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魔犬サラマー その4

 花見小路から歌舞練場へ通じる幅広い石畳の通路は人通りも無く静かだった。その静かな石畳の通りに、若い三人の女性たちが入って来た。

 彼女たちの職業はすぐ判明した。振り袖姿にだらりの帯で、「割れしのぶ」の髪型にいろどりあでやかなかんざしを差し、左の小脇に風呂敷包みを大事そうに持ち、厚底あつぞこの「おこぼ」を履いていた。       

彼女たちの職業は国内外の人々が熟知している「舞妓さん」たちだ。

 歌舞練場に向かっていた三人は、花壇の前で対峙しているギドンとサラマ―に気付いた。

「あらまぁ。 あんなところに猫ちゃんが……」

「お姉ハンを睨みつけてはるようどすけど、何かケッタイな様子どすなぁ?」

「ほんまどすなぁ。今にも飛びかかって行きそうな気配どすなぁ」

 無言で対峙しているギドンとサラマ―を怪訝そうな顔で横目に見ながら三人は、薄緑色の屋根をした大きな門構えの祇園甲部歌舞練場の建物の奥に消えた。

―――

 長い沈黙が流れた。しびれを切らしたかのように、口火を切ったのはサラマ―の方だった。サラマ―は小さな笑みを浮かべながら優しく尋ねた。

「教えてよ。知っているなら、魔餓鬼のことを……」

「は?」

 隙を狙っていたギドンは予想外の質問をされ、すっかり出鼻をくじかれた。拍子抜けした顔で、サラマ―の問いに応える。

「……何のことだ?」

 スカされたと感じたサラマ―は、ケンカ腰でギドンを怒鳴りつけた。

「閻魔の息子の魔餓鬼のことよ! 何度も言うけど、あんた私を『生の六道』まで道案内してくれたじゃないの! トボけるのも程々にしなさいよ!」

「トボけているのはテメーの方だ。何を知りたいのか分からねーが、そんなに知りたけりゃあ、俺に聞くより『生の六道』へ行って聞きやがれ!」

 サラマ―の表情が一変した。

「あんたホントに魔餓鬼の消息を知らないってのかい!」 

「くどい!」

 その一声が合図だったかのように力強く後ろ足で路面を蹴り上げたギドンは、サラマ―の顔面を狙って大きく跳びかかった。

 風を切る音が聞こえる程の鋭い瞬発力だった。

大きく牙を剥き、鋭い爪を立てながら襲いかかったギドンの右前足は、すでにサラマ―の左の頬の近くにまで迫っていたが、ヒョイと身を反らしたサラマ―はそのままの態勢で後ろにポンと飛び退き軽やかに攻撃をかわした。

 サラマ―の鼻先をかすめたギドンの右フックは虚しく空を切ったが、音も無く着地するとギドンの容姿が急激に変貌した。

 一瞬にして体形が増大すると、顔面は虎、首から下は人間に変化へんげしたのだった。

 変化したのは身長だけではなかった。地味でくすんだ縦縞模様の単衣の着物の上から濃紺のニッカポッカを履き、足元は紐付きの黒いシューズ、着物の上にまとっている黒マントは裏地の黄色がチラチラと見え隠れして、着物からみ出していた腕は毛むくじゃらの大男となった。

「何なのよ? それは……」

 思いもよらぬギドンの変身だったがサラマ―は、まったく驚きの表情を見せず、小さな笑いさえも見せていた。

「茶トラの猫だったから、顔は虎で、マントは虎に似せた黄色と黒の人獣に化けるなんて、も少し頭のいい化け猫かと思ってたけど、バッカみたい……」

「なんだとォ?」

 更なる揶揄でギドンを煽る。

「笑いがこみ上げるほど、アンバランスな顔と身体になっちゃったわね。人なら人。虎なら虎。どっちかに化けてみなさいよ! このスカタン!」

「うるせーッ! 何に変わろうと俺の勝手だ! テメーにとやかく言われる筋合いはねーッ!」

 一瞬の隙を突いたギドンはサラマ―の顔面を狙い、次々と左右のフックで襲い掛かって行ったが、ギドンのパンチはことごとく軽く身をかわされ、空しく空を切る音を残すだけだった。

