第六十二話『狂乱世界』
正義の魔女ララルクートォア。久しぶりに聞いたな。
よく覚えているとも。何せ俺がつけた名だ。
ゲーム上のアテルドミナに登場こそさせなかったが、どんな性格で、どんな権能だったかも理解している。
だからこそ、俺の目にはアーリシアが哀れに映った。彼女は、あの独りよがりの正義趣味に付き合わされているに過ぎない。
我ながら、性格が悪い魔女を生み出してしまった。
「ヴァレット。こちらの準備は万端だ。君もそうだな?」
紅蓮の瞳は瞬きすらせず、アーリシアを睨みつけながら言った。
「ええ、勿論。待ちくたびれたくらいよ」
言ってくれる。いいやそれでこそ、俺の主人というわけか。減らず口では、俺も負ける気はしないが。
「良いだろう、終わらせよう」
魔力を通して、彼女に詠唱を告げる。
ララルクートォアは正義に執着した魔女だ。ただ正しく、ただ潔白であろうとした。それを覆すものは一つしかない。
彼女はただ奏でるように、歌うように口にした。
「『正義は悪に』『悪は正義に』『秩序など移ろう世において何ら意味はなく』『ならば正気もまた気ままに移ろう幻影』――」
これこそは狂乱の神髄。
道理を転倒させ、正気を狂気に変え、秩序を混沌へと転換させる。
正気などどれほど頼りにならないものか。秩序などどれほど不確かなものか。
人間世界。数千年の歴史において、正気など常に移ろい続けている。その間、変わらなかったものはただ一つだけ。
――狂気だ。圧倒的な熱量そのものだ。
いつの時代も、人は狂いながら進んできた。歴史を進める分岐的とは、即ち狂気によって推し進められる。
であればこそ。
「――『世界を覆いつくすのは狂乱のみ』『狂気を祝福し降臨せよ』」
「――全ては無駄だといいますのに、それがわかりませんか。我らが秩序を押しとどめられるものなどありはしない!」
アーリシアが言う。彼女の言葉は絶対的に正しい。彼女の語る秩序は恍惚とするほど美しい。
だが、秩序と正気に打ち勝つのは、何時だって狂気だ。
燃え滾るほどの熱量と魔力が、ヴァレットに集中する。
その熱のなんと恐ろしく、忌々しく、呪わしく、汚らわしい事か。
しかしだからこそ、彼女は歴史の転換点であり続ける。正気を抱いたままの者に変えられるほど、歴史は安くない。
がちり、がちりと音がする。
それは誰かの歯が震える音だった。この場全員の音だったかもしれない。
震え、怯え、瞠目する。これはそれに相応しいものなのだ。
「ヴァレット。やはり君は、俺の主人だ」
俺の言葉はきっと、ヴァレットに聞こえていなかった。もはや彼女を捕らえるものは、圧倒的な狂乱のみ。ただ意志だけが彼女を突き動かしている。
彼女の唇が、動いた。
「『ここに降臨して汝が威を示せ』――魔導展開『狂乱世界』」
「全てを無為に帰しましょう――魔導展開『罪は罰にて清められる』
狂気が、秩序に立ち向かう。まるで古き道理を押し破る、新たな洪水のように白光を放った。
刹那、静寂があった。アーリシアの展開した秩序も、ヴァレットの魔力の蠢動も、全ての音が失われている。
奇妙だ。音が鳴っているはずなのに、その音全てが奪われている。
本来ならば外で兵士たちが戦う音が、その叫び声が聞こえてきても良い。
――だが今、ここに無音の夜が降りて来ていた。狂乱魔導の最高位。ただ狂乱世界の主たる魔神が降臨している。
ここでは魔導もアビリティも意味はない。魔神の意識の中ではとっくにそんなもの絶滅している。彼が思う事は簡単だ。
全ての神々よ、死に絶えよ。
生きる全てよ、死に絶えよ。
狂いの根源は、生きとし生けるもの全て。彼らがいる間、狂気は常に生き続ける。
ならば狂気は願うだろう。汝らよ、はやく死にたまえ。我を死なせたまえ。
生物と共に永遠に生き続け、彼らが死ぬまで永遠に死ねない狂乱の魔神。
