第六話『その者の名は』
ヘクティアル家の本邸は、数年前と変わらぬ臭いがした。
魔力で外観だけを整えた影のような身体に内臓はないし、五感も備えていない。しかしそれでも、俺には酷く臭うのだ。
悪意や敵意をじっくりと煮詰めて、香水に仕立て上げればこんな臭いになる。人間は、何時でも悪臭をたれ流せるのだと実感した。
――十七歳となったヴァレットは、新当主として本邸に帰還した。
深夜に鳴り響く鐘の音は、新当主の誕生を祝福しているのか、それとも呪っているのかは分からない。
しかし、彼女は大勢の使用人たちが見守る中で間違いなく名乗ったのだ。
「父たる前当主の遺志を受け継ぎ、本日より私がヘクティアル家の当主となります。皆、出迎えご苦労様」
傍らで思わず舌を巻いた。
ここに集まった連中は、明らかにヴァレットの死を黙認しようとしていた。
だというのにヴァレットはたった一言で、この場全てがヴァレットの祝福のために駆け付けた事にしてしまった。
こういった腹芸、いいやある種の人を掌握する力。これこそは、彼女が彼女たるために宿す技能、カリスマと言い換えても良い。
思えば本来の歴史――ゲーム、アテルドミナの歴史でも、彼女はヘクティアル家内の政争を勝ち残っているのだ。決して、無力な少女じゃあない。
事前の打ち合わせでそのように振舞うのが一番と伝えたが、こうも上手く演じるとは。
『悪辣』、そう言って良いだけの素質はある。
「……お、お嬢様。お帰りなさいませ」
恐る恐ると言った様子で、使用人の一人が彼女に声をかけた。使用人として幾度も繰り返した習慣が、この緊張の最中でも彼を動かしたのだ。
しかしヴァレットは、そのたった一言を許さなかった。烈火の如く輝く瞳が、ぎろりと使用人を貫く。
「――聞こえなかったの? ヘクティアル家の当主が誰か」
軽く顎を引きながら、苛立ちというより、怒気を含ませている。
「し、失礼いたしました! ご当主様!」
使用人が即座に背筋を正して、顔面を蒼白にしながら応じる。
この場で、力関係を見せつけておくのは良い。うん、良いのだが。
ここまでやるとは思っていなかった。
やめろヴァレット、ちらちらと俺の方を見てどや顔を見せて来るな。俺が黒幕見たいに見えるだろうが。
「……当主様はお疲れだ。寝室の用意を」
声を響かせる。魔力で造り上げただけの身体は酷く不安定だ。早々にこの場にケリをつけて、休める場所にいきたい。ヴァレットにしても、いずれその張り詰めた緊張には限界が来る。
しかし、使用人たちが慌ただしく動き出す中、唯一こちらに向かって来る影があった。
茫然と、しかして感情を秘めた足取りで。
「ヴァ、レット――」
精魂を出し切ったような声だった。輝かしいはずの頭髪が、今日はやや色あせて見える。
デジレ=ヘクティアルは、慄くような様子でヴァレットの前に立つ。
「ただいま帰りました、お母さま」
対照的に、ヴァレットは晴れやかな笑みを浮かべて見せた。
敬意を表すべき芝居ぶりだ。長年に渡って自分の命を付け狙い、つい先ほどその尖兵に殺されたかけたというのに。彼女は見事に母親へ笑いかけ、手を差し出して見せる。
その精神性一つをとっても、彼女は常人ではなかった。
「ふざ、けるな――あたしは、お前の母親ではない! お前の、お前のような!」
いっそ、ヴァレットの手を払いのけ、瞳に恐怖を見せるデジレの方が人間的な反応だ。
「奥様、ここは」
「黙れ使者ぶぜいが!? ヴァレット、これは何だ、どういう事だ!」
傍らに備えていた男が何事かを口にしようとしたが、デジレは止まらない。
彼女は感情に――いいや、ヴァレットに呑まれている。
「お前、お前は! 別邸で暮らすように、言いつけただろう! あたしの命令を破って、どういうつもりだ!?」
感情のまま喚き散らすデジレは、この場の皆の胸中を代弁していたのかもしれない。
きっと誰も彼もが、意味が分からないはずだ。
どうしてヴァレットがここにいるのか、死んでいるはずの彼女が、どうして生きて戻ってこられたのか。
