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第三十七話 「第二王子の回想」

 弟のアルヴィンが突如、行方知れずとなった。いつもなら執務室で仕事をしている筈の時間、アルヴィンの婚約を聞きつけて訪ねたジュリアが置き手紙を発見し、アルヴィンの姿が見えないと父王や妃の前で涙ながらに語った。


 俺もアルヴィンが執務室の机に書き残したという、置き手紙を見せてもらったが、一目で違和感を感じた。アルヴィンが愛用しているのは漆黒のインク……。イカ墨のインクを愛用している筈だ。


 しかし、この置き手紙とやらに使われているインクは薄い黒紫色。没食子インクだ。かつてのアルヴィンが国内産業推進業務に、着手し始めた頃の言葉を思い出す……。



「兄上は何のインクをお使いになっていますか?」


「ん? 俺は普通に没食子インクを使っているぞ」


「ああ、矢張りそうですか……」


「何なんだ。急に?」


 俺が訝しげに問えば、アルヴィンは深い蒼玉色の瞳を輝かせ、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑みをこぼす。


「実は没食子インクより、個人的にお勧めのインクがあるんです!」


「?」


「イカ墨のインクです!」


 満面の笑みで答える弟に、俺は若干、呆れた。


「イカ墨? 何でまた……? 没食子インクで良いではないか?」


「兄上……。没食子インクでは紙へのダメージが大きく、長期保存が難しいのは兄上もご存じでしょう?」


「む……。確かにそうだな」



 鉄の化学反応により作られる、没食子インクで紙に文字を書き長期間、放置しておけば、書かれた文字部分に穴が空いてしまう事があるのを思い出す。


 おかげで古い文献の文字は、虫に食われたように穴が空いている場合があって、普通の紙に没食子インクで書かれた書物は、長期保存が難しいと言われている。


 丈夫な羊皮紙なら、まだ耐久性があるが、すべての書物を羊皮紙で作るのは、コストがかかり過ぎて実質、不可能なのが現状だ。



「ですが、イカ墨のインクなら、没食子インクほど紙を傷めないのです」


「ほぉ……。そうなのか? よく調べたな」


 そのような話は初耳だったので、感心していると弟は微笑する。


「はい……。実は内陸部から届けられた昔の報告書は、穴が空いている物が多かったのですが、沿岸部から届けられた報告書は、インクによる紙の劣化がほとんど無い事に気づいたんです」


「なるほど。そこから調べたのか……。しかし、イカ……」


 魚介類のような生物を、あえてインクとして使うのは気が進まず、思わず顔を顰めていると、弟は俺の考えを見透かしたように苦笑した。


「兄上……。もし匂いなどを気にしているなら、ご安心下さい。適切な加工処理をすれば、匂いを押さえる事が可能です」


「そうなのか? それなら一度、使ってみるか」


「ええ。是非……。俺はすでにイカ墨のインクしか使ってないのですよ。書き心地もなめらかで良いですし、インクの濃さも簡単に調整する事が可能です。俺は濃い漆黒で書くのが好みなのですが」


「ほぅ」


「兄上に一瓶、お持ちしましたので、試しにお使い下さい」


「用意が良いな……。では試させてもらおう」



 国内産業推進の業務に携わっている弟の事だから、このインクを王室御用達の商品として、新たに売り出す事も視野に入れているのかも知れない。苦笑しながらガラス瓶に入れられた、イカ墨のインクを受け取った。



 以前、パーティの際、アルヴィンから「開発中のガラス製品の中から厳選した、品質の高い赤ガラスを『レッドクリスタル』と名付けて、装飾品にしてみました。兄上も良かったらどうぞ!」と手渡された装飾品は確かに、よく出来ていたので感心した。折角だからと、すぐにつけてそのまま過ごした。


 後日、パーティに訪れていた貴族と、口コミで噂を聞きつけた者達から、アルヴィンの元に問い合わせと注文が殺到したらしく「あれからレッドクリスタルが大流行しています! これも全て兄上のおかげです!」とホクホク顔で、報告された時は言葉を失った……。


 元を正せば、ガラスである物を「クリスタル」と名付けて高価な宝石に準ずる価値があるように思わせつつ、品質の高い物なので、王子も愛用していると信頼性を高めながら、王族御用達という付加価値もつけて、本来の相場よりも高く貴族達に売りつけているのだ。


 購入を希望している貴族にしてみれば、宝石ほど高額では無いし、見栄えのする装飾品が手頃な値段で買えるのだから『レッドクリスタル』は大変、魅力的と聞き、我が弟ながらアレの目の付け所には恐れ入ると思ったものだ……。




