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第六十四話『彼ら彼女ら』

 アーリシアが名代たるナトゥスは、森の影で目を覚ましていた。


 彼にはどうして自分がここにいるのか。いや、何故生きているのかが不思議でたまらなかった。


 ヴァレットの軍勢を前に、自軍は蹂躙されたはず。


 別動隊を襲撃したという騎士たちさえ、どうなっているかはわからない。


 それが何故。理由にはすぐに気づけた。


「……馬鹿者どもめ」


 周囲に、片手で数えられる程度の部下の姿を見た。彼らの内、傷のない者は一人としていない。


 ここで姿が見えないものは、逃げたか命を失ったのだ。


 彼らが命を賭して助けてくれたからこそ、自分はここにいる。


 それを理解した一言目が悪態であるのが、ナトゥスらしさであった。


「お目覚めになり、嬉しくあります」


「もう目覚めないつもりだったのだがな」


 部下と言葉を交わしつつ、ナトゥスはすっくと立ちあがる。周囲には他の兵の姿はなかった。森の奥地に入ったらしく、元々の戦場の様子さえ見えない。


「どれくらい時間がたった。アーリシア様の元へ駆けつけねばならない」


 不思議なほどに時間の感覚が薄かった。鼻孔から入ってくる空気が、やけに冷たい。


 木々の影によって、ここには陽光が余り入らないらしい。


「……ナトゥス様」


「情報が欲しい。今は欠片の猶予もない」


 部下は神妙な面持ちで口を開いた。


 ナトゥスは自分の頭が、多少なりとも賢明だったのを悔いる。部下の表情だけで、おおよその事態を把握してしまった。


「戦場を離れ、すでに三日が過ぎております。我らは、アーリシア様は敗北いたしました。軍勢は散り散りとなり、諸侯とも連絡は取れません。ルージャン司祭も、戦場で命を落とされたと」


「……そうか」


 想像はついていた。


 魔性とも人間とも知れぬヴァレットが眼前に現れた時、この光景はすでに既定のものであったのだ。


 バイコーンに体を貫かれる兵を見た。ヴァレットの指揮の下、崩れ行く軍勢を見た。


 今になって、胡乱だった記憶が蘇ってくる。


 全く皮肉だった。死場に向かったはずのナトゥスが生き残り、生きたかったルージャンは死んだのだ。


「負けたか」


「はっ。無念です」


「無念に思う事はない。強きは勝利する、ただそれだけだ。公爵家は強かった。アーリシア様が測りを誤るほどにな」


 ナトゥスにとって、アーリシアは最上の主だった。


 天秤の如く全てに軽重をつけ、鉄の意志で判断を下す。これほどの人間はいないだろう。ヘクティアルが分家という枠組みなど、彼女の前では何の意味もないと思っていた。


 しかし、敗北した。


 本家の壁は――いいや、ヴァレット=ヘクティアルという壁は厚かった。


 そう認めるべきだろう。


 誰もが軽んじ、誰もが認めなかった小娘がアーリシア=リ=ヘクティアルを打ち破ったのだ。


 アーリシアが不要なものと打ち捨て、歯牙にもかけなかった諸侯を率いて。


 分家筆頭たるリ=ヘクティアル家が敗北した以上、もはや諸侯は纏まらない。我さきにとヴァレットへ忠誠を誓い始めるはず。一度は反旗を翻した者も、日和見を決め込んだ者も。全てはアーリシアに唆されたと言い訳をして。


 リ=ヘクティアル家はかつての栄華を失い、その領地は分割される。敗者の末路が、ナトゥスには容易に想像がついた。


「これより、どうなされますか」

 