小馬鹿にした笑いを見せながらサラマ―は、ギドンの怒りを煽り立てた。

「小手先だけの貧弱な猫パンチそのまんまじゃないの。せっかく化けたんなら、もっと凄いスピードで私に襲いかかってきなさいよ」

 すべての攻撃を軽くかわされ続けたギドンの怒りはいよいよ頂点に達し、怒鳴りつけるようにののしった。

「逃げるだけしか、能がねーのか! まともに闘えねーのなら、とっととこの場から消え失せろ!」

「別に逃げてるワケじゃないの。祇園のドンと呼ばれるほどの妖怪猫が、どれほどの実力なのかを事前に知っておきたかっただけよ」

サラマ―の笑顔が、一瞬にして消えた。

スッと一歩、ギドンに近づいたサラマ―は、クルリと背を向け振り向きざまに右手の握り拳でギドンの鼻っぱしを殴りつけた。

ガツンと鈍い音とともにギドンの虎の顔はグイと真横を向き、身体は真っ直ぐに、左に大きくふっ飛んでいった。

 コンクリート製の花壇に左の側頭部を激突させると、花壇ブロックは乾いた音とともに砕けて土がドッと零れ落ち、ギドンは花壇の近くにブッ倒れた。

「あらま、凄い石頭。……でも、感心するのはそこだけ。ギドンがウドンのように伸びてしまうなんて、洒落にもならないわね」

 吐き捨てるようにつぶやいたサラマ―は、起き上がろうと僅かに身を動かすギドンに軽蔑の眼差しを向けた。

―――

 国内外の観光客たちで終日賑わっている花見小路の人混みの中を、そぞろ歩きしながら町並みの風情と散策を楽しむ三人の女性たちがいた。

 一人は丈二の恋人の糸川真央で、もう一人は真央の同僚の伊藤静香。そして、真央の母親の糸川小百合だ。

 修学旅行中だと思われる中高生たちや外人の団体客たちがどこからともなく急激に増えると、花見小路は大阪の心斎橋のように混雑した。

 ごった返す人混みの中から三人は、まるで押し出されるようにして通りの端に出て来ると、足は祇園甲部歌舞練場の方に向かっていた。

 横に並んで歩けない三人は、案内役の真央が先頭に立ち、その後ろを母親の小百合、静香が続いていた。

「凄い人混みだったわね。まるで芋の子を洗っているようだったわね」

 振り返った真央は、怪訝な顔で小百合に尋ねた。

「お母ちゃん。芋の子って、何の芋の子なの?」

「あんた、その年になって何の芋かを知らなかったの?」

「うん。『芋の子を洗う』の言葉は知ってるし、例えでもよく使ってるけど、何の芋なのかは、ホントは知らなかったの。お母ちゃんだから、聞いてるの」

 すかさず静香も続く。

「教えて下さい。恥ずかしいですけど、私も知らずに『芋の子を洗う』って言葉を使ってました」

 一歩、道の端に近づき小さく三角の空間を作った小百合は、逆に二人に質問をした。

「あなたたち、『里芋』って知ってる?」

「うん。知ってる。お母ちゃんが作る『イカと里芋の煮っ転がし』私、好きよ」

 小百合の顔がほころんだ。

「だったら、話は早いわ」

「芋の子というのはね。お正月の『おせち料理』の煮物や煮っ転がしに使用する『里芋』のことで、小さなジャガイモやサツマイモのことじゃないの。昔は里芋を(おけ) などに入れて棒で掻き混ぜて洗っていたことから、狭い場所で大勢の人が込み合う様子の例えを『芋の子を洗う』って言うの。ちなみに京都名物の『いもぼう』の芋は大きな海老えびの形をした海老芋えびいもと、北海道産の棒鱈ぼうだらを炊き合わせた京料理のことなのよ」

