第四十四話 「公爵令嬢は受け取る」
急くように黒檀の階段を降りて、玄関ホールに着けば、厚い紫檀扉の前で銀縁眼鏡の公爵が、セバスティアンに話しかけているのが見えた。
「フィサリス公爵!」
「これは……。ご令嬢ではありませんか」
「あの、第二王子が……」
銀縁眼鏡ごしに軽く目を見張り、鳶色の瞳に驚きの色を浮かべるフィサリス公爵に、質問を投げかけようと言葉を発したが、最後まで告げる事は出来なかった。
何故なら、玄関前に停車している馬車の中から濡れた衣服を身に纏い、ぐったりとした第二王子ディートリヒが、黒髪の従僕フィリップと馬車の中にいる、フィサリス公爵の従者であろう少年によって、運び出されようとしている姿が見えたからだ。
意識を失っている第二王子は元々、白かった肌が完全に色を失い、蒼白になっており、複数の傷で血が滲んでるのが見受けられた。
「ディートリヒ殿下!」
「う……」
第二王子が身じろぎ、色違いの宝石を溶かし込んだような瞳が、薄らと開かれる。
「君は……。ブランシュフルール公爵令嬢……? こ、ここは?」
「ここは、ファムカ国の北。ブランシュフルール公爵家の屋敷ですわ」
意識を取り戻したばかりで困惑している第二王子にゆっくりと答えたが、ディートリヒ王子は視線を彷徨わせ、眉根を寄せた。
「ヨハンは?」
「え」
「俺と一緒にいた……。侍従は?」
「川でディートリヒ殿下を発見した時、私が見た限りでは、残念ながら殿下以外で生きてる者はいなかったですね……。何体か死体が流れているのは見かけましたが」
銀縁眼鏡の公爵が両腕を組みながら、淡々と事実を告げる。それを聞いた第二王子は、白皙の面に昏い影を落とした。
「そうか……」
「ディートリヒ殿下、ご安心なさって。すぐグルーテンドルスト国に……。お父上に連絡を入れますわ」
沈痛な面持ちの第二王子を少しでも励ますべく声をかけたが、美貌の王子は震えながら首を横に振った。
「駄目だ」
「え?」
「父上には……。連絡しないでくれ」
そう告げると第二王子は力無く瞼を閉じ、ガクリと俯いた。
「殿下!?」
「……脈はあります。気を失ったようですね」
銀縁眼鏡の公爵が、ディートリヒ王子の首筋の脈を確認しているのを見て、私も第二王子の手に触れてみれば、信じられないほど冷たくて驚嘆する。
「すごく冷え切ってる……!」
「おそらく、ディートリヒ殿下は低体温症を起こしていると思われますよ。ご令嬢」
「低体温症……!」
私は以前、王立図書館の本で見たことがある、低体温症になった場合の応急的な処置を頭の中で思い浮かべた。
「濡れた服を脱がせて、身体を温めないと……! フィリップ、早くディートリヒ殿下を客室へ……!」
「はい!」
黒髪の従僕に第二王子を運んで貰いながら、セバスティアンにも必要事項を告げた。
「それから、暖炉に火を入れて、暖かい飲み物を用意して……。あと医者の手配を!」
「かしこまりました」
慌ただしく客室と寝台を整え、ディートリヒ王子に施せる応急処置を一つずつ行った。服を着替えさせて寝台に横たわらせる際には、白鳥を左腕に抱き込むようにして、一緒に寝台に入れる。
一緒に眠るとほかほかだった白鳥がついていれば、加温は問題無いだろうと判断しての事だった。客室の空気も温まり、白鳥の保温効果もあって寝台の中と第二王子の顔色も、先ほどよりは心なしか血色が戻ってきたように感じられた。
「ディートリヒ兄上……」
「低体温症が重篤な域まで進行していなければ、大丈夫だと思うんだけど……」
心配そうに第二王子の貌を見つめる白鳥に声をかけていると、漸く医者が到着した。幸い、打ち身や出血に関して深刻なケガは無く、低体温症については適切な応急処置が功を奏したようで、後は温かい物を食べて体力を回復させれば良いと診断され、私達はホッと胸を撫で下ろした。
その後、ディートリヒ王子の為に温かいスープを作ってほしいと告げられた赤髪の料理人が「俺は男の王侯貴族は大っ嫌いなんだぜ? 何であんな、如何にも女にモテそうな王子なんかに……」などとぶつくさ愚痴を呟いていたら「無駄口を叩いてないで、さっさと作れ!」と背後からミシェルに蹴りを入れらるという一幕があったりしながら、第二王子への対応は何とか一段落した。
私は、フィサリス公爵を客間へ通し、リラックス効果がある飲み物が良いだろうと、リンデンにカモミールとペパーミントをブレンドした、リンデンフラワーティーを出し、今回の経緯を尋ねた。ソファーに腰掛けた銀縁眼鏡の公爵は、所持していた分厚い羊皮紙製の本を横に置き、優しい香りがするティーカップを傾けて咽喉を潤した後、語り始める。
