第一話 しのぶれど
こっそりお腐りあそばされる同志諸君でないとわからない部分が多々あるかもしれません。
共に生きましょう。
――傷ついたら負けだぞ――
ニック ズートピアより
そうは言っても世の中、傷つくことは多々ある。
例えば、楽しいお出かけの支度中に、クローゼットの奥に見つけたクッキーの空き箱を開けて、五歳の自分からの手紙を発見すること、とか。
「わたしはしょうらいケーキやさんになって みんなにおいしいケーキをつくります。それで キラくんみたいなイケめんとけっこんして こどもをふたりうみます。なので がんばってください。よろしくおねがいします」という五歳児にして他力本願の姿勢を覗かせる手紙を書いた五歳の自分は、まさに二十五歳の私の話なんてとても信じてくれないだろう。
私は平仮名だらけの読みづらい手紙を指先でつまんで持ち上げる。長時間持ってたら爆発するか、毒じゃない、綺麗でもっと強力な何かに侵食される。そう確信して、力の限りハートの形に折られていたせいで無数の折り目がついてしまったメモ帳を、夏のボーナスが変身したローテーブルの上にそっと置いた。実際の所、今の私はセンチな気分に浸るにはやや刺激的な格好が過ぎた。ネトゲの初期装備みたいな頼りない下着姿のまま、夏服を仕舞っていたプラスチックの衣装ケースを引っ張り出す。カラフルな薄い生地を、ああでもないこうでもないと物色した。土曜の夜に二十五歳の女が着ても不自然じゃなくて、無理してもいない服を探すのはいつだってたっぷり時間がかかる。
十数分後に、新宿だし飲み会だしと自分を勇気づけて、どうにか濃い青のシンプルなシャツにストライプの白いパンツに身体を押し込んだ。黒と白の、封筒みたいなデザインのクラッチバッグも持つ。立ちたくもない姿見の前に立って、髪の毛をアップにした方がバランスが良いことに気付き、一ヶ月前にかけたパーマがとれかけてごわごわの髪と格闘する。ショックな手紙が届いた日ぐらい、見た目だけでもデキル女を気取りたかった。傷つかないための装備。私はダメ押しで、実家のお母さんに見られたら爆笑されそうな丸眼鏡までかけた。
ミクニとの約束の時間までは五分を切っていた。表向きは徒歩七分、本当は徒歩十分のアパートに住んでいたら絶対に間に合わないことぐらい、五歳の私にでもわかることだ。でも今日の私には魔法の切り札があるから大丈夫。LINEを送る傍ら、目につくくしゃくしゃのメモ用紙にびっと指を突き付けた。
「いい、二十年後のあんたはね、ケーキ屋さんじゃなくてしがない医療事務だし、結婚してないし子どももいないってか彼氏もいない」
ざまぁみろ、とメッセージを送信して、どうにも高ぶった感情のままにメモ用紙を拾った。一度解いたら二度と折れないハート型。私はもう折り方を忘れてしまった。どこまでも憎たらしい子だと思いながら、適当に畳んでクラッチバッグの奥、ハンカチの下に埋葬する。さっきと比べて小さな声だけど、捨て台詞も忘れない。
「そんで、キラくんは旦那じゃなくて嫁になるから。アザリ少佐の」
五歳の純粋な私はきっと首を傾げる。その瞳が、本当はちょっと怖い。
**
「昔の自分に殺されかけた」
「五歳のアヤちゃん、ナイス」
