魔犬サラマー その1
「じゃあ 私、帰るね」
屈託の無い若い女性の笑顔だった。病院の個室のベッドで半身を起こしている若者の右手にそっと手を重ねながら女性はそう言った。黒いロングヘアーを後ろで一つに束ねた女性の年齢は若く、容姿はスレンダーで清楚だった。
別れを惜しむ言葉も無く、彼女の後ろ姿を見送る若者の姿には、痛々しさだけが残っていた。事故の原因はバイクとワゴン車による交通事故だった。
頭部は包帯が幾重にも巻かれ、痛めた首はコルセットで固定されて、ギプスをしている左手は右の肩から斜めに掛けた三角巾で保護されていた。
投げ出すようにして前に突き出している左足も、太腿から指先までがギプスで固定されていたのだった。
女性が部屋を出た直後に何処かで何かがバチンと弾ける音がした。と同時に、激しく水が噴き出すシャワーのような音が聞こえた。
何事かと慌てて周囲を見渡す間も無く、物音の原因は直ぐに判明した。部屋の中央付近の天井で、スプリンクラー内部の溶解片が熱で溶けてスプリンクラーの水が床に向かって勢いよく、一気に放水を始めていたのだった。
「か、火事だ!」
若者は一瞬、青ざめ狼狽えたが直ぐに気を取り戻した。それが故障による異常な放水だったことに気付いたからだ。部屋には火元どころか煙さえも無く、激しく放水しているスプリンクラーは数ある中の一個だけだった。とは言え、このまま放置しておく訳にはいかなかった。
「た、大変だ! 早く修理して貰わないと!」
背後のナースコールのボタンを押そうと急いで足のギプスを左手で持ち上げ、振り返ろうとしたその時だった。今まで勢いよく放水していたスプリンクラーの水がピタリと止まり、雫が僅かに残る程度までになっていた。
「ど、どうなってンだ? 防災センターで元栓を閉めたってのか?」
床に溜まった水は部屋に差し込む陽の光に反射して、天井の一部分を木漏れ日の様にゆらゆらと揺らしていた。
「ずぶ濡れだ。イヤだぜ、こんなの」
早く掃除して貰おうとナースコードのブザーを再度押そうとしたその時だった。幅広く床に広がっていた水が動き出し、一つに集中してきているように見えてきた。
「ン? ど、どうした?」
思いもよらぬ展開だ。一ヶ所に集まって来た水は凝固して、一気に盛り上がろうしている。それはあたかも氷解した水が元の氷に戻ろうとしているようで、現実には受け入れられない我が目を疑う光景だった。
「マ、マジかよ?」
突然起こった奇妙な現象に恐怖を抱いた若者は、不自由な身体にも関わらず、思わず逃げ出そうとしたが、恐怖心よりも「これから水はどうなるのだろう」と結果を知りたいと思う好奇心の方が勝り、僅かに身を乗り出して事の成り行きを注視した。
一ヶ所に集中して丸みを帯びてきた水は、見る見るうちに氷の塊となって盛り上がり、急激に変容していった。
氷塊は一瞬、変化して大型犬に見えた。
氷塊の全表面から一斉に産毛が生え出すと、産毛は全身に渡って一気に伸び出し、両耳はピンと峙ち鋭い牙は大きく伸びた。「完全なる大型犬」へと変化したのだった。
「げッ!」
仰天する若者を背にした大型犬は、中庭の窓に向かって口を大きく開くと、後ろの二本足ですっくと立ち上がった。鳴き声は発しなかったが、大きく口を開けたその姿は遠吠えをしている様にも見えた。
大型犬の変化はそれだけでは治まらず、容姿は更に変化した。
頭を深く下げて項垂れ、両手をだらりと下げた犬は、白衣の女医に急変したのだった。
仰天した若者は思わず反り返り、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「ば、化け物だ!」
黒いロングヘアーの女医は振り返ると、薄笑いを浮かべて若者に言った。
「見たわね?」