 ともあれ、アルヴィンから受け取ったインクに関しては確かに、ニオイも然程、気にならないし、書き味もなめらかで使い勝手が良かった。


 紙へのダメージが無いのなら、今後は没食子インクでなく、全面的にイカ墨のインクに切り替える方が良いと自然に思える。特に重要書類を扱う機会が多い、王侯貴族や役人は……。




 城の回廊をカツカツと靴音を鳴らしながら足早に歩きつつ、過去の記憶を回想し、確信する。そう、アルヴィンは「すでにイカ墨のインクしか使ってない」と話していた。


 まして重要書類を扱う機会が多い執務室でなら尚更、没食子インクよりも、イカ墨のインクを置いて使用している筈なのだ。


 階段を上り、最後にアルヴィンが最後に居たという執務室に入れば、バルコニーに続くガラス窓は無残に砕け散っており、清掃担当の召使いが慌ただしくガラスの破片を片づけている。



「これは……」


「あ、殿下……。こちらはまだ清掃の途中ですので……」


 召使いが清掃するのを、黒髪の従僕が指示していたが、俺を見ると慌てて執務室への侵入を止めようとする。しかし、構わず入室してバルコニーの様子を間近で見た。白大理石で造られたバルコニーの床には、黒い塗料が拭われた痕跡が残っている。


「この黒い染みは……。インクか?」


「はい。インク瓶がバルコニーに投げられておりまして……。先ほど、清掃担当の召使いが拭ったのですが……」



 執務室にイカ墨のインクが残っていれば、あの手紙は執務室に無いはずの、没食子インクで書かれているからおかしいと指摘しようと思っていたのだが、肝心のインクがすでに残っていないのでは話にならない。


 アルヴィン以外でインクに対して、こだわりを持っている者も、まず居ないだろうから、普段使っているのとインクが違うと言っても、よく分からず、理解を得るのは難しいだろう。


 あの、いかにも胡散臭い、置き手紙を発見したというジュリアが怪しいと思っていたが、行方知れずになったアルヴィンを心配する気持ちは本物だった。毎日、熱心に王子捜索の報を聞き、アルヴィンの無事を祈り続けている。



 

「ジュリアでも無いとすれば、手紙の通り、アルヴィンが自発的に消えた可能性を考えてみるか……」


 しかし、アレの性格上、自分が進めている仕事を途中で放り出し、直接会ったことも無い婚約者に心を傷つけられたなどと言う、ふざけた理由で行方をくらますとも思えない。となると思い出すのは、今回の件より以前に姿を消した、公妾である俺の母親、ヘレネについてだった。


「あれも今回と同様に、忽然と姿を消したのだったな……。しかもその後の音沙汰が全く無い」


 父王が機転を利かせて……。というか半ば無理矢理、行方不明になったのは公妾でなく、元公妾という事にした為、大事にはなっていないが、公妾ヘレネが親しくしていた貴族の手引きで出奔したと噂が立ち、公妾の父親である宰相が醜聞に耐え兼ね、宰相職を辞任し、引退した。


 宰相を引きずり降ろしたかった政敵、もともと評判の良くない公妾を快く思っていなかった貴族。陥れたい動機を持つ者はいくらでも居るだろう。しかし、何の痕跡も無いというのは、おかしい。



「とにかく、手掛かりが無さすぎるな。特にアルヴィンに関しては行方知れずになる動機が、あまりにも希薄に思える……」


 その後、アルヴィンが行方知れずになった当日、執務室の清掃指示を出していた、黒髪の従僕がジュリアに命令されるまま、ファムカ国の学園まで随従したのだと耳に挟み、その従僕を居室に呼んで、話を聞いた。黒髪の従僕は肩を落としながら口を開く。



「アルヴィン殿下の婚約者であられる、ブランシュフルール公爵令嬢は、寝耳に水と言った様子で完全に困惑されていました……」


「まぁ、そうであろうな」



 公爵令嬢に心を傷つけられたから旅に出るなど、明らかに一番悪いのは、婚約者である公爵令嬢であると指摘する置き手紙を残しているのだから、手紙が捏造されたと仮定した場合、最も犯行の動機から遠いのがブランシュフルール公爵令嬢だろう。あの手紙によって公爵令嬢の評判が大きく失墜するのだから。


 それにしても自分が通っている学園にまで押しかけられた上、他国の王子を蔑ろにしたと糾弾されるとは、ブランシュフルール公爵令嬢は今後、さぞ肩身の狭い思いをするだろう。尤も会った事も無い公爵令嬢より、俺にとっては身近な人の方が遥かに大切なのだが……。


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