魔犬サラマー その5
刑事部屋の通常は、刑事の多くは出払っていて閑散としているものだが、この日ばかりは少し違っていた。長引いていた朝の捜査会議が終了すると、刑事たちは部屋に居残り、各自の職務に勤しんでいた。
静かにイスを後ろに引いて席を立った政岡は、奥のデスクの課長の前で立ち止まると、思い詰めたような険しい表情で、声を押し殺しながら話しかけた。
「課長……」
パソコン画面を見ていた課長の遠藤は、マウスから手を離すと只ならぬ様子の政岡を怪訝な顔で見上げた。
「……なんや? どないしたんや、急に改まって……」
「丈二が心配です。おかしいんですよ。今日も……」
「どういうこっちゃ?」
つかつかとデスクの横に歩み寄った政岡は、課長と同じ向きと同じ目線で、丈二のデスクの方を見た。
「見ていて下さい。丈二の様子を……」
―――
二人から疑惑の視線を向けられているとも知らずに丈二は、両手で頬杖をつき、机上に置かれたディスクトップのパソコン画面を深く見つめながら、ブツブツと呟いていた。
「同じ病院、同じ病棟、同じ病室で殺人事件が起きた。……それも、人間業とは思えないほどの酷い殺し方だった。あの病室で『魔犬サラマ―』が復活していたとしても不思議ではない。現にこの俺が刑事として復活しているんだから……。だとしたら、『閻魔の息子の魔餓鬼』だけでなく、『リュー』や『エバ』や『アララ』だって復活してても、おかしくはない」
パソコン画面からゆっくりと身を離した丈二は両手を頭の後ろで組むと、茫然と天井を見つめた。
「……なぜだ? この世にいるのなら、なぜ会いに来ないんだ? 『三途の川の奪衣婆』たちは……」
身を元に戻した丈二は両腕を組み、険しい表情でパソコン画面を覗き込んだ。「エバもアララも姿を見せないってことは……。この世に復活したのは、俺とサラマ―だけってことか?」
―――
丈二を凝視していた課長の遠藤は、デスクの横に立っている政岡を不審な顔で見上げた。
「どこがおかしいねん? 普通やないかい」
「電源が入ってないんですよ。丈二が覗き込んでいるパソコンは……」
課長の血相が変わった。
「なんやて?」
「ほたら、何かい。丈二は電源の切れたパソコン画面を見ながら、なんや知らんけど、ぶつくさ喋ってるっちゅう事かい?」
丈二を直視していた政岡は、がっくりと肩の力を落として視線を床に向けた。
「そうです。残念ながら……」
課長は腕を組み、困惑した顔で丈二を見直した。
「う~む。困ったこっちゃのぉ」
両手をドンとデスクの上に置いた政岡は、深刻な表情で相談した。
「今のところ仕事に大きな支障はきたしてませんが、このまま丈二を放置しておけば、いずれ大きなヘマをやらかす恐れがあります。もし、ヘマを起こしてしまえば、そのヘマは丈二の命に係わるかも知れません。脳の血管の一部が詰まっていることも考えられますので、丈二を諭して、一度、病院で精密に検査して貰った方がいいのでは……」
「待て!」
「えっ? なんで待つんですか?」
「あいつはあいつなりに、何か考え事をしとるんやろ。パソコンの電源に関係なく、ブツブツ言うのは誰にでもよう有るこっちゃ」
「そうでしょうか?」
「ワシはそう思うとる。それに、丈二は以前よりはかなりようなってきとる。そやさかいに、もうちょっと様子をみたらどないや?」
不満顔で無言の政岡を、課長は囁くようにして優しく宥めた。
「いつでも連れて行けるんやから。病院には……」
僅かに頬を膨らませて身を元に戻した政岡は、不承不承納得した。
「分かりました」
―――
両手を頭の後ろに組んでイスから反り返っている丈二は、焦点の定まらぬ目で天井の一点をぼんやりと眺めていた。
「サラマ―が俺を探し出し、始末するのは時間の問題だ。探し出された時点で、俺は何も出来ずに、ジ・エンドってことだ」
「あー、俺は死にたくねー。未練はこの世に一杯だ。刑事の仕事も続けたいし、真央と結婚もしたい。我が子の顔も見たい。一度は死んだ身だ。閻魔さんは諦めろと言うかも知れないが、未練たっぷり、諦め切れないのが実情だ。何としてでも俺は生き延びたい」
「ああ~~。俺はまだまだ死にたくねー。誰かこの俺に、『快炎鬼』としての力を与えてくれ―――」
丈二のデスク前の小さな本棚の上には資料が雑多に置かれている。深い嘆きと大きな溜息を付きながら身を起こした丈二は、課長の元から戻って来た政岡に資料越しで気付くと、「ニッ!」と笑った。
