魔犬サラマー その12
「成り代わる? 消えておしまい? どういうことよ?」
やや肥満気味の静香が息せき切り、血相を変えて廊下を走っていた。
「あんた誰よ? 冗談じゃないわ!」
ドタドタとしていて早い走りでは無かったが、本人にすれば猛スピードの走り方だった。
A4サイズのバインダーを小脇に挟んだベテランナースが病室から人通りの無い廊下に出て来ると、こちらに向かって走ってくる静香に気付き、片手を横に突き出して静香の行く手を遮った。
「走ってはダメ!」
ナースの手前でスピードをガクンと落とした静香は、軽く頭を下げて謝った。「ごめんなさい」
ナースが通り過ぎると、再度、大急ぎで廊下を走った。
足音で振り返ったナースは呆れた顔で、走る静香の後ろ姿を見送った。
―――
南病棟のナースセンター内では数名のナースたちが各自の仕事に就いていた。真央の悲鳴に気付いたナースたちは一斉に廊下を見ると、周囲に人の気配は無く、火だるまになった女性だけが床を七転八倒しながら、身体に燃え移った火を必死になって消そうとしているところだった。
「うわッ!」
「な、何よ、あれ?」
「焼身自殺だ!」
婦長らしき中年のナースと共にパソコン画面を見ていた女医が、血相を変えた。「そうじゃない!」
「消す物を捜して! 急いで!」と言い残すと、真っ先に部屋を飛び出した。
「そんなこと言ったって……」
困惑した一人のナースは何か無いものかと室内を物色すると、イスの背もたれに掛けてあったカーディガンと膝掛けの毛布が目に入った。上着と膝掛け毛布を掴み取ったナースが頭上に翳して振り回すと、他のナースたちもそれに続いて上着と膝掛け毛布を掴み取り、女医の後を追って部屋を飛び出して行った。
最後に部屋を飛び出そうとした若いナースは、デスクの上に置いてあった一輪挿しの花瓶を掴んで部屋を飛び出した。先に部屋を飛び出していた女医は走りながら着ていた白衣を脱ぐと、燃えている真央に上から覆い被せて火を消そうとした。後から駆けつけて来たナースたちは上着と膝掛け毛布で燃える真央の全身を覆い隠した。若いナースは花瓶の花を素早く抜き取ると、白衣や膝掛け毛布の上に少量ずつではあったが漫勉なく水を掛けた。器官を既に痛めてしまったのか、それとも気を失ってしまったのか、真央は身動き一つしなくなっていた。
煙感知器が作動して館内の非常ベルが一斉に鳴り響いたが、スプリンクラーは作動しなかった。
婦長らしき中年のナースが、廊下に据え置かれていた小さな消火器を手にした静香を目撃した。
消火器を持って駆けつける静香を婦長は、大きな声で呼び止めた。
「ダメ―――ッ! 人に向かって消火器を使わないで―ッ!」
走りながら消火栓の栓を抜こうとした静香は、その動作を止めた。
被せた白衣の横から食み出す残り火を必死になって靴先で踏み消そうとしている若いナースの一人に、女医が大声とともに指を指して指示を下した。
「あなた! そこの角を曲がった所にストレッチャーがあるから持って来て!」
「は、はい!」
女医は残ったナースに対し、力強い口調で説明した。
「治療室に搬送する前に一時的な応急処置として洗面室で水道水に患部を当てて冷やします。衣服は着たままで構いません。無理に衣服を脱がそうとすると、皮膚が衣服に張りついて、皮膚や水疱が破けてしまう原因になります。 水疱の多くが破けてしまうと助かる命も助かりません。注意して下さい!」
全員が一斉に、大きな声で返事をした。
「はい!」
若いナースたちは、運び込まれて来たストレッチャーに、火傷した真央を乗せると、近くの洗面室に急行した。
ナースたちを見送る静香の心は、激しく湧き上がる怒りの炎で燃え滾っていた。「誰なのよ! 真央をあんな酷い目に遭わせたヤツは……」
非常ベルが鳴り響く廊下の床に、真央のスマホと黒いローヒールが無造作に転がっていた。
「全身が火傷していたようだったけど、大丈夫なのかしら? 真央は……」
靴とスマホを拾い上げた静香は、半泣きの顔で、ナースたちのいる洗面室へ向かった。
―――
真央の危機を知る由も無い快炎鬼は屋上で、サラマーと対等に闘える体力作りのためのトレーニングに励んでいた。