「実は、私が馬車でファムカ国の王都に向かう途中、川岸に引っかかっているディートリヒ王子を発見しまして」
「引っかかって……」
「原因は分かりませんが、ご覧になられた通り、ケガをして意識を失っておられたので、手当のできる場所を探していた所、こちらに辿り着いた次第なのです」
「そうだったのですね……」
何故、第二王子があんな状態になっていたのか、発見者のフィサリス公爵でも皆目、見当もつかないとなると矢張り、ディートリヒ王子が目覚めるのを待って事情を聞くしか無いかと、唇に指を当てながら思案していれば、銀縁眼鏡の公爵は白磁器のティーカップをソーサーに置いた。
「ご令嬢の屋敷でディートリヒ王子を看て頂けるなら、私はすぐにでも、こちらを出立したいと思っております」
「え……。でも、殿下をお助けしたなら、きっとグルーテンドルスト国から、褒賞なり出るのでは?」
「ああ。私は金とか、そういう物に興味はありませんから」
「……」
私の実家のような貧乏な公爵家ではなく、一般的な……。裕福な上級貴族であろうフィサリス公爵は、お金には全く執着しないといった様子で軽く答え、私は思わず言葉を失った。
「会ったばかりの方を見殺しにするのも、何だか寝覚めが悪いので助けましたが、私にとって目下の最重要事項は、ファムカ王立図書館に行って蔵書を読むことです!」
「え」
ヴァイスヒルシュ城で、ファムカ王立図書館に並々ならぬ感心を寄せていたとは思ったが、本当にそのまま直行するつもりだったのかと些か驚いた。
「衰弱しているであろうディートリヒ殿下は、こちらで安静にして頂くのが最善でしょうし」
「はぁ」
「袖振り合うも多生の縁と申しますし、後の事はご令嬢にお任せしてよろしいでしょうか?」
「それは……。構いませんが……」
「おお! では決まりですね! 私はファムカ王立図書館へ向かいますので、後の事はよろしくお願いします!」
「ええ。まぁ、そういう事でしたら……。分かりましたわ」
フィサリス公爵にしてみれば面識があるとは言え、グルーテンドルスト王家の臣下では無いのだから、ディートリヒ王子を看護する義務までは無い立場だ。
それに、目的があってファムカ国の王都へ向かいたいと言うならば、私もフィサリス公爵にディートリヒ王子が回復するまで、この屋敷に留まるべきなどと言う権利は無い。
この屋敷には、ディートリヒ王子の弟であるアルヴィンが居る訳だし、むしろ縁がある、こちらの屋敷で彼が回復するまで看病するのは自然だろう。私が頷いて納得すると銀縁眼鏡の公爵は、横に置いてあった分厚い羊皮紙製の本を手に取り、ソファから立ち上がる。
「では……」
「あ、そうだわ……。少しお待ちになって下さいませ!」
「?」
私は急いで一筆書き、その手紙を公爵に差し出せば、銀縁眼鏡の公爵は怪訝そうな表情で受け取った。
「これは?」
「王立図書館の司書宛てに、紹介状を書かせて頂きましたわ」
「!」
「ファムカ王立図書館は本来、国内貴族と研究者のみに閲覧許可が出されている施設です……。私は王立図書館に毎日のように通っておりましたから、司書に話を通す際、私がフィサリス公爵の身分を保証するという紹介状があれば話がスムーズに進むかも知れません」
「ご令嬢!」
喜びを隠しきれない様子のフィサリス公爵に突然、手を握られ一瞬、驚いたが説明を続ける。
「あの、あくまで法的な拘束力の無い、気休めの紹介状です……。役に立たないかも知れないので、心苦しい位なのですが……。もしかしたら、私の顔見知りの司書さんが融通を効かせてくれるかも知れません」
「お心遣いに感謝いたします……!」
感激した銀縁眼鏡の公爵は、私と握手しながら嬉しそうに笑みを深めた。
「それにしても、ガランサス国といえば極北の土地でしょう? 随分、遠い所だから、かなり長旅だったのでは?」
「まぁ。ちょっとした、頼まれ事の関係で……」
「頼まれ事?」
「ここだけの話なんですが……」
「はい」
真剣な表情で声をひそめたフィサリス公爵の顔がゆっくりと近づき、私は思わず息をのんだ。銀縁眼鏡の奥に知的な瞳を光らせている公爵から視線を外せないでいると、眼前の公爵はフッと破顔しておどけた。
「アリアとディートリヒ王子を会わせて、あわよくば第二王子を骨抜きにしてやろうと企んでいたんですよ~」