「み、見ていません! ボ、ボクは何も見ていません!」
青ざめながら必死の形相で訴える若者に対して女医は、小さな笑みを浮かべながら、ゆっくりと近付いて行った。
「いいのよ」
「見ていても、見ていなくても……」
慌てて逃げ出そうとしたが、重傷の身の若者は思うように行動することが出来なかった。
若者の前で立ち止まった女医は、さり気なく部屋の中を見渡した。状況は変身前と同じだったが、何かが以前と違っているように感じた。スプリンクラーは破損もせずに正常である。焼け焦げたハズの天井も綺麗だった。女医は小首を傾げて訝しがった。
「何も変わったようには見えないけど、やっぱり何だか変よね? ここで私は瀕死のアララから、ペンで耳を串刺しにされてくたばったハズなのに……」
怯え続ける若者を鋭い視線で見下した女医は、優しい口調で訊ねた。
「どうなったのよ? 死にかけのアララは……」
「な、何のことでしょうか?」
女医は自嘲気味にクスリと笑いを浮かべた。
「訊ねた私がバカだったわよね」
「あなたが『天邪鬼の娘』を知っている訳が無いって言うのに……」
「……天邪鬼の娘?」
「そう。天邪鬼の娘で、名はアララ……。ってことは、あなたは「ラ・フランス」ってことね」
恐れが薄れてしまった若者は、怪訝な顔で女医に問い返した。
「ラ・フランス?」
「覚えておいて損はないわ。ラ・フランスって言うのは『洋梨』のことで、もう、あなたには『用は無し』ってことなのよ」
「ど、どういう事ですか? ボクに用は無いって……」
「こういうことよ!」
女は、若者のギプスの足首近くを手刀で勢いよく叩くと、石膏で固められた強固なギプスに鈍い音が走った。
「バキッ!」
「ギャアアア―――ッ!」
呆気なく簡単に潰されたギプスは四方に白い粉を散らすと、若者は身を大きく仰け反らせて悲鳴を上げた。
「うるさいわね」
鬱陶しそうに呟いた女は、丈夫な方の右足の脛を同じようにして手刀でブッ叩いた。
ボキンと骨が折れる音がした。一瞬で歪に折れ曲がった右足を見た若者は恐怖に怯え、悲鳴さえもでなかった。
怪我の痛みを忘れてしまった若者は、右肩に掛けていた三角巾からギプスの左手を素早く離すと、両手を擦り合わせて哀願した。
「た、助けて下さい!」
「ボクには夢があります。希望があります。やりたいことが一杯あります。どうか、どうか、ボクを助けてやって下さい!」
女は冷笑しながら、ベッドの若者を見下した。
「悪かったわね」
「私はあんたの願いを受け入れるほど、お人好しじゃないの」
「えッ?」
「とっとと、お逝きなさい!」
驚く若者の横顔を、女は手の甲で引っ叩くと、首はグキッと音を立てて真横に曲がった。どっとベッドに倒れた若者の頸椎は折れてしまったようで、若者は白目を剥いたまま、身動き一つしなくなった。
女は枕元のナースコードを手にすると、ブザーボタンを押しながら嘲るようにして呟いた。
「ごめんなさいねぇ。私がしてやれるのは知らせることだけなのよ。あんたの死をナースに……ね」
何事もなかったかのように、女は静かに個室から出て行った。
―――
2台の車が交差するのがやっとの道幅の狭い道路だった。近くに小学校が在るのだろう。信号機の無い四つ辻の歩道で「横断中」と書かれた横断旗(黄色い手旗)を手にした40才前後の女性が立っていた。ランドセルを背負いながら賑やかに騒ぐグループの子供がいれば、大人しく一人で通学する子供もいた。
三つ編みの少女が女性に近づき、元気よく大きな声で挨拶をした。
「おはようございます」
「はい。おはよう」
笑顔で挨拶を交わした女性は歩道で子供たちを一旦停止させると、子供たちの目でも安全を確認させてから渡らせていた。
