第四十三話 「公爵令嬢は地図を描く」
金髪の麗人によって怒りの制裁が下された頃、ティータイムもお開きとなり、私は明るい日差しの差し込む屋敷の廊下を歩きながら思った。ヴィクトルはミシェルに対して、もう少しデリカシーがあれば、あのような惨事には至らなかったろうに……と。
でも、よくよく思い返してみると、細剣による致命傷になる攻撃は流石に避けていたが、蹴りや拳による攻撃は、甘んじて受けていたように思える。
ヴィクトルがその気になれば反撃なり、逃げ切るなり出来たであろう筈なのに、ミシェルの溜飲が下がるまで、あえて無抵抗で攻撃を受け続けたのは、彼なりの優しさなのかも知れない……。という風に考えるのは、お人よし過ぎるだろうか?
そんな事を、取り留めも無く考えていると前方から、何やら色んな物を詰め込んだ木箱を抱えた老紳士が歩いてくる。
「あら、セバスティアン。それは?」
「物置き部屋を整理していたのですが、このような物が出て参りまして」
木箱の中に入れられている物の中でも、ひときわ目立つ、巻かれた大きめの古い紙を手に取って広げると、中心部分に我が国と周辺諸国が描かれていた。
「古い地図ね。書きかけの……」
「この状態では価値もありませんし、処分してしまおうと思っていたのです」
「ああ、処分するつもりだったのね。……じゃあ折角だから、私が貰っていいかしら?」
自室に戻り、テーブルの上に先ほどセバスティアンから貰った、書きかけの古い地図を広げる。端々に所々、穴があるし、きちんと書かれているのは、私が現在、住んでいる中央大陸の形だが、面積的に世界地図を描きたかったんだろうなという事が分かる。
以前、王立図書館で最新の世界地図が描かれた本を見た事がある。興味深かったので各大陸の主要都市と有名な特産品がある島は覚えたし、地形もおおよそ頭に入っている。折角なので、それを思い出しながら書き足してみたいと思ったのだ。
「それにしても……。安価な植物製紙と没食子インクで書かれたであろう、古い地図にしては比較的、劣化が少ないわね……」
酷い場合はインクで書かれた黒い部分は丸ごと穴があいてしまって、二目と見れないような状態になる筈だ。保存状態が良かったのと没食子インクに卵の殻を入れた物を用いたのかも知れないと思い至る。
卵の殻を入れた没食子インクは普通に使うより、紙へのダメージが少ない。それでも完全に劣化を防げる訳では無いから、矢張り土地の気候や物置小屋の湿度など、複合的な要因もありそうだ。
そんな事を考えながらインクの溶液を合わせて、没食子インクを作る。インク壺にペン先を入れ、書こうと思った時、ぺたぺたと足音が聞こえ、白鳥が、ひょこっと顔をのぞかせ部屋の中に入って来た。
「ん。地図か?」
「そうよ。物置き部屋からセバスティアンが見つけてね……。処分するって言うから、折角だし、書き込んでみようかと思って」
「ふむ」
彼が私の元婚約者である、第三王子アルヴィンだと発覚した当初は内心、どう接したら良いのか複雑な思いもあったのだが、彼の態度は良い意味で変わらなかった。だから、私も彼の正体が発覚する前と、あまり変わらないように接している。
流石に、ただの白鳥だと思っていた頃のような、過剰なスキンシップは控えているが、アルヴィンが人間に戻れば、グルーテンドルスト国の第三王子として多忙な日々を送るのであろうし、すでに婚約が破棄されている私とは金輪際、会う事も無くなるだろう……。
彼には何度も助けられているし……。彼がまだ暫く、ここに居たいと言うのなら、せめてこの辺境の屋敷に居る間だけでも、気楽に過ごせるように……。そう思っているのだ……。白鳥が興味深そうに見守る中、ペンを手に取り、紙に地図を書き足していく。
「先ず、上から北海地域……」
「うん」
北海にある島を大まかに書き加える。ここは細かい島が多いので、大きい島以外は色々、割愛する。
