魔犬サラマー その9
街路樹の葉が僅かに色づいてきた。今年も秋は短く一気に冬が訪れる気配だ。
後部座席から運転手の肩越しにフロントに目をやると、バックミラーの向こうに小さく見えている白い建物が「京都市立六道総合医療センター」だ。
正面玄関前に植えられている低木常緑樹の中に大きな置き石が横たわるようにして置かれ、「六道総合医療センター」の文字が黒く深く刻み込まれていた。
正面玄関前に一台の黒塗りのタクシーが静かに横づけされ、後部ドアが自動的に開くと、車外にスッと出た左足の黒靴がアスファルトを力強く踏みつけた。
―――
タクシーを見送った丈二は、怪訝な顔で正面玄関付近を見渡した。
「どこだ? エバは……」
樹木の向こうに見え隠れしている駐車場の端を、身を乗り出し背伸びしながら覗き込んでみたが、エバの姿はそこにも見られず、丈二は落胆した。
「……何だ? 来いと言うから急いでタクシーで来たのに、出迎えもナシか」
これではバスでもよかったと感じながら、再び周辺を念入りに見渡したが、やはり結果は同じだった。
ガラス張りの正面玄関は広く大きく、人の出入りも多かった。擦れ違う人物を一人一人確かめながらキョロついている丈二に白衣姿の男が近づくと、背後から肩をポンと軽く叩いた。
「!」
振り返った丈二が驚愕したのも無理は無い。白衣の男の正体は「地獄の十王」の中の一人、「秦広王」だった。
「秦広王」とは……。人は死んでも直ぐには地獄に辿り着かず、死後六日間は道のりの険しい「死出の旅」を続けなければならず、そして死者は、七日目にしてようやく初七日の「秦広王」によって第一回目の審判が下される。死者は七日毎に生前の罪を問う審判が、別の「地獄の十王」たちによって七回行われることになっている。
因みに、「閻魔大王」は「地獄の十王」の中の一人で、死後三十五日目の五七日の審判員であり、六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のどこに生まれ変わるかを決定する権限を持っていた。それだけでは無い。「閻魔大王」は、とげ抜き、イボ取り、子育て、子安、安産、田植え、縛り、身代わり、裸、延命、勝軍、水子、蛸地蔵などの他にも、色々な場所で色々な「お地蔵さん」に化身している。
付け加えれば、現世で一般的に呼ばれている「不動明王」の正体も、「秦広王」が化身した姿だ。
話を元に戻そう。正直に言って丈二は、いい気はしなかった。
当時のことを振り返れば、少しの怒りさえ沸き立つ。幾ら「閻魔大王」からの依頼だったからとは言え、「秦広王」は地獄の底の窯の蓋を開けると、問答無用で、いきなり丈二を灼熱のマグマの中にドブ漬けにして「焼き」を入れた。丈二を「快炎鬼」にするための行為だったとは言え、辛く苦しかった経験が丈二の頭の片隅に残っていた。その「秦広王」が丈二の目前で平然と立っている。
白衣の「秦広王」の首に掛けられていた名札には「不動」の二文字が記載されていた。
「どうして『秦広王』の『不動明王』がここに?……」
「キミが大活躍してくれたお陰で奪衣婆たちとともに『閻魔の息子の魔餓鬼』も無事に羅獄殿に戻って来たのですが、『魔犬サラマー』だけが、未だこの世に残っています」
「えッ?」
「その理由は、この私にも解りません」
「奪衣婆の話では、アララは『サラマーの耳をボールペンで貫き、脳幹を破壊してトドメを刺した』そうなのですが、どういう訳だか地獄には戻ってはおらず、この世に復活しているのです」
やっぱりそうか。この病室で若者を殺害した犯人は、紛れも無く復活した「魔犬サラマー」の仕業だった。
不動明王は説明を続けた。
「そこで、『閻魔大王』が私に依頼してきたのです。もし、キミが『快炎鬼』に戻って『魔犬サラマー』を退治したいと望むなら、再びキミに『焼き』を入れ、『快炎鬼』にしてやってくれと……」
不動明王は丈二の顔を、下から覗き込んだ。
「どうしますか? 氷室刑事……」
「…………」
即決したいのは山々なのだが、簡単に依頼を引き受ける気にはなれなかった。
振り返れば地獄の出来事を思い出し、何度となくノスタルジックになっていた。時にはリューとアララと奪衣婆を懐かしがりもしたし、快炎鬼のパワーに憧れボールペンをヘシ折ることを試みたこともあった。
地獄に落ちた時は魔餓鬼に復讐するために、喜んで快炎鬼になったが、刑事に戻った今は全く違う。真央との結婚を真剣に考えている。子供も欲しいし、親孝行もしたい。快炎鬼に戻れば極悪非道の魔犬サラマーを退治することが出来るかも知れないが、このまま普通の人間でいたいのだ。
「……断れば?」
「キミに代わって奪衣婆たちがサラマーを始末します。閻魔の息子の魔餓鬼ならいざ知らず、サラマー如きに、三人が総出で立ち向かう相手では有りません」
