魔犬サラマー その7
悠然と座していたギドンは、サッと左の腕を頭部まで上げてブロックすると、パイプは乾いた金属音を上げて大きく弾かれ、石畳の路上に音を立てて転がった。
予期せぬ出来事にサラマーは驚いた。ギドンを強打したパイプの先端近くが「への字」となって折れ曲がっていた。
「流石は祇園のドンと呼ばれる『化け猫』ね。筋肉も鍛え上げれば殴りつけてきた角材だって折れるんだから、パイプが曲がったと言っても別に目を丸めて驚くほどのことでも無いけど、ギドンが鋼鉄の筋肉の持ち主だったとは、意外だったわね。そうと分かれば簡単に捻り潰してやるのも面白くなくなった。『ぼんぼり』を引っこ抜いた怪力と鋼鉄の筋肉をリスペクトして、運動がてらに現在の次元で相手してあげるから、さあ、かかってらっしゃいな」
苦々しく舌打ちしながらギドンは、ゆっくりと身を起こした。
「ふざけやがって……。大きな口を叩けるのも、今の内だ」
「食らえ!」
大きく口を開けて牙を剥き、顔面を狙って、一歩前に踏み込んだギドンは、強烈な右のフックを見舞ったのだが、サラマーに軽く躱され、パンチは虚しく空を切った。
ギドンの格闘技はムエタイだった。左右のフックと横膝蹴りで攻撃を続けたが、攻撃はことごとく避けられ、糠に釘、暖簾に腕押し状態であった。もとより、サラマーが時空間を自由に瞬間移動出来ることをギドンは知るよしも無く、気抜けしたギドンは、攻撃するのを一旦止めた。
「なぜ、かかってこねー?」
「最初から言ったハズよ。直ぐに終わらしちゃったら、少しも面白くないって……。だから安心しなさい。さんざ遊んで楽しんで、後でゆっくり始末してあげるから……」
バカにされたギドンの怒りは凄まじかった。
「ふざけンじゃね―ッ!」
地面を蹴ったギドンは大きく前に跳び上がった。狙うはサラマーの顔面だった。今度こそ飛び前足蹴りが確実にヒットするのを感じ取ったギドンは、奇声に近い歓声を上げた。
「ア、チョ―――ッ!」
威勢のいい掛け声は、ギドンと共にサタマーの頭上を虚しく通り過ぎて行った。必殺のギドンの飛び前足蹴りは、又しても、間一髪でヒョイと軽くしゃがみ込まれ、儚く徒労に終わった。
苦々しい思いだったが、ギドンが一撃で仕留められなかったのは事実だ。
「見事だ。褒めてやるぜ」
「嬉しかないよ。あんたクラスに褒められても……」
「相変わらず、口の減らねー野郎だ」
ムエタイから両の拳を胸元に近づけ、ボクシング・スタイルに変更したギドンが身構えると、手刀を胸元近くで斜に構え、空手スタイルで応戦したサラマーは、大きく気合の掛け声を入れた。
「あ、トンボ!」
「何だ? それ……」
「あんたが『あ、蝶』って言いながら蹴って来たから、あたしは『あ、トンボ』にしたの。『あ、カブトムシ』の方がよかったかしら?」
笑顔でからかわれたギドンは怒り心頭。
「ふ、ふざけやがって! この野郎――ッ! 生かしちゃおけねーッ! ぶっ殺してやるぜ!」
数メートル横の「への字」に折れ曲がった鉄パイプに気付いたギドンは素早く近づきパイプを掴み取ると、物凄い形相で襲いかかって行った。
「死ね―――ッ!」
「あら、怖い」
オーバーにおどけて怖がるサラマーの脳天を狙い、大きく跳び上がったギドンは、スイカを叩き割るようにして上段の構えから一気に襲いかかったが、サラマーは、サッと頭上に両手を上げ、振り下ろされてきた鉄パイプを受け止めた。
柔軟なサラマーの手首は強烈に振り下ろされたパイプの勢いを全て吸収し、頭蓋骨が砕かれるのを見事に防いでいた。
「な、なに―――ッ!」
サラマーはパイプを受け止めた手を瞬時に握り変えると、そのまま大きく振り被ってギドンもろとも振り下ろした。
パイプを掴んだままのギドンは尻から石畳に無様な姿で叩きつけられ、尾骶骨を強かに打ちつけた。
筋肉ではない尾骶骨の一撃は、弱点一発キメられたようなものだ。
「アッヒ―――ッ!」
ギドンからパイプを奪い取ったサラマーは、気力を失くして路上でへたり込んでいるギドンを余所に、クルリと向きを変えると、花見小路で争う二人を見物していた観光客たちに向かって投げつけた。
