エピローグ『愛する君』
勝利とは尊いものだ。如何に無様な有様あろうと、勝利さえすれば全てが肯定される。勝者と敗者の間には、明確な一線が重く横たわり続ける。
アーリシア=リ=ヘクティアルはそれを身に染みるほど実感していたはずだった。勝利すれば生き、敗北すれば死ぬ世界で生きてきたはずだった。
とすれば、自分は何処から間違っていたのだろうか、そうアーリシアは自問する。正しきものばかりに目を向けて、いいや、正しければ勝利出来ると信じて。他の一切を顧みなくなった時からだろうか。
民のためではなく、秩序などという形なきものを志した時からだろうか。
今となっては、もう分からない。
「それで。何時までわたくしを留めおくつもりなのですか、公爵閣下は」
「どうでしょう。悩んでる様子はありませんけどぉ」
アーリシアは自らが与えられた客室で、やや時間を持て余していた。
今までは常に処理すべき仕事が目の前にそびえ立っていたのだ。余った時間の使い方など、彼女には思いつきもしなかった。
出来ることといえば、まるで監視のように部屋にやってくる異郷者達と会話を交わすくらいのもの。
「少なくとも、嬲ることが目的で放置するような真似はしなそうですしぃ。バグリッシさんも治療中ですから、悪いようにはされないんじゃないですかぁ?」
ヘルミナは眠気眼のまま、勝手にベッドに横たわりながら言う。
彼女は彼女で、ここ最近は随分と暇そうだ。
「勝手な事言ってんじゃねぇよ。悪いが、この先どうなるかなんざ、俺たちにもわかりゃしねぇ」
話し相手を務めるのは、主にズシャータの役割だった。彼は気苦労が多いのか、常に眼差しが鋭い。
「そう。勿論、時間があるわたくしは構わないのですが。貴方たち異郷旅団はこれからヘクティアル家と歩調を合わせるのでしょう。わたくしを構っている暇がおありですの?」
「……ま。下手に動けねぇってのが本音だな。最初の想定から変わりすぎた。考えなしに動けばそれだけで火傷する」
ズシャータの言葉は最もだった。
今ヘクティアル家に起きているのは、地殻変動と言っても良い大変革だ。
迫害され続けた小娘が、本当にヘクティアル家の頂点に立つなど誰も考えていなかった。
その混乱は、数日で収まるものではない。異郷旅団にせよ、今は様子見の段階だ。
「それに、あんたに動かれたら止められるのが他にそういねぇって理由もある」
ズシャータは言いながら、ヘルミナの背中――小さく残った翼を指さす。
先のような大翼ではないが、それでも一度使徒と化した証が、そこに残っていた。
「……あの日の事は、よく覚えていませんの。それにもう、わたくしには多少の力も残っていませんわ」
「わかりませんよぉ」
唐突に、ベッドに横になったままのヘルミナが口を出す。
「使徒になった生物は、疑似的に魔女と繋がるんです。今はその繋がりが弱くなった状態なんでしょうけどぉ、また強くなれば力が戻ってくるかもしれません」
「……ま。その経過観察も兼ねてるってわけだ」
歯に衣着せぬ口ぶりのヘルミナを押しとどめるように、ズシャータが付け加える。
翼に力を込めても、まるで動く気配がない。そもそも、体内を巡る魔力の一切が、今のアーリシアには感じられなかった。まるで体そのものが、活動を停止しているかのよう。
「どちらにせよ、文句は言いません。わたくしは負けたのです。敗者は勝者に従うもの。それ以上はありえないでしょう」
まるでそれは、自分に言い聞かせるようだった。アーリシアは敗北を噛みしめながら、目を細める。
この敗北で、アーリシアは全てを失った。今まで積み上げてきたもの。領地、財産、兵。
数多の勝利が、ただ一度の敗北で台無しになる。そんな事は歴史上よくある事だ。
だがアーリシアには、落胆と同時に、清々しい気分さえもあった。
「バグリッシは、どの程度でよくなりそうです?」
「数か月はかかるだろうな。あんたを庇って、全身にあの魔導を受けたんだ」
「そうですか……」
見舞いに行きたいものだが、流石にそこまでの自由は許されない。今は彼の回復をただ祈るのみ。
祈るなぞという稚拙な行為、以前の自分なら一笑に付しただろうに。
そう思いながら、アーリシアは言う。
「わたくしは、結局何も見えていなかったのですね。手にあるはずのものを欲しがり、結果として傷つけてしまうとは」
無垢なる忠誠こそを、アーリシアは望んだ。利害でしか関係を築けないからこそ、グリフのヴァレットに対する忠誠を羨んだものだ。
だが、バグリッシは自らの命さえも顧みず、アーリシアの身を庇った。命の危機にあって初めてアーリシアは、彼の忠誠を感じ取っていた。
自分にも、無垢なる想いを向けてくれる人間はいた。ただただ、それに気づけなかった自分が間抜けなだけ。
アーリシアは含羞さえも覚えて、瞼を閉じる。
「――機会があれば、公爵閣下にお伝えください。どのような沙汰でも、お待ちしておりますと」