「え」
「ディートリヒ王子がアリアに目もくれなかったので、まんまと失敗してしまったんですがね~」
「えっと……。まぁ、公爵家の方でしたら、王族の方と縁戚関係を望むのも分かりますわ」
「ははは。そこまで大げさに考えていた訳では無いんですよ~」
「?」
「ただ、アリアは些かプライドを傷つけられたようですが……」
面白そうに笑みを浮かべる銀縁眼鏡の公爵の言葉に、ヴァイスヒルシュ城で見かけた美女がいない事に漸く気付いた。
「あ、そういえば黒髪の……。アリアさんは、ご一緒じゃないんですね?」
「アリアとは暫く、別行動なんです」
「そうですのね……」
ヴィクトルが、その美しさを絶賛していた黒髪の美女が同行していれば、喜色満面で歓迎して料理の腕を振るっただろうなと思っていたら、フィサリス公爵は自身の銀縁眼鏡をクイと上げた。
「まぁ、今回は成否に関わらず、希少な本を頂けると言われていたので乗ったんですよ……。私は読書家であると同時に愛書家ですからね……。ディートリヒ王子とアリアを会せた時点で、すでに役目は終えましたし」
「はぁ」
「本を読んで知的探求心を満たすのは、私にとって最高の悦びですからね!」
迷いなく、はっきりと言い切るフィサリス公爵を見ていると読書家、愛書家というよりも書物崇拝狂と呼んだ方がしっくりくる。本人に面と向かっては、とても言えないが……。
「ほんとうに本がお好きですのね」
「ええ。本は私の生き甲斐です! あ、そうだ……!」
「?」
「突然、ディートリヒ王子の件をお願いしてしまった事ですし……。頂き物ですが、この本をご令嬢に差し上げましょう」
「え!? これ、希少な本って仰ってたんじゃ?」
普通の羊皮紙製の本でさえ、家一件分の価値はある。お金に執着しないと言い切る、フィサリス公爵が求めた程の分厚い羊皮紙の本。いったい、どれほどの価値があるのか考えるのも恐ろしいが、銀縁眼鏡の公爵はといえば、事もなげな様子でけろりとしている。
「希少には違いないのですが、これは比較的、新しく書かれた写本ですし、目を通したので本の内容は全て、頭の中に入っておりますから」
「ほ、本当によろしいんですの?」
「ええ……。私が持ち帰って、そのまま書庫に収めるより、他の方にも読んで貰う方が、より有意義だと思いますし」
「そ、そういう事でしたら。……でも、こんな貴重な本を頂けるなんて」
「どうかお気になさらずに。書庫に寝かせて埃をかぶせておくよりも、読んで貰ってこそ、本の存在意義が出るのですから……。特に貴女のような、麗しいご令嬢に読んで貰えれば、本も喜ぶでしょう」
動揺が隠せない私を見て、ダリオン・アルケ・フィサリス公爵は悪戯っぽい表情で微笑む。
「幼少時に一度、読んだ本も大人になって、色んな知識や物語を知った上で読み直すと、新たな発見があって面白いものですよ」
「新たな発見……」
「ええ。この話は、神話の影響を受けているな……。とか、この本は有名作品の影響を受けているな……。とかね」
「……」
「初見時では分からなかった、新たな発見に気付いた時、私はえも言えぬ悦びを感じます……。ご令嬢にもおすすめしますよ」
「はぁ」
「特に名作という物は、時代が移り変わっても色褪せない物です。過去に読んだ作品だから、もう読む必要は無い。……などと思わずに、もう一度目を通すのもオツな物ですよ」
屈託の無い笑みを浮かべた公爵は、私に本を渡してすぐに屋敷を後にし、漆黒の馬車に乗り込んだ。
「ガランサス国のダリオン・アルケ・フィサリス公爵が、王子をお助けした事、ディートリヒ殿下が目を覚ましたら、きちんとお伝えしますわ。よかったら、またこちらの屋敷に立ち寄って下さいませ」
「ふふ。ありがとうございます。では、私はこれにて失礼します。王立図書館の本が私を待っていますからね」
二頭立ての馬車が、轍の音を響かせながら出立していった。遠ざかる漆黒の馬車が、濃い緑の中に消え去るのを見送りながら、独り言ちる。
「一見、穏やかそうに見えるのに、何だか嵐のような方だったわね……」
頂いた本を両腕で持ちながら、暫し呆然としていると、屋敷の中から足早な靴音が近づいてくる。視線を向ければ、紫檀扉の横に息を切らせた黒髪の従僕フィリップがいた。
「エリナ様、こちらにいらしたんですね」
「ええ、公爵が出立されたから見送っていたのよ。どうしたの?」
「つい先程、ディートリヒ王子が目を覚まされました」
「!」




