第六十一話『天使の裁き』
実際に対面する使徒とは、これほどのものか。
ヘルミナは身を翻し、突剣を突き出しながら、その脅威を皮膚で味わっていた。
「――無駄です。意味はありません。屈服なさい」
大きくはためく白翼が、あっさりとヘルミナの突剣を受け止める。鉄の兜がアーリシアの視線を覆ってしまっているが、それでもヘルミナははっきりと感じた。
アーリシアは、自分を見つめている。殺意を込めた瞳で。
咄嗟にヘルミナは白翼を踏み台に宙を舞う。僅かなタイミングのズレも許さないその跳躍。
刹那、先ほどまでいた空間を対になる白翼が凪いでいた。
いいや、それほど生易しいものではない。空間を抉り取る。そんな表現が相応しかった。
「わたくしの裁きを、受けぬつもりですか。不可能です、誰も彼も裁きからは逃げられません」
「……特に悪い事をしたつもりはないんですが~」
何時も通りの眠気眼で、しかし確かな危機感をヘルミナは抱いていた。
アテルドミナ――このゲームの事ならば、そのほぼ全てが頭に入っている。ヘルミナにはその自負があった。それだけこのゲーム世界を愛していたし、誰かに負けるとは思わない。
第三者から見れば取るに足らない事柄であれ、本人からすれば人生に残る傷になりうる。ヘルミナにとってこのゲームはまさしくその傷なのだ。
ヘルミナに比肩するだけの知識を持つのは、メロンやズシャータくらいのもの。
それだけの三人で共にいたからだろうか。彼女はアテルドミナに降臨してから、想定外の事態に出会っていなかった。
高レベルで自由になる身体と、全世界を知り尽くした知識。この二つが揃えば、危険など何一つない。
そのはずだったのだが――。
「――おい、ヘルミナ。俺が前に出る。てめぇは一発かませ」
ズシャータが脚刃をがちりと鳴らして言った。一瞬で、ヘルミナは正気を取り戻す。いつの間にか思索に耽ってしまっていた。
「了解です~。必要な時間はぁ」
「十秒だろ、分かってる」
返事をする間も与えず、ズシャータは空を跳んでいた。
匪賊たる彼は、身軽さと速度こそを最大の武器とする。生物が出せる最高速度を伴って放たれる一撃は、一つ一つが殺戮を生み出す兵器。
「ッ! 本当に、加減ってものがねぇな使徒って奴はよ」
だが、アーリシアの翼撃は彼の渾身に匹敵していた。
ズシャータがアビリティを発する度に消耗するのに対し、あちらはただ腕の如き翼を振るうだけ。長期戦で不利なのは明らかだった。
使徒。ゲーム上では幾度も相手をし、幾度も打ち倒した相手。対策さえ出来れば容易に突破も可能な存在だが。相手の権能が理解出来なければあっという間に全滅させられる事もある。
「仕方ないですねぇ」
よって、ヘルミナは相手の権能を見る前に、討滅する事を選んだ。
突剣を二本とも鞘にしまい込み、両脚を屈める。呼吸を整え、全身に通う魔力に意識を集中させた。
次には呼吸を止め、吐息を静かに出しながら言う。
「『四天万象』『三地陥落』『二人豪双』――」
アビリティ発令に伴う詠唱が、淡々とヘルミナの唇から零れていく。前衛アビリティの多くは詠唱を不要とするが、大魔力を必要とするもののみは、魔法同様の詠唱や準備行動が必要だ。
理由は一つ。
ただ目の前の敵を無造作に滅ぼすほどの威力を欲しているからこそ。
ヘルミナの眠気眼が開き、喉が痙攣して叫びをあげる。彼女の両手には、極大とも言える白光が滲み始めていた。
「即ち、天地人がここにあり! アビリティ発令――『軍門両断』ッ!」
ヘルミナが二つの突剣を引き抜いた瞬間、極光が室内を瞬いた。それはまさしく、力の顕現。
剣闘士とは即ち、ただ闘い、ただ勝利するもの。このアビリティはその役割を最も雄弁に語っている。
剣闘士には、匪賊のような身軽さも速度もいらない。ただ斬り伏せるだけで、彼女は強者であるからだ。
「ハァァアア゛――ッ!」
ヘルミナが、両手の極光を振り落とした。
間もなく、全てが打ち砕かれる。一瞬でそう判断してしまうほどの脅威。空を断ち切り、魔全てを墜落させる鮮烈な剣撃が、アーリシアに向けて放たれた。
