第七話『この世全ては』
グリフ。この名前自体は、アテルドミナにおいてはありふれたものだ。類似の名前も十数以上ある。
この名前を聞いて、俺の本体――大魔導書と結び付けられるのは、それこそ異郷者ぐらいのものだろう。
ならば、いっそ堂々と名乗ってしまった方が良い。
何より。
「ちょっと、グリフ。私の話を聞いているの。貴方の主人は誰だと思ってるのよ」
我がご主人様が、当然のように俺の名前を呼んでくれやがる。五年以上呼び続けた名前だ、よほどしっくり来るのだろう。
こんな状態で偽名を使い、呼び間違えでもされたら目もあてられない。
下手に隠していると思われる方が厄介だ。
「聞いてるとも、リ=ヘクティアル家の事だろう」
ヘクティアル家が本邸。前当主が拵えた当主専用の書斎で、俺の居場所はヴァレットの膝の上だった。
人型の外殻を作るには、それ相応の魔力がいる。人間で言うなら、常に全身に力を入れて過ごしているようなもの。人目がないこの場所では、流石に魔導書スタイルに戻らせて貰った。
この場所なら他の人間は入れないし、俺と会話していても誰も気に留めない。
「聞いてるなら、しっかりと返事をなさいな。そして私を評価し、褒めたたえなさい」
ぺちりと、ヴァレットは俺の表紙を小突く。何いってるんだ君。
ヴァレットの顔を見ると、明らかに冗談ではなく本気で口にしていた。目線も、俺からの言葉を期待しているようにうろうろとしている。
承認欲求の塊かこいつは。
いや、だったとして。こうも表に出せるのはそれはそれで才能だ。普通はもう少し隠そうとするものだが。
「ああ、うん。大物だよ君は」
「ふふ、まぁ今は良いでしょう。それくらいで満足してあげる」
どう考えても満足してるだろ。誇らしげな顔をするな。こちらが恥ずかしいわ。
普段は怜悧さを漂わせる顔つきが、どうにも気が抜けて見える。
「リ=ヘクティアル――アーリシアが自分は動かず、ナトゥスとか言う使者を寄こしたのは、間違いなく本家に従う気がないからだろう。放っておけば、面白くない事になるな」
ナトゥス。リ=ヘクティアル家が寄こした使者は礼儀という一面では全く抜け目がなかったが、その存在自体がアーリシアの態度を示している。
即ち、デジレが引き起こした本家の内紛を足掛かりに、自分の地位を固めようとしているのだ。
それこそ、本家を追い落としてでも。分家としては、当然の思考回路。
「まぁ……信用できないって点では、『異郷旅団』や『天霊教』の奴らも同じだが」
先のヘルミナもまた、デジレの後ろ盾となった異郷旅団から派遣された奴だろう。一夜が経って、未だに姿が見えないのが怖い。まさか俺を探し回ってるわけじゃあるまいな。
異郷旅団の使者も、天霊教の司教とあわせて今日には新当主たるヴァレットと顔を合わせる事になってる。
が、何処まで信用できるかは未知数だ。
元から、ヘクティアル家の基盤に入り込もうとしていた奴ら。本性は底が知れない。
「あら、信用なんて出来ないに決まっているじゃない」
しかしヴァレットは俺とは違い、あっさりとそう断じて見せた。
何を馬鹿を言っているの、と顔に書いてある。
「アーリシア=リ=ヘクティアルも含めて、彼女たちはお母さま――デジレ=ヘクティアルに投資していたのよ。兵力にせよ、財力にせよ、縁故にせよね。そう簡単に諦めはしないわ」
間違いなく、ヘクティアル家を食いつぶす為の機会を伺っている。そのために、ここまで上手に仕立て上げたのだ。
それに、とヴァレットは言葉を続けた。
「それに、お母さまもね。ああいう人だもの、諦めろと言われて、諦めきれる人じゃないわ」
ヴァレットは椅子に座りながら、俺の表紙を細い指先で撫でながら言う。
まるで、愉しいお喋りでもするように言った。
「――だから、あの人を別邸に押し込めば、間違いなく動くでしょう。他の方々も一緒にね」
思わず、ぞくりとする笑みだった。
反面、これこそが彼女の才気なのだと感じる。
政治、いいやそれとも悪徳と呼ぶべきか。今までは押し込められ、発揮する機会がなかった異才。
しかし今、足元にはヘクティアル家領主の地位、片手には魔導がある。彼女が、本来の歴史の如く羽ばたく用意は出来た。
「グリフ、私を見ていなさい。貴方の言う通り、幸せになってみせるわ。だから、貴方はそれを見続けるのよ」
ヴァレットは心を固くしたように、再び俺をぎゅぅと握る。
こりゃ不味い。ちょいと気負い過ぎている。気持ちが籠るのは良いが、気負いは良い結果を生まないものだ。大方の場合、やりすぎるのが常だ。
「おい、ヴァレット」
俺が呼びかける声に合わせるように、ノックが鳴った。
メイドの声が響いた。
「オジョーサマ。司教様と、異郷者様がご挨拶に参っておられます」
「行くわ。――グリフ、付いて来なさい」
会話は中断された。
ヴァレットは俺を椅子の上において、先に行く素振りをしながらも、ちらちらとこちらを伺っている。
疲れるから嫌だと言っているのに。
仕方なく、魔力の外殻を再び身に着ける。四肢がある感覚は嬉しいが、全身の緊張感は抜けない。それに魔力で構成しているため、じっくりと見つめられると多少は違和感が出るはずだ。
