魔犬サラマー その14
個室の905号室に快炎鬼がスッと姿を現すと、続いて不動明王も姿を現した。
ベッドには薄水色の病衣を着た真央らしき人物が寝かされていた。ベッド上の人物が真央だと断言出来なかった理由は、ベッドに寝かされている人物の頭部と顔は包帯でミイラ状にグルグル巻きにされ、その上からメッシュの保護帽が被せられていた。
包帯の隙間から見えているのは両目の穴と鼻と口だけであり、鼻にはチューブの太い管が連結されていた。見た目の痛々しさは顔だけでなく、病衣から食み出ている両手足も包帯でグルグル巻きにされ、哀れみさえ誘う壮絶な状態だった。
病室にナースたちの姿は無かった。枕元近くの小イスに座った静香が優しく掛布団に手を当て、看病しているかのように真央を見守っていた。
異次元空間での静香は、マネキン人形のように硬直したままだった。静香の近くまで来た快炎鬼は、真央の姿を見て呆然となり、言葉を失くした。
「……なんてこった」
快炎鬼の横に立った不動明王は、表情を曇らせながら真央の病状を確かめた。「これは、酷い。一見しただけの判断ですが、表皮と真皮だけでなく、脂肪・筋肉といった皮下組織までやられている『3度の熱傷』のようですね。もしそうだと仮定すれば、上皮化の基となっている細胞が少なくなっているだけでなく神経や血管もやられていて、原則として『植皮術』が必要となります。火傷が治ったあとも整容面の『ケロイド』や『ひきつれ』などの後遺症が高まる恐れと、機能面においても多くの障害を残しそうですね」
「病状が知りたくて、ここへ来たンじゃねーッ!」
「!」
不動明王は目を丸めるほどに驚いた。
アトサキ考えずやり場のない怒りを爆発させてしまったが、直ぐに冷静さを取り戻し、不用意に口走った言葉を恥じた。
「言葉が過ぎた。悪かった」
みるみるうちに泣き入りそうな顔になると、縋り付いて懇願した。
「助けてやってくれ!」
「えッ?」
「俺の所為で真央はこんな姿に成り果てた! お願いだ! 頼む! どうか、どうか真央を助けてやってくれ!」
縋り付く快炎鬼の手を不動明王は、無下に取り除いた。
「快炎鬼よ」
「は、はい」
「私は医者ではありません。彼女を助けることは出来ないのです」
「なんでだよ! あんたは不動明王と言う名の仏さんだろ? 困っている人を助けてやるのが仏さんじゃないのか!」
「それは意味が違います」
思いも寄らぬ不動明王の言葉に、血相を変えた快炎鬼は、食って掛かった。
「ど、どう違うんだ!」
「説明します。冷静にお聞きなさい」
「私たち仏の努めは、悩んでいるすべての衆生を救済し、悟りへと導き、極楽の彼岸に救い出す事です。そのことを『衆生済度』と言います。仏は『迷える人たちを救い出す』ことは出来ても、『病気や怪我を治す』ことは出来ないのです」
「神も仏も無いってことか? 病気や怪我人には……」
「ゼロだとは言いませんが、病気や怪我を治すのはお医者さんたちの仕事です」「ふざけンな!」
「!」
「何が衆生済度だ! それが仏の言う言葉か!」
「な、なんですと?」
「あんたには『慈悲』とか『情け』という心は無いのか!」
「!」
「俺が快炎鬼になったがために、何の罪も無い彼女がこんな悲惨な事故に巻き込まれたんだ! いの一番に助けてやるのが『人の道』『仏の道』じゃないのか!」「むむ!」
道理を得た快炎鬼の言葉に不動明王は、返答に窮した。
「もういい! この俺が助ける!」
「どうするつもりですか?」
「ほっとけ!」
「!」
「どうしようと、俺の勝手だ!」
憤慨した快炎鬼は、真央の枕元近くのイスに座り、掛布団に優しく手を添えている静香に近づいた。
異次元空間で停止状態となっている人間の扱いは難しく、液体窒素に漬け込んだバラの花弁のように脆いので、もし誤って快炎鬼が床に落とせば静香の身体はバラバラになる恐れがあった。イスに腰かけたままの静香を背後からゆっくりと持ち上げた快炎鬼は、用心しながら部屋の片隅の机の前に置いた。
真央が寝ているベッドに戻った快炎鬼は、ベッドを手前に引き出すと出入り口のドアの方に向けた。
「どこへ運び込もうとしているのですか?」
「俺に構うな!」
「あらま?」
「何も出来ねーダメ仏は、黙ってろッ!」
「逆ギレですか?」
「マジギレだ! 俺は俺の道を行く!」
