魔犬サラマー その2
刑事部屋に差し込む朝の日差しは弱く薄暗かった。
ドアを押し開け、森閑とした刑事部屋に入って来た丈二は、未だ点けられていない天井の照明器具を見て小首を傾げた。
「ン? 今日の一番乗りは……。この俺か?」
壁のスイッチに手を近づけた丈二の動きが、ピタリと止まった。
部屋に差し込む日差しが逆光線となって、シルエットであったが部屋の中ほどで何かが僅かに動いた。
厳重なセキュリティーが完全完備された大組織である。猫の子一匹入れるような場所ではない。照明を点けることなく薄明りの中で靴音を消しながらゆっくりと丈二は、奥に進んで行った。
部屋の中央部に近づくにつれ、動いた物体の正体は直ぐに判明した。通路から入り組んだ場所で同僚刑事の政岡が、来客用ソファーで眠り込んでいて、肘掛けの外に出していた靴先だけを目撃しただけのことだった。
かすかな寝息を立てている政岡の傍に立った丈二は、労わるような目で政岡を見た。
「……当直か、張り込み明けのようだ。もう少し、寝かせてやるか」
ソファーの近くの小さなテーブルの上には、空になったペットボトルと弁当箱が無造作に残されていた。
高さが30㌢ほどのプラスチック製のゴミ箱を近くのデスクから持って来た丈二は、政岡を起こさないようにと気遣いながら物音を立てずに、割り箸やナイロン袋などをゴミ箱に捨てた。
ティッシュでテーブルを拭き終え、その場から立ち去ろうとしたその時、迂闊にも丈二は向う脛をテーブルの角に打ちつけてしまった。
ガツン!
「あッ!」と思った時は、すでに手遅れで、前のめりになった態勢から手放されたゴミ箱は、小さな放物線を描いて政岡の耳元近くで落下した。
激しく床を叩きつけたゴミ箱の衝撃音は爆睡中だった政岡にしてみると、耳元でドラをブッ叩かれた音に匹敵する轟音だった。
「ギャオ―――ッ!」
悲鳴にも似た声を発しながら飛び起きた政岡は、瞼を擦って周囲の状況を確かめると、薄明りの中にゴミ箱を拾い上げた丈二を見つけた。
「すまん」
丈二は苦笑しながら、プラスチック製のゴミ箱を見せた。
「これを落としてしまった」
「…………」
ゆっくりと丈二に顔を近づけた政岡は、下から伺うようにして丈二を見上げた。
「……丈二よ」
「何だ?」
政岡のその目は正しく、疑いの眼差しであった。
「お前、わざとやっただろ?」
「な、何を言ってンだ! 俺がそんなことするワケねーだろ!」
慌てて否定する丈二に対し、政岡はまったく聞く耳を持たない。
「いいや。お前だったら遣りかねん。お前はそういう男だ」
「冗談じゃない! 信じてくれ! わざとじゃないンだ!」
政岡の表情は冷たく、突き放すようにして言った。
「確信犯はそう言うンだよ。いつだって……」
「俺が信じられないのか?」
「そうだ。信じろと言う方が無理な注文だ」
と、その時、パッと部屋の明かりが一斉に点灯した。
照明のスイッチを入れた年配の森野刑事は、ゴミ箱を持った丈二と政岡が対峙していることに気付くと、
「何を揉めてンねん? 朝っぱらから……」
政岡は、口を尖らせながら不満顔で訴えた。
「聞いて下さい。こいつ、ちょっと、おかしいんですよ」
「何や? 何があったンや」
「寝耳に水なんてもんじゃなくて、寝耳にゴミ箱ですよ!」
「何のこっちゃ、よう判らん。もっと詳しく話せ」
「俺、ここで仮眠してたら丈二は俺を起こすために、ゴミ箱を落としたんですよ。ガーン!と耳元で……」
丈二は慌てて否定した。
「だからそれは誤解だ!」
「ゴカイも6階もねーッ! 知って落とした以外に何が有るってンだ!」
「誤認ってのが有る」
「誤認だとぉ?」
「この俺が、間違っているとでも言うのか!」
「そうだ。お前の勘違いだ」
「ふざけンじゃねーッ! わざとやったくせに!」
口論する二人の間に割って入った森野刑事は、政岡を宥めた。
「政岡よ。お前が怒る気持ちはよう判る。そやけど、そんなに怒らんでもえぇのチヤウか。どっちゃみち、直ぐに起きなアカン時間なんやから……」
政岡が納得する以前に、丈二の方が納得しなかった。
「いいことなんて無いです! 濡れ衣ですよ! 故意に遣ったワケでも無くて、ふざけて遣ったワケでも無いんですから」
「お前にその気がなくても、肝心の政岡がそう受け取ってしもたんやったら、お前の方が悪いのとチャウか?」
「俺が悪かったのは確かです。ですけど、わざとじゃないです」
次々と出勤して来た同僚刑事たちは、揉めている丈二たちに近づくと、朝から何事なのかと森野刑事に経緯を尋ねた。
「なんや、なんや?」
「どないしたんや?」
二人に代わって、森野刑事が説明した。
「実はな……。政岡の言い分はこうで、丈二の言い分はこうや」と、森野刑事からあらましを聞いた刑事たちは、それぞれに意見を飛び交わせた。
「丈二の悪戯やったかも判らんし、ホンマに手が滑って落としたのかも判らん。ま、どっちもどっちやな」
「いや、そうじゃない。躓いて落としたんやったら、政岡は男気を出し、ここは笑って許してやるべきだ」
一塊となり、侃々諤々(かんかんがくがく)と自分の意見を出し合う刑事たちの背後で声がした。
「何しとんのや? 席にも着かんと……」
