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シャルレーヌ

 ───魂と交換に、人の願いを叶えてくれる悪魔がいると言う。


 お茶会で令嬢たちが談笑する話題の中に、そんな眉唾ものの噂があった。金の卵を産むニワトリがいるだとか、人魚の住む海があるだとか、いくつもあるメルヘンチックな話題の一つだ。


 シャルレーヌ・ダンテスがどうして今、そんな腹の足しにもならない話を思い出したかというと、何もかもがどうでも良くなっていたからだった。


 魂?くれてやる。こんな人生に意味なんてないし、どうせ来世だってバッタかムカデになるの。そうに決まっている。願いなんて叶えてくれなくていいから、ここで終わらせてほしいわ。


 完全なる自暴自棄だが、シャルレーヌは自分で気が付いていなかった。着飾ったドレスが藪に引っかかって破れようと、靴が泥にはまって汚れようと、構いもせず歩き通した。結い上げられていた髪はほつれて草や葉っぱが絡みついていた。


 シャルレーヌの歩く森は、陽も落ちて久しい。暗い森の中を彷徨うなんて初めての経験だが、悪魔がいると噂されている森の中をめちゃくちゃに歩いていた。

 彼女が下草を踏み荒らす音以外には、不気味に静まり返っている。全てが寝静まっているかのような空間に、シャルレーヌが冷静だったならば違和感を感じることができたかもしれない。


 しかし、シャルレーヌはただ機械的に足だけを動かしていた。

 このまま体力の限界まで歩き続けて野垂れ死ぬ。

 もしくは足を踏み外して崖から転落して死ぬ。

 空腹な獣に襲われて、彼らの血肉となるなんてどう?どれがお好み?

 なんて、消えては浮かぶ情景に、恐怖は微塵も感じていない。


 シャルレーヌの心にあるのは兎角「どうでもいい」という人生に対する投げやり感だった。





 シャルレーヌが見捨てた彼女の人生は、さして酷いものであったわけではない。

 子爵家に生まれた彼女は、薄命だったが美しい母の遺伝子を全力で受け継いで、誰もが褒めそやす美少女であった。

 燐灰石色の瞳は、光の加減によって蒼にも翠にも輝き、人々を魅了した。成長する度、穏やかなアイボリー色の髪が絹のようにその小さな顔を彩った。

 社交界にデビューをすると、その美しさから、様々な貴公子から声をかけられるようになった。その中の一人、アイゼン侯爵嫡男オディロン・ドルーと舞踏会でダンスを重ねるうちに親密になり─────


 そこまでは良かった。少し強引なところがあったが、なにせオディロンは令嬢ならだれもが溜息を漏らす美貌をもっていたので、そんな彼に言い寄られて悪い気はしない。令嬢たちとのお茶会で飛び交うようなロマンスのある噂話に、シャルレーヌも憧れていたのだ。

 社交界へデビューするまで、男性と言えば父親と兄と、屋敷にいる老いた執事しか知らなかったシャルレーヌにとって、オディロンとの邂逅は新境地であった。


 だから、我慢した。

 手紙に返事を返してくれないことも。

 シャルレーヌに賛辞を贈ると見せて、他の令嬢を貶める言葉も。

 周りに見せびらかすように、何度もダンスに引っ張り出されることも。

 休憩と称して、暗いバラ園に連れて行かれ婚前の貞淑な体をまさぐられることも。

 かと思えば、夜会で別の令嬢とこっそり暗闇へ消えていく姿も。


 初めは些細なことで、「そういう駆け引き」「新しい刺激」と受け取っていたシャルレーヌも、だんだんと「あれ?なんかロマンスとほど遠い」と思い始める。公の場では貴公子然としているくせに、オディロンの中身は全然高貴でないのだ。内容が内容なだけに、自分が叱責されるのを恐れて、シャルレーヌは父にも兄にも相談できなかった。


 釈然としない気持ちのまま、とんとん拍子にオディロンとの縁談が決まってしまう。

 周りは「なんてお似合いの美男美女だろう」と口々に言った。


 その折、父が倒れた。兄が家督を継ぐことになっていたが、急なことで家が慌ただしくなった。

 父の「死ぬ前にシャルレーヌの花嫁姿が見たい」という縁起でもない言葉によって、ハイスピードで結婚へ向けて話は進められていく。母は病弱で兄妹が幼い頃に亡くなっているので、鶴の一声だった。