吐き捨てるように言い残した快炎鬼は、ベッドを押して部屋から出て行くと、不動明王は、無言で後を追った。
―――
強固な造りの移動型医療用コンテナ内の「焼き入れ専用窯」の検査台で真央は仰向けになって寝かされていた。
真央を間に、対峙する二人。
「どうする心算ですか? 彼女を……」
「元の身体に戻す」
「なんですって?」
「俺は覚えている」
「……何を?」
「不動明王は俺に言った」
「この装置を使えば『痛めた身体の箇所を修復し、元の状態に戻せることが出来る』とハッキリと断言した。そして、瞬時に『焼き』を入れられる炭素粒子照射の『Bコース』を俺に進めた」
「凄い装置だ。まるで魔法か奇跡の様な装置だと思って覚えていた。だから俺は、この装置を利用して真央を元の姿に戻すんだ」
真央越しで快炎鬼は、片手を不動明王の前に差し出した。
「手持ちのリモコンを渡してくれ。操作ボタンのスイッチは、この俺が押す」
「バカなことを言うもンじゃない!」
激怒した不動明王は、大声で快炎鬼を怒鳴りつけた。
「彼女を殺す気ですか!」
更に不動明王は、語気を強めた。
「この装置は異質体質となったアナタが万が一にもサラマーに傷を負わされた時に修復・復元用として製造されたアナタ専用の特殊な装置なのです。お気楽に人間に使用出来る装置ではありません!」
「だからと言って、真央をこのまま見殺しにする気か!」
「死ぬほど彼女は重傷ではない!」
「顔は女の命だ! このままケロイドが顔に残れば真央は死んだも同然だ。俺の所為で真央が死と同様の生活を送れば、俺は生きて行く意味も価値も無くなる。生きるも死ぬも真央と二人で同じ道を歩められるのなら、俺はこの装置に二人の命を託す。あんたは黙って見ていてくれ」
再度、快炎鬼は手を差し出した。
「リモコンをくれ」
「お断りします」
快炎鬼は悟った。これ以上、不動明王との会話は無意味であると。
「そうか。だったらもういいよ。無理に取り上げる気もねーよ」
残念さと悔しさにも似た表情を浮かべた快炎鬼は、クルリと踵を返して不動明王に背を向けると、奥に設置されている検査室へ足早に向かった。
不動明王も、慌てて快炎鬼の後を追う。
快炎鬼が検査室に入ると基盤デスクの前に立ち、強化ガラス越しに別室の真央を真剣な表情で見つめていた。
「何をするつもりですか?」
「真央を治す」
「いい加減にしなさい!」
目くじらを立てて激怒した不動明王は、つかつかと歩み寄ると邪険に快炎鬼を押し退けた。
「退きなさい!」
待ってましたとばかりに快炎鬼は、僅かに笑みを浮かべた。
「治してくれますか?」
「このまま放っておけないでしょう」
「有り難い。『病院で仏』とは、このことだ」
不動明王は、不機嫌そうな顔で呟いた。
「『地獄で仏』ならいざ知らず、そんな諺勝手に作らないで下さい」
不動明王の表情は、相変わらず険しかった。
「先に断言しておきますが……。この『焼き入れ窯』は快炎鬼専用に設計された窯です。人間用では有りません。ですから、彼女の顔を元に戻せるか分かりません。これは未知の治療です。成功する確率は少ないのです」
「それでもいい。確率がゼロで無いなら……」
「責任転嫁です。保障は出来ませんので、失敗すればこの私を恨みなさい」
「失敗すれば不動明王の責任じゃない。任せたこの俺の責任だ」
快炎鬼は改めて深々と不動明王に頭を下げた。
「お願いします。始めて下さい」
操作盤を見ながら不動明王は、心の中でしみじみと呟いた。
「どこで覚えてきたのでしょうか。私を動かせる手段を……。怖い人だ。恋人のピンチを利用するのは、本物の鬼がやることだ」
操作盤に向かって熱心に制御機器・操作機器の調整を続けていた不動明王は、ピタリと手を止めると快炎鬼を見て微笑んだ。
「すべてのプログラミング入力が終了しました。アトは『Bコース』のスイッチを入れるだけです」
「押して下さい。早く……」
強化ガラス越しに真央を検察していた不動明王は、真央を乗せた検査台が音も無く動き出し、トンネルのような装置の穴の奥へと進み、台の動きが止まるのを見定めると、数ある丸ボタンの一つをグイと力強く押した。
―――
