さあ、旅立とう
思えば入った職場が悪かった。広告代理店。紙面だけじゃなくプログラムだってデザインだって、クライアントから言われたら何でも「畏まりました」だ。分かってはいたが、この業界は一年通して忙しい。
別に人が死ぬわけでもあるまいに、「なるはやで」「それは早めにコンセンサスを取って……」馬鹿らしい。言葉もまともに使えないのか。
……なんてこと、心中愚痴っていたのは入社一年まで。
後輩に対して、平然とその言葉を使い始めたとき「俺も社畜になったもんだ」と、一也は煙草の煙を眺めながらそう思った。
「先輩、呪いのマトリョーシカ人形って知ってます?」
後輩の高木がそう囁いてきたのは、深夜1時のことだ。
今夜はもう帰宅を諦めた。目の前のパソコンの画面からは、延々とエラーメッセージが点滅している。プログラムの不具合だ。しかし、どこがおかしいのか、どう弄っても分からない。
たぶん、睡眠不足のせいである。
ここ一ヶ月、平均睡眠時間は3時間。休日もない。終電で帰宅出来れば御の字で、大体が会社にお泊まりだ。そんなことに不平不満を感じる心さえ摩滅した。
「先輩、先輩」
充血した目を擦り擦り文字を追う一也には、高木の言葉が飛び飛びにしか聞こえてこない。
「先輩、疲れすぎてません?」
「そりゃおまえ……いや、別に疲れてなんかないさ。これも仕事だからな」
高木は、一也を心配するように見つめてくる。まだ若い高木は、OBの一也に憧れてこの会社に入ったと豪語している。
わざわざこんな会社に。と一也は思う。自分のせいで彼を地獄に付き合わせたか。と後悔することもある。
「先輩ちょっとは休んでくださいよ」
「……休めないよ。俺しか、プログラムいじれないんだし。……で、呪い? なんだそれ」
「マトリョーシカ、ほら。これですよ。今すっごく流行ってるんです」
高木は残業が楽しいのか、若い目をキラキラ輝かせながら一也の前に一つの人形を置いた。
それは、コケシのような形をしたサイケデリックな色合いの人形である。
「中を開けると、なんと11個」
高木が人形を捻ると中からもう一つの人形。それを捻るとまた人形……それは10回繰り返された。
なるほど、ロシアのマトリョーシカ人形だ。多少、顔付きは和風な気がするが。
「……で?」
プログラムは不具合を起こしっぱなし。とうとう熱を持ち始めたパソコンから手を離し、一也は煙草に火を付ける。オフィスは禁煙だが、こんな深夜、残って居るのは二人だけ。誰も文句など言わないだろう。
「呪い。っていってるのは後ろ暗いことがあるやつらだけですよ、じつはこの人形……」
高木はいやな笑みを浮かべて一也の耳に囁く。
「このマトリョーシカに祈ると、恨みを晴らせるんですって。11人までですけどね。この人形の大きさが呪いの大きさ。人形の身体に相手の名前を書いていれると……」
高木は言葉を止めない。オフィスの電気はほとんどが落とされている。暗闇の中で囁くその言葉は不気味に響いた。
「マトリョーシカの身体の中に入れるんですよ」
「はは。なんだそんな馬鹿みたいな」
「馬鹿っていわないでくださいよう。これすっげえ流行ってて、俺も買うの苦労したんですから」
「買ったのか。お前なあ、金は大事に使えよ。そんなに高くないんだから、この会社の給料は」
パソコンはすっかり冷えた。手の煙草も半分以上が灰になってる。一也はそれをもみ消して大きく伸びをした。
「しかし。そんなものが流行るなんて、世も末だな」
「試しになんか入れてみません? 先輩」
「そうさなあ……」
正直、疲れていた。
納期は毎日来る。呑気な営業は、現場の人間の気持ちも知らず、仕事を取ってきて投げるばかり。投げておけば仕事が仕上がる、と勝手に思っている。
しかも俺が会社を回してるんだ。なんてデカイ顔をする奴もいる。くそくらえ。実際、会社を支えているのは一也のような現場の人間だ。
「じゃあ、そのちっこい奴に、営業の……山田。あいつの名前を書こうか。そもそも、この残業はあいつの取ってきた短納期の仕事のせいだし」
「いいっすね!」
若さだろうか。高木ははしゃぎながら付箋紙に山田と書いて、マトリョーシカにしまいこむ。酷い悪筆で、これじゃ肝心の呪う対象も分からないだろう。と一也は苦笑する。
「……はい。休憩は終わりだ。仕事にもどる」
「これ、納期いつです?」
「なるはやだ」
さっきまで吸っていた煙草の残り香が苦く口の中に蘇った。
事件を知ったのは、数日後のことである。
営業の山田が、階段から足を踏み外して骨折したのだという。高木は興奮しきりの顔で一也に語り、一也は驚きのあまり手からコーヒーを落としかけた。
しかし。
「……偶然だ、偶然」
引きつるように笑って、一也は手を振ってみせる。名前を書いただけで骨を折った? そんな馬鹿な!