腕組みをしてスマホでアプリの操作を中断したミクニは、じゃなきゃ私が殺してた、と。ひひっと八重歯を覗かせて笑った。本当は一ミリも怒っていないのに怒っているフリをする。ミクニはそういう女だった。小柄なくせに、今まで見たどんな女より頑固で、したたかで、時折何の躊躇いもなく、笑ってしまうぐらい強烈な毒を吐く。今日だって魔法の切り札「そういえば巷で噂の狐と兎のやつ見たよ!」が無かったら本当に危なかった。同い年には見えない童顔に良く似合う丸襟ブラウスと、ミモレ丈のビビットなイエローのスカートが、人の多い駅でも有難いぐらい目立っていたおかげで小柄な彼女をすぐ見つけられた。前を歩く丸い頭のボブカットが、今日も一糸乱れず内巻きで美しく太陽光を反射する。それこそ私にとっては魔法のように。
「ロリアヤちゃん、なんて?」
「キラくんみたいなイケメンと結婚してくださいって」
「ふはっ」
無理じゃん。電車内でどこにも捕まらず、器用にバランスをとりながらミクニが笑う。そうして形の良い唇だけを動かして、小声で続けた。
「だってキラくんアザリ少佐の旦那になるからね」
「いや嫁だから」
迷いのない大きなうすいこげ茶の目で言い切られたとしても、例え傷ついたら負けだとしても。二十五年も生きれば譲れないことも一つ二つどころじゃなく、ある。ミクニは意地悪いリスのような可愛い顔で微笑んだ。そうして言う。異文化でも受け入れるよ。五歳児じゃないからねぇ、と。私は思わず吹き出して、ミクニはそれを見て、にひひとお行儀よく並んだ白く小さな歯を見せて得意そうに笑う。これだから、私たちは見た目も性格も全然違うのに、こうしてうまくやっている。
「アヤちゃん、チナミちゃん」
待ち合わせにしたファミレスに行くと、店員さんに何か言うよりも早く、オリちゃんが手を振っているのが見えた。しまりのない、パンケーキの熱で溶けたバニラアイスみたいな甘く頼りない笑顔が、私たちの名前を呼ぶ。オリちゃんはいついかなる時でも私たちのことをちゃん付けで呼ぶのだった。
私はこれまでの人生でよく、気の強そうな顔だね、と。悲しい誤解を受ける損な顔立ちだ。そして今隣に立っている、ミクニチナミという、嘘みたいな名前の顔だけが可愛い女は表紙詐欺もいいところの、一筋縄ではいかない女だ。
つまり私たち二人は、人生で「ちゃん付け」で呼ばれたことがほとんどない可哀想な女達なのだ。
「オリちゃんおひさ~!」
「って言ってもついったーではほぼ毎日絡んでたけどね」
「うん、久しぶり。私、アヤちゃんとチナミちゃんにすごく会いたかった!」
オリちゃんに呼ばれるのが好きだった。改めて聞いたことはないけど、ミクニもきっとそうだろうと思う。世間とは別の時間軸で生きてそうなオリちゃんの、誰も傷つけない口から自分の名前が呼ばれると、私は平凡な自分の名前が特別になったように感じるのだった。
「で、ナナセ姐さんは?」
「それが、わかんないの。私が起きたらもう居なかったから」
「なんでルームシェアしててわからないの!?」
「うーん、そうだよねぇ。でもここの所、顔も合わせてなくて。ほらナナセちゃん、社畜だから」
「最後で急に辛辣になるのやめて」
ミクニが大きな口を開けて、げらげら笑う。どうもオリちゃんの天然具合はミクニの決して浅くないツボを的確に撃ち抜くらしく、オリちゃんと会話する時のミクニは毒を吐くよりも笑わさせられていることの方が多かった。それこそ色素の薄い色白の頬が赤くなるまで、オリちゃんは勘弁してくれない。のほほんとしているように見えて、案外鬼畜なスナイパーなのだ。
「まぁお決まりのパターンってことで。もう少し待とうか」
「そうだね。日曜日だし、電車混んでるのかも」
「オリちゃんあのね、今日ね土曜日……もうやめて……」
「えっ、あっ、そっか! もうすぐ海の日だもんね!」
「意味わかんない勘弁……ほんと勘弁……」
「ごめんねチナミちゃん……」
「オリちゃん大丈夫謝らなくていいよ。そのままでいてね……」
「うん? わかった。あっ、そう言えばね、」