家族が駆けつけるまでの臨時の付添い人として静香は、ベッドで横たわる真央の近くのイスに座っていた。掛布団に手を当てながらミイラのように包帯でグルグル巻きにされている真央の顔を心配顔で見つめていると、血相を変えたナースと医師が物凄い勢いで病室に入って来た。
首から吊り下げられている男性医師のネームプレートには「不動」と記載されていて、容姿は不動明王と同一人物に見える。
先に入って来た若いナースが静香に尋ねた。
「ど、どうかしましたか?」
「何のことでしょうか?」
若いナースと入れ替わるようにして、年配のナースが横に立った。
「ナースコールが有りました。『どうかしましたか?』と聞き返しましたけど、何の返事も無かったので、慌てて駆けつけて来たんです」
心当たりが全く無かった静香は、不満顔で席を立った。
「私、ナースコールのボタン、押してませんけど……」
静香の返答で、年配のナースも僅かにムキになった。
「糸川さんの手を見て下さい」
「あれで押せますか?」
「…………」
一瞬、険悪なムードが病室内を漂ったが、ナースたちと静香の間を割り裂くようにして、不動医師が前に出た。
「誤作動でしょう。電気系統ではよくあることですから……」
年配のナースに不動医師は指示を出した。
「ナースコールよりも患者さんの容体の方が気になります。診察しますので顔の包帯を解いて下さい」
「はい」
静かに寝ている真央の半身を起こした二人のナースたちは、ベッドの中央付近で真央の両足を外に出させて腰かけさせると、真央の両サイドから顔面に巻かれていた包帯をゆっくりと丁寧に解き始めた。真央が楽に半身を起こせた理由は、厚手の冬の服装が幸いしていたようだ。
解かれた包帯から見えたのは、真央の顔の輪郭を3Dで読み取られて出来上がった目鼻と口だけがポッカリと開いている、白い保護用の圧縮マスクだった。
治療作業が続く中、装置された圧縮マスクの下から、か細く小さな真央の声がした。
「あのう……」
真央が話しかけてきたことに二人のナースは、目を丸めて仰天した。
「ウソ!」
「そ、そんな……」
不動医師もナースたちと同様に、後ろに仰け反るほどに驚いた。
「し、信じられん」
真央が再びか細い声で尋ねる。
「……さっき治療したのに、また治療するんですか?」
我に返った不動医師は、慌ててナースに指示を下した。
「マスクを取って下さい!」
「は、はい!」
二人のナースは、真央の髪の後ろでとめられていた圧縮マスクのバンドを取り外すと、手際よく真央の顔から遠ざけた。
顔には治療薬がたっぷりと塗りこまれている小さなガーゼが隙間なく張り付けられていて、真央の症状をまだ所見で判別が出来ない。
「……先生。私、どうかしたんですか?」
ナースからピンセットを手渡された不動医師は、頬に張られている一枚の小さなガーゼを慎重に取り外しながら真央の問いに応えた。
「素肌を見せていたあなたの顔と両手足は皮下組織まで失う深達性3度熱傷という深い火傷を負っていて、植皮手術を何度も必要とするほどの病状でした。ですから、思うように自分の意志を伝える事が出来ないだろうと。ところが、余りにも流暢に私たちに話しかけてきたので驚きました」
不動医師は、真央を促した。
「右横を向いて下さい」
不動医師は、頬のガーゼを完全に取り除くと、更に驚きの表情を見せた。
「な、なんということだ」
目の前の症状が信じ難く、しみじみと真央の頬を凝視した。
「……おかしい。こんな回復、見たこと無い」
二人のナースたちも同じように頬を見つめた。かなりの赤みをおびた真央の皮膚であったが、ケロイドの跡は見られなかった。
「あら?」
若いナースは、真央の皮膚を見ながら不思議がった。
「重い火傷でしたらガーゼを交換すると、黄色い体液が多く流れ出てきますけど、それが有りません。中皮や真皮は全く火傷していないように見えます」
続いて年配のナースも
「薬を塗った表皮から治っているなら分かりますけど、その下の真皮から治っているのは、なぜでしょうか?」
即答出来ぬ不動医師は、返答に窮した。
「う~む」
真央を見つめていた若いナースは、思わず呟いた。
「……神秘的ですねぇ」
不動医師は若いナースの言葉に乗っかった。
「そうだね。神秘的な回復力だね。若いだけに内部からの自然治癒力が猛烈で、圧倒的なスピードで治ってきたのかも知れないねぇ」
真央も静香も、黙って医師たちの会話を聞いていた。
