第五十一話 「公爵令嬢は謎の罪悪感に苛まれる」
第二王子の食欲も戻り、ようやく一安心と思いながら、白鳥と共に居室のソファに腰かけていた時だった。屋敷の庭園で鋏を片手に、蕾のついた薔薇の剪定作業を行っていた庭師ラウルが、珍しく慌てた様子で声を上げた。
「騎兵がこちらに向かってきます!」
窓から外を見れば確かに騎乗した二人の兵士が、屋敷の前までやって来た。俄かに屋敷内に緊張が走る。先ずセバスティアンが、グルーテンドルスト兵の応対をすべく正面玄関に向かう。
ミシェルは素早く黒檀材の階段を駆け上がり、上階の第二王子に事の次第を知らせ、彼を屋根裏に隠し終わった後、極力、音を立てないように階段を降りて再び玄関ホールにいる、私と白鳥の元へ戻ってきた。
金髪の麗人と共に息を潜めながら、ゆっくりと厚い紫檀材製の扉に耳をつけて、外の様子を窺っていると会話が聞こえてきた。
「これは、これは……。先日のグルーテンドルスト兵の方とお見受けしますが、何用でしょうか?」
「実は……。行方不明になっている第二王子の捜索は縮小されることになりましたので……」
「こちらには一言、お伝えしておこうと思いまして伺った次第なのです」
「縮小ということは、まだ第二王子は見つかっておられないのですな?」
いかにも心配げな声音でセバスティアンが尋ねる。まさか、この老紳士が第二王子の安否も、所在も把握しているとは夢にも思わないだろう。
家令の思わぬ役者っぷりに、私とミシェルは互いに目を合わせて内心、舌を巻いたが、玄関ホール内での、そんな様子など知る由もないグルーテンドルスト兵と老紳士は会話を続ける。
「はい……。もし、それらしき人物を発見された際には、グルーテンドルスト国にお知らせ下さい」
「勿論でございます。必ずご連絡いたしましょう」
「こちらの周囲を、グルーテンドルスト兵が探索していた件では大変、ご迷惑をおかけしました」
「公爵令嬢にどうか、くれぐれもよろしくお伝えください」
「ご丁寧にありがとうございます。ブランシュフルール公爵令嬢には、確かにお伝えいたします」
明朗に老紳士が返す声が聞こえた後、馬の嘶きが聞こえ、二頭の馬蹄の音がどんどん遠くなっていくのが分かった。ゆっくりと玄関の扉を開ければ、二つの騎影が緑林の中へ消えてゆくのが見えた。
「行った……?」
「はい。もう大丈夫でございますよ。エリナお嬢様」
「はぁ……。びっくりしたわ。てっきり、第二王子の所在が知られたのかと……」
「ああ、杞憂に済んでよかった」
金髪の麗人と共に白鳥もホッと息を吐き、茶髪の庭師は少し視線を落として申し訳なさそうに呟く。
「僕がお知らせするまでも無かったようですね」
「いいえ、知らせてくれてありがとう。ラウル……。おかげで、すぐ警戒できたもの」
感謝の言葉を口にすると、庭師は穏やかに顔を綻ばせてエメラルド色の瞳を細めた。私も笑みを返した時、廊下の奥、調理場の方から銅製フライパンを手にした赤髪の料理人が、にゅっと顔を出した。
「ん? なんだ? みんな集まって……。もしかして俺様の出番か!?」
「…………」
玄関ホールにいた一同はヴィクトルのタイミングの悪さと、空気の読めなさっぷりに言葉を失った。ただ一人、ミシェルだけが、まるでゴミくずを見るような目で一瞥し、舌打ちした後「役立たずが……」と心胆を寒からしめるような声音で小さく呟いた。
「グルーテンドルスト兵はこの地から撤退するようですが、念の為、暫くは気を緩めず、様子を見ましょう」
「そうね。用心するに越したことは無いものね……」
セバスティアンの提案に皆、頷いてそれまで通り、警戒しながら生活していたが、数日経って全く近辺で兵の姿を見ることがなくなり、どうやら本当に、この付近からグルーテンドルスト兵が撤退したことが分かった。
「兵が居なくなったのなら……。第二王子も、ずっと客室じゃ気も滅入るでしょうから、少し外に――」
私が言った瞬間、ミシェルは片方の眉を跳ね上げた。剣呑な空気を察知した私は、ゴクリと息をのんで乾いた笑みを浮かべる。
「――というのは流石に難しいでしょうから、せめて一階の居室で、お茶でも飲んで、少しはくつろいでもらいましょう」
「そうだな……。屋敷内ならば、問題ないだろう」
「じゃあ、セバスティアン。居室でお茶の支度をお願い」
「かしこまりました」
「一階でくつろぐなら、私は念の為、屋敷の周囲を見回って来る。大丈夫だとは思うが……」
ミシェルが外に出た後、私は白鳥と共に調理場へ足を運んだ。甘く芳ばしい香りが漂う中、銅製鍋で皮ごと薄切りしたリンゴをハチミツで煮ていた、赤髪の料理人に事情を話す。
「そういう訳で、ゆったりと午後のお茶を楽しめるように、軽食とスイーツを用意してほしいの」
「ああ……。それなら今、スコーンとタルトを作ってるから、後は焼くだけだ。すぐ用意できるぜ!」
「まぁ、ちょうど良かったわ!」
「何を隠そう、今日のタルトは……。俺が天使のことを考えながら、愛を込めて作っ――」
「うん。じゃあ、お願いね。ヴィクトル」
「え? ちょ……」
話が長くなりそうだった料理人との会話を、早々に切り上げた。去り際、白鳥がヴィクトルのことを鼻で笑った気がしたが、一瞬のことだったので気のせいかも知れない。出すべき指示は出し終えたなと思いながら廊下を歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「エリナ様、よかったらこれを……」