俺が後に続くと、ようやくヴァレットはほっとした素振りで扉へ向かった。自信満々なのか、そうでないのかどっちだ。
「二階の席で、お待ちでございます。オジョーサマ」
扉の先でぺこりと頭を下げたのは、ヴァレットよりもやや小柄なメイドだった。
白に近い頭髪に、琥珀色の瞳。口調はやや片言に聞こえる。白髪はローディス連合王国では珍しい色合いで、この本邸では初めて見た。ここ数年で雇い入れられたのだろうか。
「……貴方、他国の出身?」
ヴァレットも気にかかったのか、メイドに案内をさせながら口にした。
気まぐれ、というよりもその声色には、彼女なりの思いやりが籠っていたように思う。
「はい、オジョーサマ。リザはナビアの出身であります」
リザと名乗ったメイドは、硝子のような瞳をくるりと動かした。
ナビアとは即ち、ローディス連合王国の南西に位置する、ナビア商工組合領域を指す。彼の領域は正式に国として認められてはいないが、平野部から沿岸地帯にまで商人たちの街が連なり、それそのものが一つの勢力になっている。
商人の都市が連なるだけあり、ナビアから他国へ商業や出稼ぎに出て来る者は多い。各国もまた、経済活発化の要因である彼らを拒む事は少ない。
リザもまた、その手の人間だろうとは思うが。
「ナビアの? それなら、どうしてヘクティアル家のメイドに?」
ヴァレットの疑問は当然だった。
ナビアの人間は、たとえ出稼ぎに出るにしても自らの商人スキルを磨ける場を求めるもの。
言ってしまえば、メイドや使用人という職は、彼らの理想とする働き方ではないはずだ。
しかしリザは、表情は薄いながらに胸を張って言った。
「マネーであります。一番、マネーが得られる所が、一番いいのですから!」
遠慮もなく、恥じらいもなく、むしろ嬉しそうにリザは語る。
そこに卑しさはまるでない。むしろ微笑ましいと思ってしまう類だ。
「リザは今まで、余り仕事を任せられませんでしたが。今日はお仕事を任せられて、得意満面!」
「そう、私も貴方に案内して貰えて嬉しいわ」
ひょこひょこと上下に揺れ動きつつ、前を行く白い頭を見ながら理解した。
――他の使用人連中め、ヴァレットが恐ろしいから、何も知らない彼女を寄こしたな。
リザを本邸の中で見た事がなかった辺り、恐らくは普段は雑用を押し付けられていたのだろう。外国人の上、言語が怪しい。使用人たちの間で厄介者扱いされるには十分な素養だ。
だというのに、ヴァレットによる更なる厄介事が引き起こされれば、その彼女を矢面に立たせるとは。
「リザ。貴方、私が誰かは分かっているのよね」
「はい。オジョーサマはお屋敷で一番偉いのであります」
しかしヴァレットは、言葉を飾らないリザが嫌いではないらしかった。
行動原理がシンプルなのが良いのか。いいやもしかすると、彼女の境遇に、自分を重ねた所があったのかもしれない。
「ふふ。それで構わないわ。お金が稼ぎたいのでしょう。なら、私の仕事をこなせば今以上のお給金を弾んであげる」
「!」
瞬間、リザは瞳を文字通り輝かせた。両手を広げるようにして喜びを見せ、表情は薄いながらもはっきりと喜びを見せる。
「オジョーサマ! リザ、頑張るであります!」
「よろしい。それじゃあまずは、案内の仕事をすませて頂戴」
まるでステップを踏むようにリザは先導を続けた。感情は動きで表現するタイプのようだ。
その後ろ姿を見ながら、ヴァレットは綻ぶように笑みを浮かべる。
「皆がこれくらい素直な性格だったら、私も安心できるのだけれど」
「まるで他の連中の前では安心できないみたいな口ぶりだな」
「出来ないわ、全くね」
だろうよ。言った俺が馬鹿だった。
リザに案内されたのは、本邸に幾つもある応接間の一つ。貴族の邸宅には、客人が邸宅内を完全に記憶しないよう、複数の応接間が用意されるのが普通だった。
口調はともかく、振る舞いはしっかりと教育されているのか、メイドらしい優雅な指使いでリザが扉を開いた。
「オジョーサマ、どうぞお入りください」
「ありがとう、リザ」
言った瞬間、ヴァレットは口元を引き締めている。眦は鋭く、先ほどまで見せていた柔らかな雰囲気は消え去った。
リザの登場で口に出来なかった一言を、ここで口にする。
「ヴァレット、敵に会いに行くわけじゃないぞ」
「あら、そうかしら?」
異郷旅団や天霊教の奴らが信用できないのは確か。
彼らがまだ策謀の最中にあるであろうというのも確か。
しかし、全員を敵に回す姿勢を取る必要はない。少なくとも天霊教は、自分の取り分を求めているだけ。その取り分がより大きい方につく。
異郷者にしてもこの先どうするつもりか、腹までは分からない。
「貴方が言うなら、多少は考慮しましょう。でもね、グリフ。覚えておきなさい」
「謹んでお伺いしよう」
「馬鹿ね」
ヴァレットは一瞬だけ笑みを見せて言った。しかし、その表情はいともたやすく凍てついてしまう。
「――この世は敵だらけよ、昔も今もね」
そのまま、ヴァレットは応接間へ足を踏み入れた。
その背中からは、人間らしい感情という感情が、全て奪われてしまった。
そんな気配さえあった。