オリちゃんが、ぱっと顔を輝かせた。茶色の六番。接客業の人が茶髪にする限界の明るさに染められたロングのたっぷりとした髪が跳ねる。ただオリちゃんは接客業でもなんでもない。
「アヤちゃんの新作読んだの!」
ミクニはやっと狙撃から逃れたらしく、目元のアイラインを花の形のスライド式手鏡で見ながら細い指で直していた。私は口に含んだ氷の多い水を慌てて飲み下す。ありがとう、と。軽く流そうと思った言葉は無様にもつれて、混み始めたファミレスの喧騒にかき消された。
「あのね、本当に凄かった! 私、少佐の気持ちになって泣いたからね!」
「実を言うと私も読んだんだよねぇ。逆カプなのに。ねぇねぇ逆カプなのに」
「神絵師ミクニーさんは黙ってて」
「チナミちゃんの絵も見たよ! 相変わらず凄いなぁって、色遣いがねこの前見た夕焼けの色そのままでね」
「へへ。あざーす!」
「ちょっと、今私が褒められてるターンなんだからミクニーさん引っ込んでて」
「オリちゃんのお褒めの言葉を独り占めするだなんて、許されることだろうか。いや許されない」
「じゃあ順番に言うね。まずアヤちゃんのね、私アヤちゃんの言葉選びが本当に好きでね、特にこの文、ここ! 『彼は守られるべき姿で微笑んだ。布一枚を隔てて酷く曖昧で、確かな鼓動だけが胸を打つ。私は彼を愛していた。それだけ、それだけが唯一だった』もうね、胸がいっぱいになるの、スタオベ。ありがとうアヤちゃん。お礼言わせて」
オリちゃんが深々と頭を下げた。こっちが土下座したいぐらいだと言うのに。
「それでね、チナミちゃんはね、いつもびっくりするような色で塗るでしょ。あっ褒めてるんだよ! どうしてここにこの色を塗ろうと思ったんだろうって感心するの。いつも、本当にいつも。それで、その絵と線がまた合ってるの。最初からその組み合わせしかなかったんだな、って思うぐらい、一度見ちゃうと、もうそれしか考えられないの」
小声で、それでも頬を赤らめてスマホの画面を見せながら、熱心に感想を伝えてくれるオリちゃんにたっぷり甘やかされ、ミクニと二人でにやにやしていると、床を足早に歩くヒールの音が聞こえる。ナナセだ。あたしがヒールのない靴を履くのは登山の時だけだよ! 根は真面目な、良く通る声が現実のファミレスでぴったり重なる。
「ごめん! 普通に仕事だった!」
「やっぱり。お疲れちゃん」
「ナナセちゃん、ご飯食べた?」
「よく上がれたね、日にちずらしても良かったのに」
「ご飯まだ。もう骨になりそうだよオリちゃん。ほんでアヤ坊、冗談でしょ」
二週間に一度の人生の楽しみを奪うっての? 仕事終わりに着替えてきたのだろう。ひらひら袖が揺れるオフショルダーの薄いトップスとジーンズのシンプルなコーデから、シャネルが香った。ナナセお気に入りの香りの名前は『チャンス』。いつだって、ぴったりだと思う。後れ毛すらチャンスに変える底なしの体力を持つ女。私とミクニ、そしてオリちゃんより二つ年上のナナセは、オリちゃんが待ち合わせ前に食べていたガトーショコラの伝票を持って、一番後に来たくせに一番前を自信満々に歩いてレジに行った。遠ざかるヒールの音に、オリちゃんが慌てて、高校入試に出て来そうな台形の、柔らかいグリーンのバッグを掴んでから追いかける。
私とミクニは、目で頷きあってから、少し笑ってレジに並ぶジミーチュウの真っ赤なヒールと、雑貨屋さんに売っていそうなぺたんこの靴を追いかけた。
*
「あっはははは!」
「ちょっとナナセ先輩。笑い過ぎでは?」
「だって! 見てよチナミール! この、アヤ坊の手紙、五歳にしてこの他力本願な感じ!」
