こいとあいとそれいがい
きっとみんな、残酷になってしまうだろう。
恋と愛とそれ以外に、全てを分けてしまったら。
「・・・・・・・」
じりじりと熱気を放つコンクリートに照らされながら、俺は彼女を見ている。俺の視線の先には、ただ彼女がいる。それ以外は、何にもない。
ぱこーん、と小気味よくボールが打ち返される。彼女はテニス部だ。結構なお嬢様だから、テニス部、というのが何となく頷ける。別に、お嬢様だからテニス、というのは単なる偏見だけれど。
ぱこん。少し気の抜けた音が、また彼女のラケットから飛び出した。ボールを支配する、というより、ボールに支配されているような彼女の動き。素人目に見ても、あまり上手くないから、特別面白いわけではないのだが、気がつくと目で追ってしまう。
ぱこっ。一生懸命に生きている動きに応えて、短い明るいこげ茶色の髪が、ぱさぱさと揺れる。
「おやおや、覗きかい? けー君」
よく知りすぎている少女の声に、とりあえず返事はせずに、けれど眉間に皺を一本よせて、彼女だけを見る。相手にするのが面倒だった。
それに弁解するわけではないけれど、別に、覗き見が趣味なわけではない。他の女の子や、勿論男の子を盗み見したことはないと、自信を持っていえる。
単純な理由だ。悩む必要も無い。ただ、好きだから見ている。彼女が。
そう言ったところで、こいつが信じるわけがないし、むしろ面白がられるか、もっと小ばかにした台詞を言われるのが判っている。事実、俺がこうして彼女を見つめているのには変わりは無いし、そんな俺が弁解しても、鼻であしらわれるだろう。こいつは口が上手いし、頭がいい。俺なんかが勝てるわけがないのだ。
だから、なんにも言わないことが一番賢明である。
「・・・・・・」
「あの女の子が好みなの? へぇー、案外普通だねぇ。健康美、ってかんじ? なになに、あのひるがえるスカートの裾にロマン感じてるくち?」
「俺はむっつりスケベか」
「オープンよりかはましな気がするけど。男はみんなむっつりだろ、違うのかい?」
「お前の価値観で、男という代物を縛るな」
多少受け答えが不機嫌になってしまう。言うことにかいて、話題がそれか。もっと重たい話題だって、たくさんあるだろうに。この場で俺にする話としては、些か配慮に欠ける。大体、むっつりという疑いを受けるのが、少しばかり心外だし、不快だ。少なからず、そういった欲望があることは否めないものの、人にやましく言われるほどではないのだ。
視線の先の彼女は、またボールを打ち返す。ぱこん。
「あー、結構下手くそだね。相手が手加減しているのがばればれだ。見てて楽しい?」
「うるさい」
「体重の乗せ方とか、足に負担ばっかりかけてるよ、あれは。足も球も、両方スピード遅いし。選手としたら、結構な確率で一回戦負けじゃないかな」
「うるさいと言っている」
それは、素人目に見ても判りきっていることだ。何をしたいのか。彼女の悪口を言いたいのか。
うだるような暑さも手伝って、いらいらして、ついに俺は視線を彼女に上げてしまう。
腰までのばした真っ黒い髪に、赤いメッシュを前髪一箇所にだけ入れているのが、ひどく目立った。大きな黒い目が、可愛らしくたれている。美少女、と形容しても全く問題がない顔立ちなのだが、ぼくがその顔を見るたびに、小ばかにしたような笑顔しか浮かべていないので、可愛いとは少しも思えなかった。
小柄な彼女は、フェンスの上に立ちながら、俺を勝利者のごとく見下ろしている。昔から高いところが好きだったなぁ、と場違いに俺は思った。
「やっとこっちを向いたね」
にっこりと笑うと、そのままフェンスから飛び降りた。ふわりと、彼女の制服の裾が舞う。『短いスカートにロマンを抱くむっつり』だったら、結構なロマンを感じられる光景だ。
俺より大分低い身長なのに、妙に大きく感じる。年に似合わず、威厳に満ちた雰囲気をしているのだ。大きな目で上目遣いに、こちらを見上げながら、非常に可愛らしい笑顔でにっこりと笑う。
小憎たらしい言動も一瞬忘れてしまうほど、その笑顔は魅力的だったので、不覚にも、かわいいと俺は思ってしまった。
「お前、俺の視線の為だけに文句言ってたのか?」
「当たり前だろ。彼女には悪いことした、後で謝っておこう」
「脈絡なく謝られたほうが迷惑だろうが」