 僅かな部下の視線が、ナトゥスへと向けられた。その問いと視線の意味が、ナトゥスには痛いほどわかった。


 迷いと戸惑い。


 多くの人間は、アーリシアの勝利を確信していた。この先は彼女の世となり、世界は秩序によって統制されていくのだろうと。


 しかし、予想は常に裏切られるもの。もはや全ては夢想に変わった。


「アーリシア様がいないリ=ヘクティアルに興味はない。また、小娘の下で回るこの王国では生きづらい。他国に移る」


 アーリシアが不在となれば、ヴァレットの拡大はもはや抑えきれない。今の脆弱な王家では、いずれ食い殺されるだろう。


 ――あれに対抗するならば、他国だ。


「アーリシア様の敵は必ずや打ち滅ぼす。他国に移り、何年とかかろうがな」


「はっ」


 部下達の顔に、生気が戻り始めたのをナトゥスは感じていた。これで一先ずは、彼らも生きていけるだろう。少なくとも自害する嵌めにはならない。


 これからの世界は、こうなるのだろうと不意にナトゥスは思った。


 ヴァレット=ヘクティアルに従うのか、それとも対立するのか。


 そんな世の中がすでに眼前に迫っているのを、彼の肌が感じていた。


「必ずやアーリシア様の名を再び輝かせてみせましょう」


 ナトゥスの忠誠とも、生き方ともいえる言葉が、その唇から零れていた。


 ◇◆◇◆


「……ヴァレットが勝利した?」


 ヴァレットが実母デジレ=ヘクティアルは、別邸の一室に軟禁されたままその報を聞いていた。


 顔には痛々しく包帯が巻かれ、アーリシアにつけられた傷は癒えていない事を示している。


 ヴァレットとアーリシアの争いは、当然デジレの耳にも入ってきている。


 だが。


「そんな事があり得るのか! アレが、アーリシアにだと!?」


 娘の勝利を喜ぶではなく、激情をもってデジレは傍仕えのメイドへと当たり散らす。


「い、いえ。確かに、お嬢様――公爵閣下は勝利を収められ、すでに本邸にも入られていると」


「ば、かな」


 与えられた天蓋付きのベッドに、デジレは深く腰を落とす。


 デジレの趣味にあったものではなかったが、最上品のそれは彼女の体を柔らかく受け止めた。


「アレが、本当にアーリシアに勝利した? あの出来損ないがか!」


 心底から信じられなかった。


 デジレは政争においても、軍勢においてもアーリシアに完膚なきまでに敗北している。どれほど胸中に強がりを生もうと、顔の痛みがその度に敗北を思い出させてくれる。


 あの日感じた鉄のような冷たさが、未だにデジレの背筋を怖気で覆うのだ。


 けれど、ヴァレットは違う。デジレは未だ彼女を、さして才もない小娘としか思っていない。


 否。


 ――自分の娘が、自分以上に才があるなどデジレに認められるはずがなかった。


 小心と強欲しか知らない彼女には、それ以外の現実など受け止めきれない。


 どうして自分にはヘクティアル家を掌握する機会も才覚も与えられなかったのに。お前には与えられるのだ。


 願望とも叛意ともいえぬ幼稚な我儘さが、デジレの中には常にあった。


 それは、嫉妬とさえいえるかもしれない。


「そ、れで。アレは何時ここに来る、あたしの事を、アレは知っているのだろう!?」


 デジレは見栄も外聞もなく、見下したばかりの娘が自分を何時迎えに来るのかを問うた。


 未だ別邸は兵に囲まれ、抜け出す余地はない。警護とは名ばかりの監視であるのは明白だった。


 兵の種類が、アーリシア配下からヴァレット配下に変わっただけだ。


 メイドは、恐る恐る口にする。


「それが、その」


「どうした、早く言うが良い!」


「公爵閣下は、その」


「アレを公爵閣下と呼ぶな!」


 メイドの視線が、幾度も室内をうろつき回った果てに言う。


「奥様の事を、話題に出されさえしないと。その……もしや……」


 お忘れになっているのでは。


 そんな言葉を聞いて、デジレは眼前が空白になったのを感じた。


 警護の兵は彼女の配下が設置したもの。ヴァレットはアーリシアを下し、今や正式にヘクティアル公爵としての政務を開始している。


 そんな折に――別邸に軟禁されている実母など、もう忘れ去っているかもしれない。


 メイドは、そんな残酷な事実を告げた。


 本来なら荒れ狂うはずのデジレの激情が、この時ばかりは動かない。


「馬鹿な……そんな、はずが……」


 ヘクティアル家に入って以来、誰もが自分の動静を見つめずにいられなかった。奔放であれ、愚かであれ、デジレの動きがそのままヘクティアル家の将来に関わったからである。


 しかし今や、ヴァレットはその存在さえも頭に入っていないかもしれなかった。誰もがそれを咎めはしない。殺そうとさえしない。


 それは即ち――デジレの価値が、もうどこにもない事を告げていた。


「は、はは。ありえない、そんな」


 乾いた笑いがデジレの口から出る。しかしどう言葉にしようとも、否定など出来なかった。


 今のデジレには動かせる兵も、貴族もいない。目の前のメイドとて、他の者の命令でデジレの面倒を見ているに過ぎなかった。唯一与えられた部屋から出ることさえ敵わない。


 こうして、誰からも忘れられて死んでいくのか――。


「いやだ! ふざけるな!? このあたしが、どうして、こんな――!」


 デジレの咆哮を聞くものは、もはや誰もいない。メイドさえも、何時もの癇癪としてしか受け止めない。


 かつてヘクティアル家で権勢を誇ったはずのデジレ=ヘクティアルは、その存在さえも失って、ただ別邸で生きるだけとなった。彼女の娘は、もはや足元に目など向けない。


 デジレ=ヘクティアルは、もう敗北さえ出来なかった。

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― 新着の感想 ―
デジレは想像していたよりさらに残酷な結末を迎えてしまったようですね、憐れ…。
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