第六話 愚者の嘆き
……暗い。どこまでも深く沈んでいく。私は一体どこまで落ちていくのだろう。このまま、最果てまで……。
「……! はあ、はあ…………」
身体が落ちる感覚と同時に飛び起きる。動悸と冷や汗が止まらなくて気持ちが悪い。これで何度目だ。眠るほどに、沈んでいくのが恐ろしい。
*
その日は図書館で試験勉強をするため、私とエレナ、優一は図書館に来ていた。エレナは珍しく静かにしていて、偉いなと思っていたら居眠りをしているだけで肩を落としたりもした。教科書のページをめくる音とペンを走らせる音が耳によく入る。優一は黙々と問題集を解いている。その瞳は海の浅瀬のような透き通った色をしている。一見美しい色だが、どこか寂しげで――。
「高槻?」
「え」
「……さっきからずっとこっち見てるから。分からないとこでもあった?」
「え、ううん、大丈夫だよ! 何でもない!」
「そうか。星守寝てるし少し休んでなよ」
「うん……」
私は優一に促されるまま、席を立って館内を歩き始めた。長時間椅子に座っていると身体が非常に硬くなる。というか、日下くんの視線恐ろしいな!? 思わず心臓跳ねましたけど? あれはモテるわ……。先の視線を思い出してイケメンの破壊力を思い知る。顔面といい、気遣いといい、彼に欠点なんてものはないのでは、と考えるとより恐ろしくなってくる。
雑念を手で払って消してぐっと伸びをした。何気なく窓辺から外を眺めていると、近くの橋で佇む一人の少女の姿が見えた。セーラー服、この辺りではあまり見かけない制服だ。少女はしばらく川を眺めた後、何を思い立ったか突然欄干に登り始めたのだ。
「えっ?!」
周囲の人間は誰も少女を見ていない。というか、まるで見えていないかのようだ。驚いた私はその場から走り出していた。
「高槻、どこに……」
「ちょっと外! 女の子が!」
「……?」
図書館を飛び出して少女の見えた橋へ向かう。少女は欄干の上で川をまっすぐ見下ろしている。水深こそ浅いものの、落ちれば最悪の場合も考えられる高さだ。私は必死に足を動かして少女のもとへ駆け出す。
「だめええええ!」
「えっ」
勢いのまま彼女の胴を抱いて一緒になって地面に倒れた。濡羽色の黒髪の隙間から覗く、濁ったような赤黒い瞳がまっすぐ私を捉える。目が合った瞬間、私はぞわっとするような、得体の知れない何かを感じた。
「……あ、ごめんなさい! 大丈夫!?」
「あなた、誰?」
「高槻!」
「日下くん!」
私のあとを追って、優一が寝起きのエレナを引っ張ってきたのだ。無理やり叩き起こされたのか、いつもより目つきが最悪だ。
「急に起こすなやクソったれ……!」
「悪魔絡みかと思ったんだが、違ったか。その制服、花芽高校か? 藤沢の」
「藤沢? まあまあ離れてるけど……」
「もう大丈夫ですから。迷惑かけてごめんなさい、じゃあ」
セーラー服の少女は何かに急かされるかのように立ち上がると、目を合わせようともせずさっさとその場を立ち去ろうとしたのだ。その不貞腐れた態度に腹を立てたエレナが私を押しのけて彼女の腕に手を伸ばす。
「てめえ、その態度はねえだろが!」
エレナが腕を掴んだ瞬間、彼女の身体がビクンと跳ねて、糸が切れたように崩れ落ちてしまう。さすがのエレナも彼女の腕を掴んだまま言葉をどもらせる。少女は呼びかけにも応じず瞼を開かなかった。
*
「ん……」
少女が目を覚ましたのは図書館の中庭のベンチの上だった。ゆっくり上体を起こした音に気が付いた私は慌てて少女に駆け寄る。こちらの焦る様をじっと見つめている。突然のことに呆然としているのか、あくまで冷静なのか。
「目が覚めて良かった。急に倒れちゃったんだよ。痛いところはない?」
「……うん。ごめんなさい」
「あなた、名前は?」
「……本猩緋和」
緋和は落ち込んだ声で答えた。決して目を合わせようとせず、やけに顔色が悪い。先程まで飛び降りようとしていたのだから平静になれないのだろう。彼女の前で膝を付いて視線を合わせる。さっきより、彼女の瞳が澄んでいるような気がした。