刑事たちが振り返ると、声の主は課長の遠藤だった。
「実は……」と、再度、森野刑事が事の経緯を説明すると、課長の遠藤は即決で
「そら、丈二の方が悪い!」
「なぜですか?」
「お前の話は信用できん」
「はぁ?」
「この頃のお前はおかしい」
「俺のどこがおかしいですか?」
「忘れたンかい?」
「何のことです?」
「新品のボールペンを、意味も無くヘシ折ろうとしたやろが?」
「あッ!」
丈二はすっかり忘れていた。地獄から舞い戻って来た直後、『快炎鬼』としての超能力が未だ残っていないかを確かめるために、淡い期待を込めて新品に近いボールペンをデスクで二つ折りにしようとしたその時だった。不審顔で丈二の背後に立ち並んで様子を見ていた課長と政岡と同僚刑事たちは、丈二の異常さが判明すると、次々と後頭部を引っ叩いたのだった。
課長は徐に行った。
「それだけや無いでぇ。お前がおかしいのは……」
「まだ有りますか?」
「有る。お前が話す『地獄』のことや」
「……地獄?」
「そや、地獄の話や」
「亀の甲より年の劫で、地獄や仏さんのことやったらワシの方が詳しいと思うてたら、どこで仕入れてきた知識か知らんけど、お前の方がワシよりもよう知っとる。閻魔は双子の兄妹やったとか、三途の川はどないして出来たとか、三途の川の畔には奪衣婆とその夫の二人が棲んでるとか、賽の河原にはアリャリャかコリャリャか知らんけど、天邪鬼の娘がおるとか、お前はまるで『地獄から舞い戻って来た男』のようや。バスガイドで物知りの真央ちゃんかて、そこまでは知らんハズやし、お前には教えて無いハズや。そやのに、お前は何で急にそないに物知りになったンや?」
丈二に取っては意外な課長の言葉だった。
自分が『快炎鬼』だったことを冗談交じりで真央以外に話した覚えは全く無い。同僚刑事の政岡にしても、また然りであった。
課長は丈二の顔を覗き込むようにして、不審な顔で聞いてきた。
「……おかしな話やろが?」
指摘されてみれば確かにおかしい。アトサキ考えずに調子に乗って「雑学王」のように得意げに話した地獄の話が、課長にすっかり不審感を抱かしてしまった。天邪鬼の娘の名前はアリャリャでもコリャリャでもなく「アララ」だと訂正したかったのだが、これ以上に説明すれば益々不審がられるのは火を見るよりも明らかだ。丈二は自分の気持ちを押さえて「あれは悪戯だった」と認めてこの場を丸く収めるべきかと思案している時に、課長の怒鳴り声が全員に向かった。
「お前ら、いつまでボサーと突っ立ってンねん! サッサと自分の席に着かんかい!」
課長に一喝された刑事たちは蜘蛛の子を散らすようにして、慌てて自分の席に戻って行った。
―――
悪いことは重なるものだ。今日の丈二は朝から自転車通勤の男とのトラブルに巻き込まれるし、政岡には疑惑の目で見られ、課長からは怪しまれるという、正に「三隣亡」の日だった。
※因みに、「三隣亡」とは近隣三軒が亡ぶほどの「厄日」のことだ。江戸時代の資料によると「三輪宝」と書かれ「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていたが、ある年に暦の編者が「よし」を「あし」と書き間違え、以後は特に建築関係者にとっては「良くない日」とされる厄日であった。
席に着こうと身を丸めた丈二が前を見ると、デスクの前に積み立てているファイルや資料超しに、突っ立っている政岡の姿が目に入った。
まだ怒っているかのように見えた対面デスクの政岡は、声を発さずに指鉄砲でパーンと丈二を撃つ真似をした。
胸に手を当て口パクで、「殺られたーッ!」とばかりにオーバーアクションで仰向けに倒れる仕草を見せると政岡は、にっこり微笑みながら席に着いた。
なにわともあれ、あれほど寝起きの悪かった政岡が、直ぐに機嫌を直してくれてよかった。
身を立て直した丈二が、「遅いよ。寝起きの時にそれをやってくれよ」と苦笑しながらノートパソコンを開いたその時だった。指令室センターから事件を知らせる一報が刑事部屋に流れた。
【左京区・京都市立六道総合医療センターにおいて殺人事件発生!】
刑事たちはピタリと所作を止めて次に流れる音声に聞き入っていたが、丈二の脳裏に不吉な予感が走った。
「なんて因縁深い病院なんだ。左京区の六道総合医療センターは、俺が『快炎鬼』だった頃、『閻魔の息子の魔餓鬼』とともに爆死した場所だ。因縁はそれだけじゃない。真央が交通事故で搬送された場所だ」
指令室センターから矢継ぎ早に、次の出動命令が出た。
【犯人の身元は不明。現在、逃亡中と思われる。急行せよ!】
ファイル越しに政岡が、身を乗り出して確かめた。
「おい、丈二。六道総合医療センターってのは?……」
「そうだ。真央が緊急搬送された病院だ」
課長の大きな声が、奥のデスクから飛んできた。
「何をボサッとしてンねん! 早よ、現場に急行せんかい!」
サッと立ち上がった丈二はイスの背に掛けてあった背広を素早く手にすると、対面デスクの政岡を促した。
「行くぞ!」
「おーッ!」
若い丈二たちが先だって勢いよく部屋を飛び出すと、年配の刑事たちもアトを追って刑事部屋を出て行った。
続く