 シャルレーヌはそれを他人事のように見ながら、お父様が喜んでくれるなら、と自分を納得させようとした。


 ほんの、挨拶のはずだった。

 郊外にあるアイゼン侯爵の別邸を訪れてオディロンと会った。

 兄に付いて来てもらう予定だったが、父の仕事を代わって馬車馬のように働く彼に、許す体はなかった。


 オディロンはメイド達を下がらせて、シャルレーヌと二人きりにさせた。


 なぜ、と思ったときにはもう遅い。

 婚約者とはいえ、婚前に一部屋に男女が二人きりになるなど、あってはいけなかった。


 気が付いたら、オディロンにソファへ押し倒されていた。

 白い首筋に舌を這われる。

 遠慮のない手がスカートのパニエの中に滑り込んでくる。

 夜会でも隠れて度々あったことなので、シャルレーヌは身じろぎするだけで今更拒絶を表すことができなかった。


 それに気を良くしたのか、オディロンはパニエをひっくり返した。鳥かごのようなパニエが、表のドレス生地もろとも、力任せにシャルレーヌに覆い被さった。息苦しく、やめて欲しくてオディロンの名を呼ぶが、無視された。

 夜会ではねっとりと肌に触れるだけなのに、いつもと違うオディロンの様子に恐怖が芽生えてくる。

 下半身を掴まれ転がされ、オディロンの前に下着を穿いた尻だけを突き出す格好になってしまう。

 恥ずかしさと、彼が何をしたいのかわからなくて起き上がろうと試みるが、彼女自身が纏うドレスの裾は頭まで絡みついていて、僅かにもぞもぞ動くだけだ。


 オディロンが、シャルレーヌの名を呼んだ。

 会話をする気があることにホッとして、こんな現状でシャルレーヌは気を緩ませた。

 そこに、突然下着を半分下ろされる。そしてとろりとしたものを垂らされた。


 熱い!


 あろうことか、オディロンはシャルレーヌの突き出た尻に熱い蝋を垂らしたのだ。

 ゆっくりと肌を滑っていく蝋の熱さに、シャルレーヌは愕然と身体を震わせた。何か叫び声を上げたかもしれない。でも、その声は分厚いドレスの生地に吸収された。


「きれいだよ、わたしのシャルレーヌ」


 白い肌に蝋が垂れていく様子を恍惚とした表情で見ながら、オディロンが甘い声で囁く。しかし、ドレスと恐怖にくるまれたシャルレーヌにそんな声は届かない。


「君のために、わざわざ外から取り寄せたんだ。低温の蝋燭だよ。そんなに熱くないだろう?」


 オディロンは手にした蝋燭をサイドテーブルに置くと、シャルレーヌの白磁のような尻を撫でる。

 そして蝋が垂らされていない側に舌を這わせた。舌を滑らせていき、共に下着をさらに下げて、シャルレーヌの秘部へと───




 そこで、シャルレーヌはキレた。




 渾身の力を込めてオディロンを蹴り上げると、ソファから自分の身体を落とす。ごろごろっと転がって、止まった先でパニエを元に戻すと、立ち上がった。


 オディロンを振り返ると、顎を押さえて尻餅をついた状態で、シャルレーヌを見上げていた。切れて血の滲んだ口元が何か言おうと戦慄いている。

 傍らには、火の消えた蝋燭の他に、鞭やら細長い根菜のような形の物が置いてあった。シャルレーヌは何に使う物かさっぱりわからない。


 シャルレーヌは彼に構わず、部屋の扉から飛び出した。鍵は閉まっていたが、内鍵だったので助かった。

 迷路のような侯爵家別邸から駆け出して、馬車道へと踊り出す。来たときは侯爵家の迎えの馬車で来たので、帰りの足はない。近くの村まで行ってどうにかしよう、とシャルレーヌは慣れない靴で走り出した。




 逃走劇は、村の灯りがすぐそこに見えてきたところで終わった。

 暴力を振られたと喚いたオディロンによって、使用人が探しに来た。その使用人に、こちらこそ暴力を振られたのと訴えたが、悲しそうな目で見られただけだった。彼も職を失いたくないのだろう。

 そして後から追ってきたオディロンにあっという間に追いつかれて、馬車の中に詰め込まれた。

 