「ナナセール、私もう百回読んだからだいじょうぶー」
「ちょっとセールて! 安売りしてるわけじゃないんだから!」
「そうだよ。ナナセちゃん、ブランド大好きだもんね!」
「オリちゃん、さっきも言ったけどそのままでいてね……」
「そうよーオリちゃん。ああでも唯一、このあたし、あたしが、エルメスのバッグより好きなものを挙げるとしたら」
ナナセがモヒートをからころ揺らせて、声を潜める。私たちは個室の居酒屋で、思わず頭を寄せた。
「武骨な軍人と、線の細い生意気な王子のホモ」
「っっっキラ君じゃん!!!!!!!!」
「アザリ少佐じゃん!!!!!!!!!!!」
「ナナセちゃん! 私もそれ好き!」
「オリちゃん気が合うねー結婚する? ってもう一緒に住んでたねー!!!!」
同時に机に伏せた私とミクニは、酒の力も相まって普段は絶対に出さない、普通の声のボリュームでここぞとばかりに溢れる想いを吐き出す。私たちは残念なことに、二人揃ってビール二杯でふらふらになれる。
「ってか今週のやつ見た?」
「見た」
「キラ君の嫁力極まり過ぎ」
「は? 脳みそアルコール漬けなの? 嫁力高いのはアザリ少佐だから」
「待って聞き捨てならない」
「少佐は攻め過ぎて受け」
「名言メーカーなの?」
「この会話、ついったでそのまんましてたよね」
「しー。オリちゃん、我々隠れオタクにとって何よりの至福はね、熱い想いを気兼ねなく口に出すことなの」
ふわふわと頭上を飛び交うオリちゃんとナナセの会話を遠くで聞きながら、心の底から思った。
ああ、私生きてる。
左手で、五歳の自分を握り潰した。二度と折れないハート型は、私の大きめの手のひらで無残に潰れる。だけどちっとも惜しくなかった。
「五歳のアヤちゃんもまさか二十年後の自分が、再放送されたキラ君に順調にドハマりしてるなんて夢にも思わないだろうね」
「それな」
あの頃の自分と今の自分では、同じものを見ているはずなのに全く見え方が違う。不思議な、考えれば考えるほど傷つく不思議な話だ。とっくに負けは確定している。なのにやめられない止まれない。止まりたくない。だって私、この曖昧な世で自信を持って好きだと言える。唯一。
「ねぇみんなあ」
「アヤ坊出来上がってるねぇ」
「かわいいね」
「こんな酔っ払い逆カプ神文字書きよりさ、オリちゃんの方がずっと可愛いよ」
「ミクニ黙って」
「なになに、アヤ坊なに言いかけたの」
「あーそうだ。わたしねぇ」
なんだっけ、と、回らない頭で一瞬考えて、顔を上げる。焦点も合わないし呂律も回らない。それでも言いたいことが、二十五歳の私にはあった。
「わたし、ほもがすきぃ」
「知ってるー」
「私もだよ」
「吐け吐け。アヤ坊、二週間の擬態を解きな」
「わたしはほもをあいしてるの。それだけ、それだけがゆいいつなの」
「あっ! 私の好きな文!」
「これ明日死にたくなるやつだ進研ゼミで見た! ムービー録ろう」
「チナミさん、さっきからずっと自撮りしてるよ」
「ほもがすきぃぃ」
おおっぴらに言えない好きを、好きと言うのは幸せだった。
これから始まるのは、それだけが唯一の、私たちの話だ。
五歳の自分に謝って、傷ついて負けながらも、私の人生は続く。ずっとずっとだ。
少しでも哀れに思ったら、街で見かけるタイプのバラバラな四人の女に優しくして欲しい。
その子達にはきっと、居酒屋の個室でしか堂々と吐くことの出来ないタイプの秘密がある。
楽しかったです。
なろうの勝手が全く分かっていないので、何か不届きなことをしていましたら教えて下さい。よろしくお願いします。誤字とか後で直します。