「それもそうだね」
けらけらと笑う彼女は、俺から視線を少しも逸らさずに、ただこちらを見ている。
いつもと違う彼女。いつもと違う世界。
そんな中で少しも変わらない赤いメッシュが、ひどく目に付いて、目が痛くなった。角膜を通して網膜に結ばれる赤い像は、どうしてだか俺の頭を一瞬にして支配して、そしてそのまま消えた。
彼女は、何のためらいも無く俺に言葉を紡ぐ。
「君はさ、告白する気ないの?」
無邪気のようで実は酷く鋭い質問が、俺の心にすんなりと沁みる。痛いと思いながらも、俺はその質問に、ひどくありきたりな答えを返した。
「あるには、ある」
「なら、してくれないかな。ボク、結構君が告白するの、待ってたんだけど」
「お前に言われる筋合いなんかない」
俺にとっても予想外に冷たい言葉が唇から毀れる。
それもそうかな、と少しだけ暗くなった明るい顔で、彼女は笑った。少しだけ、胸の奥で罪悪感が疼く。
本当は、そう言われる筋合いが、俺と彼女には、ある。わかっている。脳髄の芯で完全に理解している。
けれど、言い出す勇気がないのと、彼女を見つめるこの距離が心地よいせいで、なんとなくこのままでいい、と臆病で卑怯でずるい俺は、思ってしまっているのだ。
それに、いまさら言ったところで、何が変わるわけでもない。何かが変化してくれるわけでもない。変わらないことは、既に完結してしまっている。
彼女は、いつものような皮肉げな笑顔とはまるで逆の、ひどく魅力的な笑顔のままで俺に言葉を差し出す。
「ねぇ、君は、どうして彼女が好きなの?」
「・・・・・・・・さあ」
「理由もないのに、好きなの?」
真っ黒い大きな目が、俺を射抜く。痛い。何で。判らない。
俺は、ただ少しだけ目線を下に落として、彼女を視界から追い出した。そうでもしないと、冷静に話せそうにない。彼女の目は、とても綺麗で、俺の中の醜くてどうしようもない部分を全て知っているような気がしてしまう。
そんなわけがないのに。
俺は、臆病で小心者な自分にひどくいらいらした。
「理由なんか、必要ない。ただ、判ったときから、もう駄目だったんだ」
今でもはっきりと思い出せる。
脳味噌のシナプスが一気に全ての快楽と感動を放出したような、あの瞬間。
溢れ出した痺れるような、甘い感情。
とどまる事を知らない、震えてしまうくらいの、強烈な衝動。
追いかけてしまう視線と、柔らかい甘さに侵食される胸の色が、どうしようもなく彼女だけだった。
だから、もうそれは、どうしようもないくらいの、
凶器みたいな。
「好き、ってそんなもんだろ」
眩暈が、した。
倒れるんじゃないかと、思った。
心とか、そういったものの芯から痺れていく自分が、恐ろしくもあった。けれど、それ以上にとてもわくわくした。自分の知らない自分が、初めて顔を見せる、不可思議な感覚。
欲、とも、愛、ともつかない狂気じみた感情の渦の中で、ただ、彼女だけを求めてしまう。
彼女だけを、願ってしまう。
「・・・そうだね、そんなもんだ。恋なんてさ。気づいたときには、もう手遅れなんだよ」
へへ、と頼りなく、本当に頼りなく、笑った。
彼女の白い肌が、日差しを受けて、とてもまぶしかったから、少しだけ目を細める。
きっと、色素が足りないんだ、と俺は場違いなことをぼんやりと思う。
やっぱり彼女は、優しげに笑っている。皮肉げに笑って欲しい。そうすれば、どこかやっぱり救われるような気がする。何から救われたいのか、よくわからないけれど。
「お前、何が言いたかったんだ」
「ん?」
「俺に、何を言いたかったんだ」
「・・・・・ああ、そうだねぇ」
彼女は、言葉を切った。テニスの、ボールを打ち返す音だけが、ひどく耳に鮮やかで、頭の奥がそれだけに支配される。目の前の彼女も、少しおぼろげに変わった。目が,霞んでいるのだろうか。
少し霞んだ彼女は、節目がちに、それでも笑っていた。
「うん、単純なことだよ。馬鹿らしいくらい、簡単で、情けない話さ」
声が震えていた。震えていたのは俺のほうなのかもしれない。
風が、とても心地よかった。汗ばんだ肌に触れて、駆け抜けていく。すぅっとした感覚に、気持ちが少しだけすっきりとした。それでも、ねっとりと暑さが体に絡み付いて、すぐにその気分もなくなってしまう。なんて、嫌な天気だろう。目の前の彼女の白い肌に浮かばない汗が、ひどく憎らしく思える。
