第六十話『聖者の祈り』
――来る、来る、来る。
河を超えて、ヘクティアルの悪夢がやってくる。
河を挟んだ戦場。防衛態勢を整えたリ=ヘクティアル家勢力が陣地で、天霊教司教ルージャン=バルリングは思わず胸にかけた球体を両手で握り込んだ。
天球を模した球体は、天霊教における祈りの象徴だ。
この世界を造りたもうた神に、全身全霊を持って祈りを捧げる。こんな事になるならば、勝利への貢献を主張するために前線になど出て来るのではなかった。
何故自分は、急ぎこんな所まで来てしまったのだ。どうして、間に合ってしまったのだ。
「ルージャン司教。祈っても事態は変わりはしません」
戦場にありながら、至極冷静に、それでいて慇懃無礼にナトゥスは言った。
アーリシアの名代まで務めた男は、この戦地でも彼女の代わりに指揮官として振舞っている。
「……その言葉は神への侮辱だ。そなたは神を信じんのか」
「世界が出来た以上、神はいるでしょう」
ナトゥスは白々しいほどに熱を込めずに言った。
「しかし、神は我々に興味などありません。救済する気があるのならば、そもこのような戦場を作り出さないはずです」
「無礼なッ! 神のご加護を推し量ろうというのか!」
「いいえ。期待をしていないだけです」
灰色の礼服に身を包んだナトゥスの様子は、一言で言って不気味だった。
戦場においてなお、凍り付きそうな態度は欠片も変わらない。彼には戦場による高揚も、死を間近にした焦燥も、まるで存在しない。
ルージャンにはナトゥスの様子が信じられなかった。この男には人間について然るべき感情が存在しないのではなかろうか。
「神が我々に興味を寄せているのなら、必ずや救いの手を差し伸べるはず。しかし大陸はルージャン司教もご存じの通り、火種だらけです。いずれ、連合王国を超えて火種は広がり続けるでしょう」
「……ならば、そなたは何を信じて生きているのだ」
「無論。――強きは勝利するという事です。子供でも知っている理屈でしょう」
馬の蹄の音がする。兵が怒声をあげる。渡河を成そうとする兵を弓矢が射殺し、次にはその射手が射殺される。いつの間にか、河を超えて来る兵の数が増え始めていた。
反乱勢力の勢いは異様だ。まるで酒に酔っているかのよう。次、また次、そしてまた次と。命の火を燃やしに来る。
兵数では未だ有利なはずのこちらが、勢いに押され始めている。
その原因はただ一人。
「――戦友を踏み越えなさい! そして誓いなさい、勝利して故郷に帰ると!」
ここまでも、声が聞こえて来た。ルージャンは背筋を戦慄が貫いたのを感じる。
波紋石で、本人が敵陣にいたのは確認済み。
それに何より、あの姿。紅蓮の瞳を狂乱に輝かせ、数多の兵を率いるあの様子。
ヘクティアルの悪夢――ヴァレット=ヘクティアルがそこにいる。
彼女は弓矢飛び交う戦場において尚、笑うように叫んでいた。
「死んだ彼らの歌を、生きた貴方達が歌うのです! 幾百年、幾千年も歌い継がるように!」
熱に浮かされたように、兵達は渡河を敢行する。傷がない者など殆どいないのに、それでも尚彼らは歩みを止めない。
ルージャンは確信する。どういうわけだ。あれは狂気の兵隊に過ぎないはずだ。
だというのに奴らは、聖戦に向かう戦士の如くではないか。
「全部隊! 射手の狙いを正面中央に集中させよッ!」
ナトゥスがすかさず指揮を取る。流石に訓練された兵達だった。指揮は各部隊長に伝達され、次々と弓矢の行く先が敵陣中央に集約されていく。
無論、狙うのはヴァレット一人。
ルージャンは決して戦に明るくないが、それでも理解出来る。ヴァレットが率いる兵は、軍や部隊というよりは群れに近い。
軍であるならば、明確な指揮系統があり、指揮官一人が失われても完全な瓦解には至らない。
指揮を受け継いだ者が軍を取りまとめるからだ。
だが敵にはそれがなかった。彼らはヴァレットを中心に動く群れである。彼女一人が失われれば、それだけで兵という体裁さえ失うだろう。
「神よ……どうか、どうか我をお救いください……!」
ルージャンの祈りは真摯であった。
率直に敵の死を願い、汚れなく自らの生存を願った。
本来ならば、この防衛陣地は安全であるはずだったのだ。自分は姿を見せ、ヴァレットの死を見守る事で、アーリシアに貢献をアピールし、より大きな分け前を手に入れるだけのはずだった。
それが何故、こんな不幸な目にあうのか。
あってはならない。神に仕える自分が、こんな理不尽な事に陥れられるなどあってはならないのだ。
「――ッ!」
雨のような矢が吹き荒れ、河の水しぶきが激しく跳ねた。前線の様子が視界から掻き消え、誰もが固唾を呑む。射手が次の矢に手をかけるまでの、一時の猶予。