首謀者たるデジレの混乱は最たるものだろう。彼女の思惑は、ヴァレットただ一人によって瓦解したのだから。
デジレの細い腕が、大きく振り上げられた。軌道はヴァレットの顔を狙い打っている。もはやデジレは、見栄も外聞も失ったらしい。
「――グリフ、お願いね」
マジかよ。自信満々に腕組みした顔で唐突に言うんじゃない。普通に避けられるだろ。
デジレが勢いよく振った細腕を、魔力で構成した指先で受け止める。継ぎはぎの外殻でも、女の腕くらいは受け止められたみたいだ。
「っ、なん、だ! お前は! 離せ! あたしを誰だと思っている!?」
デジレはまるで癇癪をおこした少女のように喚いた。
これが彼女の素の姿なのだろう。
「……奥方様は錯乱なされた。現当主に手をあげるなどもってのほか、別邸でお休み願おう」
「何を言っている!? どうして、このあたしがあんな場所に!?」
俺の言葉にデジレは再び喚き散らすが、もはや場の形勢は定まっていた。
昨日までなら、全ての使用人は彼女の言葉に従っただろう。ヴァレットは否応なく地面に叩き伏せられたはずだ。
だが、今は違う。今日この日、ヴァレットはヘクティアル家の当主なのだ。
使用人たちは動揺しながらも、俺の言葉に応じてデジレを両脇から抑えた。
「おい! お前ら!? 分かっているのか! あたしに、こんなふざけた事を!」
「お母さま」
両脇から抑えつけられ、化粧を崩しながら両目を剥くデジレに、再びヴァレットは顔を向けた。
そこには先ほどと変わらぬ笑みが浮かんでいた。
「公爵家の者として、相応しい態度をお取りください。そうすれば、何も混ざらない食べ物をお送りしましょう」
慈愛を込めたような、しかして気高い表情を崩さぬままにヴァレットは口ずさむ。
「ご安心ください。私は誰かのように、卑劣な性根を持ちませんもの」
「――ッ! ヴァレッ、ト!?」
使用人の手で引きずられながら喚きたてるデジレの声を、もはや誰も聞いていなかった。
その怒りは何にもならず、何の力も持たない。それをこの場の誰もが理解していた。
いやしかし、おっかない。何も俺はここまでやれとは言っていないのに。
「どう、上手くやったでしょう」
ヴァレットが俺だけに聞こえるように、小さく言う。
正直、戸惑う場面がないではなかったが。しかし、それでも。
「ああ、やりすぎなくらいだ」
ここは十分に褒めたたえるべきだろう。本邸に乗り込んだはいいものの、その場で主導権を奪われ殺される、という最悪の展開は防げた。
少なくともこの伏魔殿で、ヴァレットの当主就任を認めさせられたのだから、これ以上はない。
「……ご挨拶が遅れましたな、ヴァレット=ヘクティアル様。新当主のご就任、謹んでお喜び申し上げます」
デジレの声が遠く聞こえなくなった頃、まるで当然のような素振りをして、男はそこにいた。
灰色で統一した礼服は、まるでこの日、新当主が就任する事を知っていたかのよう。いいや事実、知っていたのだろう。
礼儀正しくはあるのだが、何処か鼻に付く雰囲気を持った若い男だった。
「祝福は喜んで受け取りましょう。それで、貴方は?」
「はい。アーリシア=リ=ヘクティアルが名代、ナトゥスと申します。本日は主人に代わり、ご挨拶に参りました」
男――ナトゥスは礼儀に沿った対応をしながらも、瞳をくるりとこちらへ向けて来る。何だこいつ。
その興味は、ヴァレットよりも俺に向けられているように見える。
黒一色の姿を選んだのが間違いだっただろうか。
「ヴァレット様。失礼ながら、こちらの方は」
ナトゥスの声は、静かにその場に響いた。その場の誰もが、ヴァレットの返答を待ち望んでいる。
当然か。そもそも、別邸には彼女の味方などいないはずだった。その中で、唐突に俺のような奴が現れたんだ。怪しむのは普通の対応だ。
「私の従士よ。私だけに仕える従士。名前は――」
一瞬、ヴァレットは逡巡したようだった。
先ほど俺が、ヘルミナに名乗らなかった事を思い出したのだろう。だが、この場に来て名乗らわないわけにもいくまい。
言葉を喰い取るようにして、言った。
「――グリフだ。別に覚えて貰わなくてもいいさ」