赤いメッシュが、ゆらゆら揺れる。見たことも無かった極上の笑顔の上で、薄い唇が滑らかに動く。
「好きだよ、ずっと前から」
そう言った笑顔が、きれいだった。
「・・・・・・・ん。知ってた」
少しだけ、曇っていてた。
それでも、きれいだった。
「じゃあ、返事は?」
かすかに、歪む目じりが、本当に可愛いと、思った。
「・・・・・ごめん」
答える声が、震えていたのは、自分でも、理由が判らなかった。
「ありがと。それで、充分だ」
風を受けて、制服のスカートが、ひらひら揺れていた。
笑顔はそのままで、日差しは熱いまま。流れる風だけが動きを見せるけれど、それもひどく穏やかで、彼女は俺を見つめたまま、優しく笑っている。
俺は、どうしてもそれに耐えられなかったから、止まったような時間の中で、俺は、喋ることを選んだ。
「なんか、すごい酷いことをしている気分になるな」
「全然ひどくないよ。その気がないなら、当然のことさ。情けなんか、痛いだけだよ。気を使われる方が、ボクにとっては苦痛だね」
けらけらと、この日初めていつもような小憎らしい笑顔で笑った。普段はいらいらしてどうしようもなかった笑顔が、その時とても愛しいものに思えてしまった。俺は、ゆっくりと息を吐く。
彼女の赤いメッシュが、黒の中で目立って、目が、逸らせなくなる。
目に、焼きつきそうなくらい、赤い、紅い。
「ただ、出来ればもうちょっと早く、言ってほしかったな」
「それはそうかもしれない」
「まあ、告白しなかったボクが悪いんだけど。でもねぇ、君が告白して、振られるなりなんなりすれば、ボクだって踏ん切りがついたんだ。弱ってるところを狙いたくなるのは、当たり前だろ?」
「まあ、な。てゆーか、お前振られるって確信してたのかよ」
「ばっかだなぁ。あの子の好きな人くらい、分かるもんだよ。好きな人の好きな人くらい、チェックしなくてどうするのさ」
少し、俺は声を出して笑う。
彼女の姿を思い浮かべた。いつも休憩時間になると、同じ部活の先輩に、差し入れを持って駆け寄っていく。その目の輝きと、きつい練習でがくがくの足が、軽やかに弾む理由など、分からないはずが無い。
振られることが、当然の恋だと、分かっている。好きな人が、誰を好きなのかくらい、見ていれば簡単に気づいてしまう。
気づかないくらい、鈍ければ良かったのに。そう、後悔するけれど。
「てゆーか、もっと時間あるもんだと思ってたしねぇ」
「まぁ、仕方ないさ。いや、仕方なかったんだよ」
彼女が、明るい声を出して、笑う。俺もつられて、笑った。
ただ、可笑しいから。
切ないから。
かわいそうだから。
そして、滑稽なくらい、この感情に振り回される俺たちが。
少しだけ、惨めだったから。
「さて、と。もうそろそろ行くかな」
「そうか」
「忘れ物も、すんだことだし。ああ、そうそう、君は玉砕しておいたほうがいいよ~? そのまま行くとストーカーになるね」
「明日あたり、告白しておくよ」
「そうして。あー、なら明日ボクも告白すればよかったかなぁ。したら弱っているところをつけこめて少しは脈があったかもしれないだろ?」
「最初っから無かったよ」
「君は案外ひどい男なんだねぇ、少しは気を使ってほしいもんだ」
「お前は気を使われるのが苦痛なんだろ」
「それはそれ。これはこれ。応用の利かない男は嫌われるよ、けー君」
変わらない、そして変化した笑顔が、俺の目に焼きつく。
赤いメッシュ。白い肌。小さな体。小憎らしい台詞。
その全てが、頭にこびり付いて、離れないくらいに。目に、焼きついて、離れないくらいに。
侵食する。
恋とは違う、愛とは違う、ただ、侵食する感情に、俺は少しだけ苦しくなった。少しだけ、痛くなった。
「じゃね、また明日」
唐突に、彼女が高い声、だと気づいてしまった。今まで話していた声は、実は高い声だったのだと、気づいた。いつも皮肉ばっかりを俺に言う声は、心地よいくらいの高い声なんだと、今更ながらに分かってしまった。
普段、気にかけるようなことでもないことを、ひどく鮮明に感じる。彼女の、ちょっかいをかけてくる声は、いつもはっきりしなくて、むしろ、自分が気に掛けていなくて、曖昧にしてしまったのだと、今更ながら、思い知らされる。
「りお!」