「だったら、アナタがお一人でやれば?」
「私は仏の身。故に、たとえそれが有益なことであったとしても、殺生は出来ません」
「だとすると俺に、サラマーを始末しろと言うのは、殺人教唆に相当するのでは?」
「キミは『天網恢恢疎にして漏らさず』と言う言葉を知っていますか?」
「知ってます」
「でしたら、話は早い。すでにこの世で人を殺めてしまったサラマーは、天に代わって『正義』と言う名の『天罰』を受けなければなりません。そして、その天罰を下すのが、快炎鬼に戻った時のキミであり、三途の川の奪衣婆ということになりますが、奪衣婆は『浄玻璃の鏡』の部屋の総括者ですから、日々、多忙な生活を送っています。故に編集したメッセージをキミのパソコンに送信したのです。どうしても無理だと断るのであれば、先ほども言ったように多忙の奪衣婆が一段落してからキミに代わってサラマーを始末しにやって来ます。その時キミは、残念ながらもうこの世には存在していないでしょう。ですが、キミが閻魔の依頼を快く引き受けるのであれば、魔犬サラマーと対等に渡り合える能力が『焼き入れ』によって再び備わるのです」
不動明王は、再度、丈二の顔を下から覗き込んだ。
「どうしますか? 氷室刑事……」
「済度し難きサラマーを、このまま自由に放置しておきますか? それとも自らの手で退治しますか?」
一方的、且つ恫喝に近い不動明王からの質問に、慌てて両手を前に突き出し丈二は、ストップをかけた。
「ちょ、ちょっと、待って下さい」
確かに快炎鬼のパワーに憧れはしたが、地獄に落ちた時と現職刑事でいる今とは状況が違う。はっきり言ってこのまま平穏に人間のままでいたい。だがしかし、不動明王の言うようにこのままサラマーをこの世にのさばらせておけば、真っ先に命を狙われるのは間違いなくこの俺だ。俺だけならいい。それだけでは飽き足らず、サラマーが次に狙うのは魔餓鬼退治に協力した同僚刑事の政岡であり、恋人の真央にまで魔の手を伸ばしてくるハズだ。現実に若者がこの病院で殺害されている。邪魔だとあれば無関係の人間でも平気で危害を加えてくる恐るべき存在が「魔犬サラマー」なのだ。今こそ「身も心も鬼にして」魔犬サラマーに立ち向かわなければならない時だ。
選択肢の余地は無い。意を決した丈二の表情は怖いほどまでに険しく変わった。「快炎鬼になります! 直ぐに『焼き』を入れて下さい!」
何も言わずに不動明王は、にっこり笑って頷いた。
―――
分厚いガラスの自動ドアが左右に開くと、仲良く肩を並べた不動明王と丈二の二人が、待合ロビーに入って来た。
待合ロビーの正面には広いスペースの受付カウンターが設けられ、その前の長イスには治療費の支払いや面会と診察に訪れた人たちが、名前を呼ばれる順番を待っていた。
待合ロビーのテレビでは、「WBC」が放送されており、侍ジャパンがアメリカに大逆転したと大盛り上がりで、面会や診察を待つ人のみならず、思わず足を止めてしまう医師やナースたちの姿もあった。
院内に響き渡った歓声に驚いた二人は足を止め、興奮冷めやらぬTV観戦中の人たちを遠くから眺めていた。
「風神の一吹きが、風に乗ったホームランかも知れませんねぇ」
「風神?」
「ええ、『風神・雷神』の風神の方です」
「風の神様が、そんなことをしてもいいんですか?」
「冗談ですよ。風神・雷神と奪衣婆との仲がいいものですからね。物はついでに風神の話しをしただけのことです」
苦笑しながら不動明王は、否定した。
いやはやこれには丈二も驚かされた。奪衣婆と風神・雷神の仲が良かったとは全くもって知らなかった。建仁寺で二曲一双の風神雷神図を拝観したことは有ったが、あれは精巧なレプリカだった。
話は逸れたが奪衣婆が風神と雷神たちと何処でどう出会って、どこまで仲がいいのか知りたいものだ。それと、有り得ない話だと分かってはいるが、風神と雷神は、今でも屏風絵のような恰好でこの世を闊歩しているのだろうか。
「一つ、伺ってもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「風神は今でも背負っている風袋から風を吹き出し、雷神は太鼓を叩いて稲光を起こしているのですか?」
稚拙な質問だと思わず吹き出しそうになった不動明王は、苦笑しながら応えた。「あれは江戸時代の『俵屋宗達』という絵師がイメージしたコスプレであって、風神も雷神も人の目には見えない存在です。風神のためにも断っておきますが、竜巻や台風などは自然現象であって、風神が起こしている現象では有りません」
笑顔で説明が終わった不動明王は、これ以上は問答無用とばかりに別病棟に向かってそそくさと歩き始めた。