両手を身体の正面に伸ばした快炎鬼は、床と平行になるように身体をゆっくり下げては素早く上げるスクワットを、何度となく繰り返していた。
「過去を恋しがっているワケじゃないが、以前の快炎鬼の耳は『地獄耳』だった。数キロ先で起こったマンションの火事場では、子供が助けを求める叫び声が聞こえていたが、今、聞こえているのは階下で鳴り響いている非常ベルの音だけだ。早く戻って欲しいぜ。元の快炎鬼の身体に……」
愚痴とも取れる言葉を零しながら快炎鬼は、3つの基本運動の中の1つの有酸素運動のスクワットの回数を、直向きに伸ばし続けた。
―――
屋上に通じる小さな階段を昇り切った踊り場に、鉄製のドアがあった。
外の明かりを館内に取り入れるためだけの小さな窓が、天井近くの壁に一つだけ設けられていて、明かりはドアの前に立つ真央の影を床に色淡く落としていた。「……館内にはいなかった。まさか、屋上にはと思うけど……。まさかと思う坂はどこにでも存在している『魔の坂』のこと。油断していると、いつ転がり落ちるか分らないとんでもない坂なんだから、調べてみる価値はあるってことの教訓」
自戒気味に呟いた真央は、ドアのノブを掴んだ。
「あら? 鍵が……」
か細い真央の右手がドアのノブをグイと回すとバギンと鈍い音がした。真央の足元近くで、引き千切られたドアのノブが金属音を立てて転がった。
ノブが無くなった鉄扉のドアには小さな穴がポッカリと開いていた。人差し指を穴に突っ込んだ真央は、軽く横に捻るとカチッと音がした。指を外に押し出すと、残されていたドアのノブが外側に落ちて鈍い音がした。僅かに開いたドアの隙間から強い日差しが射して内部が明るくなった。外見は真央とそっくり同じだったが内面は、真央の指先一本までもが強靭で、「魔犬サラマー」そのものであった。
―――
晴れ渡った青空の下。屋上の片隅で快炎鬼は、右手の親指一本だけを床につけ、「片腕立て伏せ」を繰り返していた。
右手から左手の親指一本に切り替え、交互に鍛錬を積んでゆく。
苦痛に顔を歪めることも無く、身体を上下に何度も動かせる程のパワーを、この短期間で身に付けていたのだった。
ふと何者かが近づく気配を感じ取った快炎鬼がゆっくりと顔を上げると、こちらに向かって近づく真央の姿が目に入った。
―――
快炎鬼に近づきながら真央は、過去を振り返っていた。
「思い出したわ。珍皇寺での出来事を、鮮明に……。あのバカな男は魔餓鬼に向かって銃を発砲しただけでなく、女のアトを追って奈落の底に飛び込んだことも……」
ニヒルな笑みを浮かべた真央は、片膝付いて起き上がろうとしている快炎鬼に、穏やかな足取りで近づいて行った。
「ここであたしと再会したことが運の尽き。直ぐに閻魔に会わせてあげるわよ。エクスプレスよりも早く……」
起き上がった快炎鬼は、両手をパンパンと叩いて手の汚れを落とし、ズボンの埃を落とすと、近づく真央に尋ねた。
「どうした? 真央……」
一度、立ち止まった真央は、呼ばれた名前を確認した。
「あたしの名前、マオって言うンだ?」
しっかりと名前を自覚した真央は、再び、快炎鬼に向かって歩き出した。
「捜していたの。丈二さんを……」
「……俺を?」
「ええ」
「何か有ったのか?」
「何も無いけどマオはね。こういうことがしたかったの」
キスを求めるかのように口元を細めて突き出した真央は、前のめりになった体勢から快炎鬼の顔面に向って勢いよくノズルのような口元から音を立てて炎を噴いた。本物の真央に噴き付けた炎は火炎放射器のような緩い炎だったが、今度の炎は全く違っていた。ガスバーナーで鋼鉄を切断するほどに勢いのある炎だった。最初は青白かった炎だったが、ジェット噴射のごとく炎はさらに勢いを増すと、直ぐに白に近い焦熱の炎と化して噴き出した。
快炎鬼は落ち着いていた。
真央のノズルのような口から激しく噴き出され続ける青白き極熱の火炎を平然と受け止め続けていた。
激しく噴き続けていた炎をピタリと止めた真央は、怪訝な顔で尋ねた。
「……なぜ? なぜ、燃えないの?」
快炎鬼は小さな笑みを浮かべた。
「忘れたのか? 俺の名を……」
「はぁ?」
「俺の名は、快炎鬼」
「怪しい鬼では無い。快い炎の鬼と書いて『快炎鬼』だ。名前だけでなく、火炎に強い鬼だということを覚えておくがいいぜ。魔犬サラマー……」