「そして、私たちが住む中央大陸の下に、アルベンシス内海を挟んで南大陸。カレンデュラ西海を挟んで、近年発見された西大陸……」
「うん」
「南大陸は、最南端の岬を迂回して、東に行けば砂の国。さらに、そこから東南に進めば香辛諸島……」
頷く白鳥を横目に、さらにカリカリとペン先を走らせて、地図の右下部分を書き込み、おおよその島々を書き加える。
「よく覚えているな……」
「最新の世界地図や、各地の特産品について書いてある本を図書館で読んでいたから……。有名な特産品がある所は、おおよそ頭に入ってますわ」
「流石だな」
褒められると素直に嬉しい。目を丸くして感心する白鳥に微笑んでペンを置く。
「西大陸では、エメラルドやピメント、カカオ、バニラ、トウガラシ、高級木材のオーク材などが、主な貿易品でしたわね」
「うん。エメラルドや香辛料は高値で取り引きされてるし、近隣諸国ではハードウッドが不足しているからね」
「ハードウッド?」
私が小首を傾げると、白鳥は軽く頷く。
「ああ……。材木には大きく分けて二種類ある。ハードウッドは呼び名の通り、堅い材木で主に広葉樹を指す。水や虫食いによる腐食に強いんだ。二十年以上はじゅうぶん、長持ちする木材で、物によっては百年以上、朽ちないほど耐久性に優れている。需要がある一方、値段も高い」
「まぁ」
「西大陸で伐採できるオーク材は高級木材で、ハードウッドのカテゴリーに入る」
「そうなのね」
「ハードウッドと対照的なのが、ソフトウッド。針葉樹などが該当する。こちらは木材としては柔らかく、加工しやすい反面、水や虫食いに弱い。おまけに傷がつきやすいし、割れやすい。一年か、せいぜい二年ほどしか使えないと言われている」
「一年か二年で傷んでしまう木材だったら、室内の内装や家具には使えないですわね……」
この領地の、特にこの屋敷周辺は針葉樹が多いので、仮に伐採しても安価にしかならないと知り、少し肩を落としながら返せば、白鳥は一つ頷いて答える。
「そうなんだ。ソフトウッドは値段が安価なんだけど結局、長期的な視野で見るとハードウッドの方がメリットがあるんだ……。ソフトウッドに比べて、ハードウッドは価格が何倍にも跳ね上がる。だけど、それ以上の価値が十分あるから、皆ハードウッドを買い求めるんだ」
「なるほど。遠くの土地から海洋貿易で、わざわざ取り寄せるほどニーズのある材木なのね……」
私が得心していると、白鳥は首を伸ばし地図上で、ファムカ国の西に視線を向けた。
「海洋貿易の面では今、勢いがあるのは西国ベルギアだ。新たな航路の発見で、大変な富を築いている」
「新たな航路?」
「君も先ほど書き込んだけど、遥か東南にある小さな島々に、そこにしか自生しない植物があるからね……。ナツメグやチョウジなどの貴重な香味料は今、市場価格が最も高騰している」
「香辛諸島ね……」
地図上の東南に位置する小さな島々に視線を向けながら答えれば、白鳥も同じ場所に視線を向ける。
「うん。ナツメグやチョウジ以外にも、シナモンや黒コショウなど、香辛諸島は宝の山だ」
「聞いた事があるわ……。香辛諸島から運ばれてくる香辛料は驚くほど高値が付くって……」
「ああ、事実だ。実際、市場で香辛諸島のスパイスは、同じ重さの黄金で買い取られているよ」
「黄金と……」
噂には聞いていたが、実際にそれらを取引しているであろう者の口から聞くと、改めて唖然とし、思わず目を剥いてしまう。
「現地の人にとっては、身近な植物であり、スパイスだったんだろうけど、こちらの大陸の者たちにとっては貴重で希少な香辛料だからね……。船で持ってくれば金に糸目をつけない王侯貴族や富裕層の需要で価格は一気に跳ね上がる」
「……」
「そこまでの価格で取引されている理由は純粋に料理のスパイスとして用いられているだけでなく、貴族が使う焚香料や香水の材料として求めたりしているのも一因だね」