その一端が顕現する。同時、アーリシアの魔導は掻き消えた。
「ェ、ア――」
アーリシアの驚愕に満ちた瞳さえ、今この場では何の意味もない。
どんな魔導も、かつて魔女が生み出し契約した魔神と繋がっている。魔道とは、彼らの力を借り受けるものに過ぎない。
今、その一部分を『喚んだ』。
ヴァレットと最も相性が良く、繋がりがあり、その上でアーリシアを食い潰せる魔。
世界を司る魔神の顕現は、周囲の秩序を全て吸い尽くす。
其れが、言った。ただ一言。
「――――■■■」
世界が弾ける。周囲が白と黒に明滅する。世界の色が失われ、上下が喪失し溶けていく。
ヴァレットは目を大きく見開きながら紅蓮の色を動揺させた。一瞬見えたのは、幻想の都。狂乱の果て、滅び切った世界。狂乱の魔神の望む果て。
その絶望的な光景が――幾度も明滅し、空気中の魔力全てを奪い取って蒸発していく。
狂いそうになる。気がおかしくなりそうになる。
けれど俺だけは、恐ろしいほどに冷静だった。
ああ、そうか。
そんな風に、腑に落ちた覚えがあった。俺はどうして自分がこの世界に来たのか、わかった気がしてしまったのだ。
――俺はこれが見たかったのだ。
ヴァレットが生み出す、完全な破壊。秩序を踏みにじり、理不尽さえも食い潰す圧倒的な理不尽。
これだけの力を、これだけの熱量を見て、心が震えない人間などいない。
俺はきっと、これが見たかった。
眼を、瞬く、瞬く、瞬く。眼など存在しないのに。そうして、捻じれた狂気が、その場全てを、魔神の腕の中へと抱き込んでいく。
「馬鹿、な――わたくしの、秩序がっ! 守るべき法が、あるというのにッ! 天の裁きが与えられないな、ど!?」
狂気の光に飲まれながら、アーリシアが咆哮する。
秩序が、法が無秩序に飲み込まれるなど、彼女にとっては決して受け入れられない事だろう。
なぜなら彼女はその上に立脚し、地位を築き上げてきた人間だ。その中で生き延び、その中で力をつけてきた。
ゆえに彼女は統治者でしかない。
だが、ヴァレットという人間は違った。彼女は最後まで紅蓮の瞳を見開いたまま言った。
「――秩序も法も、統治者の我儘で作り出されるものでしょう。なら、この私が作り出しても問題はないわけよね、アーリシア」
ヴァレット=ヘクティアルという人間は、根本から枠にとらわれる人間ではないのだ。
秩序の中にあって混沌を望み、法を知りながら無法を願う。
なぜならば彼女は世界の君臨者であり、自分以外の秩序も法も知らないから。
「そんな、ふざけた事が――許される、はずが――ッ!」
アーリシアは必死に両翼を広げながら、自らを飲み込まんとする白光に抵抗する。しかし、もはやそれは許されなかった。彼女の信じる秩序と、こちらとの相性は最悪だ。
だからこそ、ゲーム上でもアーリシアはヴァレットに敗れた。敗れる定めに置かれている。
誰しも、定めからは逃れられないのだろうか。そんな思いに至った瞬間だった。
アーリシアの前に、立ちはだかる人影が見えた。あれは、ヘルミナに打ち倒され、もはや立ち上がる体力さえなかったはずの――。
「アーリシア様、どうか、お静まりくだ、さい!」
狂乱の光が、部屋全体を包み込んでいく。
最後に見えた光景は、秩序を失い崩れ行く大きな翼。そうして、その翼に駆け寄るようにして狂乱の光に飲まれた、鉄を纏う騎士の姿だった。
全てが視界から消えていく。アーリシアも、異郷者も、ヴァレットさえも。まるで神代の閃光が如き夥しい光が、暴虐となりて本邸の内部を食い尽くしていく。我はこんなものに収まる器ではない。そう主張するように。
そうして、光が晴れた後には――完全に崩壊した、本邸の謁見室があった。天井は打ち破られ、周囲の森林までもを貫いて。狂乱は全てを夢の世界へと連れ去ってしまった。
それこそが、狂乱の代価だとでもいうように。




