第四十一話 「銀縁眼鏡の公爵は独り言ちる」
揺れる馬車の窓から外の景色を見やれば、遠くに人家らしき屋根が、針葉樹林の隙間から、ほんの少し見えた。ディートリヒ王子に会うという用事は済んだが、ヴァイスヒルシュ城で出会ったブランシュフルール公爵令嬢に図書館の話を聞き、目的地であるファムカ国王立図書館を目指していた。
馬車に揺られながら読み終わった手元の本を撫でる。今回の報酬として貰った本だ。かなりの厚さで近隣の童話など、相当数が収録されていると聞き、興味津々で受け取ったのだが、残念ながら全て知っている話ばかりだった。溜息を吐きながら自身の銀縁眼鏡をクイと上げる。
「昔、読んだ事がある作品でも、年数が経ってから改めて読めば新たな発見がありますし、それはそれで面白いものですが、私としては既定概念に囚われない、革新的な新作とか読みたいんですよねぇ……」
「ダリオン様。こちらは作家の数が少ないのでしょうか?」
馬車内の向かいの座席に座っている、レオと言う名の小柄な従者が、胡桃色の髪を揺らし、飴色の瞳を向け疑問を口にする。私は顎を触りながら所見を述べた。
「いや、作家の数というよりも、むしろ紙とインクの劣化が最大の問題ですねぇ」
「経年劣化に弱く、穴があいて読めない本が多いのは、勿体ないと前から仰ってましたよね」
「そうなのですよ。私が読む前に、劣化して読めなくなる本が多いのでは話にならない」
以前、市井で評判の演劇を披露しているという平民が書いた脚本を入手したが、本を開いてみればインクで書かれた黒い文字部分は、ほとんど穴があいており悲惨な状態だった。あの時のショックと落胆は筆舌に尽くし難い。
「しかし、劣化しにくい羊皮紙は、庶民が気軽に手を出せるような値段では無いですよね」
「残念ながら、現状はその通りです。早く、劣化対策が為されたインクと紙が普及しないと……」
「あと、そういう紙やインクが出来たとして、平民も買い求められるような安価じゃないと、庶民の手に行き渡らないですね」
「全く……。これは人類の叡智を集めて、早急に対処すべき由々しき問題ですねぇ」
そもそも公爵たる私が、この国に呼ばれて依頼を引き受けたのには理由がある。その理由とは勿論、本である。近隣諸国の童話や物語を収録したという、この貴重な本を交渉道具に使われ、取引に応じたのは仕事の成功の可否に関わらず、この本や他の希少本を譲り渡すという確約を貰ったからだ。
本来なら、そのような交渉には乗らないのだが、良い機会であるから、ついでにこの地域の本を収集しようと思ったのと同時に、私を呼び出した者が、あの伯爵と関わっていると知り興味もわいた。
気まぐれに事態の推移を見物してやろうかと思っていたが、隣国に蔵書数の豊富な王立図書館があると聞き、居ても立ってもいられず、依頼の報告はアリアに任せて噂の王立図書館へ向かっていたのだ。
第二王子がアリアを見て、微塵も心を奪われなかったというのには内心驚いたが、まぁ個人的には、どうでも良い事である。
馬車に揺られていると前の馭者台から「あれは……」と僅かに声が聞こえた。何事かと、馬車の中から外の景色を見渡し、次に眼下の清流に目を向けると、複数の漂流物が目についた。
「ん?」
自身の銀縁眼鏡をクイと上げ、目を凝らすと、流れているのは馬車の残骸であろう木片に、馬の死骸や人間の遺体が流れているのが見えた。
馬車を止めさせ、漂流物を確認すべく、川沿いまで降りてみれば、漂流物が流れ着いている所に、顔色を失った金髪の人間が岩に引っかかっているのが見えた。
従者のレオと共に、上流から流されて来たのであろう人物の近くまで寄って観察する。水に濡れ、べったりと顔に張り付いていた金色の髪の毛を指で上げれば、白皙の美貌が露わになる。
「驚きましたねぇ。ディートリヒ王子ではありませんか……」
「え! 王子なのですか!?」
飴色の瞳を大きく見開いて、驚く従者を横目に呟く。
「もう二度と会うことも無いと思っていたのですが……」
「盗賊にでも襲われたんでしょうか?」
「さて、どうでしょう? まぁ、王族ともなると敵が多いでしょうからねぇ……」
上流で川に落ちたのだろうが、この川は下流になるにつれ、幾重にも枝分かれしている上、流れも速い。護衛たちも川に吞まれた王子を見失ったのだろうと見当をつける。従者のレオが、血の気を失ったディートリヒ王子の首元に手を当て呟く。
「ああ、まだ脈がありますね」
「ふむ、運が良いと言うべきでしょう……。しかし、こうも身体が冷え切っているのは良くないでしょうね」
川に流された時に傷ついたのであろう。全身に裂傷があると同時に、冷たい水に浸かっていたことで低体温症を起こしていると考えられる。
「ダリオン様、如何いたしますか?」
「まぁ仮にも、知り合いになったばかりの方を見殺しにしたのでは、きっと『人でなし』と言われてしまいますよね……。一先ず、川から引き上げるとしましょう」
「はい」
「尤もディートリヒ王子の命が、助かるかどうかまでは保証しかねますがね……」
どれだけの時間、冷たい水に浸かっていたのか……。また川を流れている間、どれほど身体にダメージを負ったのか把握できない以上、楽観視は全く出来ない。冷静に考えていると小首を傾げ、胡桃色の髪を揺らした従者が、飴色の瞳をこちらに向け尋ねる。
「先ほど、遠方に人家らしき屋根が見えました。そちらに運んで救護の要請をいたしますか?」
「ふむ。それが良いでしょうね」
小柄な従者と共に、意識を失っている王子を川から引き上げ、独り言ちる。
「さて、この『王子を助ける』という行為は、因果律に干渉する事になるのでしょうか?」