと微笑んだ後、料理人に冷たい視線を送る。
「貴様はふざけた事を言ってないで、さっさと調理場へ戻って朝食を作れ!」
「ちょっ!? 違うんだよ! 俺は仕事の為に、天使に話を聞きに来てたんだよ!」
「あら? 何か御用かしら?」
「今日の朝食はパンケーキを作ろうと思ってるんだが、甘いのと、甘くないの天使はどっちが良い?」
「ん~。そうね。今朝は甘いのを頂こうかしら?」
「よっしゃ! 了解! まかせとけ! ブレイズも同じので良いな?」
要望を聞き、私に向かって片目をウインクした料理人は意気揚々と調理場へ戻って行った。
「はぁ……。アイツは……」
「面白い人ねぇ……」
「奴はあの通り、口から生まれてきたような男で、息を吐くように女を口説くから、奴の言葉を真に受けないように、くれぐれも気を付けてくれ……」
「ふふっ。ミシェルったら、心配し過ぎよ」
私は思わず苦笑したが、金髪の麗人は深い溜息を吐いた。
「エリナ……。昔から妹同然に可愛がってきたお前が、みすみす奴の毒牙にかかるような事になれば、公爵やルーベルに申し開きが出来ん……。本当に気を付けてくれ」
「……分かったわ」
まぁ、女性を見れば褒めないのは失礼だ。という思考回路の男性が存在するのは、自分でも分かっているつもりだし、次から次へと女性に甘い言葉をかけては、見境なく手を出す男性の言葉を真に受けては身が持たないから、冗談半分に流しておくのがベストなのだろう。
今まで、ああいうタイプの男性が身近にいなかったので、あからさまに口説き文句っぽい言葉を口にされるとドキッとしない事も無いが、あの手の男性に万が一、本気になってしまったら洒落にならない。
それに私の目標は平穏に生きることなのだ。不特定多数の女性に手を出す男性と、深い仲になる願望は無い。ミシェルの言う通り目先の甘言に乗って、後から後悔しないように身を引き締めよう……。
今朝の朝食はヴィクトルが宣言した通りパンケーキだった。しかし、ただのパンケーキでは無い。子供の手のひらほどの小さなサイズのパンケーキが3枚。その厚さが尋常ではなかった。
今まで私が見てきた薄いパンケーキは一体なんなのだろうかと思うほど、分厚い。普通のパンケーキの数倍以上の厚さはある。まるでチーズケーキのようだ。その厚いパンケーキと共に、色とりどりのフルーツが白磁器皿の上に鎮座している。
焼きたての美味しそうな香りに期待が高まる。そっと分厚いパンケーキをフォークで触れるとぷるんと揺れ、ナイフで一口サイズに切り分け、口に運べば、ほのかに甘いパンケーキが舌の上で溶けるような新食感だった。
添えられたフルーツ。ストロベリー、ブルーベルー、ラズベリーの彩りも美しく、皿の横に用意されていた、蜂蜜、ブルーベリーソース、ラズベリーソースも相性が抜群で果物の酸味と甘み、パンケーキの軽さが絶妙で、普段なら朝はあまり食が進まない私でも、どんどん食べてすっかり完食してしまった。
ああ見えて意外と甘いものが好きなミシェルも、ぺろりと平らげていた。ちょうど、セバスティアンが食後の紅茶を淹れてくれている時に、絶品のパンケーキを作ってくれた料理人ヴィクトルが、扉の向こうからダイニングに顔を出した。
「どうだった? 俺のパンケーキは?」
「とっても美味しかったわ。あんなフワフワのパンケーキ初めて食べたから、びっくりしたわ。いつもなら、朝は食欲がわかないのだけど、あれならいくらでも食べられそう」
「そりゃあ、良かった! 天使の笑顔が、俺にとって何よりのご褒美だ!」
ヴィクトルが投げキスをしてきた瞬間、ミシェルはテーブルの中央に置かれているフルーツ皿に手を伸ばし、盛られた果実の中からオレンジを一つ手に取ると、目にも止まらぬ速さでそれを料理人に投げつけた。
「うがっ!」
鈍い音を立てて、オレンジは見事に命中し、床に落ちてコロコロと転がっていく。その後、白目をむきながらヴィクトルは、ゆっくりと倒れバタリと音がした。
溜飲が下がったミシェルは「フン」と息を吐き捨てた後、何事も無かったかのようにティーカップを手に取り、おおむろに口元で傾ける。一瞬の出来事に唖然としながら、私はミシェルに尋ねる。
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。あのオレンジはネラジアという名前でな。煮込んでジャムにする品種なんだ。だから投げて、ちょっとくらい痛んでも全く問題ない」
「い、いや。オレンジじゃなくて……。ヴィクトルの方……」
「ああ。残念ながら、あの程度では死なない」
「……」
私がテーブルの傍らに立つセバスティアンに視線を向けると、老紳士は扉の隙間から料理人の生存を確認できたらしく、にっこりと微笑んで頷き、静かにドアを閉じた。