「まぁ!」
茶髪の庭師が差し出したのは薄紅色をした五本の薔薇だった。
「ちょうど薔薇の蕾が綻び始めましたので、生けて頂ければ……」
「ええ、さっそく花瓶に生けるわ」
「植物には人の心を癒す効果があると言われています。この薔薇で第二王子のお心を、少しでもお慰めできれば……」
「ありがとう、ラウル……。ディートリヒ様もきっと喜ばれると思うわ」
小さな白磁器の花瓶に、五本の薔薇を生けて居室に飾れば、飴色のテーブル上にピンク色の彩りが添えられ、空間がぱっと華やいだ。
「やっぱり花があると良いわね!」
「ああ、綺麗だな……」
白鳥と顔をあわせて頷いていると老紳士がやってきた。
「エリナお嬢様、軽食とスイーツのご用意が出来ました」
「早いわね! じゃあ、ディートリヒ様をお呼びするわ!」
準備が整ったと知らせを受けてすぐ、客室にいた第二王子を居室に招けば、テーブルの上に置かれた三段ティースタンドの一番下の皿には、ハムと薄切りきゅうり、ゆで卵のサンドイッチが添えられたパセリと共に整然と並べられ、真ん中の皿には、こんがりと黄金色に焼きあがった出来立てのスコーン。
一番上の皿には、皮ごと薄切りしたリンゴをハチミツで煮た後、柔らかくなった薄切りのリンゴを薔薇に見立てて成形された、アップルローズタルトが艶々と薄紅色に輝きながら鎮座している。
さらに、三段ティースタンドの横にはスコーン用に、ストロベリージャムとブルーベリージャムが用意され、美しい白磁の皿と、銀色に輝くカトラリーが並べられていた。その光景を見た第二王子は宝石のように美しい瞳を軽く見開いた後、悪戯っぽく口角を上げた。
「これは……。本日のお茶会に、お招きに預かり光栄です。ブランシュフルール公爵令嬢……。と言うべきかな?」
「お茶会と言えるほど、ちゃんとした形式ではございませんけど……。グルーテンドルスト兵は、この近辺の捜索を打ち切って撤退したようですし、ディートリヒ様も少し息抜きが出来たら……。と思いましたの」
「……」
「どうぞ、おかけになって」
「ああ」
第二王子がソファに腰かけると、セバスティアンが無駄のない所作で白磁器のティーポットから、カップに美しい琥珀色のハーブティーを注ぎ、ティーカップの持ち手が王子の右側に来るようソーサーを回してそっと差し出した。
私も二人掛けソファに腰かけると白鳥は私の横に鎮座した。老紳士にハーブティーを注いでもらった、カップの持ち手部分を摘まむように持ち、口元でカップを傾ければ、カモミール、エルダー、ミントをブレンドしたハーブの落ち着いた香りにホッと息をつく。
「ブレンドハーブか……」
「ええ。ディートリヒ様、普段はどんな物をお飲みになってますの?」
「最近はもっぱらコーヒーを飲んでいたな」
「ああ、そういえば……」
横に鎮座している白鳥が言っていたなと思い出しながら、まずティースタンド一番下の卵サンドに手を伸ばして一口食べると、ふわふわのパンに味付けされた、半熟茹で卵のほんのり甘く優しい味わいが口いっぱいに広がった。第二王子はハムサンドを手に取り食べていた。どうやら口に合ったようで安堵する。
次にティースタンドの二段目から取った、黄金色のスコーンを半分に割り、ジャムを手元の皿に移してから食べる。外側はさっくりとしているが、中はふんわりとしたスコーンの触感を楽しみながらジャムを付けつつ、あっという間に食べ終わった。
最後はティースタンドの一番上で輝いている、アップルローズタルトだ。ちょうど、その時、居室に戻って来たミシェルは念の為、警戒しているのか、部屋の入口で立ったまま私と視線を合わせると微笑して頷く。
屋敷の周囲は問題なかったし、自分のことは気にせず、そのままお茶を楽しめ。……ということなのだろうなと察した私は、少し苦笑して頷いた。第二王子は手に取ったアップルローズタルトを間近で、しげしげと見つめ、目を丸くして感心している。
「リンゴで薔薇のタルトを作ったのか……」
「お城で、こういうタルトは?」
「いや、ここまで形状にこだわったアップルタルトが出されたのは見たことが無い……。ブランシュフルール公爵令嬢の料理人は腕が良いのだな」
「そうですわね……。料理の腕は、文句の無い料理人ですわね……」
「?」
私は思わず笑顔を引きつらせ、ミシェルは遠い目をし、ソファの上で鎮座している白鳥は、眉間に皺を寄せて瞼を閉じたのを見て、第二王子は不思議そうに小首を傾げた。
何も知らない美貌の王子は心から、見事なアップルローズタルトに感銘を受けているようだ。実際、こんな美しいアップルタルトは見たことがないし、第二王子の気持ちも分かるのだが、作った料理人の性格を知っている私達は、謎のもどかしさと罪悪感のような気分に苛まれた。
いや、作られた料理に、作った人間の人格や性格、日頃の行いは関係ないはず……。いずれ知られることであろうが、純粋にアップルローズタルトを称賛している第二王子に、作った料理人がどれだけ残念な人間であるかという事実を、ことさら知らせなくてもいい……。少なくとも、今はまだ…………。