「な、なんだって!」
真央の血相が、驚きから険悪へと変化した。
「最初から知っていたのかい? あたしの正体を……」
快炎鬼はニッコリ笑って、頷いた。
「ピンポーン! 正解だ! 屋上のドアには鍵が掛かっているんだ。怪しむなと言う方が無理だ」
「何が正解だ! ふざけンじゃないよ!」
「ふざけているのは、お前の方だ! なぜ、真央に化けやがった?」
一歩前に快炎鬼は出た。
「理由を言え!」
小バカにしたようにサラマーは、鼻先で軽く快炎鬼をあしらった。
「もう一度、地獄に戻りな。閻魔が詳しく教えてくれるから……」
「こ、殺したのか、真央を?」
「それもついでに聞くがいい」
怒りの炎がメラメラと燃え上がり、快炎鬼の形相が鬼の如く変化した。
「よくも、よくも、よくも真央を……。許さねーッ! 例え閻魔さんが許しても、この快炎鬼が許さねーッ!」
「それは、こっちが言うセリフ。覚悟しな。快炎鬼!」
一天、俄かに掻き曇り、鉛色だった雲は黒味を増して渦を巻き、小雨は風とともに大粒になってきた。大雨は次第に横殴りで降ってくると、北側の山の向こうでは稲光が走り出すのが見えた。
暴風雨の中。轟音とともに一瞬の閃光が屋上に走った。無言で対峙する真央と快炎鬼の二人を強烈な光が照らし出した。
まるで稲光が合図でもあったかのように快炎鬼は、力強く床を蹴ると飛び前足蹴りの体勢に入った。異次元に移行する隙をサラマーに与えず、サラマーが咄嗟に両手で顔を防御するだけしか猶予が無かったほどに、快炎鬼の飛び前足蹴りは俊敏で強烈なものだった。
快炎鬼の実力を知らなかったサラマーは、完全に意表を突かれた。
風を切って鋭く前に蹴り出した快炎鬼の靴先は、額を完全に打ち砕いたと思われた強烈な蹴りであったが、飛び前足蹴りは未遂に終わった。
サラマーの頭上を飛び越えた快炎鬼は、振り返ることもなく苦渋に満ちた表情で言葉を吐き捨てた。
「出来ねーッ! 俺には出来ねーッ! 真央の顔が蹴られねーッ!」
間一髪で難を逃れたサラマーは、上着の中から素早くスマホを取り出すと、振り向きざまに快炎鬼の後頭部を狙い、フリスビーを投げるように横手でスマホを水平に投げつけた。
快炎鬼が振り返ると、サラマーが投げつけたスマホは目前にまで迫っていたが、驚くことも慌てることも無く平然と、サラマーの行動を予期していたかのように快炎鬼は、自在に時空間を移行出来る異次元の世界に突入した。
横殴りの雨の中を猛スピードで快炎鬼に迫っていたスマホは、急激にスピードを落とすと、超スローで快炎鬼に近づいてきた。首を横にヒョイと傾けると、スマホは快炎鬼の首筋の横をゆっくりと通り過ぎて行った。
―――
次元は元に戻っていた。快炎鬼の首筋の横を猛スピードで飛んで行ったスマホの先には、医師の姿をした不動明王が小さな白い建物の壁の前で立っていた。建物は長方形で大きさは10坪ほどのエレベーター室だ。
不動明王を直撃すると思われたスマホは、数10㌢ほどの手前でピタリと停止した。
「困りますね。これくらいの攻撃はしっかりと受け止め、適切に処置して頂かないと……」
手を差し伸べた不動明王は、宙に浮かぶスマホを鷲掴みにした。
「闘争中に被害を出してはダメなンです。スマホが壁を突き破り、配電盤やコンジットなどを破損させてしまうとエレベーターは停止して、大変なことになってしまうのですよ。病院は……」
グチを言いながら白衣のポケットにスマホを入れると、対峙している二人の姿に目を移した。
―――
真央が投げつけたスマホは快炎鬼の後頭部を直撃するハズだったが、上手く逃げ切られただけでなく、ヤツが異次元空間を自由自在に移動出来ることを今さらの如く思い知らされた。
快炎鬼の能力を甘く見ていたとばかりに苦笑いを浮かべなから真央は、ゆっくりと快炎鬼に近づいて行った。
「バカだねぇ。一撃であたしを倒せたっていうのに……。肝に命じておくがいいわ。一瞬の躊躇いが命取りになるってことを……。あれが最初で最後のチャンスだったと後悔しても、もう遅い。これでキッチリ決着つけてやるわ」「…………」
反論することもなく、心の中で力強く自分自身に言い聞かせながら快炎鬼は、ファイティングポーズで身構えた。