不動明王は「焼き」を入れると言っていた。奈落の底では地獄の窯の蓋が開いて焼きを入れられたが、ここは病院だ。どこでどう「焼き」を入れるのかと聞く間も無く、慌てて丈二は前を行く不動明王の後を追った。
―――
待合室では大勢の患者たちが長イスに座って順番を待っていた。
外科診察室のドアが静かに開くと、事情聴取と診察を終えた静香がスッキリと
した顔で出て来た。
待合室からロビーに向かう廊下で静香は、医者の向こうで見え隠れしながらロビーから別病棟に向かう丈二の姿を目撃した。
「あッ! 丈二さんだ!」
足早に駆け寄った静香は丈二の姿を再確認しようとしたが、すでに二人の姿は無かった。廊下の正面は頑丈なステンレスの手摺りで仕切られたガラス張りで、緑が多い中庭の見える突き当たりになっている。右か左の角を曲がったようだ。「私の視力は抜群。さっきの人は間違いなく、丈二さん」
患者やナースたちが行き交う廊下で佇みながら静香は、スマホを片手に思案にくれていた。
「……聞き込みのような雰囲気で無かったわ。丈二さん、どこかが悪くて検診に来たのかしら? これって、真央に聞いて確かめた方がいいのかな? それとも、知らない振りして、何も聞かない方がいいかな?」
そのまま暫く考え込み、やがて曇り顔から晴れやかな表情に変わった静香は、足取りも軽く通話が可能な中庭に向かった。
―――
小百合と真央は、参拝客の多い「安井金比羅宮」(やすいこんぴらぐう)の境内にいた。
安井金比羅宮は東山の山麓に位置していて、通称「縁切り神社」とも呼ばれ、境内には「縁切り縁結び碑」と呼ばれる巨石があり、石碑の穴をくぐるとご利益を得られると、京都屈指の人気パワースポットとして多くの人たちに親しまれている。
因みに、祈願の作法として、参拝者は形代と呼ばれる人形に願い事を書き、それを持って穴をくぐる。最初に表から裏へくぐることで悪縁を断ち、次に裏から表へくぐることで良縁を結ぶことができ、最後に形代を碑に貼り付けて祈願は完了する。祈願をした人たちのお札によって、巨石は見えなくなっている。
真央と一緒に離れた場所から参拝客たちを眺めていた小百合が、怪訝な顔で尋ねた。
「あんた、どうして並ばないのよ? 折角、ここまで足を運んだのに……」「今は無理みたい。私は良縁だけを願って裏からくぐり抜けたいのだけど、こうして見ていると、穴を往復している人たちばっかりのようだから……」と苦笑した。
と、その時、軽快なメロディーとともに真央のスマホが上着のポケットの中で鳴った。
取り出したスマホの画面には、「静香」の二文字が表示されていた。
「あら、先輩からだ」
ボタンを押した真央は、素早く耳に当てた。
「今どこ? 病院?」
元気な静香の声が返ってきた。
【そうなの。『六道総合医療センター』にいるの。真央が以前に入院してたでしょ。あの病院】
「で、どうだった? あのキズ、ほんとに『かまいたち』に襲われたキズだった?」
【分かんない。事情聴取されて、写真撮られて、キズに軟膏塗られてそれで終わり。私、これから寮に戻るつもりだけど、ところで丈二さん、どこか悪いところでも有る?】
「ある、ある。悪いところばっかり。特に性格」と、真央は冗談交じりに応えた。
待合ロビーの後方の長イスの端に一人で座り、真央と会話していた静香の表情が、一瞬、険しくなった。
「茶化してないで、真面目に応えなさいよ! 私、悩んだ末に思い切って聞いているンだから……」
【ごめんなさい】
笑顔だった真央の表情も、次第に怪訝な顔へと変わっていった。
「でも、どうしてそんなこと聞くの?」
【私、見たのよ。この病院で、丈二さんの姿を……】
「えッ? ウソでしょ?」
静香の口調はきつかった。
【ウソだと思うんだったら、その目で確かめて見なさいよ!】
「分かった。私、行くわ。今から……」
話し終えた真央は、改めて丈二への送信履歴を確かめた。メールは未読のままだった。
病院にいるからマナーモードにしているに違いない。魔犬サラマーが女性に変身していることを早く知らせなければ大変なことになる。
六道総合医療センターは大病院だ。丈二と出会える確率は万に一つかもしれないが、サラマーが変身していることを知っていながら、このままやり過ごすワケにはいかない。事が起きた後で後悔するのが怖かった。
小百合が心配顔で聞いてきた。
「静香さん、どうだった?」
「全身に『かまいたち』の毒が回ったンだって」
「ええーッ!」
真央は笑いながら言った。
「ウソよ。でも私、心配だから先輩のいる病院へ行くけど、お母ちゃん一人でホテルに戻れる?」
「戻れるわよ。子供じゃないんだから……」
安井金比羅宮の境内で、小百合と真央は左右に別れた。
風雲急を告げる六道総合医療センターへ、何も知らない人間が、またも一人加わることになった。
続く