「へぇ。そうだったンだ」

「真央がお嫁に行くまでに、真央の好きな『イカと里芋の煮っ転がし』のレシピを教えてあげるわ」

「よろしくお願いします。母親譲りの秘伝の手料理『イカと里芋の煮っ転がし』を、たっぷりと丈二さんに食べて貰おうっと」

「あら、イヤだ」

驚きと呆れた顔で真央を見つめ直した小百合は、苦笑せずにはいられなかった。

「この子ったら、未だ式も挙げていないっていうのに、今からもうすっかり惚気のろけちゃって……」

 すかさず静香もツッコミを入れた。

「そうよ。彼氏のいないこっちの身にもなってみなさいよ!」

「ごめんなさ~い」

 小さく首をすくめた真央は、照れ隠しの笑いでその場をつくろった。

「芋の話しが出たからついでに聞くけど、外人に『掘った芋、伊豆、一兎、なう』と話すと、直ぐに英語で返事が返ってくるけど、それはなぜか判る?」

「……掘った芋?」

「そうなの。お芋ちゃんを掘るの」

 真央の傍で小首を傾げていた静香が、目を輝かせながら言った。

「私、判ったわ」

「ワッツタイム、イズ、イッツ、ナウ。『いま、何時ですか?』って外人に尋ねたからだわ」

「ピンポーン!と言いたいけど、ホワット、タイム、イズ、イット、ナウは、『今、何時?』ではないの。『今度は何?』が正解なの」

 真央は感心した。

「へぇ、そうなんだ」

「その時の先生に間違って教えて貰っていたかも知れないけど、私、中学の時、英語の授業で『ホワット、タイムの発音は、日本語の掘った芋で外人に通用する』と教わったから、バスガイドのお仕事で利用したら面白いかも知れないわね。ついでに言うけど、水もウォーターでなく、『わら』と言えば通じるそうよ。私、外人相手に使ったことがないから、嘘かホントかどうか分からないけど……」

 真央と静香は顔を見合わせると、にっこりと微笑んだ。

「それ、いいわね」と真央が言えば、静香が即座に応えた。

「私、そんなの、以前にどこかで聞いたことがあるわ。日本語の『揚げ豆腐』が、英語の『降ります』を意味する『I'll get off』と聞こえるそうよ。機会が有れば『揚げ豆腐』を使ってみることにするわ」

二人が「掘った芋」と「藁」をどう料理するかは分からないが、いつかガイドの仕事で小百合の中学教師のエピソードと一緒に上手く使いこなすだろう。

 祇園のメインストリートの花見小路の観光客たちは益々増えて賑わいを増し、立ち止まって話をしていた三人は、道に沿って商いをしている小料理屋の店先の方に、ゆっくりと押し出されるようにして近づいて行った。

―――

 花壇ブロックを大きく欠いてぶっ倒れているギドンの傍に立ち、冷ややかにギドンを見下していたサラマ―の口元が僅かにほころび、白い歯を見せた。

「卑怯でしょう? 私って……」

片膝付いて半身を起こしながら、ギドンは忌々し気にサラマ―を睨みつけた。

「クソが付くほどに汚ねー野郎だ。反吐へどが出るほどに汚ねークソ野郎だ」

 険しい表情で見上げるギドンとは対照的に、ギドンを見下すサラマ―の顔には笑みが溢れていた。

「ありがとう。私って、そう言う言葉、大好きなの。もっと、もっと言ってぇ……」

 地に片膝付いていたギドンは、サラマ―の次の攻撃を警戒しながらゆっくりと起き上がると、苦虫を噛み潰したような顔で毒突いた。

「変態か! お前は?……」

 サラマ―は微笑みながら頷いた。

「そうよ。私は変態。マゾヒストなの」

 不敵な笑みを浮かべながらサラマ―は、後ろ回し蹴りでギドンの鼻先を狙って蹴り上げた。

空を切る音がするほどの鋭いサラマ―の回し蹴りだった。次の攻撃を予期していたギドンは軽く後ろに身を反らせてかわすと、ダッと地面を蹴って跳びかかった。

顔面を狙っていたギドンの前足蹴りの靴先が、身を崩しながら振り返ったサラマ―の目前にまで迫っていた。

 咄嗟にしゃがみ込んだサラマ―は、間一髪でギドンの蹴りをまぬがれた。

 サラマ―の頭上を大きく跳び越えて着地したギドンは素早く振り、険しい表情で、怒りにも似た感情をぶつけてきた。

「正体を現わせ! テメーは一体、何者だ!」

「見ての通り、私って只者じゃないでしょう? だから、曲者か、とんだ食わせ者ってとこじゃないかしらねぇ」

「ふざけンじゃねーッ! どこの誰かを名乗れと言ってンだ!」

「問われて名乗るのもおこがましいけど、私の名前はサラマ―。八大地獄を勝手気ままに流離さすらう女なの」

「なンだとォ? テメーは、地獄から来たってぇのか?」

「これ以上、説明する必要はナッシング。始末してあげるから、とっととかかって来なさいよ!」

「言われるまでもねーッ! 粉々にしてやるぜ! キサマの脳天を―ッ!」

 ゴボッとギドンは近くに設置されていた支柱が鉄パイプで朱色に塗られた五角形の「ぼんぼり」を、地中から引っこ抜いた。

                                 続く


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