フェンスから離れて、背中を向けて歩いていくりおの背中に向けて、叫んだ。
とても、遠くにいる彼女に向かって。
とても、近くにいる彼女に向かって。
よたよたと体を揺らして歩く彼女の頼りない後姿が、振り向く。
「また、明日な!」
「・・・・・うん、また明日!」
りおは、手を振った。俺の視界の中で細い腕が、ひらひらと揺れる。
笑顔が、目に焼きついて離れない。
そして、また、前を向いて、りおは歩いていった。
ぱこん、と音が、する。ボールを打ち返す音だ。彼女が、テニスをしている。茶色い髪の毛が、ぱさぱさと跳ねている。胸の奥から、愛しさが込み上げる。彼女じゃなければ、駄目なのだ。
りおじゃなくて、自分には、彼女しか。
少し、ため息をつく。世の中って、上手くいかないものだ。何も、そこまで残酷になることはないと思う。振ってしまった自分が言うのも、なんなのだけれど。
夏の日差しがひどく、暑い。
喪服を着た俺は、かいた汗を真っ白いハンカチでぬぐった。
◇ ◇ ◇
「ただいま」
「お帰りなさい、どうだったの、お葬式は」
「ああ、けっこう沢山来てた。あいつ、意外に好かれてたんだな」
「あら、いい子だったじゃないの。頭も良いし、優しいし。お母さん、あの子大好きだったわよ」
「なら葬式に来いよ」
「嫌よ、絶対お母さん本気で泣くもの。娘亡くした感じでさ。恥ずかしいじゃない」
母親ののんきな台詞を聞きながら、俺は二階に上がった。台所から流れてくる香りは、俺の好きな肉じゃがだ。母さんなりに、俺に気を使っているのかもしれない。そんな事を思いながら、ネクタイを外す。しゅる、と服のこすれあう音がした。
何のことは無い、俺が友達と映画に行った土曜日が終わった、その次の日だった。
突然の事故、だった。
ダンプカーに跳ねられて、そのまま、だったそうだ。飛び出した子供を助ける、なんて月並みな理由だった。俺はそんな理由で死ぬなんて、りおらしくない、と思う。けれどもしかしたら、正義の味方が大好きだった彼女には相応しい死に方だったのかもしれない。
葬式のとき、俺は、りおの遺体を見なかった。見た友人の話によると、跳ねられたとは思えないくらい、綺麗なものだったらしいが、それでも嫌だった。いっそ、ぐちゃぐちゃで、りおだと分からないもののほうが、俺は見る気になったかもしれない。遺体なんて、今にも動き出しそうで、生きているんじゃないかと、期待してしまうじゃないか。
葬式は、ひどく騒然としていて、りおが意外にも好かれていたことを知った。なんだか、あんなに小憎らしかった彼女が実はいいやつだったんだ、と知らされたようで、何だか可笑しかった。そうして笑おうと思ったら、耳元でうるさい、というあの高い声が、聞こえてきそうな気がして、笑うのを止めた。
聞こえないことが分かるのが、怖かったんだと思う。
「・・・・っ!」
口を押さえる。のどが、痙攣するようにひくついた。目の奥が、とても、とても熱い。
帰り道によった学校。いつもの場所。いつもの彼女。いつもの風景。それが見たくて、ただぼんやりとあの場にいた。
りおがきてくれるんじゃないかと、本当は、少しだけ期待していたのだ。
「・・・っ・・・っぅぁ!」
声が出そうになり、強く喉を抑えた。けれど、喉は爆発しそうな感情を抱えて、奥を焼いた。
好きだといわれたあの瞬間。
りおを受け入れていたら、何かが変わっていたのだろうか。
否、何も変わらなかっただろう。多分、あいつが嘘をつくな、とか怒鳴って、俺は殴られていたのかもしれない。同情なんか、誇り高いりおには、侮辱以外の何者でもないのだから。俺には、長い付き合いの中で、それをよく判っていた。だから、ああやって答えてやるのが、最善だったと今でも自信を持って言える。
けれど。
「・・・・っあ・・・・・っふぅ・・・・・っ・・・・・・!!」
眺めていた光景を思い出す。
愛しい彼女を見つめながら、それでも俺はりおを探していた。
横から聞こえるりおの声が、もうどこにも無いことが、どうしても信じられなかった。
テニスコートを眺めていても、もうりおの小憎らしい台詞を聞くことはないのだと。
彼女を見ていても、もうちょっかいを掛けてくるりおの笑顔は見れないのだと。
そんな、当たり前のことを認識できなかったのだ。
だって、日常は、続いていくものなんだろう?