「笑うな」
「えッ?」
驚く丈二にぶっきらぼうに応えた政岡は、むっつりと不機嫌そうな顔で席に着いた。
「なぜダメなんだ? 俺が笑うと……」
「お前が笑うと、俺は悲しい」
「…………」
近頃、丈二に対する政岡の態度は氷のように冷たい。冷たい態度は政岡だけではない。刑事部屋全体にひんやりとした冷たい空気が漂っているのを丈二は知っていた。
「この悪い空気はアトで必ず修復出来る。だが、どうすることも出来ないのがサラマ―の行動だ。俺だけの危害で済めばいいが、真央や政岡たちだけでなく、全く関係の無い一般市民までもが巻き添えを食らい、サラマ―の毒牙にかかることの方が余程恐ろしい」
刑事たちの目も憚らず、再度、両手を頭の後ろに組んだ丈二は、天井の一点を見つめながら、小さな声で嘆いた。
「戻りたいぜ。快炎鬼に……。解決するんだ。何もかも……」
―――
大勢の観光客たちでごった返している祇園・花見小路の道の端を、真央たち三人はゆっくりと前に進んで行くと、前方に祇園甲部歌舞練場が見える通りの入り口に差し掛かった。
広い通りの両サイドに、支柱はパイプで上部は五角形、鮮やかな朱色に塗られた数本の「ぼんぼり」に、真央の母親の小百合が気付いた。「都をどり」と書かれた「ぼんぼり」は、花見小路の両サイドにも多く設置されていたのだが、小百合は人波で気付くことはなく、人通りの少ない甲部歌舞練場に通じるこの通りに出て、今さらのように驚いた。
「あら、綺麗な『ぼんぼり』ね。以前もこんなの有ったかしら?……」
「お母ちゃん。いつの話をしているの?」
「そうね。平成の終わりか、令和の初め頃だったかしら」
「ふっる~~」
「古いことをバカにしてはダメ。古を訪ねて新しきを知る。意味は少し違うけど、『温故知新』に共通すると思いなさい」
「は~い」
「は~いではないでしょ。はいと言いなさい。はいと……」
「はい」
母と娘の会話を傍で耳にしながら、歌舞練場へと続く通りの奥で、「ぼんぼり」を引っこ抜いた虎顔の男と、スレンダーな若い女性が睨み合っている場面を目撃した静香は、小首を傾げた。
「テレビか映画のロケでもやってンのかしら? こんな所で……」
呟く静香の目線の先を見た小百合は
「間違いないわ。あれは子供向けのテレビのロケで、タイガーマスクの男性が『ぼんぼり』を引っこ抜き、武器を持たない華奢なヒロインを襲うシーンなのよ。だから、あの『ぼんぼり』だって作り物の張りボテよ。真央、捜してごらんなさい。きっと、どこかのビルの屋上から隠し撮りをしてるから……」
小百合の言葉に真央は、周囲の建物の屋上をグルリと見渡したが、スタッフの姿は見つからなかった。何度も周囲を見渡した真央は、まったく姿を見せないスタッフたちに、改めて感心させられた。
「隠し撮りだったら、マジに凄いわね。どこのビルの屋上から撮っているのか、サッパリ分からないわ」
―――
相変わらずイスに座って身を後ろに反らし、両手を頭の後ろに組んだ丈二は、天井の一点を見つめながら、快炎鬼に戻れないことを深い溜息と共に憂い、嘆き悲しんでいたが、突然吹っ切れた。
「今さら、嘆いたところでどうなるものでもねぇ。成るようにしか成らねぇんだ」
身を元に戻して姿勢を正すと、パソコンの電源を入れた。
画面がパッと明るくなると同時に、自称エバこと奪衣婆のバストアップ映像が映し出された。
「!」
にっこり微笑むエバの画像に仰天し、丈二は声すらも出なった。
微笑む画像は急激にズームアップした。
急拡大されてゆくエバの顔面は画面内に収まり切らず、画面から食み出すほどに大きくなっていった。
「うわあ―――ッ!」
大声を出して勢いよく後ろに仰け反ると、腰かけていた丈二のイスは吹っ飛び、背後の刑事に激突して倒れた。
小さなパニックを起こした丈二は、イスが吹っ飛んだことを知らずに、そのまま腰を落とすと、激しく床に尾骶骨を打ち付けた。
「あひーッ!」
刑事部屋に居た全員が、丈二の悲鳴と状況に驚いた。
パッと無言でイスから立ち上がった課長の遠藤は青ざめた。
「アカン。あいつ、マジでヤバなってきとるがな」
身を乗り出した政岡が、デスクの資料越しに心配顔で声をかけた。
「どうした?」
「いや、何でもない」
「……大丈夫か?」
「大丈夫だ」