サラマーがパイプを投げたことも知らず、戦いの真偽を確かめようと二人に近づく真央の母親の小百合の姿がそこにあった。
―――
「危ないわ。お母ちゃん」
小百合の手首を素早く掴んだ真央は、半ば強引に小百合を引き戻した。
「あの二人、ホントにケンカしているみたいだから、戻ろう」
と、その時、前方から数名の悲鳴が同時に上がり、必死でこちらに逃げて姿を目撃した真央たちは、思わず足を止めた。
騒ぎの原因が何なのかがサッパリ分からず、二人は右と左に散らばって逃げてくる大勢の観光客たちを傍観しているだけだった。
サラマーが投げつけたパイプのスピードは飛んで行くスピードよりも回転するスピードの方が速く、空飛ぶ円盤のようにふわりと宙に浮き、ゆっくりと観光客たちに向かって飛んで来た。
異様なパイプの飛行は観光客にとって不気味であり、恐怖そのものだった。
歌舞練場へと続く通りの出入り口近くは多くの観光客たちで犇めき合っていた為、左右にだけしか逃げることが出来ず、一人の大柄な外国人女性は甲高い悲鳴を上げながら横に立っていた静香を勢いよく突き飛ばすと、静香はそのまま路上に倒れた。
逃げ惑う多くの観光客たちは、起き上がろうとしている静香を容赦無く全身を踏みつけにした。観光客たちは静香に躓いては倒れ、またその上から将棋倒しで倒れ込むといった連鎖反応が続き、花見小路は大パニックに陥りカオスと化した。
呆然と騒ぎを見ていた真央と小百合は、痛々しそうに顔を歪めながら、ゆっくりと身を起こしている静香に気付くと、慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
やや肥満で頑丈な体形の静香は、大きく乱れた髪と服装を整えながら、真央の問いに笑顔で応えて見せたが、一筋の鼻血が片方から流れ出た。
「何があったの?」
「わかんない。私、真央の方を見ていたから……」
三人が改めて周囲を見渡すと、手足を骨折した者はしゃがみ込み、頭部や胴体を負傷したと思われる観光客たちは倒れ込み、大きな呻き声と泣き声を上げながら早急なる救助を求めていた。現場は死者こそいなかったが、怪我人多数の大事故になっていた。
―――
話は少し遡る。
サラマーが投げつけた「への字」型のパイプはフリスビーのように水平に、猛スピードで回転しながら花見小路の観光客たちに向かって飛んで行き、皆を仰天させて大パニックに陥らせたが、広い通りの中ほどからパイプは角度を変えて急激に上昇し、ブーメランのようにサラマーに向きを変えた。
戻って来るパイプのコースを瞬時に見定めたサラマーは、へたり込んでいるギドンを羽交い締めにした。
「な、何をするンだ!」
「お別れの時が来たの」
「なんだとォ?」
「だから言ったでしょ。あんたを好きな時に始末するって……」
「き、聞いてねーッ! 離せッ! 離しやがれッ!」
必死で藻掻き続けるギドンの抵抗が、突如停止する。
この時サラマーは、異次元の世界に入っていた。
ブーメランとなって戻って来ていたパイプは頭上の5、6㍍近くにまで迫っていた。ギドンから身を離したサラマーは、マネキン人形化しているギドンの背後から両肩を掴むと、パイプの位置と角度を確かめながら、硬直しているギドンの身体の向きを変えた。
「何事においてもね。大切なのよ、修正と調整は……」
ギドンを動かしたサラマーは、次に宙に浮かぶパイプを見上げた。
「修正しておかないといけないわよね。こっちの方も……」
ギドンの頭上近くで停止したパイプに手を伸ばしたサラマーは、軸を半回転させると「ヘの字」になっているパイプの短い方の先を、ブタ鼻に潰れたギドンの鼻先に近づけた。
後ずさりしてギドンから遠ざかったサラマーは、にっこり笑って小さく左右に手を振った。
「グッバイ、ギドン」
それがギドンに送った最後の言葉だった。
サラマーが声を掛け終わると同時に異次元は元の現次元に戻ると、軸と方向を変えられたパイプの先端が、ギドンのブタ鼻を深く突き刺した。