「焚香料や香水の材料……。それは確かに需要があるでしょうね」
パーティや社交場で、香りに気を遣いたい王侯貴族や富裕層なら、大枚を叩いても欲しいに違いないと大いに納得した。
「ほかの大きな要因は、香辛料を色んな病に効く薬として使っている者もいるし、香辛料を利用することで致死率の高い伝染病を防げるという噂が、民間でまことしやかに広まっているからだろうね」
「え、伝染病を? 私が今まで読んだ本で、そのような記述は無かった気がするけど……」
唇に指を当てて、過去に読んだ本の記憶を辿ってみるが、香辛料にそのような効能があるという文章は、矢張り無かったように思える。思わず眉根を寄せていると、白鳥は首を横に振った。
「ああ。残念ながら、香辛料が伝染病予防になるなんて噂に医学的な根拠は無いよ……。でも、民間で信じている者は多いんだ……。臭い肉が死病の原因だと考えられているから、臭いを消してくれる香辛料を万能薬扱いしている市井の者は多い」
「そんな……」
「事実はどうあれ『香辛料によって死病が防げる』という噂を鵜吞みにして、金に糸目を付けずに香辛料を買い求める者たちが多いのもあって、香辛料の高騰に歯止めがかからない」
「そうだったのね……」
「まぁ、薬効はともかく、肉の保存用として広まったのも分かるんだ……。今まで肉の保存には塩が多く用いられていたけど、塩は高い税金がかけられているからね」
塩は近隣諸国の、どこの国でも高い税金がかけられている。国の大きな税収の一つであるが、庶民にしてみれば、生活必需品であるから高い税金をかけられても、塩は購入せざるをえない。
そういえば、過去には重い塩税が原因で暴動が起き、一説にはそれがきっかけで滅亡した王家もあるという。王侯貴族にしてみれば、税収を大きくしたいから塩税をたくさん取りたいのであろうが、塩税が原因で大規模な暴動を起こされでもしたら本末転倒だ。矢張り、何事も程々が大事という事なのだろう。
「当初、香辛料はここまで高価な物では無かった。塩以外だと、後は酢漬けにする位しか肉の保存方法が無かったのが、香辛料のおかげで料理だけでも色んな可能性が広がった……。需要があるのは分かるんだけどね……。ここまで調味料の市場価格が、天井知らずに高騰するのはどうかと思ってしまうよ」
「……」
「個人的には香辛料のブームが、あまりにも凄すぎるから、それより発酵食品がもっと広まれば良いと思っているんだけどね……。ザワークラウトあたりは気軽に作れるから良いと思うんだが……」
「ザワークラウト……? 確かキャベツの発酵食品でしたっけ?」
過去に読んだ料理の本に書かれていた内容を思い出しながら聞けば、白鳥は大きく頷く。
「うん。その通り。あれは、簡単に作れて日持ちもするし、肉とかメインの付け合わせに良いからね……」
「そうなんですのね」
「発酵食品は個人の好き嫌いが分かれる物だけど、俺の国ではよく食べられているし、おすすめだよ」
「では今度、試してみる事にしますわ。発酵食品なら健康にも良さそうですし」
「うん。確かザワークラウトは健康に良いって言われてるよ。基本的に病気への対策は栄養バランスを考えて質の良い食事を取る事で、日頃から免疫力を高めておくのが最善だと思っているから、スパイスさえあれば病気対策になるという物でも無いんじゃないと思うんだ……」
「そうね……」
確かに、こちらに来てからバランスの良い食事をする事で、以前より健康になっている実感があるので、その言葉には頷けた。
「尤も香辛料を手に入れられる層というのは資産に余裕がある貴族など富裕層だろうから、そういう者たちは常日頃から平民より食生活が豊かで、栄養価が高い食事をとっている筈だ。長い航海で壊血病にかかる割合も上級士官ほど、壊血病にかかりにくいと統計で数字に出てるからね……」