強烈な痛さで顔を大きく顰めていた丈二は、作り笑顔で政岡に応えながら起き上がろうとデスクに手を伸ばした時だった。デスクから半分ほど食み出ていて宙ブラリンになっていたキーボードに手を乗せると、ボードは勢いよく反回転し、ボードの角が丈二の前頭部を直撃した。
「あた―――ッ!」
丈二は、またも大きな声を上げた。
痛む前頭部に手を当てながら片手で丈二がボードを拾っていると、後ろの席の森野刑事が転んでいたイスを起こし、にっこり笑いながらイスを押し戻してきた。「色いろと一人で楽しんでくれているのは結構なこっちゃけど、ここは遊園地とチャウんやから……」
素早く起き上がった丈二は、恐縮しながら平身低頭の平謝りで、全員に次々と頭を下げて詫びて廻った。
「失礼しました」
「お騒がせしました」
「申し訳ありませんでした」
苦笑する刑事も中にはいたが、殆どの刑事は無言で手を軽く上げ丈二の詫びに応じていた。だが、課長の遠藤だけは、諦念に至る面持ちで丈二を見つめていた。
「…………」
パッとデスクに両手を付いた丈二は、グッと半身を前に乗り出し、軽く政岡に頭を下げた。
「すまん」
「よくあることだ。気にするな」
つれない政岡の態度だが、それも仕方が無いことだ。誰の所為でもない。すべての責任は自分に有ると自覚していた丈二は静かに席に着くと、深く大きな溜息をつきながらマウスに手をやった。
「……ダメだ。幻覚まで見るようになっちまったぜ。病院へ行って一度、診て貰った方がいいのかも? 俺自身の為だけでなく、真央や京都市民の為にも……」
丈二のディスクトップは23㌅の大型画面だった。待ち受け画面の背景は全体が淡いブルー一色で、当月のカレンダーが画面の右下の隅にハガキサイズで表示されていた。マウスを左クリックしたその時だった。画面中央部分にハガキより少し大きいサイズの映像が映し出された。その画面に映し出された映像は、再び大声が出そうになるほどに強い衝撃を受ける映像だった。
「!」
口に両手を当てがいながら身を竦め、こっそりと周囲の状況を探ったが、全員が仕事に没頭していて、丈二の不審な行動に気付いている者は誰もいなかった。
安堵した丈二は口元から手を離すと、恐る恐る画面に顔を近づけた。
その映像は、丈二が「快炎鬼」だった当時の動画だった。
黒光りする床に俵屋宗達作の「風神・雷神の屏風絵」のレプリカが実物大でセットされ、青龍偃月刀を右手に持った快炎鬼が仁王立ちで立っていた。
動画に音声は無く、刃先をグイとカメラに差し向けた快炎鬼の表情は、強い口調で丈二に命令しているように見えた。
動画とともに画面の左に白文字のテロップが大きく映し出され、文字は下から上にスタッフロールしながら流れ続いた。
【氷室丈二に告ぐ】
【俺の名前は快炎鬼】
【生の六道へ来い!】
「なんだよ? これは……」
動画はそれだけでは収まらず、なおも続いた。
右手に持った偃月刀を横にグイと突き出し柄を快炎鬼が床にストンと置くと、屏風絵の上部に止まっていた白頭ガラスの懸衣翁がパッと飛び立ち、快炎鬼の右腕に舞い降りた。
カメラに向かって懸衣翁が嘴を大きく開くと、画面に見入る丈二を嘲笑うかの如く、無声であったがリズムよく歌っているように見えた。
【丈二はきっと来る来る】
【クルクルクルのパーだから……】
懸衣翁が言い終わると、スタッフロールアップしていたテロップの白文字は消え、二人の姿もフェードアウトすると、画面は元の淡いブルーの待ち受け画面に戻った。
「これは奪衣婆の仕業だ。魔餓鬼を誘き寄せるために俺たちが作った動画に少し手を加えただけだが、国際的なサイバーテロにも対応出来る京都府警の万全のセキュリティシステムを難なくハッキング出来るのは『三途の川の奪衣婆』のエバしかこの世にいない。あの動画はハッカーのエバが俺に送った自動ショートメッセージだ」
丈二の顔がサッと変わった。
「冗談じゃねーッ! エバとサラマ―がこの世にいるってことは、『閻魔の息子の魔餓鬼』も復活しているってことじゃないか!」
再度、腕を組んだ丈二は、険しい顔で深く考え込んだ。
「……ダメだ」
「魔餓鬼が復活していても、今の俺は『快炎鬼』としての力を失くした只の刑事だ。そんな俺が、『生の六道へ来い』などと言われても、あっさり行けるワケがないじゃないか」
「……行ったところで、無力のこの俺にどうしろと?」
小声で自問自答している丈二の背後に、何者かが音も無く立った。
丈二がゆっくりと振り返ると、その人物の顔を見て驚いた。
「あッ!」
続く