「えー先輩。絶対呪いっすよ。じゃ、次は中ぐらいの試しましょうよ」
嫌だ。と一也は思ったが口にはできなかった。高木は悪戯少年の顔をしている。ここで止めようと言えば、一也がマトリョーシカを信じていることになるし、恐れていると思われるだろう。先輩としての沽券に関わる。
「もう一気にいきましょ。そんで一気に事件が起きたら先輩だって信じるでしょ」
「じゃあ……」
名前を出したのは、ほんの気紛れ。ちょっと気にくわない上司、営業、取引先。
何とか名前を捻り出せたのは9名分。
名前を仕込まれたマトリョーシカは、一也のロッカーに安置された。
そして数日後。
「……営業の●さんは交通事故で意識不明。課長は突然、電車に飛び込んで……取引先の●さんは……」
通り魔に殺されました。
と、高木が珍しく真剣な顔で言って来たとき、一也は初めて吐き気を覚えた。
「嘘だ」
「本当っす」
「じゃああれは」
二人はロッカーに走る。
時刻は夕暮れ。廊下の向こうの窓が、薄ボンヤリと朱色に染まっている。電灯は灯っているはずなのに、妙に薄暗い。
この夕闇のころを、誰そ彼というのだ。誰かが言っていた言葉を思い出す。茜色が空一面に広がって、そのうち藍色に染まりはじめる。朱と藍色が染まるころ、人の顔が薄ぼやける。
隣にいるのは誰だ、と思わず尋ねてしまう。そんな時刻。
「あ、あけるぞ……」
周囲を見渡し、恐る恐る人形を見る。一番小さな人形から延々10個目までそのサイケデリックな身体の中には名前が書かれた付箋紙が収まっている。
一番大きな人形にだけは、何も名前が仕込まれていない。仕込まなくてよかった。と一也は思う。被害者は10名で留められたのだ。
「……このことは、忘れよう」
「……」
今度……いつくるか分からないが……休日の時にでも寺に持っていって、燃やしてもらおう。一也は神妙にそんなことを思った。
呪いなど、実際は無いのかもしれない。しかし、名前を書いた人物だけが事件に巻き込まれた。それは隠しようのない事実である。
「……ねえ、先輩。このマトリョーシカ、何かに似てません?」
「もう見るな。忘れようぜ、このことは」
「いや、見て下さいよ」
高木は恐る恐る、それを持ち上げた。マトリョーシカは笑うような、悲しむような顔をしている。不思議と引き込まれる顔だ。
「11個あるところからもピンときました……11面観音に似てる気がしません?」
言われてみればどことなく仏像に似ている気もする。しかしそう考えてぞっとした。仏が人を呪うのか。
「11面観音は、苦しむ人を見つけるためにこれだけの顔があるっていわれてるんです。苦しむ人がいたら、すぐに救えるように」
一つ一つ顔が異なるのは、それぞれの役割があるからだろう。一番大きなマトリョーシカは穏やかな、まさに菩薩めいた顔をしている。
「それが人を……殺したり、呪うなんて」
「この世は苦しみである。というのが仏教でしょ? じゃあ、死ぬことは救いの……」
高木が真剣な表情でマトリョーシカを見つめている。その目の奥が、らんと輝いてるのをみて一也の背筋が凍る。
「マトリョーシカからすると、救われることなのかもしれない」