どうして、こんなに急に変化してしまうんだ。どうして、変化なんかしてしまったんだ。
「ああぁっ・・・っぅぐっ・・・!!」
声が止まらない。喉を言葉が塞ぐ。
りおの事が、とても大切だった。
傍にいてほしかった。またくだらない言い合いをしたかった。
それは、断じて愛じゃないし、恋じゃない。りおが望む形は、俺は決して与えてやれなかったけれど。
それでも、大切だった。大切だったんだ。
今更のように、声が、涙が止まらなかった。葬式のときすら出てこなかった涙が、今じゃ止まらないくらい、ものすごい勢いで、溢れてくる。ああ、なんて。なんて。
「・・・・・・・・あ・・・・・ああああっ・・・・・・・・!!」
獣じみた声で、慟哭する。涙が、ああ、涙が。
悲しくて、仕方ない。苦しくて、仕方ない。
救えなくて、ごめん。助けられなくて、ごめん。どうしようもないことを、どうしようもなく、今になって後悔する。そんな自分は嫌いだ。
こんな自分は、大嫌いだ。
『じゃね、また明日』
その、約束の明日なんか来ないのだ。去っていった背中を、もう見ることはないのだ。今ごろ、彼女は冷たい棺の中で、花に囲まれ眠っている。明日には燃やされて、骨とわずかな灰になるのだ。
なんて、悲しい。
「ごめんっ・・・・・・・・ごめんっ・・・・・・!」
りおに、優しい言葉なんか掛けた記憶がない。優しい態度なんて、本当にしなかった。
もっと、ずっと一緒にいられると、思っていたから。これからが、ずっと続くと信じていたから。
俺は、変化を、知らなかったから。
窓の、外を見た。薄汚れた灰色の雲の切れ間から、細い細い、そしてりおのメッシュのように紅い三日月が見えた。きれい、と自分の声ではないような声で、俺は呟いた。
夜が明けたら、またいつもと同じような日が始まる。りおが欠けても、きっと日常は当たり前のように過ぎていくだろう。忘れてしまったかのように、穏やかで変わりない日々を、俺にもたらしてくれるに違いない。
俺は顔を手で覆った。皮膚に爪を立てる。痛い、と、泣いてぼやけた頭が伝えてきた。俺はまだ生きている。ぼんやりと自覚する。
あの衝動を知ってしまったら、嘘なんかつけなかった。それは、りおも判っているはずだ。りおも、その衝動を知っていたから、あの時の俺の返事に、笑ってくれたんだと思う。
「大切だったよ・・・・・・・大切だった」
そう呟く。今更ながらの台詞を。届かなくても。まるで、気休めのように、何度も、何度も。
「たいせつだったんだ」
分かっているはずだ、りお。お前だったら。
恋と愛とそれ以外に分けてしまったら、多分、お前だって残酷になっただろう?
あの衝動を、知ってしまったら、もう誰かを気遣うことも、嘘をつくことも出来なかったんだ。
こんなに後悔しても、それでも生きていけるくらい、ひどく、冷たくなれるほど。
そして、俺は階段を降りて行った。
今日の肉じゃがのじゃがいもは、美味く溶けているだろうかとか、とりとめもなく、考えながら。