―――
京都の秋は早々と過ぎ去り、色鮮やかだった山々の色彩は薄れ、灰色に近い冬の景色になっていた。
北病棟の屋上で医師姿の不動医師と快炎鬼の二人が横に並び、北の山々を眺望しながら立っていた。
「実在のお医者さんに変身していたとは、驚きました」
「サラマーが実在しているキミの彼女に変化したのと同じ事です。それに、白衣姿で病院内を移動しても不審に感じる人はいません。それよりも、私の遣り方が気に入りませんでしたか? 余り嬉しくないようですね」
その言葉を待っていましたとばかりに、強い口調で思いの丈をぶちまけた。
「不満も不満。大不満です」
険しい顔で向きを変えた快炎鬼は、不動医師を睨みつけた。
「残念に思ってます。折角、あそこまでやってくれたのに、なぜ完治まで持って行ってくれなかったんですか?」
不動医師は物静かに、そして、快炎鬼を諭すようにして応えた。
「なぜと言うよりも、むしろ完治させる方が簡単でした。ですが、そうすればこの病院だけでなく、医学界に於いても大問題となり、彼女の火傷の事例はSNSなどで一気に拡散されて世界中に知れ渡ります。しかし、表皮だけの火傷にしておけば『摩訶不思議・奇跡的・神秘的』な原因不明の出来事として片づけられますし、一ヶ月も経過すれば彼女の顔は綺麗に元に戻るのです。ですから、あれが最善で最適な方法だったというワケです」
不動医師は快炎鬼の顔を下から覗き込むようにして伺った。
「納得してくれましたか? これで……」
小さな笑みを浮かべた快炎鬼は、大きく頷いた。
「納得も納得。大納得です」
話が終わった二人は、出入口ドアの方に足を向けた。二人並んで歩きながら不動医師は、唐突に話を切り出した。
「筋肉と言うものはですね」
その場でピタリと足を止めた快炎鬼は、怪訝な顔で不動明王を見た。
「……はぁ?」
「筋肉は細胞組織を傷めれば修復しようとしてドンドン強靭さを増していきますが、三日間も放置すれば低下します」
「……何が言いたいのか、意味が分かりません」
「筋肉は『分解』と『合成』の繰り返しです。筋肉を鍛えずに放置しておけば、一週間で感覚は鈍り、二週間で持久力の低下が始まります。三週間で筋肉量が減少し、一ヶ月ほど経過すれば筋肉は著しく萎縮してくるのです。ですからキミは、これが何を意味しているか、もう、お分かりですよね?」
快炎鬼は跳び上がるほどに歓喜の表情を見せた。
「き、筋肉を鍛えなければ、快炎鬼から人間に戻れるってことですよね?」
「キミは呑み込みが早い」
不動医師は、どや顔で言葉を続けた。
「キミは快炎鬼の『鬼』としてではなく、綺麗な顔に戻った彼女と共に、人間として、人間の生活が送れるというワケです」
「うわおおおお―――ッ!」
歓喜する快炎鬼を眺めていた不動医師は、興奮が冷めやんだ頃合いを見計らかって切り出した。
「キミとはここでお別れですが、最後に一つ忠告しておきましょう」
イヤな言葉の内容に、一瞬にして快炎鬼は青ざめた。
「な、なんでしょうか?」
「例えキミが運動を休んだとしても、タンパク質を摂取してしまえば筋肉の減少を完全に抑えることは出来ません。それと、『便秘』には注意して下さい」
「タンパク質の摂取を控えるのは分かりますが、便秘とは、何でまた……」
「私は仏の身なので実感することは出来ませんが、『クソ力』と言って、排便はかなりの力が入るようです。酷い人は脂汗を流すほどに。キミの職業は刑事です。闘うこともあれば走ることも多々あるでしょう。故に便秘だけでなく、筋肉を余り使わないように心がけて下さい。そうでなければ、普通の人間に戻れる日が、それだけ遅くなってしまうのです」
姿勢を正した快炎鬼は、最敬礼で応じた。
「了解しました。無い知恵を絞って対処します」
「いいアイデアが浮かぶといいですね。余り期待していませんが……」
笑って去って行く不動医師を、快炎鬼は敬礼のままで見送った。
―――
デスクの上に一通の封筒が置かれていた。
見下すように封筒を見ていた遠藤課長は、デスクの前で畏まって立っている丈二を、怪訝な顔つきで見上げた。
「なんやねん? これ……」
「課長が求めていた診断書です」
「おう、そうやったな」
おもむろに封筒を取り上げた課長は、ハサミを入れると中から一枚の書類を取り出した。