「この女は真央じゃない! 魔犬サラマーなんだ! 闘え、丈二! 闘うんだ、丈二!」
―――
遠くから快炎鬼を見守っていた不動明王は、一抹の不安を覚えた。
「マズいですねぇ。恋人に変身したサラマーの容姿に完全に気が引けています。この勝負、互角どころか快炎鬼の完敗かも?……」
―――
雨は一段と激しく横殴りの雨となってきた。先ほどまで鮮明に見えていた塔屋もエレベーター室も、激しく降りしきる雨で霞んで見えた。
素早く上着を脱いだ真央は、快炎鬼に向かって投げつけた。一瞬の隙に真央は、強烈な右のフックを快炎鬼の左の頬に食らわせた。
大きく左に吹っ飛んで行った快炎鬼は、室外機の一台に激突すると、ドッとその場に倒れ込んだ。
大きく破壊された室外機から冷媒用のガスが快炎鬼の横で激しく音を立てて吹き出した。起き上がろうとしている快炎鬼を悠然と見下していた真央は、快炎鬼の顔面を狙って足を蹴り上げた。
真央の鋭い前蹴りは快炎鬼のアゴを直撃した。
鈍い衝撃音が雨の中を走った。諸手を上げながら吹っ飛ばされた快炎鬼は、水たまりの床に背面から激突するとそのままクルクルと回転しながら、勢いよく滑って行った。
排気ダクトと鉄製の架台を衝撃で派手に歪めた快炎鬼は、やっとそこで停止することが出来た。
素早く起き上がると、間髪入れずに床を蹴って飛び膝蹴りで襲って来た真央の膝が目前にまで迫っていた。
背面跳びのように大きく飛び上がった快炎鬼は、放物線を描きながら、北病棟から南病棟へと飛び移った。
軽々と距離のある中庭をバックで飛び越えた快炎鬼の姿を真央は、小さな笑みを浮かべながら眺めていた。
「あらま! やるわね。思っていた以上に……」
言い終わるや否や、ドンと床を蹴った真央は、南病棟に飛び移った快炎鬼に向かって頭から、弾丸ライナーのようにして飛んで行った。
猛スピードで中庭を飛び越えたサラマーは、突風に煽られ快炎鬼の頭上を飛び越えた。多量に水を浮かせていた床に足を滑らせたサラマーは、そのままで勢いよく滑走すると、消火栓ボックスを飛び前足蹴りのように蹴りつけて破壊した。
着地に失敗したサラマーを目にした快炎鬼にとっては、願っても無いチャンスだった。
しかし、快炎鬼は攻撃に出ることも無く、起き上がろうとしている真央を、ただ見つめているだけだった。
二人の様子を北病棟の端に立って見ていた不動明王は、余りの快炎鬼のやる気の無さに愕然とした。
「ダメですねぇ。これでは……。快炎鬼も最早これまで。期待外れです。幻滅です。最大のチャンスを逃すとは、闘う意思が無くなったと言うよりも、相手の容姿にすっかり惑わされ、反撃できないのでしょう。チキン野郎には見切りをつけて、アトの始末は三途の川の奪衣婆たちに任せましょうか」
無様な格好でブッ倒れていた真央は、快炎鬼が攻撃してこないことを察して、悠然と起き上がって来た。
ただ茫然と突っ立っているだけの快炎鬼の前に立った真央は、声高に責めた。
「ボーっと突っ立ってンじゃないよ! この、腰抜けが―ッ!」
拳を握りしめながら快炎鬼は、忸怩たる思いで真央からの辱めの言葉を聞いていた。
「…………」
せせら笑いを見せる真央の口調が急に軽くなった。
「閻魔が何を基準にしてお前をして選んだのか気が知れないわ。閻魔だけじゃないの。お前のような腑抜けな男と同行した奪衣婆たちの気も知れない」
真央の顔から薄ら笑いが消えた。
「どうやら、お前を買い被り過ぎていたようね。ここで始末するのは簡単だけど、もうその気も価値も無くなった。お前を選んだ閻魔に恥をかかせる方が面白くなってきた」
心底小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべながら
「閻魔にも奪衣婆たちにも見捨てられ、中途半端な獄卒として、おめおめとこのまま惨めったらしく、この世で生き恥を晒し続けるがいいさ。それじゃあこれでお別れするわ。いつまでもお元気でね。快炎鬼ちゃん」
後ろ手に片手を上げながら去って行こうとする真央を、快炎鬼は険しい口調と表情で呼び止めた。
「待て! サラマー!」
おや?とばかりに驚きの表情で振り返ったのは真央だけでは無かった。北病棟を去りかけていた不動明王も、同様に振り返った。
続く