右手に持った横断旗を真横に差し出し、左手で子供たちの横断を促していたオバちゃんが右を見て驚いた。横断旗の近くで停止した自転車の前輪タイヤが横断歩道から僅かに前に食み出していたのだった。
「危ないじゃないの! 気をつけなさいよ!」
子供たちの安全を重視していたオバちゃんが、思わず大きな声で叱責した相手は某メーカーの高級クロスバイクに乗った若者だった。
背には黒色のビジネスリュックを背負い、一見して自転車通勤途中のサラリーマンのように見えた。
横断歩道前で一旦停止したにも関わらず、子供たちの前で大声で一喝された若者は逆上した。
「何だぁ? その言い方!」
「あんたにそれほど偉そうに言われる筋合いなんてねーよ! 失礼だろ!」
若者の反論がオバちゃんの逆鱗に触れたようで、オバちゃんも若者と同様に頭に血がのぼり反撃に出た。
「失礼とか、そう言う問題じゃないの! 子供が渡っているんだから、もっと手前で止まってくれと言ってるのよ! ここまで突っ込んで来ずに!」
自転車に乗ったままで、若者は反論した。
「ここで停止したからと言って交通ルールに違反しているワケじゃねーだろ! 偉そうに上から目線で命令すンな!」
「ちょっと待って! あんたに話があるから……」
「おう、待ってやるとも!」
横断中の子供たちを無事に渡らせ終えたオバちゃんは、クロスバイクを手押しする若者とともに歩道に戻って来ると、睨み合うようにして対峙した。
「あんた、脇見していたでしょう!」
「ウッセ―。先に謝りやがれ!」
「何で謝らなきゃならないのよ! 悪いのはそっちの方じゃないの!」
「俺が何をしたって言うんだ!」
若者はオバちゃんを見下し、威圧的に出た。
「謝る理由を言いやがれ!」
―――
電動アシストのママチャリで通行中だった中年の主婦は、二人の強烈なやり取りを目撃すると自転車を止め、ポケットから慌ててスマホを取り出し血相を変えて110番通報をした。
「た、大変です! は、早く来て下さい! 黄色い旗を持ったPTAの女性が若い男性に絡まれて啀み合っています!」
―――
上から目線で食って掛かってくる若者にオバちゃんは、たじろぎも怯むことなく険しい表情で反撃に出た。
「よく見て見なさいよ!」
「横断歩道の手前に一旦停止の太い白線が有るでしょうが! そこで止まンなきゃならないってことは三つの子供だって分かっているわよ! あんたが旗の近くまで来たってことは、脇見していた証拠じゃないの!」
「脇見なんかしてねーよ!」
「少しでも早く出社したかったから、ちょっと前に出ただけだ! PTAかボランティアの人か知らないけど、何だよ、ケンカ腰で注意してきやがって!」
「何だとは、何よ! いくら急いでいたからと言って、登校中の子供たちの傍まで近づくことはないでしょうが!」
激しく意見の火花を散らす二人の間に、丈二が割って入って来た。
「ストップ!」
対峙していた若者は、怪訝な顔で丈二を見た。
「ン?」
「手旗を持った誘導者が信号の無い横断歩道を受け持った時は、必要に応じてドライバーに止まって貰う必要が有り、横断歩道で歩行者が渡っている時、ドライバーは止まらなければいけないとルールが道路交通法で定められている。キミは停止をしたが少しばかり前に出過ぎたようだ。だからと言って強く責め立てられるほど前で停止したワケじゃない。お互いに不満だろうがここは譲り合い、引き分けってのにしたらどうだろう?」
見知らぬ男の仲裁が不満だった若者は、口を尖らせて丈二に盾を突いた。
「何だよ? キミは……」
「名乗るほどの者じゃない。ただの通りすがりの者だ」
「気取ってンじゃねーよ!」
「!」
意外な返答だった。ジョーク気味に軽く言ったつもりだったが、完全に空回りした感じだった。暫し面食らって戸惑っている丈二に若者は、追い打ちの言葉を浴びせてきた。