ルージャンもまた、石と木材で造られた防御陣地の中からそれを見ていた。彼が見晴らしの良い指揮所を居所に選んだのは、いざとなれば真っ先に逃げ出す魂胆があったからだ。
だが、今となってはそれを後悔していた。ルージャンは確かに見てしまった。
矢の雨の中。弾け飛ぶ水しぶきの中。それはいた。
「――な、ぁ!」
「おい、あれは……!」
「何故、あの方が、ここに」
バイコーンに跨るのは、確かにヴァレットだったはず。
――だが瞬きの間のみ、それは姿を変えた。
敵兵が前を突破する事のみを考え、ヴァレットの姿を見ていなかった時間。
こちらの兵がヴァレットの死を確認するため、彼女に視線を集中させていた時間。
そんな僅かな間を見計らったかのように、それは姿を変えていた。まるで、いとも容易く変貌出来る衣でも持っているとでもいうかのように。
明らかに、防衛陣地全体が揺れた。動揺が、混乱を孕ませている。
「ナトゥス! あれは、どういう――!」
「……魔性の技か。惑うな! 義務を果たせ!」
ナトゥスの青白い顔が、ますます青ざめていた。
しかしそれは絶望に浸っているのではない。怒りに震えているのだ。
「さぁ、行きなさい兵達よ! 今こそ敵陣を突き崩す時です!」
バイコーンの上に跨り敵兵を指揮する彼女は――アーリシアの姿をしていた。
「我らは、正義のために戦っているのです!」
無論、それはほんの数秒の間。味方の兵が混乱を起こさず、敵兵のみが狼狽するタイミングをアレは見計らっていたのだ。機に敏なる商人のように。
たった数秒であれ、射手がタイミングをずらせばそれだけで防衛態勢は崩れる。一斉に打ち出されない矢など、群れとなって飛び掛かって来る獣の前では意味を成さない。
陣地の一角が、もう取りつかれていた。敵兵は次々に渡河を成功させている。馬鹿げた突撃が、馬鹿げた結果を呼び込んでいた。
「アーリシア様を騙るとは、不遜な輩め」
ナトゥスは青白い顔で、その冷え切った態度を僅かに崩した。彼の内側に宿る静かな情熱が、今ここで火を噴いていた。
「な、ナトゥス! どうする! どうするのだ! 敵には遊撃部隊があるのだぞ!」
敵は部隊を二つに分け、遊撃部隊を造り上げた。そちらはアーリシアが派遣した騎士部隊により足止めされているはず。だからこそ、ルージャンはこの本隊に合流したのだ。
しかし。本隊が崩されてしまっては、下手をすればこちらが挟撃される。
最も危険なのは――ここだ。
「さぁ――私は神に祈る事を致しませんので。現実をどうかするには、自らの手を動かす他ありますまい」
ナトゥスは指揮所から身を乗り出し、腰元の護身剣を抜き放って言う。
全く慣れていなそうな剣の持ち方だった。元より彼は自分で戦う戦士ではない。
だが雄々しく咆哮するように言った。
「敵は陣に取りついた! 弓は使えん! 全兵、押し留めよ!」
混乱の中、ナトゥスの声だけが響き渡る。それは一つの明確な指令となって、守備兵たちを奮い立たせた。
ただちに防御陣地が崩れ落ちなかったのは、間違いなく彼の功績だ。
「っ、つ、付き合ってられん! 戻る、本邸に! いや教会にだ!」
「お好きになされば宜しい。だが、ルージャン司教。よくお考えください」
逃げ腰のルージャンに、ナトゥスは宣告するように言った。
それはまさしく、彼の主たるアーリシアの如く。
「今ここで逃げれば、アーリシア様が勝利したとしても貴方が生きる道はない」
そうして仮にアーリシアが敗北すれば、当然にルージャンが生きる土地はない。
待つのはただ、破滅だけ。
「お、おお……なんという……なんと、いう……! 何故、このような……!」
ルージャンが膝から崩れ落ちる中、ナトゥスは最前線が敵兵によって突破されそうになる様子に目を細めていた。
ヴァレットか、それとも魔性か。バイコーンに跨る女が叫んでいる。
「自らの手で、道を切り開きなさい! それしか生きる道はないのです!」
ナトゥスはそれを聞きながら目を細めた。慣れぬ剣を手に取ったまま、指揮所から降りていく。
「――ルージャン司教。神にお祈りなさい。もしも本当に、神が我々に興味がおありなら、貴方をお救いくださるでしょう」
しかし興味がなく、ただこの戦乱を楽しんでいるだけであるならば。
数多の英雄が乱れ、相争う姿を愛でているだけならば。
ルージャンに待っている運命は、一つしかない。
「神よ……。どうか、どうかお救いを……!」
世界の創造者に向けて、ルージャンは祈り続けていた。それこそ、敵兵が陣地を突破し、指揮所が焼き払われるその時まで。
ただ、祈り続けていた。