「オディロン様、わたくし家に帰りとうございます。」


 シャルレーヌは感情がちっとも籠もっていない声で言った。声は震えなかった。

 恐怖はあったが、オディロンの切れた口元を見て、胸がスッとした方が大きかった。


「シャルレーヌ………何をしたかわかっているのかい。」


 それはこちらの台詞だとシャルレーヌは思ったが、オディロンは構わず言い募る。


「父親は、もう長くないだろう。あんな若輩者の兄が子爵家の采配を振れるものか!我がアイゼン侯爵ドルー家の援助が無ければ、没落することは目に見えている!」


「援助など、父や兄が申したのでしょうか。」


「いや、それは、しかし必ず、侯爵家の力を頼りに来るだろう……………。」


 整った顔を歪めて、オディロンは言葉を濁した。


「とにかく、お前がわたしから離れることは、父も兄も望んでいないだろう。」


 それは、どうだろうか。貴公子の面の皮を剥がしたらこうでした、と説明すればしっかりわかってくれるのではないか。それともお父様やお兄様にとっても普通のことで、夫婦間ではこうした営みをするのだろうか?シャルレーヌはぼんやりと思うが、こうして馬車に乗せられているところを見ると、オディロンは家に帰してくれる気配がない。


 もしかして、結婚が決まるまで閉じ込めておくつもりだろうか。───一度決まってしまえば、この国で離婚は早々簡単なことではない。



「シャルレーヌ、今日は一体どうしたっていうんだい。いつものやさしい君に似合わないよ。」


 反応のないシャルレーヌに、公の場で出すような、甘い声でオディロンは話しかけた。

 何という猫なで声だ。今までこの声に自分のロマンスを求めていたなんて、とシャルレーヌは自分に戦慄した。


「今日のことは、びっくりさせてしまったかい?せっかく二人きりになったから、少しいつもと違うことで愉しませてあげようと思ったんだ。」


 いつもと、というところでシャルレーヌはぴくりと身じろいだ。彼にとっては、夜会での性的行為もシャルレーヌが悦んでいたと思っているらしい。

 人目を避けて耽る享楽、さぞかしスリリングであったことだろう。シャルレーヌにとっては誰かに見つかるのが怖くて、一刻も早く終わって欲しい時間であったが。


「従順なシャルレーヌ。いつもわたしを受け入れてくれるシャルレーヌ。今日はいきなりで驚かせてしまったね。でも、悪い子だ。このわたしに怪我をさせるなんて。」


 向かい側の座席から、切れた口元に手を当てながらオディロンが身を乗り出して来た。綺麗な顔に笑みを浮かべているが、目は全く笑っていない。

 シャルレーヌの乱れたままの胸元に視線を落とすので、ありったけの布を胸へと手繰り寄せて馬車の壁へ張り付いた。

 そんなシャルレーヌを愉快そうに見ながら、弱った獲物を追い詰めるように距離をつめて来るオディロン。


「震えているね。大丈夫だよ、少しずつ慣れていけばいいんだから。」


 『慣れていけば』?オディロンは、あんな、あんな、熱した蝋を肌に垂らして悦ぶような真似を、これからも続けるというのだろうか。周りに落ちていた用途のわからないその他の道具を思い出しながら、シャルレーヌはおぞましい発言に身を硬くする。


「さあ、帰ったら続きをしよう。今度は君を驚かさないように、ゆっくりとね………。声だって、いつもみたいに我慢しなくていいんだよ?専用の部屋をちゃんと用意させるから」


 このまま屋敷に戻れば、シャルレーヌの意思は無視されたまま、戯れは続行されるようだった。


 オディロンにこうさせてしまったのは、自分にも責任があるのだろうかとシャルレーヌは自分に問う。

 婚前の付き合いがどういうものか───母が生きていれば振る舞いを教えてもらえたかもしれないのに───、知っておけば。

 初めに肌に触れられたときに、毅然と断っていれば。

 見目に騙されず、他にも誠実な人との付き合いを重ねていれば。


 それが出来なかったがために、オディロンから自分の欲望を満たすためだけの人形のように扱われている。


 どこかで道を違えていたかもしれないのに。

 こんな輩の前で、貞淑であらねばならぬ下半身をさらけ出すこともなかったかもしれないのに。

 どちらにしろ、シャルレーヌが選んだ道が今なのだった。

 それは変えようもない事実で、逃げられない現実だ。

 そしてオディロンがシャルレーヌに理解し難い性癖をもっていることも。


 シャルレーヌは自分のバカさ加減をはっきりと自覚した。情けなかった。


 ─────そして、どうでもよくなった。




 シャルレーヌは、唇を貪ろうと眼前まで近付いたオディロンに頭突きを食らわせると、馬車の扉を蹴破った。

 オディロンに早急に屋敷に戻るよう厳命された使用人が、慌てていたせいで掛け金をしっかりかけ忘れていたのだ。勢い余ってあっさり開いてしまった。もちろん、馬車は走っていた。