「通りすがりだか何だか知らないが、キミには関係の無いことだ。黙って引っ込んでおいてくれ!」
「そうはいかないね」
若者は呆れた顔で、丈二を見下した。
「バカか? キミは……」
「ン?」
バカと言われて直ぐに喧嘩するほどのバカではないが、気分を害したことだけは確かであり、丈二の表情がガラリと険しく一変した。
若者は声高に、なおも丈二に食ってかかってきた。
「関係ねーから、引っ込んでいろと言っているのが、分からねーのか!」
そばで黙って聞いていたオバちゃんにも、メラメラと怒りの炎が燃え移った。
「あんた!」
「何だよ!」
「大バカはあんたの方じゃないの! 仲裁に入ってくれている人に何てことを言ってンのよ!」
「ウッセーッ!」
オバちゃんを怒鳴りつけたその時だった。白ヘルメットを着用し、白のミニバイクに乗った二人の巡査たちの近づく姿が、丈二と若者の目に入った。
「チッ! もういいよ。俺は出勤するよ」
若者は自転車に跨り、その場から立ち去ろうとしたが、丈二は「待て!」と若者の片腕を掴み取り、立ち去ろうとするのを引き止めた。
「なぜ逃げる?」
「逃げてねーよ」
「逃げているように見えたが、やましいことでもあるのか?」
「何もねーよ」
「あいつらと関わるのがイヤなだけだ」
「なぜ警察を嫌うのだ」
「警察ってのは『いざッ!』って時には動かないくせに、どうでもいい時には必要以上に動くモノなんだ。だから大嫌いなんだよ、警察ってのは……」
「キミが警察を嫌う理由はよく分かった。だが、それとこれとは話は別だ。彼女に一言謝ってから、出社したらどうだ?」
「そうよ! 私に詫びてから行きなさいよ!」
「冗談じゃねーッ! なぜ俺が謝らなきゃならねーんだ!」
路肩にバイクを止めた巡査が、揉みあう三人の元へ足早に駆けつけて来た。
「どうかしましたか? 氷室さん……」
丈二にとっては意外だった。思いも寄らぬ警官たちの出現だった。
「これは浜田さん。いいタイミングで来てくれました」
ヘルメットを被っていたが、苦笑する浜田の表情が読み取れた。
「110番通報があったものですから……」
「話し合えば理解できるトラブルだったと思います。双方の意見を聞いて善処をお願いします」
「了解しました」
「では、私はこれで失礼します」
二人の処遇を浜田巡査に委ね丈二は、その場から立ち去って行った。
「そちらの方で事情を伺いたいので、移動をお願いします」
遅れて駆けつけた若い巡査は、オバちゃんを別の場所への移動を促した。
―――
二人を別個に引き離した浜田巡査は、書類を挟んだA4サイズ大のボードとペンを手にしながら、若者から事情聴取を行った。
「詳しく事情をお聞かせ下さい」
若者は質問の矛先を変えた。
「随分と親しそうにしていましたけど……。誰ですか? さっきの人は……」
「プライバシーの関係が有ります。それに、本件に関してお応えする義務がありませんので、先にトラブルの原因を説明して下さい」
若者は執拗に食い下がった。
「詳しく教えてくれと言ってるんじゃなくて、物凄く気になる人だから、誰だったくらいは教えてくれてもいいじゃないですか。それほど隠す必要だって無いでしょ? あの人が誰かくらい、教えて下さいよ」
「……府警本部の刑事さんだ」
「ええ―――ッ!」
若者はずっこけるほどに仰天した。
浜田巡査は疑いの眼差しで、若者に問い質した。
「まさか、刑事さんを相手に、失礼な言動をしていないだろうね?」
「し、していませんよ! 何も……」
「では、最初から詳しく事情を説明して下さい」
「実は……」
丈二の正体を知った若者は、まるで観念したかのように神妙な面持ちで、事の顛末を静かに話し始めたのだった。
続く