ギドンの身体はフックで引っ掛けられたようにパイプと共に大きく宙に放り出され、空中で2、3度クルッ、クルッと回転すると、ギドンの身体は腹ばいの「大の字」状態で石畳の上に激しく叩きつけられた。
筋肉質で鋼のようなギドンの身体は原型を失くし、濡れ雑巾を床に叩きつけたかのように、ベチャッと平坦に四方八方に伸び切り、虎の皮の敷物のように成り果てた。
遅れて落下して来たパイプは、ギドンの遺体の上に音も無く転がった。
変わり果てたギドンの姿を冷ややかに見ていたサラマーは、吐き捨てるように呟いた。
「私に刃向かったヤツは許さない。消えてお終い、この世から……」
サラマーがそう呟いたのには理由があった。嘗てサラマーは、二度ゴジラのように炎を噴いたことがある。一度目の火はサラマーがまだ魔犬の姿で「魔火丸」だった時、「六道珍皇寺」の境内で真央と丈二に向かって火炎放射器のように10㍍ほどの火を噴き、二度目は「六道総合医療センター」の病室だった。
905号室のベッドの上で瀕死状態だったアララは渾身の力を込め、女医に扮していたサラマーの耳をサインペンで突き差した。ペン先はサラマーの視床下部と海馬を壊滅させただけでなく、脳幹をも突き破って脳内に大出血を起こさせた。
思考回路を切断されてしまったサラマーは、即死に近い状態で暫くは声も出せずに項垂れたままで身体を硬直させていた。
ダラリと下げたサラマーの両手足から剛毛が一斉に生え出すと、アッと言う間に元の「魔犬サラマー」の姿に戻った。下げていた頭を勢いよく上げた魔犬サラマーは、天井に向かって火炎放射器のように火を噴いた。
サラマーにとって一度目の噴射は「お遊び」程度の軽い噴射だった。二度目の噴射は最期を迎えた断末魔の弱い噴射で終わってしまったが、今回ばかりは全く違う。
口を大きく開けたサラマーは、ギドンの遺体に向かって火を噴いた。
その火力は凄まじく、ジェットエンジンの噴射を思わせるほどの激しい炎の噴射だった。それは炎と言うよりも、光を思わせるレーザー光線のように白かった。
金属を溶かしてしまうほどの灼熱の炎を浴びたギドンの遺体は、真っ赤に燃え上がることも無く、蝋が溶けるよりも早く揮発して消えていった。
揮発した跡にはギドンの焼け焦げた遺体も、「ヘの字」型の鉄のパイプさえも残されてはおらず、サラマーの言葉通りに瞬時にしてこの世から消滅した。
儚くも呆気ないギドンの最期だった。
「祇園のドンの『妖怪ギドン』だから、飽きたら一気に『溶解』してやるつもりだったけど、ちょいとばかり思いついたのよね。ブーメランで始末するのも面白いかな・・・ってね」
ギドンを偲んでいた訳でも無いがサラマーは、暫くその場で佇みながら、ギドンが残した言葉を思い出していた。
「何を知りたいのか分からねーが、そんなに知りたけりゃあ、俺に聞くより『生の六道』へ行って聞きやがれ!」
納得したようにして、サラマーは頷いた。
「そうよねぇ。私が復活したというだけで、魔餓鬼存在の有無も快炎鬼の存在だって、何一つとして手掛かりが残されていないんだから、もう一度、戻ってみようかしらねぇ。『生の六道』の病院へ……」
通りの両サイドには多くの町屋造りの民家が建ち並んでいる。通りの奥の2階建ての民家を見たサラマーは、地面をポンと蹴って跳び上がると、一足飛びで民家の瓦屋根の上に飛び移った。
民家の近くには4階建ての小さなマンションが建っていた。矢継ぎ早に瓦屋根からマンションの屋上に飛び移ったサラマーは、更に跳び上がって近くに建っている白壁の6階建てのビルの屋上に飛び移った。
金網が設置されていないビルの屋上の縁に立っていたサラマーの姿が、スッと消えた。隣のビルに飛び移ったか、それとも地上に舞い降りたのかは分からない。分っているのは只一つ。それはサラマーが『生の六道』の『六道総合医療センター』を目指していることであった。
『六道総合医療センター』では、丈二が来るのを奪衣婆が、今や遅しと待っている。そして今、サラマーの行動を知らない丈二は、『六道総合医療センター』に向かっている。
二人が出会うのは時間の問題であった。
続く