◇◆◇◆
「ヴァレット。良い加減にしないと体調を崩すぞ」
「大丈夫よ。むしろ調子は良いぐらいだもの」
ヴァレットは自室の執務机にかじりつくようにしながら、大量の羊皮紙と向き合っている。
彼女の状況を一言で言い表すのであれば、多忙であった。戦いというものは、終わった後にこそ最大の山場が来るのはどの世界でも変わらない。
更に言うならば、ヴァレットの場合は今の時点で頼れる家臣が殆どいない。
俺も多少は手伝っているが、彼女は今回の戦後処理を僅かな人数で捌き切らねばならなかった。殆ど寝る時間もないだろう。目元には隈が出来ており、明らかな疲労の色がある。
だが不思議と、ヴァレットの紅蓮の瞳だけは炯々とした輝きを増している。
「オジョーサマ。紅茶が入りましたので、ご休憩なさってくださいです」
リザの一言で、久々にヴァレットが執務机から顔をあげた。彼女が持つ紅茶からは、仄かな湯気が沸き立っている。
「ありがとう、リザ」
彼女は紅茶を口に含み、ようやく一息を入れる。
まるで多忙を極めるのが、自らの義務だと言わんばかり。
「……美味しい。甘いのも悪くないわね」
「お疲れのようでしたので、少し砂糖を多めにしました」
「助かるわ。じゃあ――次はこっちの計算をお願い」
「リザ、一応メイドなのですが……」
リザはヴァレットから複数の羊皮紙を押し付けられると、複雑な顔をしながら机に向かう。
彼女は商人だけあって、計算ならばこの場の誰よりも優れている。戦場においてアーリシアの軍勢を出し抜いたのも、その聡明さあってのものだろう。
「ヴァレット殿! 己に手伝える事があればなんなりと言うが良い!」
「いや、君は取り合えず体をちゃんと癒せ」
アニスは元来じっとしていられない性格だ。何か出来ることはないかと足しげく部屋に通ってくれる。とはいえ、どう考えても戦後の後始末は彼女の領分ではなかった。
それに戦場での活躍にメロンとの一騎打ちで、彼女は相応の傷を負っている。療養室でゆったりと過ごしているメロン同様、横になっていて欲しいのだが。
「いいや。もう十分休んだ。じっとしている方が己には辛い」
全身の至る所に包帯を巻かれながら何を言っているんだろうこいつは。
「――いいえアニス。グリフの言う通りよ。今こそ貴方には休んでもらわないと。これから、ずっと働いてもらうんだから」
不意に、ヴァレットがそう告げた。羊皮紙から離れても、頭の中はずっと動き続けているとでもいうように紅蓮が輝く。
「と言うと、どういうわけだヴァレット殿」
「今回の結果で大部分の諸侯が私に靡くでしょうけど、全部が治まるわけじゃないわ。それに、大陸全体がきな臭いもの。まだまだ戦場はあるでしょう。貴方には、そこで働いて貰わないと」
ヴァレットが頬を緩めるようにして笑みを浮かべると、アニスは胸を張って言う。
「承知した! 存分にこの身を使うが良い! そういう事ならば、今は力を蓄えるとしよう!」
アニスは満足したのか、ふらついた足取りで部屋を出ていく。どう考えても本調子じゃないのに動いてしまうのは、彼女の性根という奴だろう。
「彼女を使うのが上手くなったなヴァレット」
「あら、本当の事を言っただけよ。むしろ、もっと酷く働いてもらう事になるでしょうね」
ヴァレットは紅茶をゆっくりと楽しむようにしながら言う。
「連合王国自体、王家の統制がきいてない状態よ。大規模な魔女化事象が起きたら、対応なんて出来ないでしょうね。そうなったら、誰が主導権をとるべきか。わかっているでしょう?」
彼女の声は、ここ数日でよりその色を増した。艶めかしく、しかしまるで獣のように獰猛に。
ヘクティアル公爵としての地位を、はっきりと自覚したのだ。
もはやその視界はヘクティアル領内に留まらず、大陸全土にまで及んでいる。
「……リザ悪いけれど、紅茶のお替りをお願い出来るかしら。そうね、今度は濃いのにして頂戴」
「承知しましたです。少々お待ちくださいです」
メイドの仕事の方が嬉しいのか、リザはヴァレットからカップを受け取ると、そそくさと部屋から出ていく。
帰ってくるまでには相応の時間がかかりそうだ。
「グリフ。お互いに休憩としましょう。二人きりなのは久しぶりじゃない」
思えば、ここ数日はずっと誰かが傍にいた。多忙を極め切って、彼女と話をしようという約束も果たし切れていなかった。魔導書の姿で彼女の手元に寄せられながら言う。
「立派な公爵閣下になったわけだが、気分はどうだ」
「悪くはないわ。でも、噛みしめる時間もなさそう。幸せになるにはまだまだ時間がかかりそうね」
恐らくは、俺が最初に言った言葉に掛けているのだろう。
――ヴァレット。俺は君に誰よりも幸せになって欲しい。
公爵閣下という身分は十分幸せだとも思うが、思った以上に彼女は強欲であるらしい。
