真佐美
携帯電話が震える。根太からの着信だ。手を伸ばし携帯電話を耳元に持って行く。
「...あ...し...き...」
切れ切れに声が届く。その声はひどく聞き覚えがある。
「あの、どちら様ですか? 」
ノイズが酷く、こちらの声がとどいているのかどうか不安になる。しかし、こちらからはどうしようもない。
「や...に...山に...あの場所へ...」
やっぱり、届く言葉の半分も聞き取ることが出来ない。けれど、今拾った言葉から、理解するために十分な情報量であった。私は怖いという感覚と共に、別な感情も生まれていた。懐かしいと愛しいが混ざり合った感情である。私は携帯電話の電源を切る。
電話の主が伝えたいことは、だいたい予想することが出来る。たぶん、あの場所にいるのだろう。だけど、行くべきか行かないべきか悩む。何かに巻き込まれる予感もする。根太の携帯電話から掛かってきたということも気になる。
「真佐美ー!お昼ご飯よー!」と階下から母親の声が響く。
「うん。わかったよー」
うん。決定。お昼ご飯が大好きなメニューがあったら、あの場所に行く。無ければ行かない。これで悩まないで判断できる。
軽い足取りで部屋を出て、一階に下りる。そして、ダイニングルームへと向かう。母親がさっき届いたのよーと段ボール箱いっぱいに詰まった、サクランボを自慢する。母親は表情を緩ませて喜んでいる。私もそれを見て、笑顔にならずにはおれず、ついつい手を伸ばして遊び食いをする。
「こーら!これはデザートなんだから!」と母親も手を伸ばす。
「お母さんも食べてるよー」と私ももう一口。
二人で笑い合いながらつまみ食いをする。私はあの場所へ行くことを決定した。
「暑ーい」
麦藁帽子をかぶって外に出るも、暑すぎて身体が溶けそうになる。父親に買ってもらった電動自転車に跨がり、ペダルを踏むために力を入れる。川沿いを進み、曲がり角を折れる。坂道に差し掛かるも、電動自転車のおかげで軽い力で坂を上っていく。根太や和博も電動自転車を買えば楽チンなのにと考えているうちに、涌き水場へ到着。ここから整備されていない自然なままの道であるから、徒歩でしか行けない。木陰に自転車を立てかけて、涌き水で水を直接飲む。母親からは、直接飲むのはお腹に悪いからやめなさいと言われているけれど、やっぱり直接飲むのが一番美味しい。自然のそのままの力が身体の中に入ってくるのがわかる。気のせいかもしれないけれど。
麦藁帽子をかぶり治し、山の中へと歩を進める。
ゆっくりと歩く。久しぶりにこの山の中を歩く。木々の隙間を縫ってくる風が心地好い。空気が美味しい。木漏れ日が綺麗。良いところがそのまま残っていて、無性に幸せな気分になる。
「カブトムシも元気かなー」
慣れた道を歩きながら、カブトムシの集まるポイントを探す。夜行性ではあるのだが、第一ポイントで意外にも簡単に見つかる。溢れる樹液に惹かれて呑気に食事にありついていた。
「見つけたー」
久しぶりのカブトムシに舞い上がってしまう。手の中に収め、軽く角を突く。
「頑張って、お嫁さん見つけるんだよー」と言い、すぐに元の木に解放する。
しかしお腹いっぱいになったのだろう、羽を広げて低く擦れた音を奏でながらどこまでも飛んでいった。
「元気いっぱいだねー」
私達の夏もこれから始まるんだなーとぼんやり考えていた。
脇道に入り小道となる。小枝が肌を突いて来る。目の前に高く伸びる草を手で払う。懐かしい空間が広がり、私の心も包まれる。そこは時間が閉ざされている場所だ。
私はゆっくりと、足を踏み入れる。