「まだ名前言ってなかったよね。私は高槻翠。こっちが星守エレナちゃんと、日下優一くん。二人もあなたのことが心配だったんだ」
「……手間かけさせてごめんなさい」
「謝るしか能がないんか。助けてもらった礼も無しかよ」
「星守だって、ありがとうもごめんも言わないじゃないか」
口を尖らせるエレナに優一が鋭利に突っ込む。喧嘩勃発寸前の二人を背に、私は続けた。
「ねえ、どうしてあんなところにいたの? 嫌だったら答えなくてもいいよ」
「別に。ただ……息苦しさがあって嫌だなって思ってたら、気付いたらあそこにいて」
「そっか。辛かったね」
死にたいとか、自分以外の誰かが嫌いとか、そういうのは私には分からない。だけど、一人でいることが寂しいのは、少しだけ分かるんだ。緋和の手に優しく触れながら敢えてそれ以上言葉にするのをやめた。彼女は俯いたままだった。
「家の近くまで送って行くよ。最寄りはどこ?」
「え、花芽高校前……って、良いよ。これ以上迷惑は」
「迷惑じゃないよ。私がそうしたいだけなんだ」
「………………」
小さなため息をついて、緋和は「わかったよ」と諦めたように言った。
*
大和駅から電車で二駅、藤沢駅で江ノ島電鉄に乗り換える。江ノ島は神奈川でも有名な観光スポットで、狭い路地や海の見える道路を走るローカル線で移動するのがメインだ。私たちが電車の座席に座ると大きく揺れながら発車した。住宅地や電柱のすぐそばを走り抜ける景色はいつ見ても高揚感を感じさせる。
「天気良くて良かったねえ」
「ったく、遊びで来たんじゃねーぞ。のんきにしやがって」
「とか言いながら来てくれてありがとねエレナちゃん」
切符を買いながら小言を言っていたエレナだが、やっぱりお人好しなのだろう。そういう優しさが見える瞬間が私は可愛げがあって好きなのにな、とも思う。緋和は終始黙ったままでその足取りも重いように見えた。帰ることが嫌なのだろうか。
「緋和ちゃんはさ、魔法って信じてる? 魔女とか悪魔とか」
「おい」
言いたげなエレナを制して私は緋和に聞いてみた。電車のアナウンスが『次はー、花芽高校前、花芽高校前です』と告げている。
「……別に。それは漫画とかの中だけでしょ」
「そうだね。でも私はね、この世界にまだ知らないことがたくさんあるんだって思うとワクワクするんだ」
「そう」
緋和は私と目を合わせないまま席を立った。
改札を出ると、涼やかな海風が髪の隙間を吹き抜けていく。踏切と道路を挟んだ先に陽光を受けて輝く海が見えた。踏切はなにかの漫画の聖地のようで、写真撮影をする人たちでいっぱいだ。私たちはそのまま踏切を渡って砂浜へ降りることにした。
「人いっぱいだねえ。さすが観光地」
「ただの海になんで群がるんだよ」
エレナは砂浜で思い思いに過ごす観光客たちを見て呆れている。海に来たがる理由が分からないのと、もう半分は人混みがうざったいのだろう。私たちの後ろに付いてきていた緋和が恐る恐る口を開く。
「ここまで送ってくれてありがと。もう大丈夫……」
「ねえせっかくだから江の島行こうよ! しらす丼食べたい!」
「しらす? なんだそれ」
「白くて小さい魚。醤油かけて食べるやつ」
「ちょ、話聞いてる?」
「よーし、みんなで行こう!」
私は緋和の手をひいて走り出した。もちろん彼女の言葉は聞こえている。でも、見えてしまったんだ。彼女が寂しそうな目をしているのが。見えているのに見ない振りをするなんてしたくなかった。同時に、私は自分を導いてくれたエレナのようになりたかったのかもしれない。
江の島まで渡ると、定食屋で出されたしらす丼にエレナは良い顔を見せなかった。私が強引に勧めて食べさせたら「悪くねえ」とすぐに平らげた。緋和も外見に似つかない食べっぷりを見せた。仲見世通りでたこせんべいを食べたり、長く急な階段を登って神社でおみくじを引いたりもして、緋和が少しずつ笑顔になっていくのが心底嬉しかった。
陽が水平線に触れる頃、食べては歩いてを繰り返した私たちは疲れて橋の傍から夕陽を眺めていた。
「あ、そうだ! 緋和ちゃん手出して」
「何?」