 シャルレーヌが「あ、」と思ったときにはもう、飛び出した格好で宙を舞い、馬車道から藪の中へと転落した。

 坂道になっていて、そのまま速度を落とせず全身で転がっていき───


 回転が止まったところで、体を無理やり起こした。少し行った先に、闇が広がっていた。いや、暗い森だ。


 馬車の灯りは、ちらちらと頭上で瞬いていたので止まったようだが、人がこちらへ降りて来る気配はない。さすがに夜の帳が下りた中、藪に突っ込もうという度胸はないようだ。


 すでに満身創痍だったが、目の前に鬱蒼と広がる森へと、シャルレーヌは震える足を叱咤して分け入った。





 シャルレーヌが彷徨い歩いて、辿り着いたのは少し開けた場所だった。

 樹木が鬱蒼と茂っていたこの森の中で、そこだけ木が生えていなかった。伐採したのだろうか。

 そして奥には木造の小さな小屋があり、灯りがともっている。


 こんなところに人が?そう考えるより早く、シャルレーヌの頭に閃いたのは、先ほど浮かんだメルヘンな噂話だった。



 ─────魂と交換に、人の願いを叶えてくれる悪魔がいると言う。



 シャルレーヌは、丁度いい、と小屋の扉へと突き進んだ。

 あと数歩、というところで扉が勝手に開いて、何かが出てきた。

 暗い森の中に、小屋内の光が軽やかに散乱する。


 一見、異形であった。

 頭部は大きな動物の頭蓋骨で、その下から白い毛皮が背中まで覆っている。長いローブを着て、手足の形はわからない。ローブの端から少しだけ出されている右手がごつごつした杖を握り、その杖は異形の背丈と同じくらいの高さまで伸びていた。

 そして、杖の傍に青白い火の魂のようなものが浮いていた。


 シャルレーヌは、今までに見たことのない禍々しい姿に、知らずコクリ、と喉を鳴らす。

 しかし、シャルレーヌは今更怖気づく必要もなかった。


「貴方様が、願いを叶えてくださるという、高名な悪魔……でしょうか?」


 シャルレーヌは自然と口を開いていた。

 その問いかけに、異形はすぐには返事をしない。

 まるで、突然丁寧な言葉で話しかけられて面食らった、というような沈黙だった。


「───いかにも。我が名はダンタリオン。その魂にしかと刻み付けよ。」


 火の揺らめきのように声が立ち上った。

 異形の横を浮遊していた火魂が光り輝き、異形の周りを廻り始めたかと思うと、シャルレーヌは何かが内側を引っ張る感覚に襲われた。

 そして気が付くと、星が燦然と瞬く空間に立たされていた。否、地面の感触はなく、シャルレーヌの足は星空の中で浮いていた。


「───さあ、願いを申せ。」


 悪魔ダンタリオンは、輝く星々の中で手を広げると、シャルレーヌに語り掛けた。


「何が願いだ。永遠の若さか。名声か。富か。我が力を持ってすれば、貴様の人生が終わるその時まで願いは叶い続けるだろう。寿命を終えるとき、貴様は我に魂を差し出すのだ。」

 

 その姿は、荘厳だった。

 重々しいローブは厳かで、人ならざる頭部は理知的にすら思える。

 青白い火魂を付き従えるその姿は、人間なんて軽々超越できると感じさせる存在だった。


 シャルレーヌは、自分の頭の中でカリヨンの鐘が鳴り響くのを聴いた。

 オディロンと結婚話が出ようが進もうが、その時は想像もしなかった音が。


 シャルレーヌは、我を忘れて口走っていた。


「悪魔ダンタリオン様、お願いでございます。どうかわたくしを、貴方様の花嫁にしていただきたいのです。」





 たっぷりの沈黙があってから、






「え?」




 悪魔から返ってきたのはそんな一言だった。

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