「そうなの?」
「うん。長期航海中でも、上級士官は下士官よりバランスの取れた質の良い食事を取っている事を考慮すれば、やはり病気対策や健康な身体の維持を考える上で、食事の質は重要だと思うよ」
「……」
「まぁ、貴族は質の良い食生活のおかげで平民より免疫力が高く、病気に対する抵抗力が高くなって死亡リスクが低くなる……。それによって市井の者たちは、ますます『貴族は香辛料を使っているんだから、スパイスは、やはり薬だ』という噂の信憑性が高まっているのではないかと……」
「……」
「ああ、いや。これはあくまで個人的な憶測なんだけどね」
「いえ、筋が通ってるように思えますわ……」
地理や貿易の話から、伝染病や健康の話題にまで及び、アルヴィンの知識の広さ、見識の高さに感心しきりで、思わず舌を巻いてしまった。
私などは、本をたくさん読んだ事で、知識を得たつもりになっていたが、彼のように実際、社会で働いている人の方が、ずっと実用的な知識や見識を持っているのだろう。
以前、王立図書館の司書に『国で一番、図書館の本を読んでいる公爵令嬢』などと言われたが、そもそも図書館に興味が無い貴族令嬢が大半だったのだから、他の令嬢と比べたって意味は無かったのだ。
私は知らず知らずの内に、少なからず思い上がっていた部分があった事を恥じずにはいられない。これからは本だけでなく、人から直接、話を聞くことも大切にしないといけないと痛感した。私は少し肩を落として、理知的な瞳をした白鳥に呟く。
「さすが、見識が高いですわね……。私なんて、本で見たからって、何かと知ってるつもりになっていたけど、それが実際どんな物か分かってませんでしたわね。貴方と話して痛感しましたわ」
「いや、そんなに知っているという訳では無いよ……。俺が知ってる事なんて、仕事で携わってる分野と一般的な事くらいで。まぁ、母上が教育に熱心だったから、知識面では影響を受けたのかも知れないけど」
「良いお母様ですのね」
感心して微笑めば、白鳥は目をぱちくりした後、少し俯いてぽつぽつと語り出す。
「俺の母上は元々、兄上達の……。グルーテンドルスト国王子の教育係としてつけられた、家庭教師だったのもあって、実の息子の教育にも手を抜けないと思ったんだろうね……。幼かった頃は勉強が大変だと思った事もあったけど、仕事には何かと役立ったから、今は母上に感謝しているよ。もし教育を受けていなかったら、物の道理が分からないまま成長してしまったかも知れない訳だし」
「そうですわね……。私も貴族という身分だからこそ、学園にも通えたし、王立図書館の本を自由に閲覧できましたけど、この世界には学ぶ事や、本を読む事が難しい人々がたくさんいますものね」
私は貴族令嬢であると言う身分で図書館の本を自由に読めたが、実家が貧乏だった為、本来ならば多数の本に触れる事など望めないような立場だった。改めて、自分は公爵令嬢としては貧しいながらも、一般的に考えれば十分、恵まれていたんだと身に染みて分かる。
「何も知らないままでは生きていけない……。特に俺は行政官もやっていたからね。無知なまま、海千山千の王侯貴族や外交官、貿易商人とは渡り合えない」
「行政官を……。王侯貴族や外交官が、利権の為に動くのは分かるんですけど、王族を相手にしているような貿易商人もですの?」
「まぁ、基本的に安く仕入れて高く売って、利鞘を稼ぐのが良い商人だからね……。俺は顧客の側だったから、高く売りつけられる側だったという訳でね……。言われるまま、高値で物を買っていては良い鴨にされてしまう」
「……」
白鳥は軽く翼を上げ、肩をすくめるような仕草をした。白鳥の姿で『良い鴨』と言ったのは軽いジョークなのだろうか。私は目を丸くして少し戸惑った。