「おいおい……妙な事をいうなよ。お前、ちょっと変だぞ。仕事に疲れたか?」
冗談めいて声をかけるが、高木の顔付きは変わらない。何かを決意したような、その目つき。
「……先輩、俺、先輩をまじで尊敬してます」
高木の声と、館内放送の声が重なる。
会議をはじめます。皆さんすぐに会議室に集まってください。
呑気なアナウンスの下。高木だけが不気味なほどに真面目な顔をして一也を見つめている。
夕闇のせいで、彼の顔は薄暗い。
誰そ彼。あなたは誰だ。そう聞きかけた一也は、慌てて口を閉ざす。
何を考えているのだ。こいつは高木だ。可愛い、生意気な、後輩だ。
「行くぞ」
ぞわぞわと背に流れる違和感を押し込めて、一也はようやくそれだけ言った。
ここはどこだ。と、一也は思った。
良い香りがする。そして暖かい。確か季節は冬だったはずなのに、ここは春のような心地よさ。
どこかに寝転んでいるらしい。背は温かく、柔らかい。最高級のベッドに寝転がっているようだ。
「……ああ」
春のはずだ。一也は思った。目の前は見事な桜の園。花弁が風に踊っている。桜色の風が吹いている。
花見なんて、もう十年はしていない。春は一番忙しい時で……。
そこまで考えたとき、一也の目がはっきりと覚める。
「まずい、仕事の納期!」
立ち上がると、目の前が揺らいだ。目前はどこまでも続く桜の園。こんなに見事な場所なのに、誰もいない。
花見は人がいるからいいのである。誰一人いない桜の園は、恐怖しかない。
「……ここは、どこだ」
ぽとりと目の前に人形が落ちてくる。それはかの、マトリョーシカである。
恐る恐る拾い上げ、捻って開ける。しかし中にあったはずの10個の人形はもう無かった。闇だけである。
ひっくり返すと、一枚の紙がひらりと舞い落ちる。
……それは。
「あなたは来世に旅立ちます」
身体をぱくりと割られたマトリョーシカが、慈悲深い声で喋る。口は開いていないが、確かにマトリョーシカの声である。
男とも女ともつかない。穏やかな声である。
「いつ、旅立ちましょうか」
一也はマトリョーシカを掴んだまま唖然と立ちつくす。そして叫ぶ。その声は桜に吸い込まれる。何を叫んだか、分からない。散々叫び喉が枯れた。もう、嗄れた声しか出ない。
そして、一也はやがて全てを悟った顔をして微笑んだ。
「いつ旅立ちますか?」
「なるはや……いや」
問いかけるマトリョーシカを見つめる。まるで笑っているようだ。それは嫌な微笑みじゃない。それは慈愛だ。一也の新しい旅立ちを喜ぶ顔だ。
一也はゆっくりと大地に腰を落とした、空は晴天。舞い散る桜は青空に広がって、それはそれは見事な風景である。
「人生の境目に、なるはや。なんて似合わないな」
マトリョーシカを隣に転がして、一也は寝転がる。
そしてマトリョーシカの身体から出て来た紙を、びりびりに破って棄てた。
黄色の付箋紙には、高木の文字で一也のフルネームが書かれている。高木の悪筆に似合わない、丁寧な文字である。祈りを込めるように一文字一文字書いたように見えた。
「ゆっくりと。そうだな、俺は、しばらくここで花見と決め込むよ」
久々に伸ばした身体は、大地に溶ける。桜色に囲まれて、目を閉じる。
久しぶりに、よく眠れそうである。