診断書に目を通した課長は、不審顔で丈二を見上げた。
「ホンマかい? ホンマに『突発性・イカレコロ症候群』という名の病気があるンかい?」
「ビックリしました。課長のお言葉通りでした」
課長は疑いの眼差しで丈二を見上げた。
「ウソやろ?」
「ホント―です」
「このまま治療せずに放置しておくと、気力と脱力を失うだけでなく、最後には自らの命も絶ってしまう恐ろしい病気のようです」
「ウソやろ? それも……」
「ホント―です。治療を怠っていると本当に大変な結果を招く事になります。診断書に記載されてあるように治療は2ヶ月間ほど必要だそうですが、入院しなくても自宅で静かに養生すれば完治するそうなので、まずは一安心というワケです」
疑いの眼差しで丈二の話を聞いていた課長は、再度、診断書を見直した。
「偽書したようにも、見えへんし……。ほなら、しゃあないなぁ。しばらく休むかぁ」
デスクからは見えない膝元近くで良しとばかりに小さくガッツポーズを示したが、「おっと、いけねぇ。つい力を出しちまったぜ」と心の中で呟いた。
―――
905号室には先程までいた真央の母親の小百合と静香の姿は今は無く、包帯で手足と顔をグルグル巻きにされた真央と、枕元の近くのイスに座った丈二の二人だけだった。包帯を巻かれた両足を前に投げ出しベッド上で半身を起こしている真央の顔は目鼻と口だけが小さく開かれているだけであって、表情を読み取ることは出来ない。
「辛くは無いか?」
「うん」
「それより、誰に言っても信じて貰えないから黙ってたけど、私、『魔犬サラマー』に襲われたの」
「そうか」
真央に顔を近づけた丈二は、ひそひそ声で言った。
「誰に言っても信じて貰えないから黙ってたけど、『快炎鬼』に戻ったこの俺が、『魔犬サラマー』を退治したよ」
「やっぱりね。そうだと思った。元気な姿を見せてくれたから……」
包帯で巻かれた真央の顔が、小さく笑っているように丈二は感じた。
今度は真央が丈二に顔を近づけて来た。
「お母ちゃんから聞いた話に元に戻るけど、私、一度も耳にしたことが無いわ。本当に存在しているの? 身分秘匿捜査なんて……」
「秘密捜査とか潜入捜査とも呼ばれてる。俺は重大なその任務に従事することになった。だから、今日から2ヶ月間は真央と会えないどころか、連絡することさえも出来なくなるけど、重大任務が完了した時点で、重大任務に就いた真相を教えるよ」
痛々し気な両手を胸元で静かに合わせた真央は、うっとりとするような態度で喜んだ。
「よかったわぁ」
「なんでやねん?」
予期せぬ真央の言動に丈二は驚き、思わず本音が関西弁で出た。
「俺の身の心配をするのと、ちゃうンかい?」
「サラマーをやっつけてくれた人なのよ。不安とか心配なんてこれっぽっちもしてないわ。それよりも、再会出来る2ヶ月後が待ち遠しいの。だって、不動先生のお話では1ヶ月後には綺麗な顔に戻っているそうなんだもん」
「そうか。そういうことか」
「それはそうと、気を利かせてこの病室から出て行ってくれたお母さんは、なぜ京都に来てたんだ?」
「式場を捜しに来ていたの。私たちの結婚式の……」
「おい、おい、おい!」
「俺は未だプロポーズしてねーぞ!」
真央は弱い口調で聞き返した。
「私と結婚する気は無いの?」
薄給で生活を心配する丈二は、即座に応えはしなかった。
「…………」
無言でいる丈二を今度は、強い口調で問い詰めた。
「有るの! 無いの! どっちなの!」
応える丈二の声は小さかった。
「……有ります」
「だったら、いいじゃないの」
「……そうだな」
丈二は苦笑した。
一人では食えないが、二人では食えると、昔の人は言っていた。
おもむろに丈二は、席を立った。
「俺、帰るよ。じゃあな」
「秘密の捜査、気をつけてね」
「もう遅い! そういう優しい言葉は、もっと早くに言うもンだ!」
丈二の語気は強かったが、表情には嬉しさが滲んでいた。
「ごめんなさい」
「謝るほどのことじゃない。今度会った時は、綺麗で可愛い笑顔を見せてくれ」
「は~い」
再会出来る日が楽しみである。ベッドに残された真央を名残惜しそうに何度も振り返りながら部屋から出て行く丈二を、真央は包帯で巻かれた片手をゆっくりと左右に振りながら見送った。
「バ~イ」
包帯の下はきっと笑顔だ。
完