「貿易という物は需要と供給で成り立っている。ある人にとっては価値が無い物でも、他の人にとっては大いに価値があったりする。例えば、俺はコーヒーなんか苦くて飲めた物では無いから、俺にとってコーヒーは価値を見出すことが出来ない」
「あら」
「しかし、俺の兄上などは『程よい苦さと芳ばしい香りが良い』などと言って、わざわざ高いコーヒー豆を遠方から貿易商人に運ばせて買い求めている」
「コーヒー豆……」
「今思えば、ディートリヒ兄上にコーヒーを飲ませて虜にさせた、あの商人は実に商売上手だったな……。王族にコーヒーを売りつけるのに、まんまと成功して、上顧客を獲得した訳なんだから」
「確か、南方で収穫される、赤い実を収穫して作るという飲み物ですわね。原産地では薬として飲まれているとか」
「うん。飲めば目が覚めて爽やかな気分になれると言われていてね……。実際、飲んでみたら確かに目が覚めたけど苦すぎて、とても爽やかな気持になれなかったよ」
白鳥の目が死んでいる。どうやらコーヒーは彼の口に合わなかったようだ。
「好みが分かれる飲み物なのね……」
「あれを好んで飲む人の気持ちが分からないんだが、どうやら酒やタバコのように常習性がある嗜好品のようだね。一度、嵌まると病みつきになるようだ」
「常習性……」
「単純に商売の事を考えるなら、常習性の高い嗜好品というのは顧客のニーズがまず途切れないから、売り手としては喜ばしい商品ではあるんだけどね……」
「不特定多数の人々から継続購入が見込まれる商品というのは、市場価値がありますものね」
私の言葉にひとつ頷いて、白鳥は語り出す。
「コーヒー、タバコ、酒もそうだね。顧客のニーズというのは貿易に関わらず商売の基本とも言える事だが……。一応、国の産業や貿易に携わる仕事をしていたので、いかに高価格で自国の製品を他国に輸出し、他国の物をいかに安く輸入するか、また輸入したものを加工して、それを自国の製品とするかを考えてたんだけどね……」
「そういえば、グルーテンドルスト国では、ガラスや紙を作ってましたわよね?」
「ああ。保護した職人たちが良い腕をしているおかげで、高品質な硝子細工や上質な紙の開発が出来たんだ……。尤も上質紙の開発は、個人的な希望だったんだけど……」
「確か劣化しない紙の開発が行われているとか?」
以前、聞いた話を尋ねれば、白鳥は少し遠くを見つめるような目をしながら思案気な顔で答える。
「うん……。丈夫さを考えると、公式文章に使用されてるような羊皮紙が無難だけど、コスト面や時間を考慮すると、全ての紙を羊皮紙で賄う訳にはいかない……。かといって現在、市場に流通している安価な植物製紙だと、劣化が激しくて長期保存に問題があったからね」
「だから劣化しない新しい紙を開発したのね」
「そうなんだ。幸い腕の良い、紙職人が頑張ってくれてね。おかげで質の高い、手漉き紙を開発することが出来たんだ」
「手漉き紙……。グルーテンドルスト王家の紋章が透かしで入っていた……」
唇に指を当て以前、貰った書状を思い出しながら呟けば、白鳥は大きく頷いた。
「一応、王家の指示で作られてるからね。グルーテンドルスト王家の紋章を透かしで入れたんだ」
「私が頂いた書状に使われていた、純白の紙ですわよね。あの厚くて、なめらかな触り心地の……」
「うん。あれは公式文章用に作られた紙で、シルクのような滑らかな触り心地と、きめ細やかさから『絹目』と呼ばれている種類の紙なんだ」
「絹目……」
「他にも絵画用にザラザラとした荒い触り心地の紙もあって、そっちは『荒目』と名付けられている」
「絵画用の紙まで、すでに開発されているのね」
あんな高級紙が開発された事実だけでも凄い事なのに、それが複数種あるとは内心、かなり驚嘆していた。
「長期に渡って劣化しない紙に描かれた絵画なら、資産価値が出るって富裕層が買い求めるからね。需要はあると見込んでいるんだ。実際、すでに高級紙を試した、高名な画家からも絶賛されているから、市場に出回れば需要はあると思うよ」