「とすると、貴方にはまだまだ付いてきてもらわないといけないわね。覚悟は良くって?」
ヴァレットは悪戯っぽくそう微笑む。まるで分り切っている答えを確認するかのよう。
その姿に、『絶対悪』ヴァレット=ヘクティアルの影は欠片も見えない。しかし、彼女には間違いなくその因子が埋め込まれている。
もしかすれば、いつの日か再びその片鱗を見せるのかもしれない。
けれど、だ。
「勿論。最初に君を助けた時から、最後まで付き合うと決めていたさ」
今回得たものは、ただの勝利ではない。輝かしい事実を得たのだ。
ゲーム上に定められた歴史は、確かに起こる。イベントは、多少の過程を踏み越えて起きてしまうのだろう。
だが、結果は違う。アーリシアが生存したように、その結末はすり替えられる。
今回の件で、それがはっきりと分かった。
「宜しい。ヴァレット=ヘクティアルの従士として相応しい言葉よ」
だからこそ、ヴァレットの結末も必ず変えられる。その果ては絶対悪などではなく、ただ幸福に生きる事が出来るはずだ。
――いいや、必ず俺がそうして見せる。その為には既存の世界なんて、全て滅ぼしてしまっても構わない。
「けれど、貴方には一つ罪があるはずよ。わかっているわね?」
「罪?」
不意にヴァレットが言う。その微笑みが、柔らかなものから冷たいものに変わった気がした。
まるで獲物を追いつめるような、猛禽の笑み。
「あの日、私から離れた事よ。よもや忠誠を誓った従士が、あんな別れ方をするとは思いもしなかったわ」
廃村での出来事を言っているらしい。ありもしない背筋が、冷え切った思いがあった。
どうして、今この時に、あの日の事を彼女は持ち出したのか。
「……そりゃあ、覚えてはいるが」
「私、言ったはずよ。――この世全てを呪うくらい、後悔をさせてあげると」
ヴァレットの紅蓮の瞳が俺を貫く。両手が絡みつくように俺の体に触れていた。
「誰もたどり着けないぐらい、幸せになってあげるわ、グリフ。貴方の言う通りにね。その為には手段は選ばない。必要なら何を犠牲にしても幸せを掴み取ってあげる」
ヴァレットは淡々と言葉を紡ぐが、それは決して柔らかなものではなかった。
まるでそれは、本当に俺に呪いを向けるかのよう。
「多くに呪われるでしょう、多くに恨まれるでしょう。ヘクティアル領主とはそういう類のものなのだから。その上で幸せになろうというのなら、どれだけの人間を敵に回すか分かったものじゃない。けれどその道を歩みましょう」
「……ヴァレット」
俺の言葉を喰いとるように、彼女は言った。
「――貴方と一緒にね。貴方は私とともに、呪われ、恨まれなさい。後世の人間が、私と言えば貴方の名前を語るくらい、傍に置いてあげる」
それは明確な呪いであり、彼女なりの宣告であった。
何と不器用で、何と曲がったあり方なのだろう。もはや彼女は一人の少女として幸福を掴み取る事は出来ない。ヘクティアル領主として生きていかねばならない。
しかし、その指先は震えていた。俺は自らの主人に向けて、当然のように言う。
「……今更だろう、ヴァレット」
魔力の外殻は出さない。ヴァレットと共にあるならば魔導書の姿が良かった。そちらの方がよほど心地が良い。
彼女と出会ってから今に至るまで、一切の後悔がないかと言えば嘘だ。もう少し上手く出来たのではないか、そう思わないでもない。
だがそれは、アテルドミナに関しても同じだった。結局の所、俺は上手く出来ない人間なのだ。恐らくは、ヴァレットも同じ。
ならば上手く出来ないもの同士、やっていくしかないだろう。
ヴァレットの表情をじぃと見ながら言う。
「君は俺の主人で、俺は君の大魔導書様だ。それ以外に何かあるか?」
ヴァレットは、固くしていた表情を一瞬惚けさせる。しかして次には紅蓮の瞳を輝かせて口にした。
「――ええ。その通りよ。地獄の底までついてきなさい、私の魔導書」
その表情は、ここに至るまで一度も見たことがない。そんな笑みであった。
この笑みを前にしては地獄など、まるで意味を成さない。これを見れただけで、ここに生きた価値がある。そう思わせるほど。
ゆえにこそ、思った。
ああ、やはり俺は、彼女に恋をしていたのだ。地の底へ連れていかれても悔いはないと、そう感じてしまうほどの。
「さぁ、仕事にとりかかりましょう。まだ幾らでもやるべきことはあるわ」
再び執務机に向かい、瞳を見開くヴァレットを見ながら、そんな事を思っていた。
何時も拙作をお読みいただきありがとうございます。
本作につきましては、本話で完結となります。
皆様にお読み頂け、無事最後までかきあげる事が出来ました。本当にありがとうございます。
もしお気に召せば、感想・評価など頂ければ幸いです。
今後新しい作品などにも着手する予定ではありますが、その際にはまたお読みいただければ幸甚の至りです。
何卒、よろしくお願いいたします。