如何に両翼で防ごうとも、到底防ぎきれるものではない。数多の魔性を屠り切るだけの性能を有した一撃。
白い翼から、次々と羽根が千切れていく。鮮血らしく液体さえ見ていた。
効果あり。ヘルミナは冷静にそう受け取りながら、胸中でため息をついた。
「――無駄と言ったのが、分かりませんでしたか。人類種」
「あぁ」
アーリシアは両翼にこそ傷を負ったが、本体は無傷。両翼もまた、軽傷で済んでいる。
ヘルミナは再び眠気眼を見せながら言った。
「制限型ですか。ますます面倒ですねぇ」
使徒には様々な型がある。強化型、遠隔型、群生型――だが最も厄介なのが制限型だ。
制限型は、そもそもダメージを入れるのに条件が必要になる。状態異常にするのが必須であったり、もしくは部下を掃討するなど、事前に設定された条件をクリアーしなければまともに戦えない。
アーリシアも間違いなくそのタイプだった。殆どダメージが入らないのは防御特化型かと思っていたが、ヘルミナの『軍門両断』受けて軽傷で済むのは異常だ。
「わたくしは裁きの使徒。罪ある者に触れられる道理はありません」
即座に、アーリシアが翼に受けた傷が回復していく。自己再生能力まで持っているとなると、ますます手が付けられない。
「それに、これで終わりではなくってよ。――魔導展開『罪は罰にて清められる』」
アーリシアは微笑みながら、片手を軽く振り上げた。それはまるで、タクトを振るう指揮者の如く。
何か来る。ヘルミナが反撃に備え、手足を軽く折り曲げた瞬間だった。
「ッ!? これ、は」
「おい、ヘルミナッ!?」
全身が重力を感じていた。手足の感覚が鈍くなり、突剣を握ることさえ困難に思えて来る。
視界に影が落ちる。アーリシアが白翼を振り上げていた。
「ぐ、くっ! ああ、もう! 魔女はこんなのばかりですか!」
だるくなった全身を転がすようにして回避しながら、ヘルミナは態勢を整える。
それでも四肢に与えられた重力は失われない。
「ズシャータさん! これ以上の攻撃は控えてください!」
「――ちっ、そういうわけかよ」
ズシャータはヘルミナの状態と、その一言で全てを察して大きく間合いを取った。
脚刃が忌々し気に音を立てている。
「自分への敵対行動を罪と捉え、罪ある者の攻撃を受け取らず、むしろ罰を与える。流石に反則じゃないですかねぇ」
アーリシアが裁定者のジョブを保有していた事を勘案すべきだったと、ヘルミナは思う。
彼女がその性質ゆえに使徒となったのならば、同様の権能を継承するのは当然だった。
正義の魔女ララルクートォア。設定集でしか知らない名前が、これほど凶悪な魔導の開発者だったとは。
「……私達にとってこれは未知なんですが。当然、貴方にとっては既知なんですよねぇ?」
ヘルミナは大きな翼を再び振るわんとするアーリシアから視線を移して言った。
その先にあるものは、ヴァレット=ヘクティアルと、彼女が持つ一冊の本。
しかしそれはただの本ではない。ただの大魔導書でもない。ある意味で、この世界を生み出した一冊だ。
全ての魔導を網羅するという事は、全ての魔女を知悉しているという事。
ならば当然に、その打開策も。
「時間を稼いでもらって悪かったな、ヘルミナ、ズシャータ」
「はっ。こっちは仕留めるつもりだったんだよ」
ズシャータが軽口を叩きが、頬にはやや笑みが浮かんでいた。彼もまた、勝ち筋がそこにあると睨んでいるのだ。
その証拠と言わんばかりに、大魔導書は当然の如く言った。
「魔力の展開と準備詠唱は終わった。アーリシア、最後に一つだけ聞かせてくれ」
彼はまるで、彼女を使徒ではなく一人の人間として扱うようだった。
「君、もう止まれない所まで来てるんだな?」
答えはなかった。そもそも、彼女は自分が呼ばれたとさえ気づいてないのかもしれない。
「――万物に、正義の魔女の裁きを」
「――よろしい。決着をつけよう。アーリシア=リ=ヘクティアル」
それが、この決戦における最後の会話となった。