「画家が……」
「紙が劣化しない為の対策として、紙に膠の溶液を染み込ませる処理を行っていたのが良かったらしくてね。たっぷり水を染み込ませても、紙へのダメージは殆ど無いし、絵の具の発色が良くなったって評判なんだ。インクの滲み止めにもなったし」
「すごい。そんな植物製の紙が」
膠と呼ばれるゼラチンは食用にもなるが、接着剤や糊としても使用されている。それを紙に染み込ませて耐久性を高めていたとは夢にも思っていなかった。私は驚きのあまり、唖然としてしまった。
「表面強度が強くて、ペンや筆などで擦っても毛羽立たない自慢の使い心地なんだ。何しろ『永遠に劣化しない紙』を目標に開発されたからね」
「永遠……」
「まぁ実際『永遠に劣化しない紙』にする為には、まだ改善の余地があるだろうけど、少なくとも数年で穴があくような、従来の植物製紙とは一線を画す物だと思ってる。何百年も保存可能な……。いや、完全に完成すれば、きっと何千年も劣化しない紙になるよ」
「何千年も劣化しない紙」
植物製紙といえば、ほんの数年か、せいぜい数十年で穴があいて劣化してしまう物というのが常識なのに、そんな夢のような紙が開発中とは想像だにしていなかった。途方もない話に思えて呆然としてしまう。
しかし、そんな長期間、劣化しない紙が大量生産されて流通すれば、すぐには無理でも、今よりたくさんの人が気軽に、本に接する事が出来るようになるに違いない。
「それは、本当に素晴らしいですわね……。羊皮紙よりも安価で、劣化に耐性がある植物製紙が流通すれば、誰もが本を読んだり出来ますものね」
「ああ」
私の言葉を聞いて、白鳥は嬉しそうに蒼い瞳を細めた。
部屋の中が、和やかな雰囲気になった時、遠くから轍の音が近づいて来るのに気付き、白鳥と共に窓の外に視線を向ければ屋敷の前に、見慣れぬ二頭立ての黒い馬車が停まっているのが見えた。
ちょうど玄関近くに居たのであろう、セバスティアンとミシェルが馬車に近づき、対応しているのが視認できる。
「客人かしら? こんな辺境の屋敷に……」
「ふむ」
馬車は少し前にジュリアが乗って来た物よりはグレードが落ちる物の、いかにも貴族が利用するような品のある型だ。はて、誰かしらと首を傾げていると馬車の扉が開かれた。そして、馬車から茶色い髪の貴族が降りて、自身のかけている銀縁眼鏡をクイと上げた。
「あの方は……」
「ヴァイスヒルシュ城で会った貴族だったな……。確か、ガランサス国から来たとか言っていた」
何故、この屋敷を訪ねて来たのかと、二人で少し驚いていると、慌ただしい靴音が廊下から聞こえ、私の部屋のドアが素早くノックされたかと思ったら、こちらの返事も待たずに、勢いよく開かれた。
白鳥であるアルヴィンがこの部屋に入った時から、ドアが少し開いていたとはいえ、何をそんなに急いでいるのかと傾げていた首をさらに傾げると、ドアを開けた金髪の麗人は、よっぽど急いで階段を駆け上がって来たのだろう。
肩で息を切らせて、美しいプラチナブロンドの髪を若干、乱れさせている。それに普段なら冷淡にも見えるアイスブルーの瞳に珍しく、動揺の色が見える。
「エリナ……!」
「どうしたのミシェル? そんなに顔色を変えて……。あの方、ヴァイスヒルシュ城でお会いした、フィサリス公爵よね? 何か御用なのかしら」
「第二王子だ……」
「は?」
意味が分からず、困惑しているとミシェルは息を整え、続ける。
「フィサリス公爵が……。川で、死にかけているディートリヒ王子を発見したと」
「!」
「王子は意識が無く、命の危険があるから、こちらの屋敷で救護して欲しいとフィサリス公爵が言っているんだ……」
務めて冷静に説明したミシェルの言を聞くや否や、私は白鳥を抱きかかえ、急ぎ階下に向かった。