私は鞄の中からガチャポンのカプセルを取り出した。中身を緋和の手の上に開けると、透明なガラスと朱色の丸模様で出来た指輪がコロンと出てきた。陽にかざしてみると、肌にきらきらと反射光が映り込む。
「綺麗……」
「通りにあったガチャで出たの。シーグラスを再利用してるんだって。私も買ってみたんだ」
私はポケットから同じ形の指輪を出して付けてみせた。緋和のものより、やや形は歪だが鮮やかな緑色が輝いている。緋和は一瞬目を見開いて、また自分の指輪に目を落とした。
「お揃い、ってこと?」
「うん。あ、嫌だったら全然大丈夫だよ! 事前に聞けば良かったごめんね!」
「……いや、ありがと」
その言葉は口先だけじゃない。きっと彼女の本当の心だ。柔らかな雰囲気ですぐに分かった。彼女は本当は穏やかで優しい人なんだと私は勝手に解釈してみた。エレナと優一は黙って私たちを見つめていた。
夕日と海が溶け合い、昼と夜が待ち合わせるように一つになっていく。それを横目に見ながら私たちは駅へ向かおうとしていた。
「……今日はありがと。楽しかった。会ったばかりなのに、こんな」
「私たちも楽しかったよ! また会いに来ても良いかな?」
私が緋和の手をそっと握りながら告げると、彼女は少し恥ずかしげに小さく頷いてみせる。
「私、ずっと一人だったからこうやって地元で遊ぶことも無くて、でも今日初めて、少し、楽しいかもって」
「……良かった! じゃあ私たち友達だね!」
「…………うん」
緋和の頬がじんわり色付いていく。誰かのために何かが出来たことが嬉しくてたまらない。他人の幸せが伝わってくる。心から、出会えて良かったと思った。夕陽で縁取られた彼女の姿は普通の、可憐な少女だった。駅のアナウンスが電車が近付いていることを知らせた。
「じゃあ、またね」
「……うん。また」
開かれた電車のドアの前で、ふとエレナが足を止める。振り返ると緋和の目をじっと見つめている。
「お前……眠れなかったり、身体が重いことは?」
「え……いつもだけど」
「じゃあ最後に。自分しか見えていないモノを見たことは?」
「……さあ。見えないよ」
エレナはその答えを聞くと、不服そうな顔をしながら電車に乗り込んだ。発車した電車の窓から手を振る。少し寂しげだったが昼間のような悲壮感は和らいでいる。姿は小さくなって、建物の影に駅が隠れていく。
「今日は楽しかったね! 他校の友達も出来たし!」
「……星守。さっきの質問」
優一が口を開くと、エレナが一息置いて言った。
「十中八九、悪魔に取り憑かれてる。悪魔の魔力が僅かに残ってた」
「そんな……! どうして?!」
「悪魔に憑依されると夜は眠らずに出歩いたり身体の重さが出る。一番は意識がないまま行動したことだ。悪魔は人間の身体を操って肉体を捨てさせて魂を喰うからな。それに、あいつらクセーし」
「緋和ちゃんが、悪魔に……」
「姿を見せない限り悪魔祓いは出来ない。俺も調べてみる」
「近いうちにまた会うさ。あいつ自身かどうかは分からんがな」
私は拳を強く握り締める。彼女をまだ、救えていない。再び窓の外に視線をやったが、駅も、海岸も見えなかった。
*
暗い部屋の中で、淡く光るガラスの指輪を掲げる。どの角度から見てもその輝きは優しく緋和の瞳に落ちた。
「……友達、か」
友達なんて今まで一人も作れなかった。優しい子はいたがすぐに離れていった。私が自分の意見を言えないと分かると、同級生は私を蔑んだ。両親は頭の良くない私を憐れんで、産んだことを後悔していた。私の存在が周りの不幸と繋がっているのが申し訳なくて「ごめんなさい」と謝り続けた。誰に頭を下げているかも分からなくなって、自分がいま生きている意味が分からなくなった頃、記憶が途切れたり底無しの穴に落ちるような感覚が現れ始めた。怖くて仕方がなかったのに、その柔らかな闇に私は温もりさえ感じるようになった。生きる意味を問い続け、嘆き、憂う私の傍にそれだけが隣にいてくれることが傷を塞ぐ唯一の存在である。
指輪を握りながらゆっくり閉じていく瞼の裏側に翠の笑顔が見えた気がした。あなただけはどうか聞かないで、この愚者の嘆きを。
「……ごめんね、翠」
次回:第七話 完成




